72 拗らせ男
「わたくしが! あなたを好きだからよ!」
ラマディエール王国の王宮にある応接室の中、聖女フィルシェリーとラファエル王太子の見ている中、アンジェリーナはニコラスに向かって叫んでいた。
叫んだ内容に、聖女フィルシェリーは好奇心を隠せない表情で活き活き艶々しているし、ラファエルは興味深そうな顔でニコラスを見ている。
しかし、当のニコラスだけは、硬い表情のままため息をつくと、床を見た。
「政略的な婚約だったろうに、何してるんだよ」
「し、仕方ないじゃない」
「今からでも遅くない、解消はなかったことにしてこいよ。ラインハルトならなんとかするだろう」
「だめよ!」
アンジェリーナはすぐにその案を排除した。
アンジェリーナは、ラインハルト第二王子と別れた上でここにいるのだ。ニコラスに振られたとしても、ラインハルト第二王子とよりを戻すことはない。そんな失礼なことを彼にするなんて、アンジェリーナは考えられなかった。
「それはだめ」
「リーナ、いい加減に」
「わたくしが、人生をかけて決めたことなの。ラインハルト殿下の気持ちも分かった上で、ちゃんと二人で決めてお別れしたのよ」
「……なんでそんな、馬鹿なことを」
「馬鹿なことじゃあないわ! だって、ニックが言ったんじゃない!」
怪訝な顔をするニコラスに、アンジェリーナは言い募る。
「わたくし、最高に格好良い侯爵令嬢なんだもの! ニックが、そう言ったんでしょう!?」
「言ったけど、それとこれとは関係ないだろ」
「あるわ! 大アリよ。わたくしはね、侯爵令嬢だったの。そして今は、最高に格好良い侯爵よ! 最高に格好良い侯爵はね、大事なことを人任せにしないのよ。誰が大切で、大好きな人なのかは、わたくしがわたくしの心で決めるの!」
反応の鈍いニコラスに、アンジェリーナはめげそうになる心を必死に奮い立たせる。
分かってはいるのだ。
ニコラスの気持ちは、アンジェリーナにはない。
もし本当にアンジェリーナのことが好きなら、帰国の前に少しくらい何か言うはずだ。
それに、ニコラスが帰国するまでの間、アンジェリーナは、聖女フィルシェリーの顔を見て安心した笑顔を見せるニコラスを何度も見てきた。彼が心から気安い様子で彼女と話すことを、アンジェリーナは知っている。
それでも、アンジェリーナはここまで来た。
アンジェリーナは全てを覚悟した上で、この場に立っているのだ。
「わたくしは、ニックが好き! ……あ、あなたが、他の人を好きでも、いいの。わたくしが、あなたを好きなの! だって、仕方がないでしょう。あなたが格好良すぎるから! わ、わたくしのこと、あんなふうに素敵に助けて、全部解決しちゃうなんて……そんなの、好きにならない方がおかしいじゃない!」
「待てリーナ、落ち着け」
「無理よ! だって、ずっとずっと会いたかったのに、何よその態度! じ、自分は、なんでもありません、迷惑ですって顔をして、わ、わたくしのことなんて、好きじゃないのは……分かってるけど……」
ポロポロ涙が溢れて、アンジェリーナは下を向いた。
恥ずかしくて、とてもニコラスの方を見られなかった。
(ラインハルト殿下に、頑張ると誓って出てきたのに……、わ、わたくしはダメな子ですわ……)
不甲斐ない自分が、情けない。
けれども、アンジェリーナは、ニコラスを困らせてしまったことが悲しかった。
悲しくて、涙がなかなか止められない。
予定では、断られるにしても、「嬉しいけどごめんな」とか、「他に好きな女がいるんだ」とか、サクッとお断りの言葉を貰い、その後、「告白しにこんなところまでやってくるなんてやるじゃん」とか、最後の餞別に色々と褒めてもらうはずだったのだ。ニコラスは、アンジェリーナの頑張りを、いつだって誰よりも認めてくれる人だったから。
その彼が、こんなふうにアンジェリーナのしたことを、馬鹿なことだとけなして、未だなんのフォローもしてくれない。
相当迷惑がられているということだ。
嫌われて、しまった。
「……ごめん、なさい」
パタパタと床に涙をこぼしながら、アンジェリーナはなんとか声を出す。
「ニコラス卿が、嫌なことを、無理強いしたい訳じゃないんです。あなたが望まないなら、断っていいの。……なんて、もう断ってるも同然よね。ごめんなさい」
手も声も震えるけれども、ここは言い切らねばならない。
きっと、今日がニコラスと言葉を交わす最後の日だ。
彼の態度をみるに、彼はおそらく、心底アンジェリーナのことが嫌になってしまったのだろう。きっと今後、アンジェリーナに会いには来てくれることはない。ならばもう、他の国で暮らすアンジェリーナとニコラスの人生が交わることはない。
引き裂かれそうな胸の痛みに耐え、アンジェリーナは必死に声を絞り出す。
「でもね。お、お願いが、あるの。最後に一回だけ、『頑張ったな』って褒めてよ。そうしたら、わたくし、帰るわ。…………もう二度と、目の前に、現れないから……っ」
それだけ言うと、アンジェリーナはハンカチで目を覆った。
何しろ、涙が止まる気配が皆無なのだ。ラマディエール王国の王宮のフワフワ絨毯を汚したくないのに、次から次へと涙が溢れ落ちてくる。
そうして、しくしく泣きながらアンジェリーナはニコラスの言葉を待っていたけれども、何も起こらないので不思議に思って、真っ赤な目でようやくニコラスの方を見た。
「……」
ニコラスは、真っ赤な顔で、アンジェリーナを見つめたまま、口元を押さえて固まっていた。
その表情は、何故だかニコラスの方が辱められたのではないかと思うような、全力で照れながらこちらを非難するようなもので、アンジェリーナはポカンとする。聖女フィルシェリーも、ラファエル王太子も、唖然としている。
そうして三人がニコラスを見つめていると、ニコラスはそのまま視線を逸らして「見るな」と小さく呟いた。
けれども、アンジェリーナも聖女フィルシェリーもラファエル王太子も、驚きのあまり、ニコラスを見つめたままだった。
アンジェリーナは、泣いてぼんやりした頭で、必死に今の状況について考え、ハッとする。
「ニック、熱でもあるの?」
「ない」
「……でも、顔が赤いわ。きっと体調が」
アンジェリーナがニコラスの額に手を差し伸べると、ニコラスがビクリと体を震わせて、その手を避けた。
アンジェリーナは、しまったと思うと同時に、思わずポロリと涙をこぼした。
そして、何故かニコラスが取り乱した。
「……っ! リーナ、違う」
「ごめんなさい……」
「違う……ち、違わない、けど、違う……いや、俺は」
アンジェリーナが身を引くと、ニコラスが今まで見たことがないくらい不安そうな様子でアンジェリーナに手を伸ばし、すぐにその手を引っ込めた。
「……リーナ」
「……はい」
「俺は、貴族と結婚するつもりは、ない」
「……は、い」
「それに、リーナのことだって、別になんとも思ってない」
「……はい……」
「……二度と、目の前に現れないのか」
「……?」
泣きながらアンジェリーナが顔を上げると、そこには捨てられた子犬のような顔をしたニコラスが彼女を見つめていた。
アンジェリーナは、混乱した。
捨てられたのは、アンジェリーナのはずだ。今まさにフラれている最中で、相手は他でもないニコラスである。なのにこれは一体、どういうことなのだ。
「……ニックはもしかして、わたくしのことが本当はメロメロ大好き? ……なーんて」
最後まで言うことはできなかった。
見る間にニコラスの顔が赤くなって、紫色の瞳にじわりと涙が浮かんでくる。彼が余りにも悔しそうな顔をしているから、アンジェリーナは口を開けて、呆然とすることしかできない。
「この男たらし」
それだけ呟くように言うと、ニコラスは扉から出て行った。彼は耳まで赤くなっていて、後ろから見てもそれは丸分かりであった。
残された三人は、しばし動けなかった。
「あいつ、色々と平気そうな顔をしてたけど、しっかり拗らせてたんだな」
ラファエル王太子の呟きがアンジェリーナの耳に届いたけれども、頭の中には入ってこなかった。




