第三章:共存への道
徐々に風音と内臓たちの関係は良くなっていった。最初は戸惑い、時に反発していた風音だったが、内臓たちの助言で、少しずつ生活習慣も改善し始めた。
ある朝の体育の授業で、風音は走っていた。以前なら面倒くさがってサボっていたが、今日は真面目に取り組んでいた。
「おー! これだよ、これ!」心臓が喜んだ。「適度な運動は私を強くするんだ!」
「血流が良くなって、私たちも活発に働けるわ!」血管が歓声を上げた。これは流れるような女性の声だった。「血栓のリスクも減るわね!」
「エンドルフィン出てるー!」脳下垂体が叫んだ。これは若々しく、活気に満ちた女性の声だった。「これ、幸せホルモンって呼ばれてるやつ! 運動すると分泌されるのよ!」
風音は思わず笑った。内臓たちが喜ぶ声を聞くのは、なんだか嬉しい。走りながら、体の中でオーケストラのように響き合う声を感じていると、不思議と足が軽く感じられた。
走り終えると、友人の美里が風音に水筒を手渡した。
「風音、最近元気だね。いつもは体育サボりがちだったのに。」
「うん、ちょっと体調管理に気を使い始めたんだ。」風音は微笑んだ。
体育の後、クラスに戻る途中、これまで黙っていた器官たちからも声が聞こえ始めた。
「脾臓です。」穏やかな男性の声が聞こえた。「私は免疫システムの一部として、古い赤血球を処理したり、感染と闘うリンパ球を生産したりしています。最近、風音さんが野菜を食べるようになって、鉄分の供給が安定してきました。ありがとうございます。」
「私、胆嚢よ。」少し気難しそうな年配の女性の声。「肝臓さんが作った胆汁を濃縮して保存するのが仕事なの。脂肪の消化を助けるためには、適切な胆汁の分泌が必要なのよ。最近は脂っこいものを控えてくれているから、楽になったわ。」
「甲状腺です。」元気な声が喉の辺りから聞こえた。「私はホルモンを分泌して、体の代謝をコントロールしています。バランスの取れた食事のおかげで、ホルモン分泌も安定してきました。」
風音は授業中も、これらの声に耳を傾けていた。国語の授業で『こころ』を読んでいるとき、脳が興味深いコメントをした。
「夏目漱石の『こころ』は、まさに自己と他者の関係性を問う作品ですね。主人公の『先生』の孤独と罪の意識は、自己の内面と向き合うという点で、あなたの今の経験と通じるものがあります。」
風音は思わず「へえ」と声に出してしまい、先生に注意された。
放課後、風音は学校の図書室に立ち寄った。解剖学や生理学の本を探したいと思ったのだ。自分の体のことをもっと知りたい、そう思い始めていた。
「人体図鑑」のページをめくりながら、風音は自分の体の複雑さに改めて驚いた。一つひとつの臓器、一つひとつの血管、一つひとつの神経が、それぞれの役割を持ち、精密に連携して機能している。そして今、それらが声を持ち、彼女と会話している。
帰り道、風音は公園に立ち寄った。ベンチに座り、空を見上げる。
「ねえ、みんな。私のこと、どう思ってる?」風音は突然尋ねた。
「どういう意味?」心臓が答えた。
「私って、みんなにとってどんな『持ち主』?」
しばらくの沈黙の後、脳が静かに答えた。
「私たちにとって、あなたは『持ち主』というより、『全体』なの。私たちは皆、あなたという存在の一部分。私たちがあなたを構成しているというより、あなたという全体の中で、私たちがそれぞれの役割を担っているの。」
「そうね。」心臓が続けた。「私たちは分離した存在ではなく、一つのシステムの部品なの。そのシステム全体が『風音』という人なのよ。」
「なるほど……」風音は空を見つめたまま言った。「私たちは一つの生命なんだね。」
「そうです。」肺が答えた。これは優しく、広がりのある女性の声だった。「あなたが呼吸するとき、私はあなた。あなたが考えるとき、脳はあなた。あなたが感じるとき、神経系はあなた。それぞれが分かれていながら、全体として一つなのです。」
風音は深い感動を覚えた。今まで当たり前に「私」と呼んでいた存在が、実はこれほど複雑で精緻なシステムだったなんて。そして、そのシステムの中で、数え切れないほどの細胞や組織が協力し合って生きている。
「ありがとう、みんな。」風音は心から言った。「これからも、よろしくね。」
家に帰ると、風音は冷蔵庫を開けた。いつもならコンビニのお弁当を温めるところだが、今日は違った。野菜室から人参とピーマンを取り出し、卵と鶏肉も用意した。
「おお、料理するの?」胃が驚いた声をあげた。
「うん、簡単な炒め物を作ってみようと思って。レシピサイトで見たんだ。」
風音は野菜を切り、フライパンで炒め始めた。不器用な手つきながらも、真剣に取り組む。
「これは素晴らしい!」膵臓が歓声を上げた。「バランスの取れた食事は私の負担を減らしてくれるよ!」
出来上がった料理は見た目はあまり良くなかったが、風音にとっては大きな一歩だった。自分で作った料理を口に入れると、胃が喜びの声を上げた。
「手作りの味! 添加物が少なくて、消化しやすい!」
その夜、風音はベッドに入る前に、スマートフォンを枕元に置くのではなく、離れた場所に置いた。そして、早めに布団に入った。
「おや?」脳が驚いた声をあげた。「いつもより早く寝るの?」
「うん、明日は体調良く起きたいから。」風音は言った。「みんなを大切にしたいな、って思って。」
「ありがとう。」脳が優しく言った。「十分な睡眠は、私たちの回復と成長に欠かせないものなの。」
風音は目を閉じ、内臓たちの声が次第に遠ざかっていくのを感じながら、穏やかな眠りに落ちていった。今夜は、きっと良い夢が見られるだろう。