1 はじまりの婚約破棄
「お前との婚約は破棄する! そして私はこの場をもって、心優しいマリアンヌと婚約する!」
侯爵令嬢であるアンジェリーナに向かってそう叫んだのは、婚約者のラインハルト第二王子。
今日はプリムローズ学園の卒業パーティーだ。
第二王子の婚約者はアンジェリーナのはず。
なのに、アンジェリーナは今日、この卒業パーティーに、一人でやってきた。
第二王子がアンジェリーナを誘わなかったからだ。
そして、第二王子の隣にいるのは、下級貴族である男爵令嬢のマリアンヌ。
彼女は娼婦のように、第二王子の右腕に絡みついてしなだれかかっている。
「ハルト様ぁ、守ってくれるなんて嬉しいですぅ。でもぉ、ここまでしなくてもぉ……」
「マリア、これは当然のことだ。悪を正すのは、王族の務めだ!」
8歳の時から婚約者だった、同い年の彼。
婚約したての頃は、彼はこんなふうではなかった。
『一緒に国のために、兄様の役に立てるように頑張ろうね』
そう王太子様のために頑張ろうと言っていたときの面影はもはやない。
第二王子はアンジェリーナを、その深い青色の瞳で見ていた。
それはまるで、愚かな獲物を見るような、蔑んだような視線で。
「……それは、国王陛下の許可を得た上での発言ですの?」
そんな中、アンジェリーナがなんとか絞り出した言葉は、そんな力無い言葉だった。
アンジェリーナは正直、ひどく傷ついていた。
第二王子とアンジェリーナの仲は、実際のところ、恋仲というには程遠かったと思う。
だけど、そこそこ仲は良かった。
王子とその婚約者として、王族としての教育を共に受けてきた。
辛いことの方が多かったけれども、戦友のようにアンジェリーナは思っていたのだ。
だから、こんな形で裏切られるなんて、ことこの場に至るまで信じられなかった。
学園に入学してからこの3年間、だんだん酷くなる彼の裏切りを見ていたけれども、まだ信じていた。
(わたくしは、大馬鹿ですわ……)
「婚約解消ならば国王陛下の事前承認も必要となろうが、今回は違う。お前の行動、人間性が王族にふさわしくないことが理由での婚約破棄だ! 陛下へは事後報告で十分だ」
「ハルト様、カッコいいですぅ……! で、ですがその……」
意外なことに、男爵令嬢のマリアンヌはこの事態に反対しているようだ。
主導しているのはラインハルト第二王子らしい。
アンジェリーナは胸の奥が痛むのを感じながらも、手を固く握りしめて自分を奮い立たせる。
「ラインハルト殿下は、わたくしの何をもってそのように判断されたのでしょう?」
「お前は何度も、私やマリアに嫌味ばかり言っていたではないか! 彼女の私物の破損などの嫌がらせについても、証人が複数いる!」
「わたくしは嫌味を言ったことなどございません。お二人の関係性やマナーについてお諌めしたことはありますが」
「そういう上から目線での発言が嫌味だというのだ!」
「私物の破損などの嫌がらせをしたことも一切ございません。証人とは、どなたのことでしょうか」
「またあからさまな嘘を並べたてて! 生意気な女だ……ユリウス!」
「はい」
呼ばれたのは、第二王子と男爵令嬢の後ろに立っていた男性陣だ。彼らは、学園に入学してから第二王子にまとわりつくようになった下級貴族の令息達だ。何やら、第二王子の側近候補を自称していると聞く。
彼らはニヤニヤした顔つきでアンジェリーナを眺めながら、アンジェリーナが第二王子のお連れ様の私物をいつ壊したのか、どんな嫌がらせをしたのか、滔々と語り出した。
「殿下。このような虚言、話になりませんわ」
「証人がこれだけいるのに、しらばっくれようなどと無駄なことを」
「そう、沢山の証人の方々がいらっしゃるようですわね。彼らによると、わたくしは階段から彼女を突き落とそうとしたり、鞄を焼却炉で燃やした……でしたかしら」
「そうだ!」
「証人の皆様、本当にそうなのですか?」
「もちろんだ!」
「私達が嘘をついているというのか!」
やいのやいのと叫び出す彼らを、アンジェリーナは自慢の吊り目がちな瞳でひと睨みし、黙らせる。
心の底から冷たい怒りが湧いているので、これくらい簡単なことだ。
「では、あなた達証人のみなさまは、わたくしが彼女を害する姿を、見ているだけで一切止めなかった薄情な方々ということなのですね」
アンジェリーナの発言に、呆気に取られたように、取り巻き達が黙り込む。
そのひと時の沈黙の後、我に帰った彼らの罵詈雑言が始まり、逆に騒ぎが大きくなってしまった。
「なんて冷たい女なんだ、お前は」
もはや理屈になっていない言葉で、第二王子はアンジェリーナを責め立てる。
教師達は、まだこの会場に辿り着いていない。
第二王子が、大人のいない時間帯を見計らって、この茶番劇を始めたからだ。
いつもなら第二王子を諌めるために飛んでくる、クラスメートであり宰相の息子のカルロスは、今日は体調不良で休んでいる。
同じくクラスメートで、近衛騎士長の息子のマルセルは、殿下から少し離れた場所で狼狽えていた。
彼は難しいことを考えるのが苦手なのだ。
アンジェリーナが第二王子や男爵令嬢に嫌がらせをするとは思っていないだろうが、こういう場面では、宰相の息子のカルロスが指示を出さないと動けないでいることが多い。
クラスメートで、研究者を目指すオルトヴィーンは、群衆の中で気配を消していた。
彼は臆病なので、いざという時に隠れるという、そういう残念なところがある令息だった。
隣国から短期留学に来ていた公爵家の令息は、目を丸くしてこちらをみている。
それはそうだろう、王子が卒業パーティーの場で婚約破棄を宣言するなんて普通ではないことだ。王族の婚約のあり方を考えても、パーティーの趣旨を考えても、対外的な評判を考えても、王子の将来を考えても、通常あり得ない。
アンジェリーナの友人の令嬢たちは、第二王子の横暴に驚いて固まっていた。
令嬢は普通、こういった場ででしゃばってくるものではないので、今のところ止めに出てくるものはおらず、心配そうにこちらを見ている。
特に、気弱だけれども心優しいアンジェリーナの親友の公爵令嬢は、今にも気絶しそうなくらい青ざめていた。
「今日をもって、お前を国外追放とする! 衛兵、連れていけ!」
「で、殿下、しかし……」
「第二王子の命令だぞ、聞けないのか!」
「……」
卒業パーティーのために配置されていた衛兵達が、アンジェリーナの方に近寄ってくる。
彼らは拘束のために手を伸ばしてきたので、アンジェリーナはぴしゃりと言ってのけた。
「わたくしに触れることは赦しません!」
「で、ですが、御令嬢……」
「自分で参ります。抵抗しなければ良いのでしょう」
「……」
大人しく着いて行こうとするアンジェリーナに、第二王子の声がかかる。
「待て!」
「まだ何か?」
「大人しく連行されると言うことは、自分の罪を認めるということか」
「いいえ。ですが、衛兵まで持ち出されては、この場で抵抗するのは困難です。場合によっては、怪我人が出るでしょう。それを避けるために、まずは殿下の指示どおり、この場から退出いたしますわ」
アンジェリーナが第二王子に冷たい目を向けると、何故か第二王子は焦りを見せた。
「だめだ! だめだだめだ、それは許さない!」
「……殿下?」
「で、殿下、どうしたんですかぁ? 無理は良くないですぅ」
様子のおかしいラインハルト第二王子に、アンジェリーナだけでなく、男爵令嬢のマリアンヌも気遣いの声をかける。
けれども、第二王子には、アンジェリーナの声もマリアンヌの声も届いていないようだ。
「……罪人の証に、この場で耳を落としてからだ」
まさかの発言に、会場から悲鳴が上がる。
衛兵達ですら、第二王子の発言に狼狽えていた。
「殿下! 裁判なしにそのように処刑行為を行うなど許されません!」
「うるさい!! こいつが悪いのだ、私に歯向かうのか!」
目の血走った第二王子に、周囲は混乱するばかりだ。
そんな中、動いたのはやはり第二王子。
衛兵の一人が腰に携えていた剣を抜くと、アンジェリーナの方へ歩み寄ってきた。
「だめだ、だめだ、このまま行くのはだめだ」
「で、殿下、お待ちください……」
「殿下ぁ! だめですぅ、そんなことをしたら……!」
「このまま行くのは、だめ、なんだ」
それだけ言うと、第二王子は剣を振り上げた。
会場から、悲鳴が上がる。
アンジェリーナは、あまりの事態に、呆然としたまま動けずにいた。
(ここまでしなければならないほど、わたくしは殿下に憎まれていたの?)
(わたくしの知っていた殿下は……ラインハルト殿下は、もっと……)
衛兵の何人かが、この事態を止めようと、アンジェリーナのところに駆け寄ってくるのが見える。
けれども、この至近距離で剣を振り上げる第二王子に、間に合わない――。
「逃げろよ、ばか」
とっさに目をつむったアンジェリーナの耳元で聞こえたのは、そんな言葉だった。
あなたは――。
そう思ったとき、目の前に幾重にも重なった魔法陣が現れる。
その直後、アンジェリーナは意識を刈り取られてしまった。
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そして、目が覚めると、そこは1ヶ月前の自室のベッドの上。
これが侯爵令嬢アンジェリーナ=アンダーソンの、タイムリープ地獄の始まりである。
【獲得情報】
侯爵令嬢アンジェリーナは卒業パーティーの日、時戻りの魔法で1ヶ月前に戻った。