第十二話 手の温度
朝の色は、まだ背伸びを始める前だった。
昨日の切符の時刻を指の腹でなぞり、靴ひもを結び直す。財布の薄い紙が胸ポケットの内側で擦れて、小さく合図をした。封筒の角は、夜のあいだに少しだけ丸くなったが、形は崩れていない。
改札を抜けると、放送のことばは聞き取らず、高さの変化だけ追う。階段の手すりは朝の金属の匂いがして、掌に移った冷えが目を覚まさせる。車内では窓の縁に肩を預け、連結部の微かな伸縮で揺れの癖を身体に覚え込ませた。停車のたび、遠くの山は少し手前へ寄ってくるが、こちらは座面に沈んだまま動かない。
乗り換え駅の案内所で、昨日のメモを見せる。係の人は地図の上で指を二度止め、「ここからはバスが便利です」と言って、入口の目印を短く付け加えた。私は礼だけ置いて歩きだす。言葉は増やさない。増やすほど、足が遅くなる。
バスは川沿いの道を上る。窓のゴムがときおり息をするように鳴り、座席の布は固すぎず柔らかすぎない。停留所をいくつか過ぎると、工事の音が遠くへ引き、代わりに風の匂いに薄くアルコールが混ざり始めた。
緑の表示板が二枚、半歩ずれて立っていた。昨日、電話で聞いたとおりだ。二枚の板のあいだから、黒いコートの女性が現れる。背筋はまっすぐで、声は静かだった。
「——遠野さんで、お間違いないですね」
うなずくと、彼女は名乗り、軽く会釈した。
「昨日はお電話、ありがとうございました。母は、今日は“波のない日”だと思います。目を開けないかもしれません」
「こちらこそ。お時間をいただいて、すみません」
ガラス扉の近くで、低い短い音と、そのすぐ後の高い音が続けて鳴る。彼女は一歩先に立ち、受け付けの台まで案内してくれた。記入が必要な欄には、娘さんが躊躇いなく字を置く。私は来訪者の札を受け取り、消毒液を甲にひと押し。冷たさは思ったより短く、すぐに皮膚の温度に馴染む。
廊下は音をよく吸う材質だった。角を曲がるたび、天井の灯りの白が少しずつ薄くなる。壁の掲示の文字は読まない。形だけ、そこに何かがいると受け取る。曲がり角のガラスに細い影が交差し、床の艶は端から端へ移動していく。台車の車輪が遠くで一度だけ音を立て、すぐ消えた。
扉の前で、娘さんが小さく息を整える。
「こちらです」
ノブに触れると、握ったところだけ違う温度が伝わる。引く前に、それがわかる。
部屋は白一色ではなく、布と壁と機械の色が混ざり合って、落ち着いた薄さをつくっていた。機械の光は点ではなく、細い線の集まりで、数字の動きは規則を乱さない。
葵は眠っている。横顔の線は穏やかで、呼吸に合わせて頬の影がほんの少し伸びたり縮んだりする。頭はやわらかな布で覆われ、縁が耳のあたりで静かに折れている。生え際の影は浅く、眉の線がやさしく残っていた。枕の白に肌の色が薄く混ざるだけで、余計なものは何もない。
娘さんはベッドから半歩のところで立ち止まり、「少し外にいますね」と言ってカーテンの向こうへ退いた。私は椅子を引かず、そのまま立って手をとる。
冷たくはない。熱いとも言えない。川の石をひっくり返した時の、裏側の湿りに似た静かな体温がそこにあった。握り締めるのではなく、置く。置いた重さを、そのままにしておく。
「来ました」
自分に向けて言っているのかもしれない。声を部屋の外へ出す必要はない。ここに着いたという事実だけが、空気の中に少し残れば十分だ。
封のしていない封筒を胸から取り出す。角は丸めない。折り目は増やさない。
カーテンの隙間から娘さんが戻ってきて、目で問いかける。私は封筒を示し、「ここに」とだけ言う。彼女はうなずき、枕元のトレイの上を空けてくれた。紙をそっと置く。音は出ない。
「——必ず、目に触れるようにします。」
「ありがとうございます」
葵のまぶたが、風に触れた薄い葉のように、一瞬だけ震えた気がした。気のせいかもしれない。もしそうでも、それでいい。私はうなずき、手の置き方を変えない。皮膚の上に空気の薄い層を一枚つくり、こちらの熱が過不足なく伝わるように、掌をわずかに浮かせる。
涙は目頭からではなく、喉の奥から来た。声になる前の場所が先に熱くなり、視界の端がやわらぐ。
「ありがとう」
紙に書いたことばと同じ形だが、これは紙の外側に置く。部屋の温度を変えない大きさで。
時間は時計ではなく、点滴の落ちる間で進む。等間隔に見えて、ほんのわずかに乱れる。乱れ方も、すぐに整う。娘さんはカーテンの向こうからやさしい視線だけこちらへ寄越す。そこに無理はなかった。
「そろそろ……」
彼女の声は、急がせる種類のものではない。私はうなずき、封筒の位置を確かめる。そこにいる。宛名はないが、届くべき相手は、いまここにいる。
ベッドから半歩さがり、軽く会釈する。枕元の布が光を受けて淡く調子を変えた。娘さんはカーテンを開け、私の歩幅に合わせて歩く速度を半拍だけ落とす。
「本当に、ありがとうございます」
「こちらこそ。お時間をいただいて」
言葉はこれで十分だった。これより多くすると、今日の形が別のものになる。
廊下に出ると、匂いの層が薄くなる。角を曲がるたび、光の白は少しずつ濃くなる。受付に札を返すと、係の人が深く一礼した。
「遠くからありがとうございました。どうぞお気をつけて」
「はい」
スロープを下り、緑の板の前で足を止める。背中の方で先ほどの二つの音が短く重なる。行きに比べれば柔らかい。娘さんが横で小さく笑った。
「ここ、目印になりますよね」
「ええ。忘れません」
「また——」
彼女の言葉はそこで一度折れて、うなずきに変わる。私は同じやり方で返す。約束の形はつくらない。形にしない方が保てるものがある。
バスの窓から見る川は、上流の石の色を連れているのか、いつもより浅い色をしていた。胸ポケットに手を当てる。もう紙はない。置いてきたことが空洞ではなく、胸の内の形として残る。
乗り換え駅のベンチで、靴の底をそっと外へ向けて砂利を払う。朝より肩の力が抜け、背もたれの布が素直に背中に沿った。放送は意味ではなく、音程だけ運んでいく。低い音が近づき、高い音が遠ざかる。
車内の窓にもたれ、景色が後ろへ流れるのを眺める。川は向きが変わらない。私だけが向きを変えた。
家に着くころ、部屋の空気は朝より軽かった。窓を指一本ぶんだけ開ける。風が入れ替わる音はしないが、カーテンの生地が僅かにふくらむ。机の上の空いた場所はそのままにする。何かを置けば埋まるが、今日は埋めない方が呼吸にやさしい。
椅子に腰を下ろし、両手を膝の上に置く。
呼吸をひとつ浅く置いたところで、涙が遅れてきた。音にならない涙は、頬をまっすぐ落ちて、顎の先で小さくほどける。塩の細い跡が、さっき握った手の位置と同じ高さに残る。
さっきの手の温度はまだ指の内側にいる。数字も単位も持たない温度だが、はっきりとした輪郭を持っている。
灯りをつけると、部屋のものたちがそれぞれの影を持った。封筒はもうどこにもない。けれど、届くべき場所に届いたと体が知っている。
今日はそれで足りる。次に光へ出るときも、言葉より先に、手の温度から始めればいい。




