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第一章:衝撃の出会い

 十和田風音は、いつものように朝のアラームを無視し続けていた。携帯電話のバイブレーションが引き出しの中で虫のように震え続け、やがて自動的に停止した。それでも彼女は目を覚まさなかった。二度目のアラームが鳴り、三度目のアラームが鳴り、ようやく鈍い頭痛とともに重い瞼を開けた。


「もう……7時40分じゃん……」


 風音は布団から這い出ると、鏡台の前に立った。昨夜も化粧を落とさずに寝てしまったことがわかる。アイラインがにじみ、マスカラがまつげの下に黒く広がっていた。髪を乱したまま、制服のスカートをだらしなく引っ張り上げ、シワになったブラウスを着る。


「あーあ、もう。」


 風音は溜息をつきながら、朝食も食べずに家を出た。自宅マンションのエレベーターでは、赤い目をこすりながら「遅刻確定」と呟いた。学校までの道のりにあるコンビニで、チョコレートコロネを買い、それを頬張りながら学校へ向かう。


 そのとき、突然だった。


「おい、そんなものばかり食べるな!」


 風音は振り返った。しかし、周りには誰もいない。小さな公園には子供もなく、街路にはサラリーマンが時折通り過ぎるだけだった。


「ここだ、ここ! お前の中だ!」


 風音は自分のお腹に目を向けた。


「え?」


「俺は、お前の胃だ。いい加減にしろ! 砂糖と脂肪ばかり送り込むな! 俺は食べ物を消化液で分解して、栄養素を腸に送る役目なんだ。こんな不規則な食生活じゃ、正常に機能できないぞ!」


 胃の声は怒っているというより、疲れ切っているように聞こえた。深いため息のような音も混じっている。風音の顔から血の気が引いた。


「何これ……幻聴?」


 すると今度は別の声が聞こえてきた。これは少し締まった、しっかりとした声だった。


「風音、運動不足だよ。筋肉が衰えちゃう……」


「あ、僕は心臓だよ。」これは穏やかだが、少し速いリズムで話す声だった。「最近、風音ちゃんの心拍が不安定で困ってるんだよね……」


「肝臓です。」これは真面目そうな、少し堅い中年女性の声だった。「私、もう限界です……毎晩の清涼飲料水やスナック菓子の解毒作業で手一杯なんです。」


 次々と聞こえてくる内臓の声に、風音はその場にしゃがみ込んでしまった。通りを行き交う人々が不思議そうに彼女を見ている。


「私、狂ったの?」


 そのとき、落ち着いた、少し知的な女性の声が頭の中で響いた。


「いいえ、あなたの精神状態は正常です。ただ、何らかの理由で私たち内臓の声が聞こえるようになっただけです。おそらく、あなたの体からのSOSサインかもしれませんね。」


 風音は凍りついたように動けなくなった。恐る恐る声に答える。


「あなた……は誰?」


「私は脳です。あなたの中枢神経系を構成し、全身の機能を調整しています。」


 風音は混乱し、頭を抱えた。


「脳って……脳って『あたし』じゃないの?」


 一瞬の沈黙の後、脳は優しく答えた。


「興味深い質問ですね。確かに従来の考え方では、脳はあなたの意識や自己の座とされてきました。でも、私はあなたの中の一器官にすぎません。私はあなたの身体機能を制御し、情報を処理していますが、『あなた』そのものではないのです。」


 風音は学校への道を忘れ、近くの公園のベンチに座り込んだ。もう遅刻は確定していた。それどころか、今の自分には授業どころではない状況だった。


「でも、私が考えたり感じたりするのは脳のはずでしょ? だったら私は脳なんじゃないの?」


 脳は穏やかに説明を続けた。


「脳が思考や感情を生み出す重要な器官であることは間違いありません。しかし、『あなた』とは、単に脳だけではなく、身体全体、そしてその相互作用から生まれる何かなのです。例えば、あなたの感情は脳内の化学物質だけでなく、胃腸の状態や心臓の鼓動、ホルモンバランスなど、全身の状態に影響されています。」


 風音はしばらく黙って考えた。早朝の公園は静かで、遠くの道路から車の音だけが時折聞こえてくる。


「それじゃあ……『私』って何?」


「それは哲学的な問いですね。」脳が答えた。「西洋哲学では、デカルトが『我思う、ゆえに我あり』と言って、思考する主体としての自己を定義しました。一方、東洋哲学では、自己とは絶え間なく変化するプロセスであり、固定的な実体ではないという考え方もあります。」


「難しいなぁ……」風音はため息をついた。


「現代の神経科学では、自己意識は脳内の特定の領域というよりも、脳全体のネットワーク活動から生まれるという考え方が主流です。そして、その脳は常に身体と環境と相互作用しています。」


「つまり……私はどこにもないけど、どこにでもある?」


「良い表現ですね。」脳は笑ったように言った。「『あなた』は単一の場所や器官に還元できるものではなく、身体全体のシステムから創発する特性と言えるでしょう。それは物理的な実体というよりも、関係性のパターンなのかもしれません。」


「でも、他の臓器たちと私が会話できるのはなぜ?」


「それは不思議ですね。」脳が答えた。「通常、臓器間のコミュニケーションは神経系や内分泌系を通じて行われ、意識の表面には上がってきません。何らかの理由で、それらの信号があなたの意識に変換されるようになったのでしょう。科学的説明は難しいですが、興味深い現象です。」


 風音は自分の手のひらを見つめた。中学の理科で学んだことを思い出す。手のひらの細胞一つ一つが生きていて、細胞膜があって、核があって、ミトコンドリアがあって……それが集まって組織になり、器官になり、システムになる。そして、それがすべて集まって「私」になる。


「じゃあ、心って何? 意識って何?」


「それもまた深い問いです。」脳は少し考えるように間を置いた。「『心』や『意識』の本質については、哲学者も科学者も完全には解明できていません。心は脳の活動から生まれるという唯物論的見方もあれば、心と物質は根本的に異なるという二元論的見方もあります。また、心とは情報処理の特殊なパターンであるという見方もあります。」


「うーん……」風音は頭を抱えた。「朝からこんな難しいこと考えるつもりじゃなかったのに……」


「確かに難しい問題ですね。」脳は少し笑うように言った。「でも、あなたがこうして自分自身について考えるということ自体が、人間の意識の興味深い特性なのです。自己を客観視し、自分について考える能力、これを『メタ認知』と呼びます。」


 風音は急に我に返った。スマートフォンを取り出すと、もう8時30分を過ぎていた。


「あ! 学校遅刻する!」


 立ち上がりながらも、彼女は考え続けていた。


「でも、脳であるあなたが『私』じゃないなら、なぜ私は『私』だと感じてるの?」


「それは『クオリア』と呼ばれる問題の一部です。」脳が答えた。「主観的な経験の質感ですね。なぜ物理的な脳の活動が、一人称の視点からの体験を生み出すのか。これは『意識のハードプロブレム』と呼ばれる難問です。」


 風音は小走りに学校へ向かいながら笑った。


「すごいね、私の中にこんな博識な脳があったなんて。でも、もう少し運動神経を良くしてくれてもよかったのに。」


「申し訳ありません。」脳は少し恥ずかしそうに言った。「運動制御はしていますが、能力には個人差があります。それに、練習不足もありますから……」


 風音は笑いながら学校へと急いだ。門をくぐるとき、既に一時間目が始まっていることを知っていた。しかし不思議なことに、今朝の出来事の後では、遅刻も大したことではないように思えた。この不思議な体験は彼女の世界観を一変させるものだったが、同時に新たな旅の始まりでもあった。自分自身との対話、そして自分の体との対話。


「これからどうなるんだろう……」風音はつぶやいた。


「それは一緒に見つけていきましょう。」脳が答えた。「あなたの『自己』の物語はまだ始まったばかりですから。」


 風音は深呼吸をして、教室のドアを開けた。担任の茂木先生は、彼女が入ってきたことに気づくと、一時間目の数学の授業を中断した。クラスメイトたちの視線が風音に集まる。


「十和田さん、今日も遅刻ですか。何かあったのですか?」


 風音は一瞬、本当のことを言おうかと考えた。でも、内臓の声が聞こえるようになったと言えば、間違いなく保健室行きになるだろう。


「すみません、寝坊しました。」


 彼女はそう言って席に着いた。だが、今日からの学校生活は、これまでとはまったく違うものになることを、風音は予感していた。


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