第八章:揺れる心
新学期が始まり、風音のクラスに転校生がやってきた。加賀谷琉輝、長身でスポーツマンタイプの男子だ。担任の茂木先生は彼を風音の隣の席に配置した。
「よろしく。」琉輝はクールな表情で言った。
「あ、うん。よろしく。」風音は少し緊張した様子で返した。
授業が始まると、風音は時々、隣の琉輝に視線を送っていた。彼の真っ直ぐな横顔に、どこか惹かれるものを感じていた。
「心拍数上昇中。」心臓が報告した。「アドレナリン分泌も増加しています。」
「脳内でドーパミンとセロトニンのレベルが上昇しています。」脳が分析的に言った。「これは、いわゆる『好意』や『恋愛感情』の生理学的な徴候です。」
「やめてよ!」風音は心の中で叫んだ。「そんな分析されたら恥ずかしいじゃない!」
昼休み、琉輝は一人で教室を出て行った。風音は友人たちと給食を食べながら、何度か教室のドアの方を見ていた。
「風音、もしかして加賀谷くんが気になる?」美咲がニヤリと笑った。
「え? そ、そんなことないよ!」風音は慌てて否定した。
「顔、赤いよ?」恵も冷やかした。
「う……」風音は言葉に詰まった。
内臓たちも騒がしかった。
「皮膚の血管が拡張しています。」皮膚が報告した。「これが『顔が赤くなる』現象です。」
「交感神経が活性化しています。」自律神経系が言った。「『ドキドキする』と表現される状態ですね。」
「わかったから、もう言わないで!」風音は心の中で叫んだ。
放課後、風音が一人で下駄箱に向かうと、そこに琉輝がいた。
「あ、十和田さん。」琉輝が声をかけた。
「か、加賀谷くん。」風音は驚いて振り返った。
「この辺の図書館とか、おすすめある? 俺、本読むの好きなんだ。」
「え? あ、うん。駅前の市立図書館が充実してるよ。特に小説コーナーが。」
「そっか、ありがとう。今から行ってみようかな。」琉輝は小さく笑った。
「良かったら、案内するけど……」風音は思わず言った。
「マジで? 助かるよ。」
二人は並んで歩き出した。風音の心臓は激しく鼓動していた。
「落ち着いて。」心臓自身が言った。「こんなに速く鼓動させられると、私も大変なんだよ。」
「ごめん。」風音は心の中で答えた。「でも、どうしようもないの。」
図書館までの道すがら、風音と琉輝は少しずつ会話を広げていった。琉輝が以前住んでいた町のこと、好きな本のこと、そして転校してきた理由??父親の仕事の都合だという。
図書館に着くと、風音は琉輝を案内した。彼は真剣に本棚を見て回り、時折立ち止まって本を手に取る。その姿に、風音はますます心惹かれていった。
「風音。」琉輝が突然風音の名前を呼んだ。「明日も一緒に帰らない?」
「え? う、うん。いいよ。」風音は驚きながらも、喜びを隠せなかった。
その夜、風音はベッドに横になっても、なかなか眠れなかった。
「どうしちゃったんだろう、私……」
「それは『恋』というものよ。」脳が優しく言った。「人間の最も複雑で美しい感情の一つね。」
「でも、単なるホルモンの働きなんでしょ?」風音は少し皮肉っぽく言った。
「簡単に言えばそうとも言えるわ。」脳が答えた。「オキシトシンやドーパミン、セロトニンなどの神経伝達物質が関与しているのは確かよ。でも、そこに『単なる』という言葉を付けるのは適切ではないと思うわ。」
「どういうこと?」
「化学反応だけで恋愛感情の全てを説明できるわけではないの。」脳は静かに続けた。「あなたの価値観や記憶、経験、そして社会的・文化的な文脈も大きく関わっている。さらに言えば、人間の感情には還元できない複雑さがあるわ。」
風音はしばらく黙って考えた。
「じゃあ、私が琉輝くんを好きになったのは、単なる生物学的な反応じゃないの?」
「その通り。」脳が答えた。「『単なる』という言葉で片付けられるものではないわ。あなたが彼の何に惹かれたのか、それはホルモンだけでは説明できない。彼の性格、話し方、価値観……あなたが大切にしているものと、彼のどんな側面が共鳴したのか。それがあなたの『恋』を形作っているのよ。」
風音はその言葉に少し安心した。自分の感情が、単なる化学反応だけではないと知ることは、妙に心強かった。
「ありがとう。」風音は脳に向かって心の中で言った。「何だか、少し複雑な気持ちが整理できたよ。」
「どういたしまして。」脳は優しく答えた。「感情を理解することも、自己を理解することの一部よ。」
風音は穏やかな気持ちで、少しずつ眠りに落ちていった。明日、また琉輝に会えると思うと、胸が温かくなった。