35 留学の理由(前編)
「ライトフットにも行ってみないか」
ニコラスがそう声をかけられたのは、自国、ラマディエール王国でのことだ。時期は、今から半年ほど前。ニコラスが、ラマディエール王国にあるセイントルキア学園において、三年生となった年の夏頃だった。
話を持ちかけてきたのは、ラマディエール王国第一王子であり、一つ年下の従兄弟でもあるラファエルだ。
ニコラスは当初、この従兄弟が、さほど好きではなかった。
なにしろ、同じような顔をして、同年代で生まれたにも関わらず、あまりにも生きる環境が違いすぎたから。
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ニコラスの父ナサニエルと、この従兄弟の父――ラマディエール国王リチャードは兄弟だ。しかし、その人となりは大きく異なる。
ラマディエール国王リチャードは幼い頃から優秀で、国王となってからも人徳者として名高い。
そしてその陰で、その弟であるニコラスの父ナサニエルは、鬱屈としたものを抱えていたのだ。
ラマディエールの王家の色は、明るい金髪に深緑の瞳だ。
兄リチャードが当然のように王家の色を継いだというのに、弟ナサニエルは黒髪に紫色の瞳だった。
兄リチャードが、セイントルキア学園で常に成績トップを維持していたにも関わらず、弟ナサニエルの成績は上の下程度だった。
全てにおいて、兄を上回ることができず、比較される日々。それはナサニエルの自尊心を砕き、両親の優しい言葉は、ナサニエルの心には響かなかった。
そんなある日、ナサニエルの人生を大きく変える者が現れた。
ニコラスの母、ニーナだ。
彼女は伯爵家の二女で、ナサニエルとはセイントルキア学園における同級生だった。
ニーナは研究気質で、将来は結婚せずに研究者になるのだと息巻いていた。そして、自分の内に引き篭もっていたナサニエルに、自分の研究を手伝わせていた。
「何故私がこんなことを!」
「サニーは暇してるじゃない」
「暇じゃない! 今だって勉強を……」
「頼りにしてるんだよー。サニーが手伝ってくれると進みが早くて助かるんだぁ」
「……! そ、そんな、ことは……」
「いつもありがとう〜」
ちょっとしたことですぐに照れるナサニエルに、ニーナは生来の人懐こさで、あっという間に距離を縮めた。
ニーナにとって友達は沢山いたが、ナサニエルの友達はニーナだけだった。
「ニーナは、なんで私に構う」
「え?」
「兄上に取り次いで欲しいのか」
「なんでお兄さん?」
首を傾げるニーナに、ナサニエルはもどかしそうにする。
「だ、だから。私に近づく価値など、父上や兄上との繋がりくらいしか……」
「別にいらないよ。私がサニーと一緒にいるのは、サニーと一緒にいると楽だからだもの」
固まるナサニエルに、ニーナは羊皮紙に魔法陣を転写しながらも話を続ける。
「サニーは私が好きなことしてても、暇そうに手伝ってくれるじゃない」
「暇じゃない!」
「じゃあ敢えて手伝ってくれてたんだ。もっと嬉しいなぁ」
「……!?」
悪戯めいた瞳で見てくるニーナに、ナサニエルは体中の血が沸騰しそうになる。
「サニーはなんだかんだ言いながら、私の趣味につきあってくれるじゃない。そんな人、あんまりいないよ」
「少しはいるのか」
「そりゃあね。でも、こうしてほとんど毎日付き合ってくれて、それが嫌じゃないのはサニーくらいかな」
そう言って、魔法陣を完成させたニーナは、その魔法陣に力を込める。
発動した魔法陣の上には、美しい紙に包まれ、リボンで装飾された箱が現れた。
「転送魔法?」
「うん。片割れの魔法陣は家に用意してたんだ。はい、これあげる」
その箱を受け取ると、ニーナは嬉しそうに笑った。
「誕生日おめでとう」
プレゼントを受け取ったナサニエルは、お礼を言うどころか、顔を真っ赤にして震えることしかできなかった。
そんなこんなでナサニエルはあっという間にニーナに落ちた。
そしてある日、ニーナはナサニエルを、いつも研究に使っている空き教室に呼び出した。
「ナサニエル卿。そこに座りなさい」
「……」
近くの席に座り、向かい合った状態で、ニーナは話を切り出す。
「私の家に、婚約の打診がありました」
「そうか」
「王家からだそうです」
「そうか」
「相手はナサニエルっていう名前の第二王子なんだけど」
「そうか」
「申し開きはある?」
半目になっているニーナに、ナサニエルは考えていた言い訳を披露する。
「ニーナは研究を続けたいと言っていた」
「そうね」
「でも、婚約の打診が多くて、卒業後にはどこかに嫁がされてしまいそうだと」
「そうね」
「ニーナは、卒業したら研究者になりたいんだろう」
「そうね」
「だから、私が隠れ蓑になる」
「……んん?」
眉根をよせるニーナに、ナサニエルは自分膝の上に置いた手を、それぞれギュッと握り込む。
「私と結婚すればいい。そうしたら、研究を続けられる」
「サニーは第二王子だから、将来王弟として、公爵を賜るでしょう? 公爵夫人としての仕事は?」
「しなくていい」
「……形だけの結婚なの?」
「そうだ。ニーナは、結婚するつもりはないって言っていたから」
「一年生の頃にね」
「でも、今も気持ちは変わっていないだろう?」
「……」
二人は、お互いにお互いを真っ直ぐに見つめあう。
そうして、ニーナが口を開いた。
「悪いけど、お断りします」
ナサニエルは、目の前が真っ暗になった。
手が震える。やはり自分では、だめだったのか。ニーナにとっては、ナサニエルと結婚するより、夢を諦めて、他の男と結婚する方が、マシ、で……。
「サニーはちゃんと好きな人と結婚するべきだよ」
その言葉に、ナサニエルの意識が一気に浮上する。
「私は別いい!」
「よくないよ。私がよくない」
「私だって、結婚するつもりはなかった」
「それなら、もっとよくないじゃない。我慢しないでよ」
「我慢じゃない」
「私は我慢することになっちゃう」
そう言われてしまうと、ナサニエルは動けない。
そんなナサニエルに、それまで真剣な顔をしていたニーナは、くしゃりと顔を歪めた。
初めて、ナサニエルの前で、悲しそうな顔をした。
「だって、サニーがこれからもずっと一緒にいてくれるんだよ? サニーが形だけの結婚で満足してる横で、私ばっかり好きになっちゃって、そんな辛い結婚生活やだよ……」
ポロリと涙をこぼして俯くニーナに、ナサニエルは慌てふためいた。
本当は好きだっただの、他の男に渡したくなかっただの、必死に言い募り、ようやくニーナが笑ってくれたときは、ナサニエルは天にも昇る心地だった。
そうして二人は、卒業後に結婚した。
結婚と同時に、ナサニエルは公爵の地位を賜り、ニューウェル公爵となる。
そして、ニーナは第一子であるニコラスを授かり、その出産時に、命を落とした。
ナサニエルは、ニコラスを憎んだ。
自分の兄にそっくりな顔。自分と同じ、黒髪に紫の瞳。ニーナを思わせるものを何一つ受け継がず、ニーナから命を奪った、自分の罪だけを突きつける存在。
ナサニエルはニコラスを視界から遠ざけた。
そして、公爵夫人の地位が目当ての後妻を娶り、初夜でたった一度だけ体を重ねた後妻は、娘を一人産んだ。そのナサニエルとは似てもにつかぬ娘に、ナサニエルは安心した。
王家の影が、娘はナサニエルの子ではないと密告してきたけれども、ナサニエルはそれで構わなかった。
ニーナを早死にさせた自分など、どうなってもよかった。
だから、ニコラスはずっと一人だった。




