43 血の証
「テレーザ」
テレーザは、自分を呼ぶその声がとても好きだった。
いつだって、テレーザのことをそう呼ぶ声は優しい。
テレーザが8歳の時に病で亡くなったお母様。
お母様が亡くなってからずっと、男で一人で――使用人達はいたけれども――テレーザを含む子ども達を育ててくれた、お父様。
それに、王宮のお茶会で出会ったお友達。
従兄弟のラインハルト第二王子の婚約者である彼女は、いつだってテレーザを見ると、嬉しそうに微笑んで、声をかけてくれる。
テレーザは幸せだった。
テレーザが15歳になり、学園に入学して間もなかったあの日、お父様がお兄様と話をしているところを見てしまうまでは。
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あの日は、お父様が、長兄のティモンお兄様だけを執務室に呼び出した。
お父様が、子ども達全員に対してではなく、お兄様一人だけを呼び出すのは珍しい。
それだけでなく、お父様は、廊下を一人で歩いているティモンお兄様に、こっそり声をかけて、執務室に連れて行ったのだ。
ちょうど部屋から出ようとしていたテレーザだけが、そのときの二人の密会に気がついた。
ちょっとしたいたずら心だったのだ。
お父様の執務室の真上の部屋から床下に入り、天上裏からこっそり覗き見をした。
あとでお兄様に、話を聞いていたと、そう告げて、叱られるつもりだったのだ。
「――王家の秘宝」
テレーザは、聞こえてきた声に、ビクリと体を震わせる。
「そうだ、ティモン。これが、王家の秘宝の場所を指し示す地図だ」
すぐに、これは聞いてはいけない話だと、テレーザは気がついた。
しかし、動くことができない。
聞いてはいけないのに、惹かれるままに、その場にうずくまってしまう。
「ほんの少しでいい。血を空気に触れさせるんだ。そして、呪文を唱える。そうすると、このように地図が現れる」
「わ、私の血も……?」
「いや。これは、ライトフット国王と、その2親等以内の親族に与えられるものだ。甥のお前は3親等の親族だから無理だろう」
「……やってみます」
テレーザは、昔作った覗き穴から、室内の様子を覗き見る。
すると、ティモンお兄様が、指の腹をナイフで薄く切り、そこから出た血に向かって、『時の流れに打ち勝つもの、継がれしものを映せ』と唱えている姿が見えた。しかし、特に何も起こらない。
残念そうな様子のティモンお兄様に、お父様は失笑する。
「やたらと地図が広まっても困る。地図のために、お前が誘拐でもされても堪らないしな」
「父様。私は誘拐されるほどやわではありません」
「それもそうか」
お父様は、笑いながら、小さな小瓶を差し出した。
本当に小さな、親指サイズの小瓶だ。
その中に、赤黒い液体がほんの少し入っている。
「これは、私の血だ」
「……父様、それは」
「この瓶を持って、呪文を唱えてみろ」
青い顔をしたお兄様が、小瓶を手に、再度呪文を唱える。
すると、小瓶が金色に光り輝き、その真上に羊皮紙の映像が映し出された。金色の羽ペンの幻が、羊皮紙の上に地図を書き表していく。
「これをティモン、お前に預ける」
「で、ですが、それは」
「あくまでも保険だ。だが、今の国王は……兄さんは、危うい。何をしでかすか分からない、無茶なところが目立つ。抑止力が欲しい」
「抑止力……ですか」
「そうだ。我が国の強みと王族の後ろ盾は、王家の秘宝の存在だ。そして、その在処を示す地図」
そう言いながら、お父様は、息子の手にある小瓶を見つめる。
「その地図は、兄さんが国王である限り使うことができる。代替わりするまでのお守りにすぎないが、私に何かあった時にはティモン、頼むぞ」
「父様! 父様に何かだなんて……」
「もちろん用心はするが。今の兄さんに苦言を呈することができるのは、私くらいだ。何があるか分からない」
「父様。そんなに状況は悪いのですか」
「……いや、念のためだよ。用心は必要だろう」
そう言うと、お父様はティモンお兄様の頭を撫でた。
「ティモン。私はお前を信用している」
「……父様」
「親の欲目もあるだろうが……お前は真面目だし、誠実に生きたいと願っているいい子に育った。そしてそれだけでは、この小瓶は渡せない。分かるか」
「はい」
「正義を貫くだけでは駄目なのだ。己の正義に従うということは、実のところ簡単で楽なことだ。けれども、人はみな、それぞれに己の正義を持っていて、それが全て合致するとは限らない。我々統治者は、それを理解した上で、何を選び取るのか決断しなくてはならない」
「……決断」
「そうだ。そしてそのためには、世を生きるため、みなの幸せのために、場の最善を考えることができる柔軟さが何よりも必要だ。そしてその素養が、お前にはあると思っている。……受け取ってくれるな?」
お父様のまっすぐな期待を、ティモンお兄様は受け取った。少しの間、逡巡していたものの、最後にはしっかりと頷いて、小瓶を握りしめた。
「父様の期待を裏切らないと誓います」
「うん。……お前が第一王子であればと、いつもため息が止まらないよ」
「父様、それは流石に親の欲目です」
「今の第一王子。あれはだめだ」
「……父様」
「兄さんよりはまともだが、支える周りの苦労は絶えないだろう。いや、ある意味いい王になるのかもしれないが……。お前には沢山のものを背負わせてしまって申し訳ない」
「……第二王子はまともではありませんか。ラインハルトはいいやつですよ」
「そうだったな。そういえば、お前達は仲が良かったんだったな」
「ラインハルトだけは、うちによく遊びに来ますからね。気取らないし、自分をよく知っている。――あれは良い施政者になりますよ」
「……そうだな。あれが第一王子であればよかったんだが」
深いため息をついたお父様に、ティモンお兄様は失笑する。
そんな様子を見だ後、テレーザはそっと天井裏から離れた。
……大変なことを聞いてしまった。
心臓が早鐘のように打っているのに、手が冷えていく。
テレーザは、その背徳感と罪の意識で焦りながらも、埃をはたいて床下への扉を元に戻し、早足で自室へと戻った。
なんとなくソワソワして落ち着かず、部屋を見渡していると、ふと、手紙を開けるためのペーパーナイフが目に入る。
ペーパーナイフは、刃先を研がれてはいないけれども、少し血を出すくらいの傷を作るだけなら……。
テレーザは、震える手で、そのナイフを手に取り、きっさきで指を傷つけてほんの少し血を出すことに成功した。
出来心だったのだ。
だって、ティモンお兄様だってやっていた。
ほんの少し試したくなっただけ。
「『時の流れに打ち勝つもの、継がれしものを映せ』」
傷口が、ふわりと金色の光を放った。
ところどころ虹色に光る羊皮紙の映像が現れて、金色の羽ペンが地図を描いていく――。
「やめて!」
テレーザが叫ぶと、その羊皮紙はくるりと巻物のように丸まり、テレーザの傷口の光にとぷんと吸い込まれ、光自体も収束した。
後に残されたのは、自室の机の前の椅子に座った、呆然としたテレーザだけだった。
「ど、どうして……」
――これは、ライトフット国王と、その2親等以内の親族に与えられるものだ。甥のお前は3親等の親族だから無理だろう。
お父様の言葉が、脳裏を駆け巡る。
実際に、長兄のティモンお兄様の血からは、地図は現れなかった。
けれども、テレーザの血からは。
「私……お父様の子ではないの……?」
テレーザは、お父様の子どもではない。
それだけではなく、本当の父親は……。
『テレーザ』
テレーザをそう呼ぶ、記憶の中の優しい母の声が、今は鋭い刃物のようにテレーザの心に突き刺さった。




