29 火薬庫の王国
卒業パーティーの当日。
第二王子であるラインハルトは、パーティーに参加するため、礼服に身を包み、身支度をしていた。
婚約者のアンジェリーナが王宮に呼び出された一週間前のあの日から、アンジェリーナは姿を消した。
国王である父も近衛兵達も暗部も必死に彼女を探していたが、見つからなかったのだ。
残されたのは、ラインハルトの部屋のソファを汚した血痕と、引きちぎられたシーツの切れ端のみ。
「侵入者を逃したとき、手応えがありました。この出血、もはや生きてはいないでしょう」
そう言ったのは、父の近衛隊長をしているマックス=マクファーレン――マルセルの父だった。
しかし、アンジェリーナだけでなく、侵入者の死体も見つからなかった。
その結果に、国王である父は激怒していた。
「建国以来、先祖代々引き継いできた伝説がこの手に入りそうだというのに……何をしているのだ!」
そうして、父はラインハルトに命じた。
――今までどおりにしろ、と。
アンジェリーナがいる一ヶ月前に時を戻すため――今回も《時戻り》の魔法がつつがなく起動するように、予定どおりの行動を取れと、息子に命じたのだ。
自室の姿見で、ラインハルトは自分の姿を見る。
整えられたハニーブロンドの髪に、透けるような淡い水色の瞳。そして、一週間前に殴られて青く腫れていた頬は、化粧で何事もなかったかのような肌色に整えられていた。
この世界で治癒魔法を使えるのは、先だって現れたという、隣国――ラマディエール王国にいる聖女のみ。
この国では傷を魔法で癒すことはできないので、このように隠すしかなかったのだ。
顔の怪我は、一週間前、国王である父の指示によって体罰を受けたことによるものだ。
アンジェリーナに無礼を働いた罰。
卒業パーティーで婚約破棄を行った罰。
そしてなにより――王家の秘宝に関しての情報を流した疑いによる尋問。
今のラインハルトには、顔だけではなく、服で見えないところにも打ち身が多数あり、手当はしたものの、歩くと鈍い痛みが全身に走る。
しかし、彼にとってそんな痛みはどうでもよかった。
(何もできなかった)
一週間前のあの時、ラインハルトの手には多くの情報があった。
アンジェリーナが中心となり、時を何度も遡っていること。
おそらくそれは、王家の秘宝による魔術であること。
マリアンヌは魔女であり、ラインハルトに魅了魔術の効果を持つ甘味を与えていること。
そして、最初の甘味は、マリアンヌ自身ではなく、ラインハルトが信頼しているある人物が出したお茶に混ぜ込まれていたこと。
そう、ラインハルトは、自分の仲間内に裏切り者がいることを知っていたのだ。
しかし、その情報のどれもが、国王の蛮行を止める材料にならないものだった。
だからラインハルトは、何も知らないフリをして黙っていることしかできなかったのだ。
そのことが、彼の心に重くのしかかる。
ラインハルトは王族として、毒味の指輪を持たされている。
それを常時使用するのは当然だが、それだけではなく、信頼できる相手の用意した食物以外は口にしないよう教育されてきた。もちろん、時と場合にもよる。お忍び中の屋台など、逆に不特定多数が食べると分かっているものなどは口にすることもあるが、プリムローズ学園の中で、見知らぬ者がラインハルトのために作ったものを口にするほど、彼は愚かではない。
お茶を口にし、魅力魔法が発動したとき。
その時点で、ラインハルトには、お茶を出してきた目の前の人物が裏切り者であることが分かった。
しかし、もはやラインハルトにそれを摘発する自由はなかった。既に魔女の操り人形となっていた彼は、ただ漫然と過ごし、他に被害が出ないよう、物言わず立ち回ることしかできなかったのである。
(アンジェリーナ、すまない……)
ラインハルトの婚約者は、利発で少しお調子者なところがある、本当に可愛い令嬢だった。
ホワイトブロンドに碧眼という美女の代名詞ともいえる色味もさることながら、華やかで吊り目がちな顔も、普段の冷たい表情も、身内にだけ見せるあどけない笑顔も、ラインハルトは好ましく思っていた。
アンジェリーナは彼のことを友人のように思っているようだったけれども、ラインハルトは違う。
そして、ラインハルトは、恋をしたことがない彼女を待つつもりだったのだ。
いつか自分のことを意識してくれる日が来ると思い、自分の中に既に芽生えていた気持ちを、アンジェリーナに見せることはなかった。
その矢先の魅力魔法である。
ラインハルトは悔しさと申し訳なさで一杯だった。
アンジェリーナはラインハルトのことを友人としてしかみていない。それでも、ラインハルトの裏切りが彼女を傷つけていることは手に取るように分かった。
ラインハルトはなんとしても、この魅了魔法を解除したかった。
それとなく魔法検査を受けたり、王宮の魔術師に似たような魔術について質問してみたり、できうる限りのことはしてきた。
しかし、あらゆる魔法検査、魔術診断に、ラインハルトの体が反応することはなかった。
ここでようやく、ラインハルトは、マリアンヌが通常の魔法使いなどに収まる存在ではないことに気がつく。
マリアンヌは、魔女。
それはすなわち、己の国にマリアンヌに対抗できる存在がいないということであり――ラインハルトは、諦めたのだ。
ラインハルトのいるライトフット王国には、優秀な魔術師が殆どいない。
王家の秘宝を隠し通すため、魔法や魔術に関する知識を国民から遠ざけてきたからだ。
もちろん、王家の秘宝を探すための人員くらいは確保している。しかし、彼らは秘宝探しに特化した研究者であり、その能力に汎用性はない。
現に、50年前に呪いの魔道具が暴走したときも、80年前に感染系の呪術が現れたときも、我が国はすぐには対応することができなかった。金と政治の力で、なんとか隣国から救援を送ってもらい、事態を収束することができたが、国に大きな傷を残した。
このように魔法に関する力が弱い我が国が独立国でいられるのは、偏に王家の秘宝のためである。
近隣諸国の上層部は知っているのだ――歴代の王族があえて情報を流している――我が国に、他の国では類を見ない力を秘めた魔道具が眠っているということを。
その内容は、国王のみに口伝されるものであり、王族以外は使いこなすことができないものであるということを。
だから、我が国は平穏でいられる。
我が国は近隣諸国の中で、火薬庫のような扱いを受けているのだ。
仮に我が国に攻め入るものがあれば、他の国が黙っていない。最初に攻め入った国は他国軍に一斉に攻められることとなるし、我が国は我先にと押し入ってきた各国によって滅ぼされるだろう。そして王族は、王家の秘宝を扱う贄として飼われるだろうと予想される。しかし、最初に攻め入る国がなければ、そのような事態は起こらない。
我が国は、このいつまで続くか分からない危うい綱渡りを続けてきたのである。
婚約者にすぎないアンジェリーナには、ある程度の知識は与えられているものの、ここまで我が国が逼迫していることまでは教えこまれていない。
王族があえて、他国にまで情報を流していることを、知らされていない。
だから、分かっていないのだ。
このような魔法防衛力の低い我が国で、魔女に毒された第二王子が現れたらどうなるか。
当然、トカゲの尻尾切りである。
ラインハルトがこの国の唯一の王子であれば、他国の力を借りてでも、マリアンヌを排除しただろう。しかし、ラインハルトは所詮、第二王子に過ぎないのだ。
ラインハルトにできることは、もはや、アンジェリーナや未来の王族の迷惑にならないよう、つづがなく廃嫡され、マリアンヌを王族に近寄らせないことぐらいだった。
だから、アンジェリーナに冷たくした。
横暴な態度をとったし、公共の場であからさまにしなだれかかってくるマリアンヌを拒絶しなかった。
そして何より、卒業パーティーで、アンジェリーナに対して婚約破棄を宣言するつもりだった。
例え王族といえども、そこまですれば、誰の目にも明らかな形でラインハルトは廃嫡されるだろう。
アンジェリーナに瑕疵がないことは、その場にいるものが保証するに違いない。
そう思っていた。
だというのに――。
「婚約破棄宣言の後、衛兵達は殿下の命令に従ってリーナを拘束しようとしてたな」
黒髪の留学生の語った未来は、ラインハルトを打ちのめすものだった。
ラインハルトがどんなに暴挙に出たとしても、衛兵達は彼の言葉に従ってしまうらしい。
既に起こった未来の卒業パーティーでは、衛兵に連れていかれそうなアンジェリーナを見て痺れを切らしたラインハルトが、彼女に切りかかったのだという。
けれども、黒髪の留学生以外、アンジェリーナを庇う者は一人もいなかったのだそうだ。
(……私は、どうすれば)
卒業し、アンジェリーナとの婚約をそれとなく解消するだけでは、ラインハルトの傍にマリアンヌが残ってしまう。
マリアンヌを遠ざけ、アンジェリーナの瑕疵とならないよう、そして何より、第二王子派閥を作るような隙を与えないように、ラインハルトは誰の目にも明らかな形で没落しなければならないのだ。
だというのに、婚約者の侯爵令嬢に剣を振り上げても、ことは上手く運ばないらしい。
絶望で青くなったラインハルトに、黒髪の留学生はクハッと笑った。
「それだけあんたは周りに大事にされるってことだよ、王子様」
そう言って、彼は事態の解決に向けて、様々なことを口にした。
マリアンヌの目的。
彼女のアキレス腱となる人物について。
王家の秘宝と、時戻りの魔術の存在。
ラインハルトにかけられた魅了魔法を見抜き、話ができる境界を測りながら、情報をきっちり拾っていく。
その絶妙な距離感と安心感に、ラインハルトは久しぶりに気持ちの糸が緩むようだった。
その場にいるアンジェリーナがすっかり緩んだ態度になっているのも分かる。
この不思議な男は、闇魔法がどうとかいうだけでなく、人たらしの才があるらしい。
黒髪の留学生が気にしている『マリアンヌの言うあの子』とやらは、おそらくラインハルトに飴玉を溶かしたお茶を飲ませた人物のことだろう。
その人物についても、黒髪の留学生はラインハルトから難なくヒントをもぎ取っていた――アンジェリーナは「え? え??」と首を傾げていたが。
「うん、色々分かった。今回のループでは難しそうだが、次かその次くらいで片はつくだろう」
「え!? そんなに早くですの?」
「まーな。リーナだって、なんとなく概要は掴めただろう?」
「えっ!? そ、そうですわね、そんな気もしますわ!」
「……」
「…………教えてくださいまし……」
項垂れるアンジェリーナ。
そんな彼女を見て、ラインハルトは声を出して笑った。
涙が出るほど、お腹を抱えて笑った。
こんなに気持ちが軽くなったのは、いつぶりだっただろうか。
そんなラインハルトを見て、アンジェリーナは目を丸くし、黒髪の留学生はクハッと笑った。
「まあだからさ、今回は多分、我慢の回になるけども」
「?」
「俺とリーナは、今あんたと話したことを、次のループでも覚えてる。あんたが卒業パーティーでしたことは暴挙だったが……まあだからこそ俺達も違和感に気づいた訳だし、あんたがやったことは、なんだかんだ次に繋がってるよ」
「……」
「だからさ。リーナを信じて待ってな」
そう言って、黒髪の留学生は、アンジェリーナと共に去っていった。
最後に「じゃあな、ラインハルト」とラインハルトを呼び捨てにしていったその男は、この一週間、アンジェリーナと同様に、学園に登校していない。
(おそらく、一週間前、王宮にアンジェリーナを助けにきたのが彼だった……)
そうなると、ラインハルトの部屋に残された血痕は、彼のものである可能性が高い。
アンジェリーナはいない。
黒髪の留学生も消えた。
残ったのは、何もできない、無力なラインハルトだけだ。
(もはやどうすればこの事態を解決できるのか、私には分からない……)
けれども、ラインハルトはまだ折れていなかった。
ラインハルトに希望を与えた二人は、きっとまだ諦めていない。今回がだめでも、次に繋げるため、今も足掻いているはず。
ならば、ラインハルトは、彼らに言われた言葉を守らなければならない。
――リーナを信じて待ってな。
その言葉を胸の内で握りしめて、ラインハルトは卒業パーティーの会場へ向かった。