時間遡行は小人とともに。
結構長いです。
「ごめんなさ~い! 今日の最下位はうお座のあなたです! 慌てると取り返しのつかない失敗をするかもしれません。今日一日は時間に余裕を持って行動しましょう。うお座の皆さん、ラッキーアイテムは細長いものです」
朝の情報番組のアナウンサーが能天気な顔でそう言った。末元領平は食パンにジャムを塗りながら顔をしかめた。
「細長いものってなんだよ」
「領平はうお座だったっけ? よりによって今日最下位とはついてねぇな、お前」
領平の父親、治が作業服に着替えながら他人事のように笑った。
「世の中の十二人に一人はうお座なんだよ。それにこんなものなんの根拠もない出鱈目だ」
「それでも運が悪いことには変わりねぇだろ。十二分の一を引いたんだからよ。じゃあ俺は仕事行ってくるわ。今日も夕方、結衣の迎え頼むな」
そういうと治は、領平の前に座っている結衣を抱き上げた。結衣はパンを咥えたまま眠そうに目をシパシパさせている。結衣は五歳になる領平の妹だった。夜まで工場で働く治の代わりに毎日学校帰りに保育園へ迎えに行くのが領平の日課だ。
「わかってるよ。行ってらっしゃい、結衣」
結衣はゆっくりとした動作で手を振りながら「行ってきまーす」と答えた。
「お前も学校遅刻するなよ、今日は入学式なんだからよ」
四月八日、その日は県内の公立高校の入学式だった。そして領平は今日から県立生嶋高校の一年生だった。生嶋高校は特段偏差値が高いわけでも、部活動が強いわけでもなかったが、家から近く自転車で通える距離だったから教師に勧められるがまま受験した。
治たちが家を出ていくと同時にテレビから朝の八時を告げる音声が鳴った。領平は急いでパンを食べきり、どうせすぐ大きくなるからという理由で買ったサイズの合っていないブレザーにそでを通した。ネクタイを結ぶのに予想以上に手間取り、時間に追われながら自転車に飛び乗った。
「皆さんは、これからの高校生活において、多くの仲間たちと切磋琢磨しあいながら実りのある高校生活を送ることを……」
校長によるありがたい言葉を聞き流しながら、領平はすっかり上がってしまった息を整えることに集中していた。
「初日から遅刻とは肝が据わっているねぇ。領平」
隣を見ると阿天坊がにやにやしながらこっちを見ていた。領平は辺りを気にしながら小声で答えた。
「遅刻じゃない。三十秒前には到着していた」
「でも君は自分のクラスも知らないだろ?」
「お前は知っているのか?」
「当たり前だよ。正面玄関に貼ってあったけど、その様子じゃ走って体育館まで来たからきづかなかったんだろうな。ちなみに君のクラスも知ってるよ。八組だ。僕と一緒だな」
領平は露骨に嫌そうな顔をした。
「君は相変わらず負の感情を隠そうともしないな。僕と一緒だと不満かい? 小学校からの付き合いじゃないか」
その通りだった。阿天坊五樹のことは小学校のころから知っている。昔から阿天坊は学校である意味一番目立っていた。彼の特徴を一言で言うと、とにかく頭がいいに尽きる。授業中はいつもボーッとしながら黒板を眺めているのだが、中学で初めて受けた全国学力テストでは偏差値八十という規格外の数字をだして学校中の教師を驚かせた。中学に入っても彼の成績は落ちることを知らず、三年間学級委員長をやりながら中学三年での模試では日本最難関をうたわれている私立高校のA判定を楽々取り、今なぜか領平と同じ平凡な高校にいる。
「……。なぁ、阿天坊。前から聞きたかったんだがなんでお前はこんな高校に入学したんだ? お前の成績ならもっと上も狙えたし、もっと家から近くていい高校もあっただろ」
すると阿天坊はキョトンとした顔で三秒ほど私の顔を見つめ、にやりと笑った
「それはちょっと言いにくいな。僕にとっても実に情けない理由なんだけどね。領平、君が」
阿天坊が何か言いかけたが、それを進行を務める教頭の言葉が遮った。
「それでは続いて、新入生代表のあいさつ。阿天坊五樹」
「……はぁ、行かなきゃ。主席なんてとるもんじゃないね。全く。まぁ、でも同じクラスだから話す時間はいくらでもあるさ。じゃあ領平、またあとで」
阿天坊はそういうと、原稿を手に持ちながらきびきびとした動作で壇上へと上がっていった。だが領平の頭の中には阿天坊が言いかけた言葉が残っていた。──領平、君が──いったいなんだというのか。
入学式が滞りなく終わり、新入生はぞろぞろとそれぞれのクラスへ向かった。念のため正面玄関の掲示板を確認しに行ったが、阿天坊の言った通り八組の欄に阿天坊と領平の名前が記載されていた。
「な。本当だったろ?」
後ろからうんざりするほど聞きなれた高い声が聞こえた。
「ああ。お前の嘘か勘違いを期待していたんだがな。どうやら朝の占いも当たることはあるみたいだ。今日の俺は心底運が悪いらしい」領平は振り返らずぶっきらぼうに答えた。
「朝の占い? 君はそんなものを見るようなタイプだったか? 意外だな」阿天坊はわざわざ正面に回り込んできた。小柄なその体躯と声変わりのしていない高い声、中世的な相顔は人によっては少女のように映るかもしれない。阿天坊は中学の時やたら女子から人気があった。それは勉強ができるからと思っていたが、ひょっとしたらその理由は見た目のほうにあったのだろうか。
「親父が見てるんだよ。時間を知らせてくれるのが便利なんだ」領平は顔を背け、正面玄関から続く階段を昇って行った。一年生の教室は最上階の三階にあるらしい。
「なるほどね。ところで結衣ちゃんは元気かい?」阿天坊は後をついてくる。
「なんでお前が結衣のことを知ってるんだ。お前に話したことないだろ」
「小学校六年の運動会であったんだよ。結衣ちゃんを抱っこして応援に来ていた君のお母さんとね。あの時一歳だったから今は四歳くらいかな」
「……よく覚えてるな。三年前に聞いた名前まで覚えてるかね、普通」領平は感心半分、呆れ半分のつもりで言ったのだが、阿天坊は賞賛の言葉として受け取ったらしく、後ろから照れ笑いの声が聞こえた。
教室では担任から先ほど校長や来賓が話したようなことを聞かされ、その後は生徒の自己紹介になった。生嶋高校へ来ているのはおよそ五つの中学校からで、領平や阿天坊の通っていた高日中学出身の生徒の割合は一番小さかった。自己紹介を聞いている限り、三十五人いるクラスの中で領平と阿天坊含めて三人だけだった。
度の強そうな分厚いレンズを付けたロングヘアの女子生徒が三人目の高日中学出身者だった。波戸崎千賀と名乗った小柄な彼女は見るからに気が弱そうで、小さく震えた声は名前と出身中学がかろうじて聞こえただけだった。
自己紹介が終わり、再び担任が学生生活における注意事項を二、三話し、クラス委員長を決めるとその日は解散となった。誰もクラス委員をやりたがらず、担任に無理やり指名されるといった形で波戸崎千賀が委員長に選ばれた。てっきり阿天坊が立候補するものだと思っていたから領平には少し意外に思われた。領平は帰宅する準備をしながら昼食をどうしようかと考えていると、阿天坊が駆け寄ってきた。
「領平、一緒にご飯食べに行かないか?」時と場合に依らない阿天坊の陽気な声は、普段は鬱陶しく感じるが、今日は彼に聞いてみたいこともあったので、承諾した。
「ああ、波戸崎千賀ね。知っているよ。僕は学級委員長だったからね」
ハンバーガーを食べながら、阿天坊はさも当然のように言った。学級員であることと何の関係があるのだろうと思ったが、口には出さなかった。
「去年は何組にいたんだ?」
「さぁ、そこまでは知らないな。卒業アルバムなんか見ればわかるのかもしれないけど。それで、どうして急に波戸崎のことを僕に聞こうと思ったんだい? 本人に直接話しかければいいだろう。僕と昼食を取ってくれるまでして聞きたいなんて、なんとなくなんてあいまいな理由じゃないだろう?」阿天坊は見透かしているぞ、と警告するような目で領平を見つめた。
「いいや、本当になんとなくだ。中学三年間一度も見た覚えがなかったからな」
「ふうん。まぁ確かに普通に生活していて彼女と会うような機会はないだろうしね。運動会や文化祭のような行事でも彼女を見かけた覚えはないな」
波戸崎という女は観察眼が鋭い阿天坊のような男にとっても印象が薄いらしい。ならいくらクラスが少ない中学だったとはいえ、記憶にないのは当然かもしれなかった。しかし、ではなぜ彼女のことが気になったのだろう。
「そうか。まぁ、なんにしろスッキリしたよ。じゃあ俺は帰る。夕方には結衣を保育園まで迎えに行かなくちゃいけないんだ」領平はハンバーガーの包み紙と飲み干した紙カップの入ったトレイを持ち上げ、まだ食べ終わってない阿天坊を残して席を立った。
「あっ、そうだ。波戸崎のことだけどね」阿天坊が後ろから話しかけてきた。「彼女は中二の冬に転校してきたんだ。だから正確に言えば彼女を見たことがないのは一年と数か月だね」
領平は返事の代わりに右手を上げた。
領平は家に帰る間、ノートを切らしていることに気付いて途中にある文房具店に入った。大下文具店という名前の老爺が営んでいる店で、主にこの近くの小中学生が鉛筆や折り紙、ノートなどを買うことが多く、領平も小さいころからしばしば利用していた。
狭い通路を横向きになって進み、商品にぶつからないよう慎重に屈んで商品棚の一番下にあるノートを取った。店主は店の一番奥にあるレジスターの横で老眼鏡をかけて新聞を読んでいた。財布を取り出し、持っていこうとしたその時、入り口から四、五人の小学生が入ってきた。
「はい、二百五十円だね。毎度あり」お釣りを受け取りながら、領平はあることを思い出した。木下文具店では昔は何か買うたびにお釣りと一緒に飴を一つくれたものだが、ここ数年はもらえなくなった。それは領平が大きくなったからなのか、子どもにあげることを辞めてしまったからなのか領平は知らない。
領平は店を出た後、店主は先ほど入ってきた小学生たちに飴をあげるのかどうか確認しようと思った。まだ時間が掛かりそうだったため入口の横にある自動販売機でココアを買い、プルタブを開けた。もう四月だが、高地にあるこの町にはまだ冷気が残っている。
店内を覗きながら小学生たちの動向を見ているが、何か話しながらじゃれあっていて、なかなかレジへと進もうとしない。それでも辛抱強く待っていたが、子どもたちは結局何も買わずに店から出てきた。
領平は軽く落胆したが、仕方ないと割り切り、ココアをさっさと飲み干してしまおうと思った。半分ほど飲み終わったとき、店の前にたむろしている先ほどの小学生たちがどうやら普通の様子でないことに気付いた。どこか落ち着きがなく、顔は火照っていて、先ほどから辺りをキョロキョロと見まわしている。さりげなく横目で観察し続けると、一人がパーカーのポケットから何かを取り出した。取り出したのは箱だった。そして箱を無造作にあけ、中からビニールに包まれた何かを取り出した。遠目からだが、はっきりわかった。それはカラフルな着色のされた小さなフィギュアだった。
その小学生はほかの四人から小突かれながらよくやった、などと言われていた。ニヤニヤしながらあたかも戦利品のようにフィギュアを掲げる姿を見て、領平はカッとなった。調子に乗ったガキを制裁してやろうという正義感に迷いはなかった。領平は中身の入った缶をそっと地面に置き、地面を力強く蹴り、大股で彼らに向かって歩んでいった。
「おい。いま万引きしただろ」
領平の言葉じゃなかった。小学生のような甲高い芯のない声。何度も聞いたことのある声だったが、怒りの込められたそれは明らかに威圧感を含んでいた。
声の方向を見るとやはり阿天坊が立っていた。しかしその顔にいつものような薄ら笑いはなく、冷ややかな目で小学生の集団を凝視していた。
「いや、してないし。俺が買ったんだけど」
小学生は明らかに阿天坊におびえていた。見え透いた嘘を発する声は上ずっている。虚勢を張るためか無理やりに笑顔を作ろうとしているが、唇はヒクひくと痙攣している。
だが阿天坊は聞く耳を持たず、無言で彼らに近寄ると主犯の少年からフィギュアを奪った。そしていつにもまして低い声で迫るように聞いた。
「盗ったものはこれだけか?」
主犯の子供はとうとう観念し、小さくうなずいた。
「もう箱を開けたから返すことはできないな。よし、代金を払え。俺が店主さんに渡しておいてやる。いいか、もう二度こんなことするな。もし次見かけたら警察に突き出してやる」
小学生らは困惑した様子で互いに顔を見合わせた後、財布から百円玉を三枚取り出し、阿天坊に渡すと、急いで逃げるように走っていった。
「阿天坊、お前一体いつからいたんだ?」
領平は自転車を押しながら阿天坊と歩いていた。
「君が自販機でココアを買ったときからだよ。声をかけようと思ったんだけど、店の中を盗み見る姿に何か事情を感じてね。申し訳ないけど僕も観察させてもらっていたんだよ。そしたらまさか万引きとはね。領平は最初から彼らが万引きするとわかっていたのかい?」「あ、ああ。そうだな」
まさか飴をもらえるか確認しようとしていたとは言えない。
「やっぱり領平はすごいな。僕の見込んだ通りだ。……それにしても悪かったね。君が彼らに注意しようとしていたのに僕が横取りしてしまったみたいで。ついカッとなってしまったんだ。柄じゃないんだけどね、こんなの」
確かにいつも飄々としている阿天坊があれだけ感情をさらけ出した姿を見たのは今日が初めてだった。この男はこれほど正義感の強いやつだったのだろうか。
「いや、いいんだ。俺もこういうのは慣れていないからな」
「結衣ちゃん! お兄さんが迎えに来てくれたよ」
二十代前半くらいの女性の保育士が教室に向かって叫ぶと、絵本が散乱している教室の角から結衣がこちらに向かって走ってくるのが見えた。短い手足を振りながら笑顔で走る結衣は、いつもよりも元気があることを示していた。
「ただいま、結衣。帰ろうか」
保育士から連絡ノートを受け取り、軽く挨拶をしてから結衣と手をつないで帰った。
夏に向けて日は長くなっているが、それでも結衣と家に帰るころには日が暮れかけている。朱色に染まる住宅街をアニメのテーマソングを歌いながら歩く結衣を見て、領平は驚いた。保育園へ迎えに行った時の様子からいつもより元気なのはわかっていたが、ここまで機嫌がいいのは珍しい。いつもならもっとみんなと遊びたいと駄々をこねるか、疲れたからおんぶをしてほしいとせがんでくるはずだ。
「なぁ結衣、なんか楽しいことでもあったか?」
「うん。あったよ。今日お昼寝してるときにね、夢の中で楽しいことがあったの」結衣は満面の笑みで答えた。
「ふーん、そうか。良かったな」
半ば予想通りの返答だったが、小さい子供が喜ぶことなんてそんなもんか、と冷ややかに思い、そして同時に無邪気な彼女をうらやましいと思った。
家に帰ると、結衣を迎えに行く前にあらかじめ買っておいた食材で夕食を作った。結衣用の甘口カレーを小さい鍋で作り、大きい鍋で領平と治用の辛口のカレーを作った。領平は決して料理が得意なわけではなかったが、ルーを使ってレシピ通りに作るだけで十分おいしくなるカレーライスは末元家の人気メニューだった。二人とも空腹が絶頂に達した十九時ごろ、治が帰宅し三人で食事をとった。
「それで、高校はどうだった? 友達や彼女はできたのか」治が二杯目のカレーライスをよそいながら聞いてきた。
「あのなぁ、入学式で彼女ができてたまるかって。今日は式と顔合わせの自己紹介があっただけだよ」
「そうか、そうか。それはいいことだな」治は満足そうな顔で大きくうなずいた。
領平は何がだよ、と思ったが口には出さなかった。
「結衣は今日もちゃんと保育園でいい子にしてたか?」治は結衣に話しかけるときは声の高さが一オクターブ上がる。だから何だというわけではないが。
「いい子にしてたよ。今日はお昼寝の時間にね、いい夢を見たんだ」
「そういえば夕方迎えに行った時もそんなこと言ってたな。いったいどんな夢を見たんだ?」領平はスプーンをを口に運ぶのを一旦中断して耳を傾けた。
「あのね、お兄ちゃんが神光戦士ヒカリファイザーに入隊して、地球を守るために戦うの! 」結衣は屈託のない笑顔でそう答えた。
「……は? シンコウ?」
「神光戦士ヒカリファイザー! お兄ちゃん知らないの?」
結衣曰はく、神光戦士ヒカリファイザーとは子供たちの間で人気なアニメで、地球防衛軍として世界征服を企てる謎の組織と戦う物語らしい。そういえばいつも結衣が歌っている歌詞でそんなものがあった気がする。今まで光ファイバーだと思っていたが。
領平はあまりの意味不明な話に言葉を失ったが、それを聞いた治は大声で笑い出した。
「ははは! それはいいな。領平がヒカリファイザーか! 確かにいい夢だ、結衣」
「そうでしょ! 紅炎レッド、湖青ブルー、碧緑グリーンと一緒にお兄ちゃんの四人でヒカリファイザーなんだ」結衣は得意げな顔で答えた。
「……いったい何なんだ」領平はすっかりあきれて大きなため息を吐いた。
夕食を食べ終わり、治が食器を洗っている間、結衣と二人でテレビを見ていた。ニュースが終わると同時に始まったドラマで、別にチャンネルを変える理由もないため流していただけだったが、十分程見ているうちに領平はそのドラマにすっかり夢中になった。主人公の周りで次々に起こる殺人事件を食い止めるため、時間を遡らせる時計を使い、奮闘するといいう内容だった。事件のトリック自体はどこかで見たことのあるようなものだったが、時間を逆行するという設定と、主人公の探偵を演じている俳優の熱烈な結衣も意味は分かっていないだろうが食い入るように画面を見つめていた。
結衣と治が寝静まり、明日の準備をした領平はなぜか目がさえて眠れなかった。しばらくスマートフォンをいじったりもしてみたが、これではかえって目が覚めるということに気付き、上着を羽織って夜風にあたることにした。
二人を起こさないようにそっと外に出ると、やや肌寒いが澄んだ春の空気が肺を満たし、暖房で火照った体の熱気を奪い去った。街灯に沿って河川沿いを歩いたが、人影はどこにもなく、近くの公園まで行ってみようという気にさせた。公園にもやはり人はいなかった。遊具近くのベンチに座り、空を見上げた。星座の名前はわからなかったが、ちかちかと瞬く星空は領平の心を和ませた。
しばらくそうして佇んでいると、こちらに向かって何かが近づいてきていることに気が付いた。人──ではない。小さい、ハムスターくらいのサイズをした何かが二足歩行で向かってくる。領平は急いで立ち去ろうとしたが、恐怖よりも好奇心が打ち勝ち、すぐに逃げられる態勢で、その『何か』を迎え撃とうと決意した。
三秒ほどだっただろうが、それは領平にとって果てしなく長い時間に感じられた。冷や汗をかきながらザッザッという確かな音を立てて近づいてくるのを待った。
「やあ、領平。初めましてだね」それは野太い声で領平に話しかけていた。
「……お前は何だ?」恐怖を相手に悟られないように虚勢を張ったつもりだが、声がかすれてしまった。
「僕の名前を聞いているの?」それの輪郭が浮かび上がった。二頭身をしていた。間違いなく人間ではない。
「僕の名前はね……」それはしばらく沈黙した。まるで本来名前など持っていないが、今便宜的に自らに名付けようと考えているようだった。
「うん、僕の名前はグリムだ」その瞬間、それの全体の像が浮かび上がった。
それはなんとも奇妙な見た目をしていた。白雪姫に出てくる小人にそっくりだった。三角帽をかぶり、鼻は大きく丸く腫れあがり、髭が生えているが老人のようにも子供のようにも見えた。
「その名前は……。グリム童話からとってきたのか?」
「やっぱりわかっちゃう? 即興で名前を決めるって案外難しいね」グリムは慣れ慣れしい口調で、歩を緩めることなく近づいてきた。
「お前は人間なのか?」
グリムは領平と三十センチほどの距離でようやく立ち止まった。
「君の想像通り人間じゃないよ。でも幽霊でも宇宙人でも、ましてはUMAなんかでもないよ。君たちの語彙では存在しない生物さ。あっ、でも安心してよ。君たちを滅ぼそうなんて野蛮なことは考えたりしないからさ。それにそんな力もない」
見た目とは裏腹にかなり低い声を出す違和感はあるが、今のところ敵意は感じない。
「まぁ、なんでもいいよ。俺に危害を加えないなら俺もお前のことを詮索しない。今望むのは無事に家に帰って暖かい布団で眠ることだけだ」それはまごうことなき本心だった。
「あれれ、予想外だね。君たち人間が僕の姿を見ると、もっと驚いたり逃げ出したり気絶するものだと思っていたんだけど」グリムは明らかに不服そうだった。
「失禁して泡でも吹いたほうがよかったか?望むなら今からそうしてもいいんだが」
「アハハハ。いいや。遠慮しておくよ。交渉が円滑に進むのに越したことはないからね」
グリムは胡散臭い詐欺師のような笑顔を浮かべたが、その瞳の奥は黒くよどんでおり、本心を読み取ることは不可能そうだった。
「交渉?」
「うん。実は僕は君に頼みがあるんだ。もちろん交渉っていうぐらいだからね、報酬もある。どうかな、やってみるつもりはないかい?」
「いきなりそんなこと言われてハイ、やりますってことにはならんだろ。順を追って説明しろ」要領の得ない相手に領平は畏怖の感情を勝る苛立ちがふつふつと湧き上がってきた。
「ああ、そうだね。ごめんよ。えーと、僕たちは君の友人の阿天坊五樹君を脅威に思っているんだ。そこで彼の野望を阻止してほしいっていうのが頼みで。報酬っていうのが」
「おい、待て! 阿天坊が脅威だと。いったいどういう意味だ」領平は突然出てきた阿天坊の名前に不意を突かれた。
「あ。そうそう、それを先に話さないといけないよね。いや、でもその前に僕たちの正体について話さないといけないか。ああ、台本作ってくるんだった。面倒くさいなぁ全く。ええと、まず、僕たちの存在は君たちの辞書には載っていないってさっき言ったよね? だから僕たちのことを小人族と呼ぶとする。小人っていう言葉は君たちが想像するものとはかけ離れたものだけど、新しい言葉を使うのも面倒だから小人ってことにする。僕たち小人族は力こそないけれど、言語を使って君たち人類とは違ったやり方で文明を築いてきたんだ。小人族史は君たちほどではないけど、そこそこ由緒あるものだ」
「待て、お前らは宇宙から来たのか?」
「ううん、僕たちも地球人だ。君は今、じゃあなんで人類は小人族のことを観測してないんだって思ったよね?それは小人族が持っている魔法のような力で姿を消してきたからだ。正確に言うと違う空間軸にいるって言ったほうがいいかもしれないけど、それは本質じゃないから魔法と思ってもらって差し支えない」
「魔法だと?」領平はあまりの突拍子な単語に、無意識のうちに鼻で笑った。
「あっ! 信じてないね。……まぁいいよ。後で見せてあげるから疑ったことをよく覚えておくといいよ」
「すまん、悪かった。話を続けてくれ」
「どこまで話したっけ……。そうそう、僕たちは力も科学技術も持たないなりに魔法を使って平和に暮らしてきたんだ。でも今、小人史史上最大の危機が訪れているんだ。それが阿天坊五樹君の存在だ」グリムは短い舌のわりに実に流暢に日本語を操る。その姿はまるで操り人形使いのパペットのようだと領平は思った。
「阿天坊が?」ここまで話されても未だ状況を呑み込めない。
「うん、そうなんだ。君も知っての通り阿天坊君はとても頭がいい。それは勉強ができるという意味だけではなくて、観察眼、発想力がぶっ飛んでいるんだ。そんな彼は今日僕たち小人族の正体に気付き始めた。どうやっているのかはわからないが、それは確かな事実だ」
「つまり──。阿天坊が小人族の正体に気付く前にあいつのことを始末しろということだな?」夜風に長時間当たり、体は冷えているのにも関わらず、額に一滴の冷や汗が流れた。
「えっ、そんなこと言ってないよ。君たちも知性ある生物に生まれたなら、すぐにそういう発想になることを恥じたほうがいいよ。僕が一番嫌いな短絡的な考えだ」
グリムは心外だといわんばかりに激しく否定した。
「は? じゃあ一体どうしろっていうんだ。小人族の研究を辞めるように説得しろとでもいうのか?」
領平は自分の中に潜む野蛮さを非難され、蔑まれたように感じ、苛立ちながら投げやりな口調で返した。
「阿天坊君はそんなので研究を辞めるような人じゃないことは君が一番知っているだろう?」
確かにグリムの言う通りだった。阿天坊は昔から自分の納得がいかないことに対しては、親や教師、時には警察官にさえも得意の話術を用いて相手に一方的に捲し立てる癖があった。彼は権力や脅しには物怖じせず、よく言えば芯の通った、悪く言えば自分を中心に世界が回っていると思い込むような自己中心的な側面があった。
「なら、俺は何をすればいいんだ?」
「それはまだ考えていないよ。でも事態は一刻を争うんだ。僕たちのために戦ってほしい、それが僕たちの要求さ」計画不足を微塵も恥じることなく、胸を張ってそう言い切れるグリムはどこか結衣に似ているような気がした。領平はすっかり呆れ返って一つ大きな溜息を吐いた。
「そんないい加減な……。そういえば、さっきお前が言ってた報酬っていうのはなんだ?」
「ああ、報酬ね。それは君に時間を遡る魔法を使えるようにしてあげることだよ」
「……はぁ。もうなんでもありだな。そうか、それならやってやるよ」領平は頭をかきながらしぶしぶ引き受けた。
「あれ、これは信じてくれるの?」グリムは首をひねった。
「そうだな、もう考えることに疲れたんだ。で、これで契約成立か?」
「そうか、それはいいことだね。未知のものを受け入れるのは普通できないことだ。君は賢明だよ。じゃあ今から僕と一緒に過去に飛んでもらう。阿天坊君は今日僕たちの正体について疑念を持ったんだ。それが何かまではわからないけどそれの正体を突き止めること、そしてそれを阻止することが君のミッションだよ」
「おい待て、今からタイムスリップするのか? まだ準備が」
「アハハ。そんなに慌てなくても大丈夫だよ。身体に負荷はかからないし、準備も何もいらないさ。じゃあ行くよ。一緒に頑張ろうね!」
その瞬間、グリムは緑色に発光しだし、その光は瞬く間に広がり領平を包んだ。やがて視界がぼやけ、脳がゆっくりと思考をしなくなっていくのを感じながら、心地よい眠気とともに、領平は意識を失った。
夢を見ていた。結衣が生まれてしばらくたった時の夢だった。領平は小学五年生で、朝の教室にいる。自席につくと一度も話したことのない女子がこっちに向かってきて、話しかけてくる。
領平は戸惑いながら何?と答える。女子は両隣の友だちと目配せしながらニヤニヤと笑っている。私は嫌な予感を覚えながらも、彼女たちが話すのをじっと待つ。
「昨日うちのママが買い物行ってたときにさ、ホテルから末元君のお母さんと大宮先生が出てくるところ見たんだって」
彼女の取り巻きがクスクスと笑う。後ろのほうでほかの女子が「えー!」と驚く声が聞こえた。領平はホテルから出てくるという言葉の意味はわからなかったが、おそらく母親が不倫をしているということだろうと悟った。途端に嫌な汗が吹き出し、顔が真っ赤になった。教室に入ってきたほかの生徒たちも何事かと私の周りに集まってくる。
(なになに)(どうしたん?)(末元のお母さんがさ)(それ浮気ってこと?)(領平君かわいそー)
人生で初めてこれほど注目された領平は鼓動が激しくなり、いったんその場を離れようと席を立った。人ごみをかき分けて廊下へ出ようとしたその時、一人の生徒の言葉が領平の耳に入った。
「最近生まれた領平の妹っていうのもそのコーチの子供なんじゃね」
領平はその声の方向を振り向いた。今までさんざん彼のことを見つめていた目は、今は露骨に領平のそれと合わせないようにしている。
「ねぇ、コーチの子供ってどういう……」振り絞って出した声は自分でも聞こえないほど弱弱しいものだった。そしてその声は担任がドアを開ける音にかき消された。
「はーい、おはよう! 朝の会始めるぞー! ……ん? お前らどうした?」
「領平! 領平! 朝だぞ、起きろ!」
治の声だった。目を覚ました領平は今日は何日だったっけと思った。なにか重要なことがあったような気がするが、それは夢だったような気もする。なんとなく日付を確かめるために枕もとにあるデジタル時計を手に取った。
「七時……。四月八日……か」
その日付を見た瞬間領平はグリムとの会話を思い出した。そしてそれは夢ではないことも。
食卓にはとトーストとジャムが置いてあった。結衣は向かい側の席でパンを咥えながら舟をこいている。
領平は食卓に着き、半ば確信を持ちながらゆっくりとテレビのほうを振り返った。朝の情報番組の名物、星座占いのコーナーだった。今日の運勢の一位を発表し終えたアナウンサーが申し訳なさそうな、しかし能天気な顔ではっきりと言った。
「ごめんなさ~い! 今日の最下位はうお座のあなたです!」
領平は朝食のパンを食べながら今自分に起きていることを考えていた。自分は今タイムスリップして一日前に来ている。それは朝の占いの結果から見ても間違いないだろう。そしてそれはグリムという名前の小人が仕組んだことだ。あいつは確か阿天坊が今日、小人族の正体に気付く出来事があったといっていた。そしてそれを止めるのが領平の役割だった。
治と結衣を見送った後、領平はとりあえず学校へ行こうと思った。今回はネクタイを結ぶのに手間取ることはなかった。部屋の電気を消し、リュックサックを片手に家を出ようとしたとき、領平はあることに気付いた。
「おい、グリム! ここにいるのか!」領平は誰もいない部屋に向かって叫んだ。数秒待ってみたが返事はなかった。
「全く、あいつも一緒に時間を戻るんじゃなかったのか?」領平は悪態をつき、グリムへの不信感がより強くなったが、時間が迫っているのでしぶしぶ外へ出た。
「領平、それにしても意外だな。君のことだから遅刻するかもと思ったけど、ちゃんと時間通りに来られたんだね」
校長が話している途中だが、阿天坊がヘラヘラしながら話しかけてくる。
「ああ、おかげさまでな。今回は自分のクラスも知っているよ。掲示板を見たわけじゃないが」領平は前を向いたまま答えた。
「どういうことかわからないけど、何か機嫌が悪そうだね領平。嫌なことでもあったのかい?」
お前が余計なことをしたせいでタイムスリップしてきたんだ、と言って信じる人間がいるだろうか。
「いいや、何でもない。……ところで阿天坊、ちょっと聞きたいことがあるんだが。いいか?」
「へぇ! 僕に聞きたいこと? 領平が? 珍しいね、いったい何だろう」
阿天坊が唐突に大きな声を出したため、周りの生徒が一斉にこっちをにらんだ。ただでさえ阿天坊の高い声は目立つというのに。
「いや、学校が終わってから話すよ。ここだとほかのやつらに聞かれる可能性もあるしな」「内緒話だね。俄然になってきたよ」阿天坊の目は初めて遊園地に連れて行ってもらった子供のようにキラキラと輝いていた。
入学式後のクラスでの自己紹介では、なるべく一週目と同じようなことを話した。以前見たタイムトラベル物のアニメでは、ほんの些細な正史とのズレが大きな改変を起こしていた。バタフライエフェクトというやつだ。今朝遅刻しなかったことはまずかっただろうかと思いながら、放課後ファストフードショップですでに知っている波戸崎の情報を再び質問した。
阿天坊は波戸崎について情報を話し終えると一息ついた。
「それで、領平が入学式の時に言っていた聞きたいことっていうのはいったい何だい?」阿天坊はポテトをつまみながらいたずらっぽい目で領平を見つめた。
「波戸崎のことを聞きたかったからなんて言う嘘はよしておくれよ」
一週目はそうだったんだがな、と思いながら純粋に気になったことを質問してみた。
「なぜそう思うんだ? 阿天坊」
「だって当たり前じゃないか。入学式の時点では君は波戸崎が僕たちと同じ高日中学にいたなんて知る由もないからね」阿天坊は何を分かり切ったことを、という目つきで言った。
「いや、待て。俺はお前に波戸崎を覚えているか? と聞いただけだ。波戸崎なんて珍しい名前めったにないからな」
「いいや、それはあり得ない。君は僕と波戸崎とは何のつながりもないと思っているならそんな質問が出てくるはずがないよ。実際、君は知らなかっただろう。僕が波戸崎千賀の家族構成まで熟知しているとは。言って見せようか、四人暮らしの核家族で、父親は地役所勤めの公務員、母親は専業主婦、舌には七歳の弟がいて……」阿天坊は饒舌に語る。
「わかった、わかった。もうやめてくれ。そうだよ、俺が本当にお前に聞きたかったことは波戸崎のことじゃない。単刀直入に聞く。阿天坊、お前小人を見たことがあるか?」領平は阿天坊の些細な表情の変化を見逃さないようにじっと見つめた。嘘をついても見破ってやるつもりだった。しかし阿天坊の表情は変わらなかった。口角をあげて目を見開く彼のいつもの顔は一向に動く気配がなかった。三秒ほどたっただろうか。まさか心臓発作でも起こったのかと疑い始めたころ阿天坊はブホッと息を吹き出し、大声で笑い始めた。
「ハハハハハ! 領平、今君はなんといった? 小人だって! いつから君はそんな不思議ちゃんになったんだい? まさか高校生にもなってメルヘンの国を行き来できるとは驚いたよ! 傑作だ!」
領平は途端にはらわたが煮えくり返って、このまま目の前の男とぶん殴ってやろうかとすら思った。しかしギリギリのところで思いとどまって、あくまで穏やかに話を続けようと努力した。
「いいや、小人というか。異世界人というか、魔法使いというか。君はそういうものを見た気がしないかと思ったんだ。別に本気で言っているわけじゃない。昨日そんな夢を見たもんでな、でも夢にしてはリアリティーがあったんだ。だから少し気になってだな」領平は無理やり笑顔を作っていった。
「夢だって! 君はまさか夢と現実の区別がつかなくなったというわけではないだろうね。僕の知っている君はそこまで愚かではないと思ったんだが。あえて言わせてもらうよ、小人や魔法使いなんてあまりにもくだらない、この世界の美しさを理解できないバカが自分の理解できる範囲でのミステリーを追い求めた先に作った、押せば倒れてしまうような張りぼてでしかないとね。ハハハハ!」
阿天坊はどうやら小人を見たことなんてないようだし、他の客からの視線も痛くなってきたので領平は家に帰ることにした。
店を出る直前まで阿天坊は腹を抱えて笑っていた。
領平は大下文具店へノートを買いに行こうか迷ったが、おそらくもうすでに小学生たちは万引きを実行したあとであろうし、なんとなく店主に合わせる顔がないような気がした。
領平は店の前を素通りして直接家に帰ることにした。
「いったいどうなってるんだ」
大きなため息を吐きながら領平はソファに寝転がった。阿天坊に直接聞いてみても彼は何も知っている様子はなかったし、グリムも一向に現れない。ひょっとしたら昨日のことは夢だったのではないかとすら思えてきた。
明かりのついていないリビングに窓から西日が射している。五時のチャイムが鳴った。小さいころから慣れ親しんだ曲だ。陽はだんだん長くなっているとはいえ、もう少しで日が暮れるだろう。これから夕食の買い物と結衣を迎えに行かないといけないことを思い出し、重い腰を上げた。
結衣を迎えに行った後は夕食にカレーを作り、三人で食事をしている間に結衣から不思議な夢の話を聞いた。カレーライスを食べ終え、結衣と二人でニュースを見ているとき、固定電話が鳴った。昨日──夢でないとすればだが──にはなかった出来事だった。治は食器洗いをしていたため、領平はゆっくりと立ち上がって電話の前まで来た。ディスプレイには090から始まる十一桁が示されていた。治はマメな性格で、自分の知り合いの電話番号は必ず電話帳に登録していた。つまり治の知り合いではないはずだった。
領平は意を決し、迷惑電話であること絵を期待しながら受話器を外し、耳に当てた。
「もしもし……。末元ですが」
しかし、返ってきたのは今一番聞きたくない声だった。
「もしもし、夜分遅くに申し訳ない。その声は領平だね?」
領平は受話器を戻してしまおうかと思ったが、さすがに大人げない気がして答えた。
「ああ、そうだよ。いったい何の用だ、阿天坊」
「ああ、よかった。君のお父さんの声は聞いたことがなかったからね。もし瓜二つの声だったらどうしようかと一瞬後悔してしまったよ。いや、瓜二つは見た目が似ているから瓜二つというのか。声が似ているときはなんというのが適切なんだろう」阿天坊は電話越しでもいつものようにぶつぶつとどうでもいいことを喋りだした。
「用がないなら切るぞ。今は忙しいんだ」
「待って、待って。悪かったよ。でも嘘はいけないな。今君がしていることと言えば十中八九結衣ちゃんと一緒にテレビ鑑賞だろう。それは一般には忙しいとは言わないんじゃないかな」
のぞき見でもしているのだろうか、この男は。
「……。これで三度目の質問だ。要件はなんだ?」いい加減イライラしてきたのでわざと語調を強めていった。
しかし阿天坊は全くいに帰さない様子で答えた。
「実は君に報告したいことがあるんだ。君は今日の昼言っていただろ?僕に小人を見たことがあるかと。それの返事をまだしていなかったと思ってね」
何だ、そんなことか。
「ないんだろ? いいんだ。あの事はもう忘れてくれ。じゃあ切るぞ」
「おいおい、そんなこと言ったか?君は少し思い込みが強い傾向があるな」
「何!? 見たのか?」阿天坊のそれは思いがけない返答だった。領平は治と結衣が聞いていないことを確認して小声で話した。
「いいや、小人は見ていない。だが、君と別れた後に少し気になるものを見つけてね。僕はあの後すぐに学校へ戻ったんだ。忘れ物があってね、まぁそれはどうでもいいんだが。教室で少し気になるものを見つけたんだ」阿天坊は淡々とした口調で話す。
「気になるもの?」
「うん、それは財布だった。波戸崎の財布だ。二つ折りにできるタイプのね」
波戸崎千賀の財布? 話が見えてこない。それと小人と何が関係あるというのか。
「その財布の中を見たんだな?」
「うん。本当は職員室にでも届けるべきだったのかもしれないけど、同じクラスだったら直接渡したほうが手っ取り早いかなと思ったんだ。人の財布を覗くなんて趣味の良いことじゃないけどね」
「それで、財布の中には何が入っていた?」
「千円札が三枚と、小銭締めて三千四百五十二円。あとは図書カードとレンタルビデオ屋の会員証。今時珍しいテレフォンカードもあったな。そしてホームルームで配られた学生証」
「そんなものはどうでもいい。お前は小人に関わる何を見たんだ」
「せわしないね、君は。紙切れだよ。ノートをちぎった紙切れが四枚おりで財布の中にしまってあった」
「紙切れ?」
「そう、そしてその紙切れにはこう書いてあった。『小人 24 新江公園』ってね」
領平は心臓が大きく拍動するのを感じた。どういうことだ? 新江公園はまさに昨日領平がグリムと出会った公園だ。九日未明、波戸崎はそのことを知っていたのか? なぜ波戸崎が。
「おーい、領平? 聞いてるかい?」
「あ、ああ。聞いてるよ。書いてあったのはそれだけか?」領平は阿天坊に動揺を悟られないように努めた。
「うん、そうだ。これはいったいどういうわけだろう。君は波戸崎から何か聞いて小人を見たことないかを僕に聞いたわけか?」
そう思うのも当然だろう。一日に小人なんてワードを二階も目にしたらそれらに関係を見出すのが自然だ。
「そ、それは」
「いや、それはあり得ないか。君は自己紹介の時点まで波戸崎のことを知らなかった。君が彼女に関心を持ったのは同じ高日中学だと知ったからだ。もし以前から彼女のことを知っていたなら、わざわざ僕に彼女のことを聞く意味がないからね。カモフラージュだとしても、あまりにも不自然だ。つまり彼女の言う小人と君の言う小人とは独立なものだということだ。そしてそれが同じものを指すかだが……」
阿天坊は話しながらものを考える癖がある。こうなってしまったらもう何を話しかけても阿天坊の耳には入らない。阿天坊の気がすむまで受話器を耳に当てたまま待った。二、三分たったころだろうか、漸くこちらの世界に戻ってきた阿天坊は、やはりというべきか領平に提案してきた。
「……。なぁ、領平。今から新江公園に行ってみないか?」
さて、どうするべきか。領平は今、選択を迫られている。その選択はとても重要で大きなものだと彼の直感が告げていた。絶対に間違えてはならない、考えろ。
一つの選択肢はこれを承諾することだ。阿天坊とともに新江公園に行き、グリムを待つ。二つ目は断ることだ。つまりは阿天坊一人が新江公園に向かう。そして三つめはどうにかして阿天坊が新江公園へ向かうことを阻止することだ。
領平の中ではとっくに答えは決まっていた。グリムの言葉を信じるなら、阿天坊は小人族を発見する第一人者になりかねない。それが小人族にどんな災いをもたらすのかは知らないが、とにかくそれを阻止することが領平の役割だった。
「なぁ、阿天坊。それは本当に信じるに値する情報なんだろうか」
「というと?」阿天坊は怪訝そうな声色で尋ねた。
「波戸崎の財布に入っていた紙切れなんだろ? 常識的に考えて世の中に小人がいると思うのかい? 君だって昼間はばかばかしいと言っていたじゃないか」
「おいおい、君がそれを言うのか。最初に僕に小人の話を振ってきたのは君のほうだろう。確かに僕はばかばかしいと言ったさ。でも今は波戸崎のメモというもう一つのキーがある。これは小人の存在こそ信じていなくても何かしら関係があると思うのはそんなにおかしいだろうか」
「だから俺の言った小人というのは、ただの夢だ。波戸崎のものとは関係ない」
「どうして君はそこまで否定するんだい。同じ日に面識のない二人から小人、なんて言葉が飛び出すのはなんともミステリアスじゃないか。興味をそそられるのが人の情だ。……さては、何か知っているね?」
図星を突かれた。
「まぁいいよ。君がいかないなら僕一人で言って真相を突き止めるまでだ。じゃあね領平、また明日じっくり話そう」
「おい待て! 阿天坊!」
電話は切られていた。
不味いことになった。このままでは阿天坊がグリムの存在に気が付くのは時間の問題だった。グリムは確かに断言した。阿天坊は今日小人族に付いてなにか確信を得ると。それがおそらく波戸崎の紙切れだったのだろう。
領平は受話器を置き、ソファに座って考えた。一番避けたいのは阿天坊とグリムの直接接触だった。本来領平と出会うはずだったグリムが、阿天坊と接触することで何が起きるのかは予測不可能だった。
ならば領平がすべきことは阿天坊より先にグリムと出会い、再びタイムスリップをすることだ。なぜ小人族のためにそこまでしてやる必要があるのかと一瞬思ったが、その場のノリとはいえしてしまった契約はしっかり果たすべきだろう。時計を見る。グリムと出会った時間まであと四時間強。このあいだに三週目での計画をしっかり練るべきだろう。
領平は阿天坊と鉢合わせることだけは避けたかった。そうなると阿天坊の小人族の存在への疑惑がより強まるであろうし、必然的に二人で行動することになりそうだからだ。グリムと密会するのにそれでは困る。
問題はグリムが領平のことを覚えているかどうかだった。グリムが領平のことを覚えていたら、状況を理解してくれるのも早いだろうし、阿天坊に見つかる前にタイムスリップをすることが容易になる。しかしそれは望み薄そうだった。グリムに記憶があるのならば、もっと早い段階で領平と合流したであろうし、そのほうがお互いの目的のために有利だからだ。
つまりは今日、グリムは何らかの方法で領平がここに来ることを察知し、昨日と同じ場所で会うつもりなのだろう。
なるべく気配を立てないように移動し、昨日のベンチのある広場に目をやった領平はギョットした。昨日領平が座っていたベンチに阿天坊が腰かけていた。
時計を見る。昨日の時間まではあと数分しかない。仕方ない、実力行使だ。領平がそう思った瞬間後ろから誰かに肩をたたかれた。驚いて思わず叫びだしそうになったが、あと一歩のところで何とか踏みとどまった。
「驚かせるなよ……。グリム」領平はほっとした顔で肩の上に乗っかっている小人にささやいた。
「ごめん、ごめん。本当は一緒に行動するつもりだったけど、僕と君は今日ここで出会うことになっていたからそれ以前に会うのはタイムパラドクスを生じさせてしまうんだ。うっかりしてたよ」グリムは面目ない、と言いながら猿の反省のポーズをとった。
「そんな大事なことを忘れるなよ。全く。ああ、今日あったことを話すよ」
「いいや、大丈夫。ずっと君のことは見てたからね。接触はできないけど観察することは可能なんだ。お手柄だよ。阿天坊君が僕たちの正体に気付いたきっかけがわかったんだね。しかしまさか波戸崎という生徒が僕のことを知っていたとは……いったいどういう事なんだろう」
「なんでもいいけど、早くタイムスリップしてくれないか? あまりここにいると阿天坊に気付かれそうだ」
「うん、それもそうだね。時間も近づいてるし。じゃあ次も僕は手助けしてあげられないけどこの調子で頑張ってよ。君なら強大な時の流れを変えることができる気がするよ」
「まぁよくわからんが、適当にやってみるさ。次回は阿天坊は連れてこないからその時いろいろとじっくり聞かせてもらうからな」
領平は精一杯にらみを利かせたが、相変わらずグリムは意に介していない様子だ。
「了解。じゃあ頑張ってね。またあっちの世界で応援しているよ」
そう言い切る前にグリムは緑色に発光し、その光は領平を包んだ。
今回は夢を見ることはなかった。
三度目となる天気キャスターの占いを聞きながら、領平は今回自分がすべきことを考えていた。最終的な目標は阿天坊が小人の存在に気が付くのを回避することだったが、まず阿天坊が小人の存在を知ることとなったきっかけを知らなければならない。そして阿天坊がその存在を知るのはグリム曰く今日のことであるとのことだった。
ならば領平がするべきことはただ一つだった。
今回はなるべく正史通りの行動をしつつ阿天坊の行動を観察し、そして次のタイムスリップで阿天坊に干渉するための準備を整えることだ。
前回のタイムスリップでは明らかに阿天坊は小人の正体に感づいていた。そしてそれはあろうことか波戸崎のメモによるものだった。しかし正史もそうだったかは領平には知りようがない。バタフライエフェクトでそのような不可解な世界へとなってしまった可能性も捨てがたい。そのため領平はあまりこの件については深追いをしないでオリジナルの筋書きを書き換えようと考えた。
領平は自分の作戦の成功を疑わず玄関のドアを開けた。
「……で。失敗したわけだね。領平は」呆れた顔で短い腕を組みながらベンチに座っているのはグリムだった。辺りはすっかり暗くなっていて領平とグリムのほかに人影はなかった。
「ああ、そうだよ。大失敗だ」
領平はうなだれながら投げやりに言った。失望を隠しもしないグリムに対し弁明する気も起きなかった。
「まぁいいよ。そんなにうまくいかないのはわかってた。それでいったい何があったのさ。
説明してくれよ」
領平はあまり振り返りたくはなかったが、しぶしぶ事の顛末を語りだした。
朝、自宅を出発した領平は一回目のことを思い出し、少し遅刻して卒業式に滑り込んだ。
阿天坊はオリジナルの時と同じようにニヤニヤした顔で皮肉を言ってきた。
「領平、ずいぶん肝が据わってるね。初日から遅刻とは」
領平は無視してやりたがったが、できるだけオリジナルとの差異のないように返した。
三度目の阿天坊の挨拶を聞き、式が終わった後は二人でわざわざ正面玄関の掲示板へ私のクラスに阿天坊がいることを確かめに行った。
「俺は八組で…。やっぱりお前も八組なのか」もちろん知っていたことだが、領平はなるべく自然にため息をついた。
そのまま階段を上がり、結衣の話をしながら教室へ向かった。担任が教室に入ってくると、簡単な説明と自己紹介があった。そこでも領平はそつなくこなし、あっという間に放課になった。自席で荷物をまとめていると、やはり阿天坊が食事に誘ってきたため、領平は首を縦に振った。
「ここまでは特に問題はなさそうだけどね」グリムが言った。
「ああ、ここまでは俺の予想通りに進んでいると思っていた。オリジナルでは俺が食事を終えた後阿天坊と別れたんだ。だから今回は一度解散した後阿天坊の行動を監視しようと考えたんだ」
「なるほど。この後トラブルが発生したからそうはいかなかった、ということだね?」
領平はうなずいた。
「わかった。話を続けて」
注文したハンバーガーのセットを受け取り席に着いた領平と阿天坊は特に話すこともなく食事をとった。
半分ほど食べ終えたこと、領平は波戸崎について話を切り出した。
「なぁ、阿天坊。同じクラスの波戸崎って人の事覚えているか? 俺らと同じ中学らしいが全く記憶にないんだ」
だが阿天坊は質問に答えなかった。数秒ほどトレイの上に散らばったポテトを眺めた後、口を開いた。
「しかし……。今日の領平はいささか変だな」
領平は不意を突かれた。これは正史にはない会話だった。
「へ、変って何がだ? 別に俺はいつも通りだろう」そう返した領平声は若干震えを帯びていた。この会話を早く終わらせなければならない。さもないとバタフライエフェクトが生じてしまう。
「へぇ。領平は意識していないのかな。失礼を承知で言わせてもらうと、今日の君はどこかしら演技臭いんだよな」阿天坊は射るような目つきで領平を睨んだ。
「演技臭い? 俺が?」
「うん、君の言動は実に君らしい。普段の領平のものそのままだ。しかし、周りのことに対してまるでそうなるのがわかっているような態度をとるよね。一つは入学式に遅れてきたときのことだ。普通ならまわりをキョロキョロと見まわしながら入ってくるんじゃないかな。しかし領平はまるで自分の席がどこにあるかをあらかじめ知っていたみたいだった」
「それは遠くから阿天坊の姿が見えたからだ。入学式の席は受験番号順ってことは知っていたからな。同じ中学校で固まっているのは想像つくだろう」
領平は必死に頭を働かせながら反論を考えた。
「それだけじゃない。君は式が終わった後に僕とクラスが同じかどうか掲示板に確認に行ったよね?」
「ああ、そうだ。それの何がおかしいんだ? 正面玄関に張り出されているといったのはお前だぞ?」
「おかしいんだよ。僕は同じクラスだとしか言っていないのに君は掲示板を見てすぐに八組の欄に僕たちの名前を見つけた」
「だからそれの何が……」
「僕は同じクラスだと言ったんだ。八組だなんて言っていない」
「な……」領平は絶句した。
「普通なら一組の欄から探すだろう。阿天坊なんて名前そうそうないからね。君なら一番上の名前を確認していくと思ったよ。しかし意外にも君のとった行動は、真っ先に八組の欄を見て自分の名前を確認することだ。そして同じ八組に僕の名前があることを見つけた。これは不自然だ」
「おいおい、そんなことで俺の行動がおかしいと思ったのか? 八組の欄を見たのはたまたまだし、お前の名前を真っ先に探さなかったのもお前と同じクラスというのを疑っていたからだ」
「そう、それなんだよ。君は僕と一緒のクラスだということを疑っていた。それは普段の君としてはとても自然だ。しかしそのせいで君の行動はかえっておかしなものになっている。そして君への疑惑が決定打となったのはついさっきだ」
「なんだと?」
「君は僕に波戸崎を覚えているかと聞いたね。それはどう考えてもおかしいだろう」
領平は阿天坊がいったい何を言っているのかわからなかった。
「君は本当に波戸崎を知らないのか? そんなはずはないだろう。そんなことはあり得ないんだよ。あっていいはずがない。ちなみにさっきの君の質問に応えると、僕は波戸崎のことを覚えている。彼女は同じクラスだったからな」
「……は?」領平は驚きを隠せなかった。
「その様子を見るとどうやら冗談ではないみたいだな」
「冗談って……。ふざけているのは甘えのほうだろ? 何言ってるんだ、俺が波戸崎のことを知っているだと? 何を言っているんだ。知っているはずないだろう。俺は中学でも一度もあったことがないんだぞ」
領平は阿天坊の言っている意味を必死に理解しようとしたが、あまりの予想外の展開に、脳みその回転が追い付かなかった。
「……。君も混乱しているようだが話を続けさせてもらおう。この三つ違和感は何か共通の因子のようなものがあるように考えた。しかし普通に考えてもわからないだから僕は頭を抱えた。そこでひとつ奇想天外なジャンプをすることでそれらすべてを説明できる仮説に至った」
「仮説だと?」
領平はあきらかに状況が悪い方向へ向かっていることを自覚しながらも、話を中断することができなかった。
「うん。君がこの出来事をすでに経験しているとしたらどうだろう? そこでの世界の僕は君に八組だということを教えてあげた。すると自分の名前を最初に探すのは自然だろう。そして今の君はなぜかの経験をなぞろうと思った。そのため領平の行動は奇妙なものになった」
阿天坊は何を言っているんだ?
確かに彼の推理は今領平が陥っている状況を見事に言い当てていた。しかしその推理は明らかに異常な飛躍をしていた。まるで結論があって無理やりそこにこじつけているように。
「すると波戸崎についてはどうだろう。君は波戸崎と出会ったことのない世界から来たんじゃないのか」
阿天坊はいたってまじめな顔で語り続ける。
「しかしそうなると、領平がその世界をそのままなぞらねばならない理由が気になってくる。僕が思うにそれは」
「おい、阿天坊。待て」
「一つは世界線の崩壊を防ぐことだろうか。あらかじめある『台本』から外れると」
「阿天坊、話をやめろ」
「二つはある目的へ帰着させることだろうな。しかしそれを推理するには情報が足りな過ぎる。一つの例としては」
「阿天坊!」
領平の声が反響した。その瞬間店内が静まり返り、店中の目が領平と阿天坊を見つめた。
「いったん店を出よう」領平は冷静になろうと努めた。
「うん、それがいいだろうね。あまり人に聞かれないほうがいいのかもしれない」
ファストフード店を出た後、二人は無言で歩き出した。
「領平は僕に聞きたいことがあってしょうがないっていう顔をしてるね」
阿天坊は前を向きながら話した。
「ああ。正直聞きたいことが多すぎてもう何が何だかわからん」
領平も歩きながら答えた。何処へ向かうと決めているわけではないが、高校へ繋がる道だった。
「僕に答えられることなら答えてあげるよ。僕も質問したいことはたくさんあるんだ」
「まず一つ目だ。俺と波戸崎が同じクラスだったっていうのは本当なのか?」
「うん、まぎれもない事実だ。卒業アルバムを見ると嘘をついていないということがわかるだろう」
「二つ目はさっきの推理のことだ。俺が違う世界から来たというのはすべてお前が考えたことなのか?」
「と、いうと?」
「お前に何か助言した奴はいるのかってことだ」
「それはつまり、波戸崎や他の部外者が僕にヒントを与えたと君は考えているわけだね? 領平は」
図星を突かれた。だが、どうせもう計画は失敗だった。領平は自分の好奇心に身を任せることにした。
「ああ、そうだ。どうなんだ?」
「ふーん。つまり僕の推理は間違いではなかったってことかい? もしくは君が知っている筋書きだった。意外だね。君が正直に答えてくれるとは。だったら僕も正直に答えるよ。答えはノーだ。全部僕の想像だ」
やはりそうだったか。しかしそうなると余計に訳が分からない。もし阿天坊がすでに小人に接触、もしくは小人の存在を何物かに伝えられているとしたら阿天坊がわざと偽の情報を領平に伝えてかまをかけてきた可能性があった。だがそうでないと波戸崎と同じクラスだったということの整合性が取れなくなる。バタフライエフェクトはその時間より過去にさかのぼるものではないはずだ。もちろん阿天坊が嘘をついている可能性もあったが。
「そうか。質問は以上だ」
「これだけでいいのか?それならそうでいいんだが。じゃあ次は僕の質問に答えてくれるかい」阿天坊は早く聞きたくて仕方ないという表情を浮かべながら期待の眼差しを向けてきた。
こいつは嘘をついていないだろう。阿天坊の好奇心は本物だった。
ならば次に領平がするべきことはただ一つだった。
「阿天坊、お前の質問に応えてやりたいのはやまやまだが、いかんせん急用があるのを思い出した。話は明日してやる」
「おい、領平。それはずるいぞ。おい、待て!」
領平は阿天坊の言葉を無視して高校へ向かって走った。
数時間ぶりの教室には窓から西日が射していて、昼間に見た時とは違った印象を覚えた。そしてやや赤みがかった部屋の真ん中あたりの机に誰かが座って書き物をしていた。顔を見るまでもなかった。領平は確信を持ち、大きな声で呼びかけた。
「おい、波戸崎千賀。お前は何者だ」
人影はビクツと震え、恐る恐るといった様子でこちらに振り返った。その際に長い黒髪が華奢な肩を撫でた。訝し気に様子をうかがった彼女は、声の主が領平だと気付き、ほっとしたような笑顔を見せた。
「なんだ、領平か。ビックリさせないでよ」
波戸崎の声は自己紹介の時に聞いたような震えを帯びたものではなく、しっかりと芯を伴っていた。
「なんだじゃない。お前はいったい何者なのかと聞いているんだ」
領平はさらに語調を強め再び問いかけた。領平には波戸崎は何かを知っているという確信があった。
「ねぇ、領平。いったいどうしちゃったの? 今日声をかけてあげられなかったことを怒ってるの? 私も高校の初日で緊張してたし、他の子たちと話をしてたら知らないうちに領平たち帰っちゃってたんだからしょうがないでしょ」
波戸崎は明らかに困惑していた。そして私をなだめようと必死になっている。
「違う。俺はお前なんか知らない。演技はやめろ。お前は小人を知っているのか? それとも俺と同じように時間遡行ができるのか?」
「領平……」
波戸崎が何か言いかけた時、教室の黒板側のドアが開いた。領平たちのクラスの担任だった。度の強そうな眼鏡をかけた短髪の中年教師は昼間にはスーツを着ていたが、今は白衣を着ている。
「えっ、波戸崎さんまだいたの? 日誌はおいて帰ってくれてよかったのに。そうとは知らずに職員会議が終わるのが長引いちゃってごめんね。あれ?君は確か……」
「あ、先生。すみません、じゃあ帰ります。領平、とりあえず外行こう」
領平が答えるより先に波戸崎が答えた。波戸崎はノートを担任に手渡すとそのまま領平の腕を引っ張り、無理やり教室の外へ連れ出した。
「一体どういうことなの? ふざけているのならやめて」
二人は河川敷にあるベンチに並んで座っていた。波戸崎はまるで浮気を問い詰める彼女のような態度で領平を詰問した。その様子は阿天坊のそれと同じく嘘をついているようには見えなかった。
「本当に何も知らないのか? 小人のことも」
「だから小人って何なの? 領平おかしいよ。久しぶりに会ったからってそんなに冷たい態度とらなくていいでしょ」
まるで恋人のよう、というのはあながち間違いでもないのかもしれない。しかし領平は阿天坊の時と同じようにすぐ波戸崎を信じることは知らなかった。阿天坊とは幼馴染であることに間違いないが、彼女とは今日が初対面のはずなのだ。同じ中学出身というのも今では疑わしい。
領平は前回のタイムスリップのことを思い出した。阿天坊曰く、彼女が落とした財布の中には小人の存在をほのめかす内容のメモが入っていたとのことだった。それがバタフライエフェクトによるものなのか、はたまた正史において事実なのか、今が確認する絶好の機会だと考えた。
「なぁ波戸崎、すまないが今財布を見せてもらう事ってできるか?」
領平がそういうと波戸崎の表情がみるみる変化した。口角は下がり、領平を見る眼は冷ややかなものとなり、奥底には怒りが宿っていた。
「なんでそんなこと言うの?」
先ほどまでの聞き取りやすい声でなく、ぼそぼそとした声でそう尋ねてきた。
「とにかくだ。お前が小人のことを知らないという確証が欲しいんだ」
「だから小人なんか知らないって!」
「だったら財布を見せればいいだろ! そこにメモがなかったら俺だって信じるさ!」
すると波戸崎の先ほどまでの怒りを帯びた表情が急激に崩れた。顔は強張り、領平を凝視する見開かれた眼には弱弱しい光が浮かんでおり、中途半端に開かれた唇はかすかにふるえていた。その様子は自分のいたずらが親や教師にバレた幼い子供の見せるものと瓜二つだった。
図星だったか。
「あるんだな。財布の中にメモが」
「なにそれ。なんで領平が知ってるの? いったいどうして……」
波戸崎はぶつぶつと呟きながら立ち上がり、信じられないものを見るような目で領平の顔を凝視し、後退りした。彼女の耳に領平の声はすでに入ってこないようだった。彼女の顔は青ざめていた。息が荒くなり、過呼吸ぎみになっている。
「おい、波戸崎。いったん落ち着くんだ」
彼女の尋常じゃない様子を見て、冷静さを取り戻した領平はとりあえず波戸崎を落ち着かせようとした。震える彼女の肩に手を伸ばしたところ、波戸崎は大声を上げた。
領平は彼女の悲鳴から意味ある言葉を聞き取れなかった。それは自分のテリトリーを荒らされた猿の鳴き声のようにも聞こえたし、ほしいおもちゃを買ってもらえない幼児の感情だけに任せた極めて原始的な叫びのようにも聞こえた。
「おい、波戸崎! 落ち着くんだ!」
領平は再び彼女を押さえつけようと手を伸ばしたが、波戸崎は手を払いのけそのまま走りだした。叫び声をあげながら河川敷を走る彼女はその場にいた人々の視線を集めたが、そのことに全く厭わない彼女を追いかけることを領平はためらった。今の狂気的な彼女にはなんと声をかけても聞く耳を持たれないだろうと考えたのだった。
領平はしばらく呆然と彼女が走り去った方向を眺めていたが、先ほどまで彼女が座っていたベンチに鞄が置いてあることに気が付いた。領平たちが入学した生嶋高校の指定バッグで、ローマ字でIKISHIMAとプリントされているボストンバッグで、持ち手のところにアニメキャラ調のストラップかいくつかついている。
領平は半ば無意識にその中に手を入れた。中身はあまり詰まっていなく、入っていたのはノート数冊、水筒、筆箱、リップクリームやシーブリーズ、そして財布が入っていた。
領平は水色の長財布を手に取った。今日初対面の女子の財布を勝手に開ける背徳感を感じながらも、その中身を調べた。
入っていたのは数千円の現金やカード類だけだった。カードポケットや小銭入れの中も念入りに調べたが、小人の情報が書かれた紙切れなどは入っていなかった。
「じゃあ波戸崎は一体なぜあんなに取り乱したんだ?」
領平は疑問を口にしたが当然答えは返ってこなかった。
波戸崎の鞄をそのまま置いて帰ることもできないので、領平は二人分の荷物を担いで帰宅した。その後急いで保育園へ結衣を迎えに行ったが、予定の時間より遅れてしまったので保育士さんと結衣両方に謝った。一向に機嫌を直そうとしない結衣と帰路につきつつ、夕食の買い出しをした。今日もカレーライスでも良かったのだが、さすがに三日連続でカレーを食べることはあまり気が進まなかったため結衣の好きなハンバーグの材料を買った。
夕食を作りながら領平は今日一日にあったことを考え直していた。考えはまとまらなかったが、領平が直面していることはひょっとしたら想像以上に厄介な問題だということは確信を持てた。
治が帰ってきて、三人で食事をとり、三度目となるテレビドラマを結衣と見つつ、阿天坊から電話が来ることを恐れていたが、とうとう彼から小人についての連絡は来なかった。しかし夜の十時過ぎ、リビングの固定電話が鳴った。ディスプレイを見ても誰かわからなかった。昨日見た阿天坊の番号とは違った。
領平が電話に出ると、大人の男の声がした。
「夜分遅くに申し訳ありません。私、生嶋高校の末元良平君の担任の田中と申します。実はクラスメイトのことについて領平君に聞きたいことがありまして」
「あの、僕が領平です」
領平は心臓が大きく鼓動を打つのを感じた。いったいなんだ、これもオリジナルでは存在しないイベントだった。
「おお、領平だったか。すまない、入学そうそう悪いんだが、波戸崎について聞きたいことがあるんだ」
「波戸崎……ですか?」
「ああ、そうだ。波戸崎のことは知ってるだろ? 同じ中学出身だし、夕方教室に二人でいたもんな」
「え、ええ。知ってますけど」
領平はこんな夜遅くに担任がわざわざ領平に電話してまで訊きたい内容というのが想像つかなかった。
「単刀直入に聞く。お前波戸崎と何時まで一緒にいた? どこで別れた? どこかへ行くとか言ってなかったか?」
そう言う担任の声は電話越しでも真に迫っていることが容易にわかった。そしてなぜ担任が領平に電話をしてきたのか理解した。
「帰ってきてないんですか?」
「そ、それはだな。……ああ、そうだ。さっき歩戸崎の親御さんから電話がかかってきてな。それであいつが今どこにいるか知らないか?」
思った通りだった。波戸崎はあの時走り去ってからそのまま家に帰っていないのだ。となると誘拐や事故は考えにくいから、家出かあるいは。
「すみません、今どこにいるのかはわかりません。僕もあの後途中まで一緒に帰って、その後別れたので」
嘘はついていない。
「そうか……」
「でも、波戸崎の鞄なら僕が持ってます」
「お前が波戸崎の鞄をか? いったいどうして。いや、まあいい。すまないが明日登校するときにそれを持ってきてくれないか? 教室に来る前に職員室によって誰か適当な先生に渡してくれ」
「わかりました。でも先生、波戸崎が家出だとしたらすぐ帰ってくると思いますよ。鞄の中に財布があったんです。だから見知らぬ人の家に泊まっているわけでもなければすぐ家に」
すると受話器から素っ頓狂な声が聞こえてきた。
「財布が鞄の中にあるのか? それは確かに波戸崎のものなのか?」
「ええ。波戸崎の鞄に入っていたからそうだと思いますが」
「いや、そんなはずはない。波戸崎の財布は教室に落ちていたんだ。それには波戸崎の学生証が入っていたから確かに波戸崎のもののはずだが。いや、もしかして二つ持っていたのか?」
担任のぶつぶつと独り言を言う声を聴きながら、領平は昨日阿天坊が言っていた言葉を思い出した。
(教室で少し気になるものを見つけたんだ)
「せ、先生。それってどんな財布だったんですか?」
領平は背筋に寒気が走り、同時に激しい喉の渇きを覚えた。
(それは財布だった。波戸崎の財布だ。二つ折りにできるタイプのね)
「ん? 確かピンク色の奴だったな。二つ折りのだ。それがどうかしたのか?」
「つまり、波戸崎さんは財布を二つ持っていて、学校に置き忘れていたほうに小人族に付いてのメモがあったと君は考えているんだね?」
領平が話し終えると、グリムは難しそうな顔をして唸った。
「そうだ、中身を確かめたわけではないが、波戸崎の反応と前回の阿天坊の発言を顧みるに、そう断言しても構わないだろう。するとここで気になるのは二つだ。一つはどうして波戸崎が小人についての情報を知りえたのか、そのメモが誰かのものだとしたらそれは誰から、どうやって手に入れたのかだ。そして二つ目は今回、阿天坊は小人に関する情報を掴んだのかということだ」
「うん、そうだね。僕も領平と同意見だ。この二つの真相次第で次の時間遡行で君がすべきことがかなり変わってくる。さっき君は失敗だといったが、大収穫じゃないか。まだ謎は何も解決していないが、ピースを集めるのも一筋縄ではいかないことだよ。やはり君は僕が見込んだ通りの逸材だったわけだ」
グリムは組んでいた腕をほどくと、満足そうな顔をして領平を賛美した。しかしその動作はあまりにも仰々しく、治が結衣を褒めるときの姿と重なって見えた。
「なぁグリム、お前は阿天坊が今日、小人の存在に気が付くことは知っていたんだよな。それはどうしてわかったんだ?」
これは前々から気になっていたことだった。阿天坊が感づいたことを知っているのにその原因はわからないなどどう考えてもおかしい話だ。
「うーん。説明してあげたいんだけどね。僕たちにもよくわからないんだ」
「そんなふざけた話があるか。いい加減なことばかり言うなら俺はもう協力するのを辞めるぞ」
「まって、まって。別に君をからかっているわけでも機密事項というわけでもないよ。本当にわからないんだよ。僕たちには君たちにはない能力があるといったね」
「ああ、魔法だな」
「そうそう、その魔法だけど。ここでは第六感といったほうが分かりやすいかもしれない。ところで領平は気っていうものを感じるかい?」
「それは殺気とかの気か?」
「そうそう。気配ともいうよね。でも人間はそんなものを感じる器官なんてないし、そんなもの感じ取れるはずもないんだよね。実際には視覚や聴覚から得られる情報を気として感じているに過ぎないんだ」
「……。それがなんだっていうんだ」
「僕たち小人族は気みたいなものを感じ取ることができるんだ。そしてその能力で僕たちに危険が迫っていることを知ったんだ。そしてそれの原因がどうやら阿天坊くんらしいこともね」
「にわかには信じられん話だが。まぁ、そういうことにしておこう。タイムトラベルなんてものを体験してしまった今となってはもうどうでもいいことだ」
「君は本当に素直だね。それで、次の遡行の計画を立てようか。今回は幸いにも阿天坊君はいないみたいだしね」
「そうだな。俺は次回、阿天坊は放っておいて波戸崎の行動を監視してみようと思う。もし阿天坊が波戸崎から情報を得ているのだとしたらその根源を抑えることが解決につながると思うんだが。グリムはどう思う?」
グリムは二つ返事で賛成してくると思ったが、眉間にしわを寄せながら考え込んでいる様子だった。そしてしばらくの沈黙ののち、グリムが口を開いた。
「僕も同意見だ、と言いたいところなんだけどね。実はそういうわけにもいかないんだ」
「どういうことだ?」
「タイムスリップには限界があるということだよ。今まで領平は三回遡行してきた。そのたびに君は大きな手掛かりを持ってきてくれたのは事実だ。しかし僕たちの力にも限界があってね、単刀直入にいうと領平はあと二回しかやり直すことができない」
「な……」
「つまり君が次回、波戸崎の監視をしたとすると最後の一回ですべてを解決しなければいけない。一つのミスも許されないんだ」
「おい、そんな話初めて聞いたぞ! もし、波戸崎から何もヒントを得られなかったらどうしようもないってことじゃないか!」
「ごめんよ。あまりプレッシャーをかけたくなかったから今まで隠していたんだ。しかしもう限界が近くなっているから君に伝えなきゃと思ったんだ」
あまりに滅茶苦茶な話に領平は言葉を失った。
「でも、あまり気にしないでよ。波戸崎さんについて調べることは一番謎を解ける確率が高い方法だと思うよ。今のところ他に手段もないんだからやってみる価値は十分にあるよ」
だったらなぜわざわざ重圧をかけるようなことを言ったんだ? と問い詰めたくなったが堪え、領平は渋々首を縦に振った。
「よし、決まりだね! 健闘を祈るよ」
領平は緑の光に包まれながら、目の前の醜い小人の依頼を気軽に引き受けたことを後悔した。今の願いは一刻も早くこの束縛から解放されて日常に戻ることだった。
「ごめんなさ~い! 今日の最下位はうお座のあなたです! 慌てると取り返しのつかない失敗をするかもしれません。今日一日は時間に余裕を持って行動しましょう。うお座の皆さん、ラッキーアイテムは細長いものです」
領平は治たちを見送った後も学校へ行く支度はせずにこれから自分がするべきことについて考え続けていた。今回は入学式へは行かないことはタイムスリップする前から決めていたことだった。学校へ行ってもおそらく波戸崎と接触することはできない上、阿天坊と会うことで、その後の尾行が難しくなることは容易に想像できた。しかし、学校が終わるのが十二時過ぎであるため、それまでの時間はなるべく有効に使いたいところだった。波戸崎の後をつける前に知るべきことは領平と波戸崎は知り合いなのか否かだ。
領平は自室の本棚から中学のアルバムを取り出して開いた。高日中学は市内では小さめの学校だったが、それでも学年三クラス分の全員の顔を知っているわけでもなかった。しかし、前回は領平、阿天坊と波戸崎は同じクラスだったという。いくら女子と関わる機会が少なかったからと言って三年同じ教室で授業を受けた生徒を忘れているなんてことはあり得ない。つまり、卒業アルバムで領平と波戸崎が同じクラスにいたとすると三人は知り合いである可能性は高くなる。
三組のページを開いた。三十人強の生徒と教師の顔写真が見開きに跨って載っており、右のページの下側には教室の黒板前で盗られた集合写真がある。
領平はゆっくりと個人写真に目を向けた。一番にいたのは出席番号一番の阿天坊だった。中学生男子にしては長めの髪と大きく見開かれた猫のような目はアルバムの中でかなり目立っていた。女性的な端整な顔立ちと少し吊り上がった口角は胡散臭い詐欺師のように見えた。
次に領平の顔写真が目に入った。今の世界では自分が記憶通り三組にいた証拠があることも、重要な意味がある。ここで領平が阿天坊と違うクラスだった時には、もはや領平には打つ手がなくなるところだった。ぼさぼさの髪と黒縁の眼鏡をかけた写真は先ほどの阿天坊のそれと正反対のもののように思われた。
そして、果たして最後の欄に波戸崎の顔があった。肩より下まで髪が伸びている眼鏡をかけたいかにも陰鬱そうな少女。個人写真なのにカメラを向いていない彼女の目は、彼女の自信の無さを表しているようだった。
領平は両手で頭を支えるようにしてうなだれた。やはりこの世界でもバタフライエフェクトは起こっていた。もはや阿天坊を止めるために何をすればいいのかすらわからなくなっていた。阿天坊とは小学生のころからの良く知った仲であるはずだが、今は赤の他人よりも遠い関係にあるように思われた。
アルバムを本棚に戻そうとしたところ、その左にもう一冊アルバムがあることに気付いた。黒の重厚そうな布表紙のアルバム、小学校のものだった。
チャイムが鳴ってから十分ほど経ち、次第に正門から生徒が出てきた。領平校門から少し離れた場所で、波戸崎を見逃さないように念入りに生徒の顔を確認していた。生嶋高校には正門である北口と裏門の南口の二つがあったが、小山の上に位置する校舎からつながる道は一つしかなく、南口を使う生徒はほとんどいないはずだった。
今回の目的は波戸崎の行動を徹底的に監視することだったが、どうしてもやっておかなければいけないことがあった。放課後、教室で阿天坊が見つけるより先に波戸崎の財布を手にすることだった。今のところ波戸崎の財布にある小人について書かれたメモの存在は確定していないが、それが仮にあるとしたら阿天坊が小人の存在に気付いた原因として一番可能性が高いものだ。だが、なぜか正史と大きな相違のある現在、財布をどうにかすれば問題が解決するという考えはあまりに楽観的すぎた。そのため財布の入手と謎を握っている根本と思われる波戸崎の監視を行わなければならない。
しかしこのミッションは非常に難易度の高いものだ。第一に波戸崎の住所も知らない状態で教室に財布を取りに行くことはできない。つまり、最低でも波戸崎が帰宅するまでは動くことができないということになる。すると気になることは阿天坊がいつ波戸崎の財布を見付けるのかということだ。領平が入学式に行かないパターンは初めてのため、それがいつになるかは皆目見当もつかない。したがって非常にリスクの大きい賭けに出る必要があるのだ。
入学式へ行って波戸崎が財布を落とした途端に直接入手することも考えたが、学校ではずっと阿天坊がそばにいるため、観察力の鋭い阿天坊にはすぐに私の窃盗行為に気付くだろうから却下された。
だが丸っきりのギャンブルというわけでも無かった。そもそも阿天坊が小人に気付い
きっかけが波戸崎のメモだと考えたのは二回目のタイムスリップでまさに彼がそう告げてきたからだった。そしてメモを見つけたのは放課後、忘れ物を取りに学校へ戻ったときだといっていた。もちろん今回もそうなる保証などどこにもないが、それでも期待するに足る根拠だ。
チャイムが鳴ってから三十分ほど経ち、生徒の姿も疎らになってきたころ、とうとう波戸崎は現れた。猫背でうつむきながら歩いているため、顔はよく見えなかったが、領平には彼女が波戸崎本人だとはっきり分かった。
領平は視界の中に波戸崎を入れたまま、なるべく顔を見られないようにあらかじめ持ってきていたニット帽を深くかぶった。波戸崎と領平が知り合いでない世界線だった場合、ここまでする必要はなかったが、今回は中学同じクラスだったことは確定しているため、領平のことを気づかれるだけでもアウトだった。
領平は波戸崎に気付かれないように細心の注意を図りながら十五メートルほど後ろをゆっくりと付けた。彼女の歩調は非常にゆっくりで、距離を縮めないように歩くだけでも至難の業だった。尾行の困難はそれだけでなく、信号で彼女の足が止まったり、他の通行人に怪しまれないようにしたりすることにも神経をすり減らせる思いだった。
しばらくして、前回彼女が発狂して走り去った河川敷まで来た。そしてふと、一つ疑問が頭に浮かんだ。
昨日、阿天坊との会話で波戸崎がカギを握っていると思いこみ、勢いで学校へ戻ったとき、確かに波戸崎は教室にいた。その時はクラス委員長である波戸崎が日誌を担任に渡すため教室で待っているという状況になんの違和感も覚えなかったが、よく考えるとそれはおかしい。学校が終わったのが十二時過ぎで、領平が教室に戻ったのは十七時頃だった。五時間も放課後教室に残っているのは何かほかに目的があったと考えるのが自然だ。そしてその目的とは──。
「領平? いったいこんなところで何をしてるんだ?」
領平は後ろからの声を聴いて思わず飛び上がりそうになった。一番危惧していた事態になってしまった。振り返るまでもない。この忌々しき頭に響く甲高い声を持つ人物は領平が知る限りただ一人しかいなかった。
「阿天坊、なんでここにいるんだ?」
相変わらずの自分はすべてを見通しているのだ、とでも言いたげな目で領平に問い返してきた。
「それは僕の台詞だよ。領平、どうして今日入学式に来なかったんだい? それにその恰好、傍からみたら不審者みたいだよ」
「関係ないだろ。頼む、今は放っておいてくれないか。お前に構っている暇はないんだよ」
「友人がストーキング行為をしているなら止めようとするのが友情ってもんだろ。関係ないわけないだろう」
尾行していることもバレているのか。
「どうして波戸崎を尾行するんだい? 久しぶりに会ったんだ。普通に話しかけに行けばいいじゃないか。ぜひストーカーする理由を聞かせてもらいたいね」
領平は必死に思考を働かせ、この状況を打破する方法を模索した。しかし阿天坊の前ではどんな言い訳も小細工も意味をなしそうになかった。すると波戸崎の尾行は失敗したことになる。しかし落胆している暇はなかった。領平が次にすべきことはとっくに決まっていた。
「ねぇ、領平。いったいどうしたんだい? 答えてくれよ」
領平は阿天坊の横をすり抜け、両足全力で前後に振り、駆け出した。一度阿天坊に目をつけられたらもはや逃げるすべはないことは分かっていた。すべてを吐露するまで粘着し続ける、阿天坊はそういう男だった。
唖然として立ち尽くす阿天坊を背に、領平は足を緩めることなく学校へ全速力で駆けて行った。運動は苦手で、体育の成績も悪く、部活動もやっていなかった領平にとって、高校までの直線距離にしておよそ千五百メートルの中距離走は限りなく苦行に近いものだった。
校門前で背中を丸め、息を整えながら恐る恐る振り向いたが、阿天坊の姿はなかった。
波戸崎の尾行は失敗したが、まだ小人に関するメモが残っている。せめてこれだけでも真相を突き止めなければならなかった。そうでないと次回、最後のタイムスリップで手掛かりが何一つない状態で阿天坊を阻止しなければならないことになる。
制服を着ていなかったため、教師に見られた場合面倒なことになると思っていたが、幸いにも誰とも会わずに教室まで来ることができた。
教室には誰も残っていなかった。がらんとした教室を見渡しながら、ゆっくりと波戸崎の席まで近づいていった。しかし、波戸崎の机の周りを探しても財布らしきものはどこにも落ちてなどいなかった。その後も教壇の周りや、他の机の下、果ては廊下まで丹念に探したが財布はどこにもなかった。
考えられるのは三パターンだった。一つ目はそもそも波戸崎が財布を落とすことのない世界線だという仮説。二つ目はもうすでに誰かが拾っているという仮説。三つ目は波戸崎が財布を落とすのはこの後だという仮説だ。
領平は一つ目の可能性は低いと考えていた。波戸崎が財布を落としたのは二回目と三回目の両方で起こっている。これは一時的なバタフライエフェクトというより、正史であったこととみなしていいだろう。するとちょっとやそっとの事では変化しないはずだ。それは理屈ではなく今まで三回タイムスリップした領平自身の経験に元図いたものだった。
そうなると考えられるのは二つ目と三つ目だった。だが、領平は半ば三つ目の可能性が高いだろうと踏んでいた。そもそも阿天坊を振り切ってまで教室に財布を探しに来たのも三つ目の仮説を確かめたかったからだった。つまり財布がないことを確認することが目的だったということだ。
財布がないことが確認できたため、あとは波戸崎が教室に来るのを待つだけだった。なるべく見つかりにくいところへ隠れようと教室の中を探ろうとしてその時、教室の後方にある引き戸が大きな音を立てて開かれた。
立っていたのは波戸崎だった。領平はしまったと思い、波戸崎に説明する言葉を思索した。
しかし波戸崎は狼狽する領平と対照的に、まるで教室に領平がいることはあらかじめ知っていたかのように、その目を背けることなく一直線に近づいてきた。固く結ばれた唇と怒気を孕んだその顔は領平に威圧感を与えた。
領平は一歩後ずさったが、波戸崎は足を止める気配はない。
「波戸崎さん……? いったいどうし」
波戸崎が領平にぶつかった。最初は躓いて倒れ掛かってきたのかと思った。しかしそうではなかった。彼女は明確な悪意を持って故意に領平に衝突していた。
それに気づいたのは腹部にある種の違和感を覚えてからだった。身体の中に冷たい何かが突き刺さっていた。それを意識した瞬間身体全体に凄まじい寒気が走った。鳥肌が立ち、呼吸が浅くなると、少し遅れて激痛が訪れた。
悲鳴を上げることもできず、呼気に交じってか細い声がこぼれた。
「熱い、熱い、熱い……!」
包丁が刺さった臍のあたりは尋常じゃないほどの熱を帯びていた。領平は倒れ、体を丸めた。痛みは波のように一定の周期でそのたびにより大きくなって襲ってくる。
波戸崎は涙を流しながら痙攣する領平の姿を見ると、満足したかのようにほほ笑み、踵を返し領平を残したまま教室を去った。
「痛い、痛い。はぁ、はぁ……。救急車……。だれか……」
次第に思考力は消えていき、脱水症になったときのような喉の渇きと激しい頭痛を感じながら視界は狭くなっていき、領平は意識を失った。
「領平、起きなよ。おーい、領平!」
グリムの呼び声で目が覚めた。辺りは真っ暗で、領平はベンチの上で横たわっていた。汗ばんだシャツが体にこびりつく不快な感覚と頭痛を感じながら、自分が死んでいないことを認識した。試しに腹をそっと触ってみたが痛みはなかった。ゆっくりと上半身を起こすと、ここがグリムと待ち合わせに使っている公園だということに気付いた。腕時計は十九時を指している。
「グリム、何があった? 俺はなぜここにいる?」
唾液がほとんど残っていないため、舌を動かすたびにニチャニチャと音を立てた。
先ほどの事と言い、情況を全く呑み込めていないため、かなり頭が混乱していた。波戸崎に刺されたのは夢だったのだろうか、服をめくって腹部を見ても傷ひとつない。
「それはこっちの台詞だよ。いったい何がどうなったらあんな状況になるんだい? 僕がいなかったら君の人生は今日で終わるところだったんだよ」
「……状況を説明してくれ。俺には何が何だかさっぱりなんだ」
グリムは肩をすくめ、渋々といった様子で語りだした。
「君も知っての通り僕は夜にしか君に干渉できない。だからそれまで君が何をしているのか、どんな状態なのか知るすべはないんだ。正史との差異はなるべく起こさないほうがいいからね。だけど、もしものときに備えて一応日が暮れたあたりから公園で待っていたんだ。そして待つこと数時間、領平の身に危機が迫っていることを察知した」
「それは、前回言っていた第六感っていうやつか?」
「そうそう。この第六感はちょっとやそっとの事では反応しないからね。それこそ小人族の危機だとか、かなりヤバい時にしか発動しないんだ。だから君の身に何か起こったって知ったときはかなり焦ったよ」
「おい待て。そんな大事の時にしか使えないなら、どうして俺の危機がお前の第六感に反応するんだ?」
「それは君の運命が僕たち種族の運命に直結している時からだよ。残念ながら君が個人的に大切な人だからとかそういう類の理由じゃないよ。……そうそう。それで、焦った僕は聖地との差異が生まれることも承知の上で君の素へ向かった。といっても君がどこにいるかはわからないから結構時間がかかっちゃったけどね。いろいろなところを周った後で、君の高校へ向かった。するとおびただしい数のパトカーが止まって人がいっぱい集まっていたからこれだ、と思ったよ」
「やっぱりあれは夢じゃなかったのか。俺は波戸崎に刺されたんだな? あいつはどうなった?」
グリムは両手を前に突き出し、落ち着くように動作で指示した。
「そんなにいっぺんに質問しないでよ。今は僕の話を聞いて。ええっと、どこまで話したっけ。そうそう、警察と教師との話を聞いて君が運ばれたのが大学病院だと知った僕は一目散に病院に向かった。病院みたいに人がたくさんいるところは見つかるリスクが高いから行かないほうがいいんだけど、そんなことも言ってもいられなかったから、危険を冒して中に入ったんだ。いろいろ探してみると君は手術中らしいことが分かった。詳しいことは分からないけど、話の雰囲気からするに生きるか死ぬかの境目らしかったよ。そして僕は急いで病室に入って魔法を使った。君の傷をいやす魔法で、人間に効果あるのかは知らなかったけど君の様子を見る限り効くみたいだね。それで当然手術は中断して取り敢えず入院ってことになったんだ。明日精密検査を受けるってことでね。で、僕が病室で寝ている君をここまで運んできたっていうわけさ」
「俺はお前に助けられたってことか」
領平は未だに生きている実感はわかなかったし、信じ信じ難い話でもあったが、今着ている服が入院患者用の寝巻だということは、グリムの説明を裏付けていた。
「なに言っているんだ。君が僕たちを助けてくれるんだから当たり前じゃないか。君が死んだら誰が僕たちの運命を救ってくれるのさ」
「ああ、それもそうだったな。俺も今日のことを話すよ。……といってもほとんどは意識を失っていたし、作戦は失敗したから収穫はほぼゼロだがな」
領平が話し終えると、グリムは頭を抱えたままうずくまり、あたかもこの世の終わりだとでもいったような声で念仏のようなものを唱え始めた。小人族にも宗教はあるのだろうか。
「グリム、お前はもう打つ手なしと思っているかもしれないが、絶望するのはまだ早いだろ。まだ最後の一回のタイムスリップが残っているんだ」
領平は計画を失敗させた張本人として、それなりの罪悪感を覚えながらも、そっと諭すようにグリムに語りかけた。
「もう無理だよ、領平。謎は何一つ解けていないじゃないか。それどころか深まる一方だ。なぜ波戸崎は領平を刺したんだ? 僕はてっきり領平が病院へ運ばれたのは階段で転ぶか何かしただけと楽観していたのに。まさか事態はそこまで複雑だったとは……」
「階段で転んで腹に穴は開かないだろ。なぁ、グリム。わからなかったら考えればいいだろ。俺は今まで四回タイムスリップをしてきて、その度にたくさんのピースを拾ってきた。ただのゴミだと思えたピースが組み合わさって謎を解くきっかけになるかもしれないだろ」
「気休めはやめてよ。僕たちが阿天坊君に見つかったら、今まで通りの暮らしはできなくなるんだ。文化や技術、魔法や生態までありとあらゆるものを人間に調べつくされて、コロンブスに発見されたインディアンと同じ末路をたどるんだよ。」
そういうとグリムは嗚咽しだした。目からは涙がボロボロと零れだしている。考えてみると、グリムがここまで感情をあらわにしている姿を見るのは初めてだった。今まで笑う仕草などは何度も見せていたが、その目は毅然としていたが、ここにきて初めてその信念に揺らぎが出たようだった。しかしその姿は自分たちの文化が破壊される恐怖に対してというよりはどこか他のものへの恐れによるものに思われた。
「なぁグリム。お前何か隠し事をしているんじゃないか? 自分たちに危害を加えうる阿天坊に対して本当にされるがまま、すべてを受け入れるというのか」
するとグリムは地面の一点を見つめ、しばらくの沈黙の後、口を開いた。
「そうだね、ここまで手伝ってくれて、阿天坊君の親友である領平には言わなければならないと思っていたんだ。今決心がついたよ。君の言う通り、阿天坊君は明らかに僕たちに大きな不利益をもたらす。僕たちはそれを阻止しようと必死になっている。領平に手伝ってもらって時間の流れを変えようとしているのもその一つだ」
「その一つっていうことは、そのほかにも何かしようとしているんだな?」
グリムはいつものように口だけで笑顔を作った。それは肯定を意味していた。
「それは僕たちの賭けのような不確実なものではなく、ある意味百パーセントの防止力を持っているんだ。でも、僕は何とか頼み込んでチャンスをもらったんだ。その方法を使わずに済むように、とね」
そのとき領平の頭にグリムと初めて会った時の会話が思い浮かんだ。そして、それと同時に領平は小人族の計画を理解した。
「阿天坊を殺すんだな」
グリムは何も答えなかった。うつむいて自分の足先を見つめていた。だがそれは肯定以外の何物でもなかった。
グリムの返事がないので領平は続ける。
「初めてお前にあったとき、俺は聞いたよな? 阿天坊を始末すればいいのかと。でもお前はそれに否定した。その思想の卑劣さを責めるように。最初、それは俺を批判しているのかと思ったよ。でも違ったんだな。その言葉は阿天坊の殺害を決定した小人族の仲間に対するものだった」
グリムは降参だとでも言わんばかりに地面に膝をつき、上目づかいで領平を見た。そしてこくりと一つ頷くと事の顛末を語り始めた。
阿天坊グリムはもともと阿天坊の対策係などではなかった。小人族に危機が迫っていること、そしてその原因が阿天坊五樹という一人の人間であることを予知した小人族は、すぐに緊急対策本部を立ち上げた。そして議論の末、ひとつの案が採択された。それが阿天坊が小人族に気付いた当日の深夜零時に殺害し、処理するというものだった。これに異議を唱えたのがグリムだった。グリムは小人族だけでなく人間のような生物の生命も保証されるべきだという立場をとるいわば人権派の学者だった。しかし具体的な代替案を提示できないグリムに対し、対策本部は時間を与え、その期間内に解決できなければ元の案を実行すると言い渡した。そしてその時間がタイムマシンに設定された五日分だった。タイムマシンを動かすのに必要な原料は小人族の間で貴重な資源だったが、人権派学者として市民から絶大な人気を誇っている彼に賛同する世論を鑑みたからこそ許された特例だった。
「……つまり、お前の目的は阿天坊の殺害を食い止めることだったんだな。だからいつも日付が変わる前にタイムスリップをしていたと」
「そうなんだ。お察しの通り、時間の流れには弱い不可逆性と強い不可逆性というものがあってね、君たちが観測している時間の流れは弱い可逆性と呼ばれるもので、これはタイムマシンを使うことで打ち消すことができるんだ。だから過去へ戻れる。でも、人や生物の生き死にに関することは強い不可逆性と言って、これは一度確定したらやり直すことはできないんだ。少なくとも僕たちの力では、だけどね」
「難しい話はよく分からないが、とにかくお前の目的は当初のものと変わらないということだな?」
「それはそうだけどこうなったらもう計画は失敗したも同然だよ。君もわかっているだろう? 阿天坊君はもう助からない。僕のしてきたことは無駄になったんだ」
そういい終わるとグリムはおもむろに公園の時計を見た。時刻は二一時過ぎ。阿天坊が小人族によって殺されるまであと三時間を切っていた。
「なぁグリム。俺は阿天坊が好きじゃない。仲良くないし友達でもない。でも俺はあいつをみすみす殺したくないんだ。これはお前だけの問題じゃない。俺の問題でもあるんだ」
「領平……」
グリムはようやく顔を上げ、領平の目を見つめた。そこには今までの何を考えているかわからない無機質な表情ではなく、生き生きとした決意を秘めた顔があった。
「二時間だ。二時間だけ考えさせてくれ。そして最後の一時間で最後のタイムスリップの計画を二人で決めるんだ」
「勝算はあるのかい? はっきり言って三回目のタイムスリップをふいにした今の状況ですべての謎を解くのは不可能に近い。其れより捨て身で直接阿天坊君を拘束してでも小人について知ることを防ぐほうが可能性が高いと思うよ」
領平は首を横に振った。
「それでは翌日の阿天坊の行動までは保証できない。俺たちがすべきことは根源の解決だ。そのためには複雑に絡み合うピースから法則性を求めなければならない。なに、大丈夫だ。俺はずっと阿天坊のそばにいた。あいつのつもりになって考えてみるさ」
──考えろ、考えるんだ。すべての謎は一つにつながっているはずだ。どんなに些細な言動でも思い出せ。どんなにバカげた仮説でも考えろ。今、俺にできることはこれしかない。波戸崎の存在。中学に同じクラスだったというありえない過去。財布の中に入っていた小人のメモ、俺を刺した理由。阿天坊が放課後の学校へ戻った理由。木下文具店で万引きをした小学生。そしてあの時の阿天坊の台詞の意味──
「わかった。何もかもがわかったよ、グリム」
領平はいつの間にか全身に汗をかいていた。パジャマの袖で額の汗をぬぐった。時刻は二十三時。
「そ、それは本当かい? 阿天坊君を助けられるんだね! それで、真相はいったい?!」
興奮して飛び跳ねるグリムを横目に、領平は今まで体験したことのないような恍惚とした気分に浸っていた。謎を解いた瞬間、脳内から大量の快楽物質が飛び出し、張り詰めた緊張をほぐしていくのを感じた。
「落ち着くんだ、グリム。順を追ってすべて話すよ」
領平は脳内に散らばった様々な事実を整理しながら、目の前で立っている小人に向かいあうようにベンチに座った。
「俺たちは今まで難しく考えすぎていたんだ。パラレルワールドだのバタフライエフェクトだの言って、本質を見失っていたんだ」
「本質っていうのは?」
落ち着かない様子ながらもグリムは地べたに座った。
「原理として認めるべきは二つだ。一つはタイムスリップするより前の世界は変化しないこと。二つ目はバタフライエフェクトは短期間では発生しないことだ」
「それは僕だって考えたさ。でもそれを否定する存在が波戸崎千賀だろう。その原理は町があっているんだ」
グリムは眉を顰めた。
「いいや、違うんだ。発想を逆転させるんだ。原理を認めると波戸崎関連の事象が間違いだということになる。つまり」
「まさか、君は波戸崎と三年間同じクラスだったと認めるということかい?! ばかげているよ、そんなの。いくら名字が違うからって、三年間一緒に授業を受けた女子のことを忘れるはずがないじゃないか」
「そう、まさにそうなんだ。どう考えても三年間一緒に授業を受けていた女子を忘れるなんてありえない。──なら一緒に授業を受けていなかったと考えたらどうだ?」
「何を言って……。まさか──」
「そう、そのとおりだ。波戸崎千佳は中学三年間一度も学校へ来ていないんだ。不登校だったんだよ」
「そんなバカな話があるなんて」
「だがそう考えたら整合する。卒業アルバムにも個人写真は載っていたが、集合写真は確認していない。十中八九そこに彼女はいないはずだ」
グリムは呆然とした顔で聞いていたが、領平が言い切ると即座に反論してきた。
「領平、残念だけどその推理は完全に破綻しているよ。矛盾がある。いくら不登校だからって一年同じクラスだった娘の名前を知らないというのはあり得ないよ。教室に机はおいてあるはずだし、クラスみんなで色紙をかいたりしたことくらいはあるだろう? それにそんな子がいるならクラス内で噂になっているはずだ」
「それは簡単に説明がつく。彼女は不登校といっても普通の不登校とは違うんだよ。彼女は一度も学校に来たことはなかったし、教室に机も置いていなかった。さらに言えば出席簿にも彼女の名前は載っていなかっただろう」
「何をバカな……。そんなことあるわけないよ」
「そう、普通ならな。だが彼女は特別だった。彼女は院内学級に通っていたんだ」
「院内学級?」
「そうだ。なんらかの病気で長期の入院をする場合、大学病院などでは病院内に分校として学級をつくることがあるんだ。だから波戸崎は入院するタイミングで高日中学に転校してきたが、校舎へ来ることはなかったし、俺たちとのかかわりもなかったんだ」
「だったらなおさらおかしいじゃないか! なぜ阿天坊君は波戸崎の存在を知っていたんだ、なぜ波戸崎は領平のことを知っていたんだ!」
グリムの太い声が公園中に響いたが、すぐに元の静寂に戻った。領平は一瞬肝が冷えたが、誰もいないことを知り、胸をなでおろした。
「阿天坊が波戸崎のことを知っていたのは阿天坊が学級委員長だったからだ。あの時は意味が分からなかったから流していたが、今ならわかる。波戸崎は確かに院内学級に通っていたが、おそらく本校の生徒と交流会みたいなのがあったんだろう。それを学級委員の阿天坊が任された。だから阿天坊は波戸崎のことを知っていた」
「じゃあなぜ波戸崎は……?」
「それは小学校のアルバムの中に答えが載っていたよ。俺は確かに波戸崎と会ったことがあった。だがそれは小学生のときだった。俺の母親は結衣が生まれる前に、大学病院の産婦人科に通っていて、そこによくついて行っていたんだ。そしてそこで待ち時間が暇だった俺は病院の中を歩き回っていた。そこである少女に出会った。同い年だった俺たちは一緒にゲームをしたりトランプをしたりして遊んだ。母親が結衣を生むまで何度もな」
「その少女が波戸崎千佳ってことなのかい? でもいくら五年前だからって気づくだろう。現に波戸崎が君のことを覚えているんだ」
「彼女は癌だったんだ。抗うつ剤の作用で髪が抜けていたんだろう。いつもニット帽をかぶっていた。そしてその時彼女が名乗った名前は横山千賀だった」
「横山……? 波戸崎じゃないのか」
「そう、彼女は名字が変わっているんだ。両親の離婚なのか再婚なのかわからないが、それは小学校のアルバムを見て気づいたよ。彼女が波戸崎だってな」
「つまり、横山千賀は領平と同じ中学だったけど、癌になって院内学級にいた。そして回復して高日中学とは別の中学に行った。でもまた中二で再発して再び院内学級へ、その時に高日中学へ転校。そして回復した彼女は領平と同じ生嶋高校へ進学した、そういう事か?」
「ああ、阿天坊が僕と波戸崎が知り合いだということを知っていたのは交流の時に聞いたんだろう。そしてここからはただの推測だが、阿天坊はその後も何度も大学病院に足を運んだんだろう。それは阿天坊が波戸崎のことを好きだったからだ。そう考えると阿天坊がわざわざ生嶋高校を選択した理由がわかる」
「だけど、それがわかったからって波戸崎が小人のことを知っていた理由はなにも説明できていない! なぜ波戸崎の財布に小人のメモが入っていて、三度目の時間遡行では君を刺し殺そうとしたんだ」
「すべては勘違いだったんだ。彼女は小人の事なんて知らない。あのメモには小人なんて書いてないんだ」
「そんなばかな。じゃあ阿天坊君が放課後の教室で見たメモはどういうことだい? 『小人 新江公園』と書いてあったんだろ。阿天坊君が嘘をついていたということなのか?」
「あれこそが思い込みなんだ。俺はあのメモを見ていないが、実際はそんなこと書かれていないんだよ。正しくは『ユビ人 シンコウ コウエン』だ」
グリムは目を見開き、尋ねるような目つきで領平を見つめた。
「実にばかばかしいよ。だけどこれが事実だ。これの意味するところは神光戦士ヒカリファイザーの紅炎レッド指人形だ。このメモが何を意味しているのかは分からないが、想像するに波戸崎には弟がいる、そしてその弟に買ってくるように頼まれたんじゃないだろうか」
「ば、ばかげてる。じゃあ彼女は小人のことは何も知らなかったってことか? 偶然の一致でそんなことが……」
「だが理には適っている。神光戦士なんて子供の間でだけはやっているアニメだからな、漢字が思い浮かばないからカタカナで書くというのも自然だ」
「しかし、君は実際にそのメモを見たわけではないだろう。阿天坊君がユビ人をコビトと見間違えるだろうか」
「それは俺のせいだ。俺はその日、昼間にファストフード店で阿天坊に小人を見たことがあるかと尋ねた。きっとあいつはそのあとずっと小人のことについて考えていたんだろう。だからそんな単純なミスを犯してしまったんだ」
「そうだったのか……。じゃあ波戸崎が君に小人のことを言い詰められて発狂したのは、そして次の遡行で君を刺したのはなぜだい?」
「それは──」
「君が波戸崎のことを覚えていなかったからだよ」
突然の背後からの声に領平とグリムは不意を突かれ、振り返った。そこには阿天坊五樹が立っていた。
「阿天坊、なぜここにいる」
領平は静かに聞いた。グリムを見ると、がくがくと震えている。
「ごめんよ、領平。話は全部聞かせてもらったよ。いやはやこの世界に小人、タイムマシンなんてものが存在するとはね。驚きだ」
阿天坊は落ち着き払っている。グリムと領平を交互に見比べるその目はこの状況では異質なくらい穏やかだった。阿天坊は続ける。
「二人とも、落ち着いてくれ。君はグリムというのかい? 初めまして、僕は阿天坊五樹だ。と言っても君は僕のことをしっているみたいだけどね。盗み聞きして悪かった、だが今の状況は把握したつもりだ」
「なぜここにいるんだ、阿天坊」
領平は一音一音正確に、力強く発した。
「君の見舞いに行こうと思い、大学病院に訪れたが、面会謝絶だったからね。諦めて帰ろうとしたところ窓から降りてくる領平と小人が見えたのさ。それを追ってきたらすごい話をしだしたもんだから驚いたな」
阿天坊はクスリと笑った。だが、領平には阿天坊の真意を読み取ることができなかった。
「僕が君たちの前に姿を現した目的を知りたがっている顔だね」
なぜこの男は顔を見ただけでそんなことまでわかるのだろう。
「ああ、そうだ。正直不気味だ。なんせタイムマシンだぞ。そんなバカげた話をすぐ信じるようなお前じゃないことは知っている」
「そうだね、僕もタイムマシンは信じていない。小人のグリム君のこともただの小人症の妄想と現実の区別がつかなくなっているかわいそうな人、と思えば簡単だろう。だが僕は領平のことを信じたい。たとえどれほど馬鹿げた話であってもね」
そう口にした阿天坊の目は清く澄んでいた。この男をそこまでさせる原因はなんなのだろう。
「なぜかって? 残念だが領平を信じているわけではないよ。君は友人以上親友未満の関係だからね。ただ、僕は波戸崎さんが関わっていると知っているなら、どんなことでも見過ごしたくはないんだ。僕は波戸崎さんを愛しているからね」
一瞬阿天坊なりの小粋なジョークだろうかと思った。しかし、阿天坊の領平を見据える揺るぎない眼差しを見る限り、どうやらそうではないようだった。阿天坊は本気で言っていた。
「愛している……? 正気か、阿天坊?」
「何をもってして正気か判断するのかは知らないが、僕は正気なつもりだよ。もっとも僕が正気じゃなかったから自分が正気か判断することはできないだろうから、結局は君のような第三者に委ねられるんじゃないか?」
「もういい、もういい。お前はいつもの阿天坊五樹だよ。俺が保証する。それで、なんで急に波戸崎のことを愛してるだなんて言い出したんだ? それがお前が姿を現したのとどう関係しているんだ」
「なぜも何も、さっき君が言っていたように、僕は中学の時、学級員として一度波戸崎さんの見舞いに行ったことがある。その時は十分くらい話しただけだったけれどね。だけど、僕はその時とても波戸崎さんのことに興味が沸いた。彼女に惚れたんだ。だから僕はそのごも個人的に彼女のところへと通うようになっていった。そうするうちに僕らはだんだんと親密になっていった」
「お前も恋愛に関しては普通なんだな……」
領平は阿天坊がこれほど俗っぽい恋をしていたなど知らなかった。ひいては一目ぼれとは。
「話の腰を折るのは控えていただきたい。そしてある日、彼女から小学校の時に出会った男の子の話を聞いた。入院していた時に仲良くなった同学年の男の子の話をね。僕はその話を聞いてすぐにわかった。これは領平の話だと。結衣ちゃんが生まれた時期とその男の子がいなくなった時期がちょうど重なっていたこともその説をさらに裏付けていた」
だから阿天坊は領平が波戸崎のことを覚えていないと話した時に激怒したのだろう。自分の好きな女性を軽んじられたような思いがしたのか。しかし、実際には領平が出会った彼女は抗がん剤の影響で髪の毛がなく、名字も波戸崎ではなく横山だったのだ。そのことが両者のすれ違いを加速させた。
「僕は波戸崎さんに猛烈なアプローチをした。しかし彼女の返事はいつもノーだった。その理由は、闘病生活で一番つらい時に精神的に支えてくれた君の事をずっと想い続けていたからだ。その強い気持ちを知った僕は諦めたよ。もちろん彼女への愛情は消えてなどいない、しかし、彼女の濃い字を応援することを決めたのさ。だから僕は君の進学する高校を彼女に教えた。彼女は院内学級へ通っていたとはいえ、受験勉強などは全く進んでいなかったから、僕は毎日放課後に大学病院へ通って彼女に勉強を教えた。これも領平と波戸崎さんをくっつけるためにね」
阿天坊は話しつかれたのか一息ついた。
「お、おい。まさか阿天坊、お前がわざわざ生嶋高校に進学した理由って」
「そうさ、波戸崎さんと君が結ばれるようにサポートするためだ」
いかれてる、領平はそう思った。わざわざ恋のキューピットになるために自分の進路を棒に振るのか? だが、領平は中学での阿天坊を思い返した。自分の信念を曲げることは何よりも嫌いなこの男だ。愛した女性のためならそれくらいどうってことないのだろう。
領平は阿天坊の顔を見つめた。阿天坊は少し照れくさそうにしながらも口元に軽い笑みを浮かべていた。
「それでどうして波戸崎さんが小人のメモについて問い詰めた時発狂したか、そして君を刺したかだったね。それは単純さ。波戸崎さんが君のことを好きだったから、そして君が波戸崎さんのことを覚えていなかったからだ。それほどまでに彼女は君のことを一途に思い続けていたのさ」
そんな単純な理由で人は人を刺したりするものだろうか。確かにニュースなどでは毎日のように痴情のもつれによる殺傷殺人事件は起きているが、まさか自分自身がその当事者になろうとは思いもしなかった。
「でもなぜ彼女はあの時包丁を持っていたんだ。なぜ教室にいる俺をいきなり刺した? 今回は彼女と話してすらいないんだぞ」
「それはね、僕が教えたからさ。領平が君をストーキングしているとね。その事実と領平が入学式をさぼった事実とが彼女に何らかの疑惑を抱かせたんだろう。それこそ刺し殺そうとするくらいのね」
発端はこの男だったのか。せめて詫びる姿勢くらいは見せてほしいものだった。しかしそれにしても恋愛がらみの女の執念というものは恐ろしい。だんだんと阿天坊にお似合いの女のように思えてきた。
「ちょっと待ってよ! 二人とも!」
それまで黙っていたグリムが声を発した。
「どうした、グリム?」
「どうしたじゃないよ! 二人の推理が仮に正しいというなら、阿天坊君も波戸崎さんも小人の事なんて何も知らないし、僕たちに危機なんて初めから音連れていなかったっていうのかい!?」
「そういうことになるな」
阿天坊は顎に手を当てて答える。斜め上を見ているのはもう一度情報を頭の中で整理しているのだろう。
「そんなはずないよ、だって僕たちの第六感は外れたことがないんだ。君たちの推理が間違っているとしか思えない」
「なぁ、グリム。もし仮に、グリムが解決策を得られなくて、対策本部が阿天坊を殺すとなったとき、その手段はなんだ? 場所は決まっているのか?」
「うーん、どうやって殺すつもりだったのかはわからないけど、場所ならわかるよ。この公園だよ。詳しいことは分からないけど、僕たちの世界と君たちの世界を行き来するには、特定の場所じゃないとできないらしいんだ」
「そしてこの公園がその特定の場所っていうことだね」
「なるほど、それならなぜ第六感が働いたのかはわかるな」
領平の言葉に阿天坊はうなずいた。しかし、グリムはその意を解していないようだった。その様子を見て阿天坊が説明する。
そもそも領平が阿天坊が小人の存在に気付いたきっかけと考えていたものは波戸崎が落とした財布の中に入っていたメモだった。それを見た阿天坊は小人の存在を疑った。そして阿天坊はメモに書かれていた新江公園へ向かう。するとその時に阿天坊の排除をもくろむ対策本部と出くわす。この時初めて阿天坊は小人の存在を確認することになる。
「でもまってよ、それはおかしいんじゃない?」
阿天坊の説明にグリムが異を唱える。
「阿天坊君が波戸崎さんのメモを見て小人の存在を疑ったのは一回目の時間遡行の時、領平が阿天坊君にそれとなく小人の存在をほのめかしたからだろう? その結果阿天坊君はメモを見たときに先入観が働き子供向けアニメのことが書かれているとわからなかったんだ。だからオリジナルの阿天坊君がメモを見ても公園に向かうとは考えらにくい。そしてもう一つ、そもそも阿天坊君が認識することになる小人たちは阿天坊君を殺そうとする小人の事だろう。どう考えてもそれはおかしいじゃないか。時系列が滅茶苦茶になる」
確かにそうかもしれなかった。阿天坊のグリムにした説明は領平が考えていたものとほぼ同じだったが、この矛盾を説明できる理屈は領平にはなかった。
しかし阿天坊はさも当然といった様子で、グリムに向き合って答える。
「それは簡単に説明がつくんだよ。君はさっき領平との会話で言っていたよね。時間の流れには強い不可逆性と弱い不可逆性というものがあって、弱い不可逆性はタイムマシンを使うことで打ち消すことができるが、人の生き死になどに関連する強い不可逆性は打ち消すことができないと」
「そうだけど、だからどうしたっていうんだ」
「もしも僕の運命が強い不可逆性の中にあるとしたらどうだ? そうなると多少のパラドクスが起きようとも、時間の流れは僕を殺す向きに進もうとするんじゃないだろうか。だからメモを見ただけで小人の存在を信じたり、僕を殺す小人を見ることが僕を殺すきっかけとなるといった因果性の逆転が起きたりするんじゃないだろうか」
「何言っているんだ! 阿天坊君はまだ死ぬと決まったわけじゃない! それは僕が領平に会いに来るまえにきちんと対策本部に確認してある!」
まさか、領平は息が止まった。
「おい、グリム」
阿天坊の双眸はどこか一点を見つめたまま動かない。まるでこれから自分の身に起こることをすべてわかっているかのように。
「領平、君からも言ってやってくれよ。阿天坊君の推理は間違っていると」
「違うんだグリム、阿天坊が強い不可逆性に入り込んだのはその時じゃないんだ」
「何言ってるんだ、領平! 君までそういうのか!」
「考えてみろ、グリム。お前の疑問自体がその答えなんだよ。俺は最初のタイムスリップで阿天坊に小人の存在を匂わせた。あのことが阿天坊が小人のことに気付くトリガーになったんだよ」
「そ、そんなバカなことが……」
「そうだ、そんなバカなことがすべての真相だったんだ。俺たちの行動はなんの役にも立たなかったどころか、俺たちがタイムスリップしたことが阿天坊が小人の存在に気付くきっかけだったんだ」
「残念だけど、領平の言うとおりだ。君たちがタイムスリップしたことが原因となって僕の命は絶たれるらしい。だけど君たちが気に病むことはないよ。そもそも発端として僕の命を救うための行動だったんだろう?」
阿天坊は冷静だった。パニックになるわけでも泣きじゃくるわけでもなく、その穏やかな瞳はただ現実を見据えていた。
「阿天坊君、ごめんよ。僕が勝手な判断をしたばかりに君を殺すことになってしまって。償っても償いきれない。こんなことになると知っていたなら僕は、僕は……」
グリムはこの体躯からこれほどの量が出るのかというほど大量の涙を流して倒れ込むようにして頭を地につけた。
静かな深夜の公園にはグリムの野太い鳴き声だけが響いていた。
「おい、阿天坊。なに腑抜けたこと言ってやがる。お前がこんな簡単に死を受け入れるわけないだろ? 俺はお前の友人未満だが、それくらいのことは知ってるつもりだ」
阿天坊はフルフルと当間を横に振り、ゆっくりと立ち上がった。両手で髪をかき上げ、ふぅと息をつくと肩を震わせながらフフフフと笑い出した。グリムは涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を上げ不思議そうな顔で阿天坊を見つめている。
「グリム、すまないね。君のことを試すようなことして。大丈夫、君が泣く必要はどこにもないよ。なぜなら僕は死なないのだから。どうやら領平は見破っていたみたいだけどね。君の泣き顔は見たかったよ」
そう軽口をたたく阿天坊の顔は、細めた目と自信ありげに口角を上げ、領平がよく知っているいつものそれに変わっていた。
「残念だな、俺が泣くのは女に包丁で腹を刺された時だけだ」
グリムは未だポカンとした顔で領平と阿天坊の顔を交互に眺める。
「グリム、これからタイムスリップをするぞ。用意をしてくれ」
領平はそう言い、ベンチから立ち上がると阿天坊と向かい合った。そしてポケットに入れていた右手を阿天坊に向かって差し出した。阿天坊は領平と目を合わせたまま右手を出し、握った。
「領平、僕の考えていることは分かるね」
領平の掌にかかる強い圧力は領平の意思を固めるのに十分な動機だった。
「そんなこと俺にわかるか。だが、俺がすべきことは理解しているつもりだ。安心しろ阿天坊、お前は絶対に殺させないさ」
それを聞くと阿天坊は右手を緩めた。そして一言も発せずに踵を返し、暗闇へと向かって歩いて行った。領平はその背中が完全に見えなくなるまでじっとその場に佇んでいた。
「領平、一体どういうこと? タイムスリップして何をしようっていうのさ。もう阿天坊君は助からないんだよ。君がそう言ったんじゃないか」
「確かにそうだ。だが賭けがある。それは非常に低い確率だが、もし俺たちが勝つことができたら阿天坊を助けられるかもしれない。頼むグリム、最後の一回のタイムスリップをしてくれ」
「……僕にはさっぱり状況が呑み込めないよ。だけどもし阿天坊君が助かるならそれに勝る喜びはない。僕も君にかけるよ。頼む、阿坊君を救ってほしい」
「ああ、俺に任せろ。じゃあなグリム、また夜にこの公園で会おう。その時は朗報を持ってくるよ」
グリムが大きくうなずくと同時に、領平の体は緑のオーラに包まれた。そして四度目となる強い睡魔に襲われ、領平の意識は深い底の中へと沈んでいった。
(領平君、お父さんとお母さん離婚したってホントなのかな)
(ちょっと、やめなよ。領平君かわいそうじゃん)
(でも大宮先生いないからサッカー部今やってないらしいよ。亮太たちかわいそう)
目は閉じれば見えないのになぜ耳を閉じることができないのだろうと思った。周りがみんな自分を見ている気がした。人気なサッカー部のコーチ、六年生の大宮先生を誘惑した悪女。それが僕の母親だった。そしてみんなの大宮先生を学校に来られないようにしたのは僕のせいらしい。本当は学校なんて来たくなかった。
休み時間は無限とも思えるほど長く感じられた。男子はグラウンドでボール遊びでもしているのか教室にいるのは女子と僕一人だった。図書館にでも行こうかと思うが席を立つ力が出ない。このニ十分、一ページも読み進められていない本を持つ手は嫌な汗をかいている。時計を見る。さっき見た時から一分しか変わっていなかった。
寝たふりをしよう。本を引き出しにしまい、机の上に組んだ腕に額を乗せた。少し楽になった気がする。もう明日は学校に行きたくない。この後の体育の授業も今はただ憂鬱なだけだった。まだ算数や社会のようにただ黒板の文字をノートに写すだけの授業の包含気がまぎれるような気がした。
「ねぇ」
誰かの声がした。しばらくたってそれが僕にかけられているものだと気づき、そっと顔を上げた。そこには優等生の顔があった。優等生はあだ名だった。少し変わっているが頭がとてもいいということで有名な生徒だ。
「暇なら僕と遊ぼうよ」
屈託のない笑顔を浮かべる彼は私に気を使って言っているわけでも、かわいそうなクラスメイトに救いの手を差し伸べる自分に依っているわけでもなかった。キラキラと輝く彼の瞳がそう言っていた。
「ごめんなさ~い! 今日の最下位はうお座のあなたです! 慌てると取り返しのつかない失敗をするかもしれません。今日一日は時間に余裕を持って行動しましょう。うお座の皆さん、ラッキーアイテムは細長いものです」
聞き飽きたアナウンサーの台詞も、これで最後かと思うと名残惜しさすら覚えてくる。明日からも占いコーナーはチェックしてみようと思いながら、領平は治と結衣を見送った。
領平は今回も学校へ行くつもりはなかった。だが今回は波戸崎を付けたり教室で腹を刺されて死にかけるわけではない。領平にはもっと明確な目的があった。そしてそれはおそらく阿天坊が考えたものと同じだった。
作戦をあえて言葉にしなかったのはたがいに信頼関係にあったからというのもあるが、一番の理由はグリムにあった。きっと阿天坊もそうなのだろう。この計画が失敗したとき、グリムは非常に大きな罪悪感に襲われるはずだ、それが阿天坊の計画した作戦だったならなおさらだ。だが、領平の独断となっては、領平のほうにも責任は生じる。少なくともそういう体は保てる。このことがグリムを追い詰めずに済むというのが領平の考えだった。それでも気休めにしかならないだろうが、阿天坊がグリムのことを試した時の反応を思うと、たとえ気休めであったとしても、そうしてやりたいという思いがあった。
「さて──」
領平は私服のパーカーとジーンズに着替え、手ぶらのまま外へ出た。
ガタンという無機質な音とともにココアの缶が落ちてきた。下校途中の小学生たちがそばを通り過ぎる。雪が残る歩道は彼らにとって寒さを感じさせないようで、半袖短パン姿がちらほらと見える。そうかと思えば鼻水を垂らしている子供もいた。
領平は缶をカイロ代わりに両手を温め、腕時計を確認した。もうすぐあの時間だった。
深呼吸を一つすると、意を決し自動ドアを通り、店内に入った。生暖かい暖房が文房具屋特有の臭いを孕んで流れてきた。
店の奥で新聞を読んでいた店主がこちらをちらっと見たが、すぐに興味を無くし、目線をもとに戻した。
領平はノートが並べてある棚のそばまで行き、何か探しているふりをしながら息をひそめた。大体の時間は分かっていたが、数分間の誤差は見込まれる。あまり長い間いるのも不自然なので、これはある意味賭けに近かった。
適当なノートを手に取り、ペラペラページをめくっていると、自動ドアが開く音と一緒に外から寒気が吹いてきた。そして声変わり前の甲高い子供たちのはしゃぐ声がする。
その声の群はだんだんと近づいてくる。領平は店主のほうを横目で伺ったが、相変わらず新聞に夢中になっているようだった。子供たちは菓子が売っているコーナーで固まっていた。先ほどまでの大声と露骨に異なり、ひそひそと何か相談でもするかのようだった。
内容は聞くまでもなかった。領平は彼らに気付かれないようにゆっくりと立ち上がり、一歩一歩その一角に近づいていく。一人の子供が一辺五センチほどの立方体の形をした箱をパーカーのポケットにしまうのが見えた。
「おい、そこのお前。今何盗った?」
小学生の集団は突然の背後からの声に面食らったように、体をビクっと大きく震わせたあと、ゆっくりと振り向いた。領平を見る彼らの目は小さく震えていた。
ゆっくりと山に沈んでいく夕陽を見ながら、領平は河川敷のベンチで佇んでいた。領平の推理ではあの小学生の万引きを富めればすべてが解決するはずだった。
そもそも阿天坊が小人のことを知るきっかけになった波戸崎のメモだが、あれは少し不自然だった。確かに波戸崎には弟がいるようだし、指人形のメモ自体も彼に頼まれたものだったのだろうが、どうして彼は姉に頼んだのかがずっと疑問だった。小学校の近くにはコンビニやスーパーがあり、そこで自分で買うのが普通だろう。ではなぜわざわざ姉にメモを渡してまで人に依頼知れたのかというと、それは自分の生活圏内には売っていないからと考えるのが自然だ。
領平はそれを確かめるために、波戸崎の弟が通う小学校付近のコンビニなどの指人形を売っていそうな店を探し回った。波戸崎の住所は知っていたため、スマートフォンで彼女の住所の校区を知らべた所、領平が通っていた小学校と同じだった。小学校はそしてやはり予想通りどこも品切れ状態だった。ただし一つの店を除いては。
あらかたの店を回り終え、最後に大下文具店を確認したところ、そこには指人形がひと箱だけ置いてあった。それも神光戦士ヒカリファイザーの紅炎レッドのものだった。そしてその指人形は領平は目にしたことがあった。オリジナルの世界線で、大下文具店で小学生が万引きしていたものだった。領平がフィギュアだと思っていたのは指人形だったのだ。
そして領平は自分の仮説が正しそうだと認識した。波戸崎の弟が姉にメモを取らせてまで指人形を渡したのはどこもひな切れ状態だったからだ。そしてここから大きな賭けとなる。もしあの小学生たちが万引きをしたせいで波戸崎の弟が指人形を変えなかったとしたら、そのことが阿天坊と小人を引き合わせたことになる。ならば、彼らの万引きを阻止することさえできればすべてが解決することになるだろう。
しかし波戸崎の弟があの店を回っていなかったとしたらそれはなんの意味もないことになるのだが、こればかりは領平にはただ祈ることしかできなかった。可能性は高くて五十パーセントくらいだろうか。しかし阿天坊も同じことを考えたに違いなかった。
その夜、領平は公園へ行かなかった。もうこれ以上領平にできることはないと思ったし、阿天坊が無事かどうかは明日学校へ行けばわかることだ。
結衣を保育園まで迎えに行き、すっかり食べ飽きたカレーライスをほおばり、夜も更けてきたころ領平は不思議と阿天坊のことを心配する気持ちは一切なくなっていた。領平の中で初めて阿天坊に対する絶対の信頼が生じていることに気付いた。この作戦は領平だけのものではなく、阿天坊のものでもあった。ならいったい何を心配しようというのか。そして、今日入学式を無断欠席したことをなんと言い訳しようなどと考えているうちに眠りについた。
眠るのは体感で五日ぶりだった。
今日のうお座の運勢は一番良いらしい。ラッキーアイテムは白いスニーカー。禍福は糾える縄の如しということわざをそのまま表しているようだった。
領平は自分のクラスの前に立ち、引き戸に手をかけた。そして一息ついてから戸を開けようとしたその時、背後から肩をたたかれた。
暖かい色白の小さな手だった。それが誰のものなのか確認するまでもなかったが、領平は一応振り返ってみた。
廊下の開かれた窓から、突風が入り込んできた。窓の外では桜が風に吹かれて舞っている。すがすがしい青空から薄い雲越しに射ってくる日差しのまぶしさに目を細めながら、領平は不思議と今この瞬間、初めて春だと知った。やや花粉の混じった暖かい空気は領平の肩をかすめ、長い孤独な冒険の疲労をいたわってくれている気がした。