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第十一話 決めた日


朝、用紙の端を指先で平らにした。

宛先は空白のまま。名前を書けば道が一本に狭まる。今日は線は引かず、方角だけ確かめる。

封をしない封筒を胸ポケットに差し、鍵の冷たさで位置をそっと押さえる。

呼吸に合わせて紙の角が服越しに触れ、そこに“まだ置いていない言葉”があることだけが確かになる。


玄関で靴ひもを結び直す。結び目をつまみ、指の記憶と固さを合わせる。扉を引くと、外の空気は薄く金属の味がした。遠くの雨が舗道に残した名残かもしれない。


――


受付の台に新しい札が立っていた。

印刷の黒がまだ濃い。

三浦さんが位置を整え、声を落とす。


「本日も同じ時間でお取りできます。最後の少し前にもお声がけいたします」


「お願いします」


手首の細いバンドが一度だけ震え、額のパッドが定位置に吸い付く。ひざにかけられた布は、重さを一箇所に集めないように均等にほどけた。

胸ポケットの紙の角を、人差し指でそっと確かめる。封はしていない。それでも、封じるより強く守ることができるとわかる。


――



窓の明るさは粉砂糖のように薄く散り、カウンターのへりでたまっていた。

内側から三席目。甘い器は中央の線から指一本分、右に寄っている。


「こんにちは」


音は返らない。

取っ手を半ばまで回して、元に戻す。今日は砂糖に触れず、温度の抜け方だけを見る。


少し離れた席で、紙の地図に鉛筆が触れてしゃりと音がする。その一音で、世界のどこかに新しい線が引かれていると想像でき、胸の中の散らばりがわずかにまとまる。


カウンターの中で、拓海が瓶のラベルを揃え、こちらへ近寄ってきた。


「今日は何にする?」

「ブレンドを軽めで」

「了解。……で、さ」


声の温度が少し変わる。高校の頃のグラウンドの土埃みたいな、親しさの混じった調子になる。


「ひとつ伝えとく。この前さ、あの子——『これが最後の挨拶です』って、ちゃんと言ってから帰ったよ」

「……そうか」

「顔、静かでさ。丁寧に礼してったよ。ここで言える範囲で、ちゃんと。“また”は置いていかなかった」


胸ポケットの封筒が、呼吸に合わせてふっと浮いた気がした。


「教えてくれて、ありがとう」

「気になってるの、見りゃわかるし」


抽出の音が短く続き、止む。

焙りの香りが低い位置にたまり、カップの表面に薄い輪がひとつ生まれる。対になる輪は現れない。空いた椅子の生地が、日差しを淡く返すだけだ。

律はカップの縁に指を添え、熱の輪郭を確かめる。輪郭ははっきりしているのに、刺さらない。今日の熱は、そういう性質だ。


時間が半分を越えても、彼女は現れない。


律は受け皿の白い縁を目で辿り、戻ってくる地点の正確さに安心する。円は嘘をつかない。

遠くの席で新聞の紙面が一度だけ音を立て、すぐ静かになる。音の痕だけが空気に残る。


「まもなくお時間です」


控えめな案内の声が落ちる。

律は取っ手を正面に合わせ、紙ナプキンの端を折り、折り目を爪でなぞった。声をかける相手はいないが、手順は崩さない。崩さないことで、崩れそうなものが崩れない。


「拓海」

「ん?」

「行く」

「やっぱりな。顔に出てた。駅着いたらまず案内所寄れよ。地図は拡大しすぎるな。喉が渇いたらすぐ休め——それで十分」

「助かる」

拓海はうなずき、声を落とした。

「それと、あとで受付で“封筒”って言ってみて。預かりものがある。」

「……預かりもの?」

「あの子から。『律さんが決めたら渡してください』って。手順は通してある。受付に言えば出てくるよ」

「規約は?」

「本人の同意がある。ここではそれがいちばん強い。…帰り、寄れたら寄ってな。塩のクッキー残しとくから」


取っ手を正面にそろえ、ひと呼吸だけ置く。

コースターの角は触れずに、静かに腰を上げた。

拓海と視線だけでうなずき合い、カウンターの端を指先でなぞる。

椅子は押し込まず、足の甲でそっと向きを戻す。

ガラスの扉に手を当てると、外の光が肩に移ってきた。



――



布が膝から離れ、カーテンの縁が視界に戻る。


「お帰りなさいませ」


三浦さんの声に、「ただいま」と答える。

私はカウンターに近づき、声を落とす。


「封筒を——預かっていると伺いました」


三浦さんはうなずき、引き出しの奥から薄い茶封筒を取り出した。

表には、筆圧の強い字で私の名だけがある。封はきちんと糊付けされ、端に承諾印と日付が押されている。


「ご本人の同意書も同封されています。お確かめください」

「ありがとうございます」


受け取りの署名をして、封筒の重さを手のひらで量る。紙は軽いのに、中身の向きだけがはっきり伝わってくる。


「次回のご予約はいかがなさいますか」

「少し間をあけます。出かけるので」

「承知しました。お気をつけて」


カウンター脇の静かな角で、封の端を一度だけ切る。紙片が指に吸い付く。

中の紙は三枚。本名/連絡先/住所と施設名、そして手書きの短い文。最後の行に、あの人の字で日付。

スマホに番号を写し、短い呼吸の長さで終わる通話を一本。

——明日、午前。入口の緑の表示板の手前で。

約束の形はそれで足りた。私は封筒を畳み直し、胸に戻す。


廊下の掲示板に、新しい紙がひとつ貼られていた。細い矢印が右上を指す。文面は読まない。矢印の向きだけを胸にしまって、外へ出る。



――



商店街を抜け、停留所へ。

バスの窓ガラスに街が薄く映り、交差点ごとに信号の赤が頬に一瞬だけ触れては消える。

駅に着いたら、窓口で“明日の分”の小さな紙を受け取る。矢印は細く、時刻は短い。

ホームのベンチに腰を置き、靴の底をそっと外側へ向ける。溝に残った砂利を、切符の端で軽く払う。

胸ポケットの封筒は開封済みになったが、角は四つのままだ。十分だ。

いったん家に戻る。


机の上に地図を広げ、スマホで撮っておいた緑の表示板の写真を並べる。二枚の板が少しずれて立っていた、あの場所。


音の記憶——低く短いのち高く短い——を、机の縁で指先に再現してみる。


指にだけ聞こえる合図でも、十分に強い。

リュックの中身を入れ替える。薄い水、丸い飴、予備の靴下、携帯の充電。

付せんに短く書く。

——駅→案内→坂の角度/緑の板×2/二拍。

語は増やしすぎない。重くなると、足取りまで重くなる。


夕方、窓の色が淡く沈む。

封筒を胸ポケットへ戻し、玄関の敷居の前で一度止まる。線はまだ越えない。匂いだけ吸い込む。

湿りの中に、見えない消毒の匂いが紛れている気がした。想像かもしれない。想像であっても、体は準備の向きへ寄っていく。


机に戻り、ペン先を紙の端で軽く跳ねさせる。

行き先は、言葉ではなく足で決める。

一行だけを置き、点で止める。

止めることで、次のはじまりが、はっきりする。

灯りを落とす前に、靴を並べた。乾いたほうを前へ。

鍵の角を親指で撫でる。


明日、線の外へ出る。

封のない手紙は胸にしまったまま、名前のない宛先へ向かう。

そして——会う。言葉を持たない場所で、紙よりまっすぐなものに触れるために。

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