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第一話 喫茶店の窓

午前の光が、窓ガラスをやわらかく撫でていた。

このカフェには、季節ごとに明るさが変わる時間がある。十一時半を少し回ったころ、通りの並木の影が薄くなり、川の方向から白いひかりが差してくる。その時間帯が好きで、律はいつも同じ窓際の席に座った。


ここに通いはじめて、何度目の同じ時刻になるだろう。

窓沿いのカウンター席が、店のいちばん明るい場所だ。十一時半を少し回ると、川の方角から白い光がすべってくる。彼女はいつも窓から三つ目のハイチェアに座る。律はたいてい一つ間をあけて座っていたが、今日は思い切って隣に腰を下ろした。コースターの角をテーブルの縁に合わせ、紙ナプキンを四角に折ってカップの下に差し込む——その所作を見るたび、胸のどこかが静かに整う。いつも同じ椅子。コースターの角をテーブルの縁に合わせ、紙ナプキンを四角に折ってカップの下にそっと差し込む。その所作が視界に入るたび、胸のどこかが静かに整う気がした。


カウンターの中で、バリスタの拓海がミルを回している。

拓海は律の高校時代の同級生で、この店の副店長だ。卒業後に別々の道を歩いたが、町でばったり再会したとき「一度飲みにおいでよ」と言われ、律は通うようになった。拓海は客の間合いをよく知っていて、余計な世話は焼かない。その代わり、タイミングを見計らって短い言葉を置く。


「今日も、同じ時間だね」


豆を落としながら、拓海が小声で言った。律は曖昧に笑い、いつものように頷く。

何度か声をかけようと思ってやめたことがあった。話しかけられる側の朝の機嫌は、だいたい表情の端に出る。彼女はいつも、機嫌のよい人の表情をしていた。それでも律は、きっかけを掴みそこねたままだった。


やがて、拓海がブレンドコーヒーを二つ、それぞれの前にそっと置いた。湯気がゆっくりと立ちのぼる。小さなトレーにはミルクとスプーン、カウンター共有の砂糖壺が一つ。


「ブレンドです。砂糖はこちら」

「ありがとう」


同じタイミングで砂糖壺へ手が伸びて、指先がかすかに触れた。ほんの一瞬の温度。窓の光よりもはっきりしている。


「あ、すみません」

「いえ、お先にどうぞ」


拓海が位置を整えながら、「シュガースティックはそっちに」と短く言う。自然に笑いが生まれ、律はその余韻に背中を押されるように口を開きかけて、言葉を喉でいったん止めた。


店の奥で、氷の入ったピッチャーが首を振るたび、薄い鈴みたいな音がした。

入口のベルは鳴らない。常連はだいたい、音を立てずに出入りする。

カウンターの端で新聞の紙面がゆっくりめくられて、ページの海がちいさく波打つ。

こういう音の並びは、話しかける合図にも、話しかけない理由にもなる。


律は一度、呼吸を置き直した。


「……いつも、この時間でいらっしゃいますよね」


言ってから、言い方を少し悔やむ。余計な意味に取られやすい問いだ。

彼女は気分を害した様子もなく、やわらかく頷いた。


「そうですね。十一時半から正午がいちばん明るいんです。あなたもですか?」

「はい。窓の外がやわらかく見えるので」


「わたし、葵っていいます。二十五です」


名乗り方が真っ直ぐで、律もつられて答える。


「律といいます。二十八歳」


「席、いつもここなんですね」

「はい。窓がまっすぐ見えるので。——あなたは?」

「僕は、二つ離れたあっちでした。今日は、たまたま」

「“たまたま”って言い方、便利ですね」

「責任を分散できるから」


葵が笑うと、窓の光が少しやわらいだ気がした。


「お仕事の途中ですか?」

「今日は休みです。平日の昼って、気持ちがいいですね」

「僕も休みの日はだいたいここにいます。……その、同じ時間にお見かけすることが多くて。ご迷惑でなければ、少しお話してみたいなと」

「なんとなく気づいていました。目が合うこと、多かったですから」


葵は少しだけ照れたように笑った。


「ここ、初めて見つけた日、席が全部埋まってて。窓の向こうの光だけ借りて帰ったんです。悔しくて次の日も来ました。その次の日も。たぶん、そのへんからあなたもいらっしゃった」


律の胸のどこかが、熱を帯びる。自分だけが気づいていたわけではない、という事実が思っていたよりも嬉しかった。


カウンターの奥で、拓海がさりげなく視線を外しながら、グラスを磨いている。

「紹介しようか?」とでも言いたげな気配を、律は手のひらで制した。自分で言葉を選びたかった。


律はカップを受け皿に戻しながら、気づけば口が動いていた。


「このあと、どうされますか?」

言ってから胸がひやっとする。——初対面だぞ。


「いや、その、もしご予定がなければ、外の空気でも……店の前を少しだけ」


言葉を探しているうちに、「川まで」とまで言いかけて、慌てて飲み込む。

葵は一瞬だけ目を細め、それから窓の外に視線を流した。


「ここ、川まで歩けるんですよね?」

「はい。10分くらいです。人も多いですし、すぐ戻れます」

「では、少しだけ。風が強くなったら、そこでおしまいにしましょう」

「わかりました」


拓海がマドラーの束を整えながら、目だけで「傘いる?」と訊いた。

律は外を見て、首を横に振る。葵はうなずきかけて、やめる。

「持ってないと降りそう、持ってると降らなそう」

「じつによくある現象」

そういう他愛のない一致が、最初の連帯感になった。


ふたりはハイチェアから立ち上がった。拓海が視線で「いってらっしゃい」と送り、律は小さく会釈で返した。店のドアは少し重い。けれど開いた先の空気は、軽かった。


—外に出て、信号をひとつ渡ったところで、短い沈黙が挟まる。並木の影が足もとを流れていく。

葵が横目でこちらを見た。


「……さっきから、ずっと敬語でしたよね」

「癖で。仕事で口が固まってて」

「わたし、敬語で話すの、ちょっと疲れちゃうので……タメ語でいいですか? 律さんもタメ語で。だめですか?」


律は少し歩幅を落として、言葉を探す。


「いきなりは、たぶん上手くできない」

「押しつけじゃないです。距離がある感じが苦手で。今日のこと、ふつうに話したいだけ」

「“ふつうに”って、どのくらい?」

「まずは語尾だけ。“はい”を“うん”にしてみるとか」

「……うん」

「それそれ。今ので十分」

「名前は?」

「それは保留で。いきなり呼び捨ては、私も心の準備が必要です」

「じゃあ、今は“葵さん”のまま」

「うん。律さんも、無理しないで」

律は小さく息を吐く。

「……わかった。変だったらすぐ戻すってことで」

「うん、それで」


風が少しだけ強くなる。二人の影が、歩道の継ぎ目で重なった。

葵が前を向いたまま言う。


「川までって、10分くらいなんだよね?」

「うん近いからすぐ戻れますよ」

「じゃあ、…少し遠回りしてみたいな」

「え?…うん、いいよ、わかった」


店を出て、信号をひとつ渡る。並木が風に揺れて、歩幅は自然に合った。

通りにはパンの匂い、信号待ちの靴音、遠くの金属音。横断歩道の白い帯が向こうまで伸びている。


よく見たらパン屋の立て看板が風で傾いで、文字が斜めに揺れている。

律が少しだけ支えて直すと、葵が「字がまっすぐになった」と言った。


「真っ直ぐだと落ち着く?」

「ううん、斜めでも落ち着く。でも、直したくなるね」

「じゃあ、次に通ったとき、また斜めになってたらどうします?」

「そのときの気持ちに任せる」


そういう答えが、この人らしいと律は思った。


話題は取りとめがなく、好きな映画や雨の日の音楽、休日の朝の過ごし方へとゆるく移った。葵はときどき前髪を指で梳き、律はそのたび、言葉を選ぶ間をもらった気がした。


角を二つ曲がったところで、葵がふっと横を向く。


「ね、今日は、どこまででも行けそう」


冗談みたいに聞こえる言い方だった。律も笑って、うなずく。


地図も見ずにまた一つ角を曲がる。足が先に道を選ぶ感じが、おもしろい。


「律は地図を見る派? それとも感で歩く派?」

「感で歩いて、迷ってから地図を見る派」

「わたしも」


角を曲がるたび、別の景色が現れる。見覚えがあるのに、どこか新しい。二人で歩くと、街はいつもより少しだけ若く見える。そんなことを言葉にするには、まだ早い。


川が見えたのは、二つ目の信号を渡った先だ。水面に小さな波紋が重なって、陽の粒が揺れている。


「ここ、好きになりそう」


「僕も」


欄干にもたれて、しばらく黙って水の流れを見る。黙っていても、会話は続いている。葵が指先で欄干をとん、と二度叩き、振り返った。


「そろそろ戻りますか」


「うん。また来よう」


約束の言い方は、あいまいでいい。

店へ戻る道すがら、律はふと振り返り、葵も同じタイミングで笑った。理由は訊かない。訊かないままで、十分だった。


入口のベルが小さく鳴る。

「いらっしゃ…あ、どうだった?」と拓海が目だけで訊く。律は親指を立てる代わりに、コーヒー豆のボトルを指さして「同じのをふたつ」と合図した。拓海はほんの少し口角を上げ、ポットに手を伸ばす。


「今日はありがとう」と葵が言い、「こちらこそ」と律が返す。互いに別の角へ向かって歩き出す直前、律は小さく息を吸い込んだ。


「また、この時間に」


「うん」


それだけ言って別れた。

次の角の先に、次の午後が待っている。帰り道があるうちに、それだけで十分だった。

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