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第十話 宛名のない手紙


白い紙を三枚、封筒を一つ。インクの減った万年筆の先を布で拭き、深くは吸わずに肩だけを一度上下させる。私にとっての書く準備は、それで足りる。


封筒の表は空白のままにした。宛名を書けば、道が一本できる。今はまだ、道を決めないほうが呼吸が楽だ。


一枚目の左上に小さな円を描く。線は薄く。濃くすると、言葉が囲いの中に立ちすくむ。


昨日、風が乾いていました。

ひなたに置かれた白いベンチの板は少し温かく、指先で押すと、音はしませんでした。

角が目に見えるものは、心が迷わないと知りました。


二枚目には昔のことを短く。

川で平たい石をひっくり返すのが好きでした。

裏には冷たい面があり、手のひらがそれを覚えます。

石を返すたび、水の匂いが一拍遅れて来ます。


三枚目は今の部屋の静けさ。

机の木目は、端で一度だけ曲がります。

同じものの中に、違うところがひとつあると、息が整います。

あなたがいる席にも、たぶん同じように曲がる場所があるでしょう。


三枚を並べ、宛名のない封筒をかぶせる。封はしない。落とさないように、紙帯で軽くまとめる。

胸ポケットの厚みが、心臓の拍に合わせてわずかに動く。重さは、鍵ひとつ分。




——




昼前、受付のカウンターには三浦さんが小さな札を立て替えていた。角がまだ堅い。


「本日は通常の時間でご案内できます。来週は設備の入れ替えがあり、短い日がございます。念のため、最後の少し手前でもう一度合図を入れますね」


「お願いします」


手首のバンドがかすかに震え、額のパッドがいつもの位置に吸いつく。ブランケットは、ひざの上で形を決めすぎない重さに落ち着いた。

目を閉じる直前、付せんに小さな印をひとつ押す。

灰色の丸。

合図は小さいほど、遠くまで届く。




——




窓からの白は、薄い帯になってカウンターの端を撫でていた。

内側から三席目。甘い器は中央線から指ひとつぶん右。

今日は珈琲ではなく、薄い紅茶にした。喉の奥で音を立てずに広がる。


「こんにちは」

「こんにちは」


葵は座る前に鞄の持ち手を一度つまみ、前髪を耳にかける。椅子に触れるときの音が、今日はさらに軽い。紙ナプキンは角を作らず、帯の形にしてカップの脚の下へ。いつもと違うやり方で、同じことをする。


「今日は、紙を三枚持ってきた」


律が言うと、葵は目じりをゆるめる。


「三枚?」

「宛名はない。出さない手紙。いつか渡すかもしれないけれど、今はまだ名前を書かない」

「いいね。名前がないと、読む速度が自由になる」

「読まなくてもいい」

「読まなくても、そこにある」


葵はうなずき、スプーンの先で紅茶の面を混ぜずに、縁を触る。波は立たない。立たないことが、今日の調子に合う。


カウンターの中で、拓海がレモンの薄輪を瓶へ戻し、私たちのほうをちらりと見る。


「今日は、蜂蜜は控えます?」

「なしでお願いします」

「了解です」


声は短い。短いのに、足りない感じがしない。

私たちは、遠くの話を選んだ。近すぎると、心が追い越してしまうから。


「昔、白い石畳の夢を見たことがある」

「光が跳ねるやつ?」

「そう。跳ねた光が目に痛くて、目を閉じても、まぶたの裏で四角が踊る」

「今は?」

「今は、四角が薄くなる。痛くなる手前で止まる」


葵は小さく笑う。


「わたしも最近、止める練習をしてる。言いすぎる前で止める、考えすぎる前で止める」

「今日は、止められてる?」

「うん、今日はうまくいってる」


窓の外を、雲の切れ目がゆっくり通る。光は誰に対しても同じ角度で落ちるのに、受け皿の縁だけがわずかに明るくなる。


律は紅茶を口に運び、熱の輪郭を確かめる。熱は、言葉の縁を少し丸くする。


「手紙には、何が書いてあるの?」


葵が、訊かないように訊く声で言う。


「角のこと。板の温度。曲がる木目。……それから」

「それから?」

「手の温度のこと」


葵は視線を落とし、テーブルの木目の曲がる部分を人差し指でなぞる仕草だけをした。言葉は足さない。

2人はお互いの事は話すけど、住所だけは言わないし聞かない。規則には従う。

その代わり、同じ時刻を繰り返す。繰り返しの中に、別の意味が少しずつ溜まっていく。


カウンターの奥で、新聞紙が一度だけ音を返して静かになる。

拓海がグラスの口を布で拭き、「お水、足しましょうか」と目だけで尋ねた。私は軽く頷く。

氷の角が透ける。角があるものは、誤魔化さない。


壁の時計の長針が数字のまたぎに触れる。

そのとき、葵が深く息を整え、視線を窓から外した。笑顔のかたちのまま、ほんのすこし声を低くする。


「——ねえ」

「うん」

「この挨拶、今日が最後になるかもしれない」


律は心の中の糸が、急に強く張らないように、自分で指をそっと添える。

葵は続ける。


「言い切るのは違う気がするから、“かもしれない”のまま置いておくね。でも、きちんと丁寧に言っておきたかった」

「ありがとう」

「あなたの“また”が好きだった。だから、今日も言うよ」


葵は笑って、スプーンを受け皿の外側に置いた。いつもと違う場所。違いは、印になる。


「終わりの合図まで、まだ少しあるね」

「うん」

「その少しを、静かに使いたい」

「そうしよう」


2人は、窓の外の光の移動を眺める。誰かが扉を開けて、閉じる。二音は鳴らない。

卓上では、何も動かさない。動かさないことで、目に見えないものだけがゆっくり動く。

やがて、カウンターの端から控えめな案内の声が落ちた。


「まもなくお時間です」

「じゃあ」


葵は立ち上がる前に、取っ手を真上に合わせて、そっと戻す。


「次の“また”は、あなたに預けます」

「預かる」


律は声が震えないように、胸ポケットの紙の厚みを親指で確かめる。ここに、続きがある。

椅子の脚が床をやわらかく擦る。


「同じ刻を、ありがとう」

「こちらこそ」



このやり取りはいつまで続けられるのだろうか




——




ブランケットの縁が指の下に戻る。

カーテンの隙間から、三浦さんが顔をのぞかせる。


「お帰りなさいませ」

「ただいま」

「体調はいかがですか」

「問題ありません」

「来週の入れ替え日は、三十分枠の予定です。札を立てておきますね」

「ありがとうございます」


受付の脇で鉛筆を借り、付せんに短く記す。


——宛名のない三枚/角は嘘をつかない/最後かもしれない挨拶。


書きすぎない。余白が呼吸できるだけ残す。

自動ドアの外は、薄い風。

商店街のアーケードをくぐると、軒下の水の縞が歩く速さに合わせて向きを変える。

時計屋のガラス越しに振り子の幅をみる。昨日と同じに見えるが、たぶん少し違う。違いは、印になる。


家に着くと、机の上をもう一度からっぽにして、封筒を真ん中に置く。

封はしない。胸ポケットに戻し、鍵の角で位置を整える。


帰り道の途中で、預かった“また”の重さを測る。

重さは、角の数で決まる。角は今のところ、ちょうどいい数だけある。

次に開くとき、この紙は誰かの手の温度を一度だけ受け取る。

そう思うと、封をしないことが、いちばん固い封になる。

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