80. 救出
ザラストルの唇が、唐突にユーリの右の瞼に触れた・・・
その瞬間であった。
背中がゾワっとした。
それと同時に血の気が引く感覚に見舞われた。
ユーリは急に冷静になった。
自分が相当酔っていることにも気がついた。
・・・いや、今まで自分が飲んで来たお酒は
どちらかというと
諸々が取り払われ
解放されていく感じがある。
酒の精霊は記憶や理性を喰うと。
モメラスやヒーロが言っていた。
今はむしろ逆だ。
思考したいのに、それを押さえつけられている様な。
酒に酔っている時とは似て非なる感覚であった。
よし、状況は一回受け入れよう。
私は今、かなり酔っている、に近い状況にある。
違うとは思うが状況としては一番近い。
意識を目に集中させる。
今の自分の体制は・・・?
ギリギリ、周辺景色が重力に逆らうことなく
見えるのを確認した。まだ体の平衡感覚はある。
焦点は面白いほどに合わない。
目の前の大きな人影から
頭も撫でられ抱きしめられている様な気がする。
耳元で何か心地よい言葉が聞こえてくる。
脳みそでは、それが何を意味するかを認識してくれないが
よし、大丈夫だ。いける・・・!
それを確認すれば、とりあえず目の前の人影に
言うことは一つである。
ユーリは少々ザラストルを少々押し退け
距離を取った。
「ざ、ザラストル様?私、お手洗いに行きたいです!」
目の前の方、ザラストルは心配そうに聞いてくる。
「大丈夫?飲ませ過ぎてしまったかな?」
また両肩をホールドし始めた。
「そうですね!吐きそうなんです!」
ユーリは恥を忍んで発言する。
ザラストルの手が緩む瞬間を狙い
一気に、トイレへと駆け込んだ。
こう言うと大抵
殿方はついてこないのをユーリは知っていた。
フラフラして、途中で
こけたことは認めよう。
何にせよ視覚の焦点が合わないのだ。
距離感が全く分からない。
トイレに入った瞬間、盛大なゲロに見舞われた。
しっかりと便座と抱き合っていると言う
一見絶望的な状況なのだが
ありがたいことに、今ので大方の毒素の排出に成功した様だ。
また一気に、正気になった気がした。
次に自分がするべき行動を考えよう。
ああ見えてもザラストル様は国賓なのだ。
戻って、この非礼を詫びねばならない。
先ほどザラストル閣下が言っていた言葉
思い出せ。会話を成り立たせないと・・・
すぐに、トイレのドアを
トントンと叩く音がこえてきた。
「大丈夫かい?水を飲んだほうが良い。
私は酔い覚ましの薬を持っているよ。」
それらしい文言が扉の向こうから聞こえてきた。
思ったより時間が無い。
先ほど聞いたザラストルのお言葉を思い出そう。
・・・思い出せば思い出すほどに
先ほどの会話
私は正気であったか?何と発言した?
最後は悪魔と取引をしている様なことをも言われた。
そういえば、サムエルが言っていた。
以前オーガから取引を持ちかけられたと
あれ?それって・・・ザラストル様って言ってなかったけ?
・・・ん?私の場合何と言われた?
「君が私に欲しいものを与えてさえくれれば
私も君の願いを叶えてあげよう。」
何故?
・・・いや、何故?何のために?
ついでに今、思い出したことがもう一つあった。
「あいつすごい女好きだよ。」
ユーリはもう一度大きな吐き気に見舞われる。
また便器と抱き合う羽目になった。
それは、サムエルがいつか
ザラストルについて述べた感想であった。
その時はどうでも良いなんて思ってしまったが
・・・今まさにその被害を
私が受けているなんて。
屈辱すぎる。
大体あのオーガ、ほんの数回しか会ったこともないのに
一体私の何が分かると言うのだ。
偉そうに、分かった風に・・・
ユーリは一層の怒りと
気を許し過ぎてしまったことへの
自己嫌悪の念が湧いてくるのを感じる。
目をつけられたとか
ハチも言っていたっけなぁ・・・
またハタと思いつく。
何故ハチが来ないんだろう?
・・・こう言う時は
ネズミを見つけた如く、飛んで来そうだが。
そして何故誰もいない?
少なくともザイカは高速馬車のために
アリーナを返しにくる時間だ。
ヒーロの気配もしない。
何故?
というか・・・
改めて周辺を探ると
今ここは、例の時空遮絶結界の中にいる様であった。
外の気配を全く感じない。
先程あれほど聞こえた、雨音も雷鳴も
今は全く聞こえない。
これはどう言う状況なんだろうか。
あの結界は魔法陣を消してしまった。
誰かが新たに結界を張った?
だとしたら誰が?
自身の魔力もかなり弱くなっているのを感じる。
この結界のせいなのか。
それもわからない。
「ユーリ?心配だから一度出てきて。」
ザラストル様が優しく外から声をかける。
今となってはだが
態とらしさも感じる
その甘い言葉を耳にし
つい、人喰い鬼に追い詰められた子供の昔話を
思い出していた。
しかし、彼の方は、国賓、国賓、国賓なんだ。
下手すれば、停戦合意が破綻する・・・
何とか、会話を通常モードに
軌道修正せねば!
ユーリは酔ったテンションもあったと思う。
謎の使命感に燃え、扉を開けた。
「ざ、ザラストル様!私の願いはただ一つです!」
ザラストルは突然元気良く出てきたユーリに
驚いた様子であったが
いつものお優しい雰囲気を
一瞬で、取り繕った。
「何だい?」
穏やかな声だった。
ユーリはその空気をぶち壊す、大声で発言する。
もう飲まれるものか。
「資金繰りの改善です!つまりお金です!」
ユーリは真っ直ぐザラストルに伝えた。
「先ほどのお話は、ザラストル様は何か
私に提供できるものの対価として
小羽屋に資金提供のお申し出を
してくださると言う事ですか?」
ユーリは、自分の口が脳みそも
追いつかないくらいの早口で発言していた。
ザラストルはあからさまに驚いた顔をしていた。
「幸い、ここ、小羽屋は、近年稀に見る成長を遂げ
売り上げを伸ばしています。
投資先としても、素晴らしい宿屋であると
支配人の、私も自ら、自信を持ってお勧めしたいです!!」
そこまで言い終えると
控え室の扉がバシンと開く音がした。
直後にシャーッ!!!という猫の威嚇音。
同時に、白黒色の毛玉が
ザラストル様の顔目掛けて飛んできた。
ハチであった。
牙と爪を立てて毛を逆立てている。
目は黄色く爛々と輝いている。
向き出た白くて長い牙とは対照的な歯肉が
やけに鮮やかに赤く見える。
白い手の先から伸びる鋭い爪
猫も眉間に皺寄せられるのか・・・
あの可愛いハチが
ユーリでも引くほどに
今は虎やライオンのような猛獣に見えた。
その後を追うように、箒を持って
やはり酷く怖い顔をしたヒーロが
ザラストルの脛目掛けて突っ込んで行った。
鉈を持ったザイカもそれに続き
ユーリの前をしっかりとガードする。
モメラスもユーリの前に立った。
傍には・・・何コレ?
見たこともない禍々しい精霊を携えている
そんな彼らを少々押し退け気味に
歩み寄ってきた影。
サムエルであった。
いつもの颯爽とした歩き方とは全く異なっていて
どこかドスドスドスと
一直線にザラストルへと向かった。
「何をする!無礼な!」
と、ザラストルは自身の顔に張り付いたハチと格闘しつつ
箒で足をバシバシぶっ叩いているヒーロを
その大きな手で叩こうとした。
その瞬間ヒーロは
目にも留まらぬ速さでそれを避けた。
目から炎のが出ているかの如く強い眼差しであった。
ヒーロ、今ターボしなかった?
ユーリにもその身のこなしが目視できなかった。
そもそも、先ほどから目は
良く見えていないのだが
建物がミシミシと音を立て始めたのは良く聞こえてきた・・・
「ザラストル閣下。」
サムエルはザラストルの目の前に立ち、声をかける。
物理的な身長からすればザラストルの方が
サムエルの倍近くあるように見えるが
それを感じさせないほどの威圧感が
今のサムエルにはあった。
ハチもザラストルの顔を引っ掻くのを止め
シュタッと地面に降り立った。
所謂、やんのかポーズをして唸っている。
「お戯が過ぎます。
こちら、あなた方使節団を快く受け入れ
人間国王皇后両陛下、シュンテン閣下からも
感謝の言葉も頂いた宿屋の支配人ですよ。」
慇懃無礼にサムエルは話した。
「わ、私は何も・・・誤解だサムエル殿!」
ザラストルはと明らかに狼狽えた。
交易相手のエルフの外交官を目の前に
まずいものを見られてしまった。
とでも思ったに違いない。
ザラストルのお顔には綺麗に
ハチの爪痕の線が入っていた。
血も出ており、とても痛そうである。
「誤解?私の目には貴殿がその者を
拐かしている様に見えました。
しかも先ほどの結界は何ですか?
こちらと密室で
一体何をしようとしていたのですか?」
ユーリが恐る恐るサムエルを見ると
顔がめちゃくちゃに怖かった。
しかしユーリの肩に掛けたその両手は
顔に反してかなり優しげで
添えた、と言うだけであったであろう
・・・その圧ですら
ユーリは立っていられなくなった。
サムエルは咄嗟の出来事に対応できなかったが
すぐさまザイカに受け止められた。
やはり何か結界が貼られていたのか。
ハチが破ってくれたんだな。
いつかハチが言っていた
あの時の言葉は本当だったんだ。
ユーリは場違いながら相当に感動していた。
「この娘の投資話を聞いていただけであって・・・」
「あ?」
サムエルはブチ切れた。
取り繕うこともしなくなった。
ユーリはと言えば
先ほどザラストルに口をつけられた右目は
膨満な不快感に見舞われ始めた。
頭もクワンクワンしている。
「そうだ、ここに50万マルの寄付をする代わりに
この娘の魔力を一部譲渡することになったのだ。」
ザラストル様は急に投資話を具体的にされ始めた。
・・・初耳だ。
「50万マル?」
サムエルは聞き返す。
「だ、妥当だろ!?」
今度はサムエル本体がビキビキ言い始めた。
この言動に、ここ一番ブチギレた。
これは本格的にやばい。
「違いますよ、サムエル・・・様」
力を振り絞り、サムエルの服の裾を引っ張った。
サムエルは各界隈に影響力がある。
見ていればユーリにもわかる。
私1人の犠牲だったら
安いものではないか。
もはや世界の安寧を目の前に
私の命など大したことない。
「いえ、サム・・・エル・ロビンズ様、それで良いんです。
願ったり叶ったりです・・・」
それにしても
先ほどから襲われているこの目や頭の不快感のせいで
まともに何も考えられない。
しかし、サムエルを抑え、この場を納めるために
力を振り絞って発言した。
サムエルはフーっと深呼吸する。
その深呼吸は何回か続いた。
やがて、発言した。
「この子がそう言うのであれば。」
サムエルも停戦合意のことを思い出したに違いない。
そうは、言いつつも
サムエルは今にもザラストル様を
ぶん殴りそうな気配であった。
傍にいるモメラスもサムエルを宥める様に視線を送っていた。
「私はもう失礼しよう。後ほど為替はお送りする。」
ザラストルが鞄の転移の巻物を取り出そうとした時
サムエルがそれを止めた。
「本国にお戻りの前に、シュンテン閣下が一度
セントラルタワーに戻るようにとのことです。」
サムエルが転移の巻物を手渡した。
「この、セントラルタワー直通の
転移の巻物をご利用ください。
私が作りましたので、安全は保証します。」
サムエルは凍てつく声で続ける。
「帰れ!!この人喰い鬼が!!」
と言いながら
箒でザラストルをバシバシぶっ叩いた。
「ぶ、無礼な!」
と言いかけていたが
サムエルの冷たく睨む瞳を改めて認めると
スッと言葉を引っ込めた。
大人しく転移の巻物を
作動し始める決意をした様だ。
「ザ、ザラストル・・・様!」
ユーリの手元にザラストル様の足元が現れたので
そのズボンの裾を引っ張り
声をかけた。
ザラストルは何も言わなかったが
しばし動きを止めた。
「先ほどは私も弱気なことを言いましたし
悩みがすごく多いのも事実ですけれども」
側から見たらユーリは
譫言を言っているように
見えているであろう。
現にその場の全員は
不思議そうな顔でユーリを見ていた。
しかしながら
ザラストルのあの問に答えることが
ユーリには大切なことの様に思えた。
「サムエルと、皆と、作る
小羽屋が好きです。」
ユーリはここまで言うと
裾を掴んでいられなくなった。
ザラストルの方は
転移の巻物を見つめているが
それを発動させる気配が無い。
・・・
しばし、全員が無言になる。
ザラストル様は何も言わない。
巻物を読んでいるようにも見える。
少々の時間をおくと
ザラストル様はユーリの方を少々見やる。
ユーリもザラストル様を見返すが
顔についたハチの引っ掻き傷は
相変わらず痛々しいのだが
それ以上に気になったのは
先程まであれほど優しげであった眼差しは
見る影もなく。
靴は真一文字に結ばれている。
何も掴めない、無機質な表情になっていた。
そして一言、言い放つ。
「それは、何より。」
サムエルの方にも向いて、また一言。
「では失礼する。」
ザラストル様は転移の巻物を発動させると
セントラルタワーへと戻っていった。