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第十三話 知らせの手前と向こう

朝、机の上に昨夜の紙袋が残っていた。温度は失われても、折り目だけはまだ新しい。

コップの水で口を湿らせ、鍵を回す。金属の短い音が胸の内側に広がらないよう、意識して浅く息を吐いた。


停留所からのバスは空いていた。窓の外で看板の緑がやわらかく反射し、交差点の赤が頬を撫でるみたいに通り過ぎる。降りる角の一つ手前でボタンを押すと、灯りは指先の位置だけを確かめて、すぐ消えた。


ラウンジの自動扉の前に立つ。まだ中へ入っていないから、いつもの二つの合図は鳴らない。

受付のカウンターには見慣れた名札。三浦さんは、声を少し落として「おはようございます」と言った。


「本日、開始前にお伝えするものがございます」

私はうなずく。


三浦さんは引き出しから薄い封筒を取り出し、手前にそっと置いた。表には丁寧な字で私の名前。端に細く日付。

封は固く閉じられている。角をほんの少し持ち上げ、中身を滑らせる。紙は一枚だけ。


本日、母は静かな朝を迎えました。これまでの時間に、深く感謝しています。

署名は、あの入口で会釈を交わした人の名。インクの色は深く、滲みはない。


「お時間は、このままお取りできます。ここで休まれても、いつものお席へ入られても」

「入ります。いつもどおりで」

「承知しました。何かございましたら手を上げてくださいね」


手首のバンドが一度だけ震え、額に柔らかな面が吸い付く。膝に落ちた布は音をつくらない。呼吸の長さをそこで一度だけ整える。



――



窓辺の白は、今日は手前でとどまり、カウンターの縁を浅く明るくした。

「こんにちは」

誰に向けるでもなく置いた挨拶が、空気の粒をわずかに並べ替える。

取っ手を半分だけ回し、元に戻す。杯の上で、蒸気は途中からほどけて消えた。


カウンターの中で、拓海が瓶の向きを揃える。目が合うと、いつもの癖で片手を少し上げた。

「いつもの?」

「軽いほうで」

「オーケー」


短く区切られた抽出の音。表面に薄い輪が生まれ、浅く沈む。

砂糖の器には触れない。取っ手に指を沿わせたまま、言葉の順番を決める。


「——さっき、受付で手紙を受け取った」

拓海は頷く。

「今朝、静かに区切りが来たって」

「……そうか」

息を強くはしない言い方で、向きだけこちらへ寄せてくれる。

「向こうの手順も、ここでお終い?」

「うん。『ここで区切り』って」

「じゃあ、ちゃんと届いたんだ」


二人とも、それ以上の形は作らない。器の影がテーブルの上で浅く位置を変え、すぐ落ち着いた。

拓海がラベルの角を爪で押さえ、ずれを戻す。

「あっちに戻ったら、甘いの買いなよ」

「そうする」


隣の背もたれに光が短く走って、すぐ消える。

私は杯を少し遠ざけ、温度の境目が指先へ移るのを待つ。境目は輪郭を持つが、刺さらない。


「顔、見に行けてよかったな」

「うん。目は閉じてたけど、手は——そこにいた」

「それで十分だ」

「紙も置けた」

「こっちにも、ちゃんと来てる」


奥の席で新聞の紙面が一度だけめくられ、すぐ止んだ。紙の白がいったん広がって、また折り畳まれる。

私は背をすこし預け、息を細く吐く。吐いたぶんだけ、胸の中の重さが別の棚へ移る。


「時間、最後までいる?」

「いる。終わり方は、いつもどおりにしておきたい」

「了解」


抽出設備が低く唸って止み、奥の水音が一瞬だけ涼しく響いて、また静かになる。

私は取っ手の位置を正面に合わせ、縁に短く触れる。味は昨日より丸く、音は浅い。舌の上に留まらず、喉のほうへ静かに落ちた。

余計なことは考えない。考えないほうが、いるべきところへ体が戻る。


やがて、店の奥から控えめな案内の声。予告より柔らかい言い方だった。

私は頷き、指を離す。

「また、顔出すよ」

「いつでも。席は空けとく」


立ち上がる。椅子の脚は床を傷つけず、音を作らない。

カウンターの角を指先で一度なぞり、視線だけで挨拶を交わす。扉のガラス越しの明るさが、肩のほうへ移ってくる。


――


カーテンの縁が視界に戻る。

三浦さんが静かな調子で「お帰りなさい」を置いた。

「ご体調は大丈夫ですか」

「はい」

「何かございましたら、いつでも」

私は頭を下げ、封筒を胸に戻す。紙は軽いのに、向きははっきりしている。


外は、雲の高さが朝より少し上がっていた。

商店街へ出る。八百屋で金柑を一袋。店員が色の良い実を手前に寄せてくれる。ひとつだけ取り出してポケットへ、残りは袋のまま。

パン屋では、あの丸いのを“また”一つ。見送ってばかりだった頃を越えてからは、この選び方が定着したらしい。包み紙の端を折る角度まで前と同じで、少し笑う。


川沿いの道へ。風は角を立てない。

欄干に手を置く。塗装の下の金属が、こちらの温度へ寄ろうとしているのがわかる。

対岸を観光のバスがゆっくり過ぎる。茅葺きの黒が並木の間にのぞき、山をひとつ越えた向こうの輪郭が、ここにも薄く現れる。


パンをひとかけらだけ口に入れる。噛む音はしないが、喉の奥でやさしくほどける。

「ありがとう」

誰宛かは決めない。決めないままでも、言葉は薄れなかった。


家への道は、信号の青が早い。白い帯を渡る足取りは、朝より素直だ。

階段の手前で手すりを触る。冷たさは短い。踊り場で息を揃え、鍵を回す。


部屋に入る。机の上の空いた場所は、そのままにしておく。

コートを外し、椅子に腰を落とす。遅れて、涙が来た。音にはならない。頬をまっすぐ落ちて、顎の先で小さくほどける。指で拭わず、そのままにする。

手のひらを見つめる。さっきの手の温度は、まだ指の内側にいる。数字では測れないが、輪郭を持つ種類の温度だ。


付せんを一枚。

——明日、外の光を少し歩く。

書いて、点で止める。線にはしない。


窓を指一本ぶん開ける。風は音を持たずに入り、カーテンの端だけが短く呼吸した。

知らせは手前で受け取った。向こうでは、いつもどおりの終わり方を選んだ。

それで今日は十分だ。帰り道があるうちは、帰る。

帰り道の途中で、同じ天気を分け合う空を、これからも探す。

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