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前編

短編『痛みは教えてくれない』のマグラ(男性)視点です。

「君、王都に来ないか?」


 大男が口にした快活な誘い文句に、マグラは思わず胡乱な視線を返した。



--------------------------------------------



 マグラの住むエンフォ地方は王都から馬で数日という離れた場所にあり、獣人と人間が共存する領地である。

 かつて国境向こうの山奥から獣人たちが移住してきたのが始まりで、優れた身体能力を持つ獣人がその力を振るい、人間の生活に利益をもたらすことで永住の地を得ることとなった。それ以来、互いの種族は永く友好な関係を保ち、大きな諍いもなく今日にまで至っている。


 祖先や親類縁者がそうしてきたように、彼もまた恵まれた能力を活用するために警護団地方支部と呼ばれる組織に身を置き、様々な仕事をこなして生活していた。

 猫の獣人であるマグラは柔軟で素早い身のこなしと夜目が利くことから夜間の活動を得手としており、その日も星が煌々と輝く時分に任務に繰り出していた。


 エンフォ地方は能力自慢の獣人たちと築き上げてきた領地だけあって、王都から距離がある地方にしては栄えている方だと言える。人が多くなれば良からぬことに手を染める者が増えるのも必然で、違法な薬の取引現場を押さえるのがこの夜の最重要任務だった。

 武器を携帯しないマグラは物音を立てずに繁華街の屋根を駆け抜ける。通りの端にある寂れた酒場の屋根まで辿り着くと裏口の真上で身を潜めた。街灯の光がほとんど射さないこの裏口が取引場所と有力視されているため、マグラが朝まで張り込むことになっている。


 どれくらいの時間が経ったか、じっと目を閉じて神経を研ぎ澄ませていると頭上の左耳がピクピクと揺れた。ふたつの足音が同じ方角から、いくらか距離を置いてこちらに向かってくる。売人と購入者かと思われたが、不意に後ろを歩いている方の足音が止んだ。

 二人同時に相手にする可能性を考えて位置関係を頭の中に浮かべながら、まだ動いている足音に耳を澄ませているとやがて裏口の扉前――マグラの真下まで辿り着いた。


(薬が渡ったところで捕縛だな)


 焦らず事の経緯を見守ることにすると、真下にいる人物が木製の扉を変則的なリズムで叩いた。すると内側からトン、とノックが一回。外側からも返すようにトントンと二度鳴らす音が聞こえたかと思うと、蝶番の軋みが小さく響いた。


「支払いは?」

「ルビーを一粒」

「……これなら二回分だな」


 くぐもった囁き声でもマグラは聞き逃さない。そっと上体を乗り出して見下ろしてみれば、扉から半身を出している男が小さな包みをふたつ、掌に乗せて差し出していた。紫色の絞り模様が入った包み紙は問題とされている違法薬のそれと一致している。

 小指の爪半分ほどの紅い石を差し出した人物が包みを受け取った、そのタイミング。


 屋根を蹴って飛び降りたマグラは購入者を後ろから足払いして転倒させると、闖入者に驚いて扉の奥に逃げようとした男の腕を即座に掴んで引きずり出す。

 ここでもう一人、離れた位置で控えていた人物がこちらに向けて駆けてきた気配を感じる。


(縄が足りない。一纏めにするか)


 掴んだままの売人が何とか逃れようともがいて鬱陶しいので鳩尾を蹴りつける。弾き飛んだ身体が駆け寄ってくる巨体にぶつかる音と「うおっ」と素っ頓狂な声が聞こえた。

 壁の目地を足場にして、その身で売人を受け止めた男の背後まで飛び越える。首を締めて落とすか、と目算して腕を伸ばしかけたそのとき。


「確保完了」


 マグラよりも上背のある男が事も無げに言った。


「は?」

「この男、捕縛対象だろう?」


 肩越しに振り返る男の目に邪気はなく、男の腕に収まっている売人を覗き込んでみればすでに手錠が掛けられていた。いつの間に、と瞠目するマグラに大男はにっこりと微笑んだ。


「君、地方警護団所属だね?」



 その晩に王立警護団の支部長だと名乗った男とは数日の間に何度か出くわすことになり、最終的には王立警護団に勧誘されていた。獣人が当たり前に住んでいるこの地で一生を終わらせるものだと思っていたマグラがこの申し出を受け入れたのはただただ何となく、それだけだった。



--------------------------------------------



「王都に獣人はほとんどいないが、その能力の高さは広く知られているから皆温かく迎え入れてくれるだろう」


 王立警護団第四支部長はよくしゃべってうるさい。話半分で聞き流しているマグラだが、お構いなしに王都でのあれこれを話し聞かせてくる。

 勧誘されたあの日から何日経ったのか、生まれ育った街から離れたことのなかったマグラは今王都の地を踏んでいる。到着したのは昨日の朝のことで、それから一日身体を休め、今日は諸々の手続きを済ませたら早速第四支部詰所に顔を出すことになっている。朝一番に宿へ迎えに来た支部長は朝食を摂っている間もあれこれとやかましい。


「ただ、その獣人の特徴は隠しておいた方がいいかもしれない。見た目を覚えられると犯罪者に警戒される恐れがある」


 俺たちも休日は髪型を変えているんだ、と聞き、なるほどと思った。獣人が多いエンフォ地方なら警護団員が獣人であることは当たり前だが、こちらでは浮いてしまうのだろう。スッと耳と尻尾を引っ込めると対面の男は一瞬驚いた顔を見せたが、その口は留まるところを知らないらしい。


「団員たちには好きに明かしてくれて構わない。警らの規定ルートはいくつかあるが地方と王都(こっち)じゃやり方も違うだろうし、ちゃんと連携が取れるならそううるさく言うつもりはないから」


 第四支部の主な任務は城下の治安維持と聞いている。マグラが何となく勧誘を受け入れたのは第四支部だったからだ。これが要人警護だの王城警備だのの堅苦しい部署であったなら即座に断っていた。


「よし、それじゃ行くか」


 マグラの二倍ほどの食事量をあっさり平らげた支部長に続き、マグラも席を立った。




 その後、入団届けと団員寮の入寮届けを第一支部に提出し、第四支部詰所へ向かう。初日の今日は出勤している団員たちに挨拶をしたら仕事現場である城下へ赴き、直に歩いて道を覚えることになっている。王城に程近い場所に各支部の詰所が並んでおり、目的地である第四支部詰所もまた王立と冠するだけあって立派な建物だった。


エンフォ(あっち)の領主館と同じくらいか?)


 ぼんやりと考えながら前を歩く支部長に続く。やがて重厚な両開きの扉の前に辿り着き、そこで一旦足を止める。


「細々した部屋はいくつかあるんだが、基本はこの大部屋に詰めることになっている」


 理解を示す意味で一度頷くと支部長は大きな拳で雑に扉を叩き、返答も聞かないままに取っ手を引いた。

 サッと視線を走らせて二十人くらいがいるだろうか、と当たりをつける。これで夜勤当番に出る者や休暇を取っている者もいるというから、地方支部団の抱える人数と比べると随分多い。


「彼がエンフォ地方から来てくれたマグラ・イレンくんだ」


 支部長が身体を横にずらしたことで周囲の視線が一身に集まる。


「よろしくお願いします」


 紹介されてしまったらそう言うしかない。もう一度見渡して獣人がいないことを確認した。匂いもしないのでここにいるのは人間だけなのだろう。


「それとエレノア」

「はい」


 何かをダラダラ話していた支部長が唐突に呼び掛け、それに返事をした女が団員たちの影から顔を覗かせた。その動きに空気が流れ、甘い花のような香りが漂うのをマグラは嗅ぎ取った。

 赤味を帯びた金髪を後頭部の高い位置でひとつ括りにしている女が一歩一歩丁寧に歩くと、ゆらゆらと尻尾のように毛束が揺れる。警護団の制服を着こなしているが現場に出ることはないらしい。


「マグラ、彼女は第四支部(ここ)で事務をしているエレノア・ザキーラだ。現場には出ないがスケジュール管理や住民との橋渡し役をしてくれているから何かと接点も多いだろう。頼ってやってくれ」


 女が距離を詰めて甘い香りも一層強まったのだが、マグラの鼻は違う匂いも捉えていた。この場では初めて嗅ぐ――男の匂いだ。


「初めまして、エレノア・ザキーラと申します。他に事務補佐もいますが大きな取りまとめは私がしておりますので、これからお世話になると思います。よろしくお願いします」


 淑やかな笑みを浮かべてこちらを見つめているが、べったりと接触しただろうことがわかるくらいに男の匂いが残っている。獣人の嗅覚と人間のそれとでは大きな差があるのは承知しているが、それにしてもこれだけの痕跡を残しておきながら淑女然とした振る舞いをよく出来るものだ。

 鼻障りな匂いに無性に苛立ち、顔を背けて「どうも」とだけ返す。せっかく良い香りを嗅げたのに余計なものは鼻に通したくない。


「まぁ、そういうことだからよろしく頼むな、二人とも」


 支部長が話をまとめてくれたのでさっさと退室することにした。



--------------------------------------------



 支部長と共に街を歩く。警らの道筋を記憶するためだ。

 王都は広く、エンフォ地方よりも一層人が多ければ店も多い。雑多に様々な匂いが入り混じりマグラに情報を与えてくれるが、さっきの女よりも良い匂いは伝わってこなかった。


 王都の名物料理や観光名所を挙げ連ねつつもしっかりした足取りで案内を務める支部長と歩を進めていると、彼らと同じ制服に身を包む男が前方で手を振っていた。ふと漂う匂いに顔合わせの際に詰所にいた男だと判断した。


「こっち通ってるんスか、支部長」

「一番単純なルートからと思ってな」


 互いが足を止めて話し出したのを見てマグラは近くに植えられた木の元へ行き、その幹を撫でさする。高さもそれなりなので目視でも目印になるだろう。

 すると遭遇した団員が興味深げにこちらにやってきた。


「よお、何してんだ」

「匂いを付けてる」

「匂い?」

「匂い」


 問われたことに答えたのに相手は首を傾げている。すると支部長から助け舟が出された。


「マグラ、それだけでは()()には通じんぞ」

「……あぁ、そうか。俺は獣人だ」

「マジっすか」


 マグラではなく支部長に確認した男は支部長の深い頷きに納得したようで、すぐさまマグラに向き直り、良い笑顔を見せた。


「獣人と仕事するのは初めてだ。俺はルーク、よろしくな」


 首肯で返すとルークと名乗った男は眼前の木を見上げて続けた。


「匂いを付けるってのはどういうことだ?」

「目で覚えるより匂いで覚える方が早いから。マーキングみたいなもの」

「なるほどなぁ。じゃあ人の判別も匂いでしてたり?」

「さっきみたいな大人数なら匂いで覚えた方が早い」


 強烈な匂いを放つ者は特に記憶に残りやすい。例えば、あの甘い花のような香りとか――


「……事務の女」

「エレノアのことか?」


 ルークの答えにエレノアという名だったか、と改めて意識する。


「男の匂いが酷い」

「は? エレノアが? いやいや、ないだろ」

「べったり付いてた。既婚者か?」


 もしそうなら、まぁ納得しないこともない。


「いや、未婚だ。婚約者がいるとかって話も聞いてないが」


 にも関わらず、あんなにも匂いを付ける行為を許しているということか。思わず口元が歪んでしまう。


「警護団で働いちゃいるけど良いとこのお嬢さんだぞ。滅多なことはないはずだ」


 ルークはそう弁護するが人間にはあの親密さを窺わせる匂いの付き方なんてわからないだろう。益々顔を顰めるマグラに支部長は言った。


「まー……うん、今は仕事。なっ?」


 上に立つ者の威厳は感じられなかった。



--------------------------------------------



 その四日後、マグラはエレノアと再会した。

 支部長に付き添われていくつかの警らルートを確認した後、自由に動かせてもらって目印となる場所にマーキングしておいた。あらかたの道を覚えたところで詰所待機の任を与えられ、訪れた部屋で赤味を帯びた金髪が揺れるのを見つけた。

 厚みのある本を両手で抱えるエレノアの背後にそっと忍び寄る。一歩近付くごとに甘い香りは強まっていくのだが、徐々に別の匂いがじわりと混じってくる。


 心地よい香りだけを収めたいのに不要なものが割り込んでくる感覚。

 胸中に不快な気持ちが瞬時に湧き上がる。


(そんな匂いを付けるくらいなら俺が――)


 たとえ人間にわからなくとも。

 この女から他の男の匂いがするのは嫌だと心底思った。

 

 だからマグラはこの香りは自分だけのものだと主張することにした。無音で歩み寄り、特に匂う肩の辺りに自らの身体を擦り付ける。瞬時に出した尻尾で彼女の背中をひと撫でするのも忘れない。

 これで不要な匂いを己の匂いで上書き出来た。


 すぐさま尻尾を引っ込めて彼女の反応を待ったが、エレノアが触れ合った勢いでよろめいたことは想定外だった。体勢を整えてこちらを見上げる青い瞳は、不快なものを纏わり付かせていたことすら察していないようなので、ついでに忠告もしておく。


「邪魔」

「ご、ごめんなさい」


 素直にも謝られた。わかればいい、と納得しかけたマグラだったけれど。


「邪魔をしたことは謝りますけど、ぶつかることはないんじゃないかしら?」


(俺には匂いを付けるなと言いたいのか?)


 思いもよらず反論されて、それがまた苛立ちを増幅させるものだから再度言い含める。


「邪魔なものは邪魔」


 どこの誰かもわからない男への怒りは募る一方だった。気分転換を図るために屋外訓練場に足を向けると、背後で小さく「何なの……」と呟く声が聞こえる。その拗ねた感じを思わせる言い草が可愛くて少し気を良くした彼は、けれどマグラの一連の挙動を追っていた仲間の団員たちに睨みを利かせることは忘れなかった。



--------------------------------------------



 エレノアはどうも鈍感なようだ。初めて匂いの上書きをしたあの日から四ヶ月経つが、幾度となく同じ匂いを纏って来る。都度マグラが打ち消しているのだが何が悪いのか気付く様子がない。

 そしていよいよ許しがたい事態になった。これまでは衣類の上からの接触で済んでいたようだったのに、今日は肌――それも顔に直接触れたと思われる匂いが残っている。夕刻にまで消えず残るような行為を許すなんて、と思わず舌打ちが漏れてしまった。


 エレノアの持つ独特の香りをゆっくり味わうこともなく詰所を後にしたのは夜勤当番だったからだ。夜に強いマグラは夜勤が性に合っているが、日中勤務のエレノアとは出勤時に会えばそれまでで、昼勤のように彼女の気配を探ることも叶わない。

 渋々警らを行うマグラだったが、エレノアの頬に接触した誰かを想像して、そいつを如何ようにしてやろうかと考えていれば時間の経過はあっという間だった。すっかり昇った朝日に目を細めて詰所に向かう。そこに待ち受けていたのはマグラに衝撃をもたらす一日の開幕を告げる、事件の一報だった。




「行商団だと裏は取れてるんですか?」

「リンゼイ領の目撃証言は王都から買い付けに出ていた商人によるものだ。行商団がこちらで懇意にしている商会に問い合わせたら六名という人数も人相も合致している。今のところ、商会には顔は出していないらしい。ブツを換金するために動きを見せるだろうからいくつか要所を押さえたい」


 詰所に戻ったマグラを出迎えたのはルークと支部長の真剣な話し合いの場だった。出勤したての団員だけでなく、警らを終えたばかりの夜勤組たちも彼らの話に耳を傾けている。


「窃盗事件の犯行団が王都で目撃されている。根無し草の行商団で、交渉中に売り物と見せかけた剣で相手を斬り付けて金品を強奪している。換金所や商会を張り込みつつ、街中の捜索も進めたい。すまないが協力出来る者は頼む」


 最後の一言は夜勤組に向けられた言葉だ。もちろん、マグラにも異論はない。

 支部長指揮の元、通常警ら組と張り込み組、捜索組とに分かれ、皆が街に散っていく。当然のように捜索に割り当てられたマグラも眩い陽射しの下へ繰り出した。仲間の気配を探りながら死角になりそうな場所へと、音もなくするすると。




 警戒態勢を解かずに周囲を探ってどれだけ時間が過ぎただろうか。

 人目につかないように葉の茂った大木に登り、頭の三角耳で周辺の音を拾っていたとき、信じられない言葉が耳に飛び込んできた。


「……ので、逆に私も甘えてしまって」


 声の持ち主は言わずもがな、そんな彼女と会話しているのはルークのようだ。即座に耳と尾を仕舞うと大木から飛び降りて声を捉えた方角へと向かう。二人のいる場所はそう遠くもなく、ルークの広い背中はすぐに見つかった。


「あっ」


 間違いなくエレノアはマグラの姿を見て声を発した。そんなエレノアを見てマグラも驚いた。

 いつもは後頭部で一纏めにされている髪が今日は下ろされている。手入れのされた金髪は陽光にキラキラと反射して視界を明るく照らしてくる。キュッと結ばれた髪は尻尾のようでマグラのお気に入りだったが、この髪型もよく似合っている。


 いつもより濃く漂う甘い香りに誘われるように足を進めていたが、途中で異物に気付いた。あの癪に障る匂いだ。その匂いの発生源がエレノアの身体に見え隠れしている。


(こいつがそうなのか……)


 ようやく出会えた忌まわしい敵がどんな奴なのか、観察は怠らない。エレノアは気安く傍らの影に呼び掛けた。


「アデル、こちらもお仕事仲間のマグラさんよ」

「……こんにちは」


 そう言った小さな影は一層エレノアにしがみつく様を見せたが、マグラは怒りを抱くよりも別のことに気を取られた。間近で見ると一層輝きを放つ赤味の金髪。それと同じ色を小さな影も持っていた。


「……似ているな」

「えっ?」

「それと」

「それ?」


 きょろきょろと周囲を窺うエレノアの向こう、彼女の腕にしがみついてこちらを覗き見ている曇りのない瞳。


「髪と、目と、顔が似ている」

「あ、弟とですか?」

「弟?」

「はい、弟のアデルです」


 こくりと頷き、しがみつく子供の手を撫でるその動きがとても優しい。


「血の繋がらない?」

「いえ、繋がっています。似ていると仰ったじゃないですか」


 偽りを述べている様子はない。だとすれば彼女の話は真実で、この小さいのはエレノアの血の繋がった弟。過去に躍起になって打ち消してきた匂いの持ち主は弟。

 安堵とも羞恥とも嫉妬ともつかない複雑な思いで「弟か」と独り言ちてしまう。


 アデルと呼ばれた少年はこちらを見つめていたかと思えば、我に返ったようにグイグイと姉の腕を引き始めた。それに応えるように身を屈めて互いの顔を近付けるエレノア。姉の肩に手を置いて耳打ちする様子に、弟の匂いがどのようにして付いたのか合点がいった。

 内緒話のつもりで話しているようだが獣人の聴覚を持たずとも、その声は筒抜けになっている。姉弟のやり取りを図らずとも聞き取ってしまったマグラは新たな衝撃を受けた。


「どうしたの?」

「姉さま、焼き菓子を買いたいです。今日はマルカスのお誕生日なんです」


(姉さまってなんだ)


 舌っ足らずにエレノアを呼んだアデルのその一言。

 マグラの身近な獣人たちは名前を呼び捨てたり、よくてせいぜい「姉貴」呼びだった。エンフォ地方で暮らしていて「姉さま」なんて聞いたら随分とお上品な、と笑っていたかもしれないが、エレノアにはその呼称はピッタリだと思った。


 弟のお願いに姉弟はそのまま買い物に行く素振りを見せたが、ルークが即座に引き止める。


「待ってくれ、エレノア。伝えておきたいことがある」

「はい、何でしょう?」

「今朝入った情報だがリンゼイ領で窃盗に関わったとされる行商団の連中が王都で目撃されている。ただの物盗りじゃなく、重傷者も出た物騒なやつだ。不審な者には近寄らず、極力人通りの少ない場所は避けてくれ」


 そうだ、今は犯罪者集団を追っている。抱え込んでいるものが窃盗品ならば、おそらく潜伏するよりも早々に動き出すことを選ぶに違いない。となれば今の城下はけして安全とは言い切れない。ルークの話に驚愕したエレノアはすぐさま表情を引き締めて早く帰宅すると約束した。


「ルークさんもどうかお気を付けて。マグラさんも夜勤明けですから無理なさらないで下さい」


 見つめるエレノアは心配げな面持ちだ。マグラの勤務状況を把握して労いの言葉まで掛けてくるとは。


(無理なわけないだろう!)


 フン!と鼻息荒く、意気込みを語った。心の中で。

 エレノアが(たお)やかに小首を傾げて微笑んでくれたので益々やる気は上を向く。

 ルークにお勧めの店を教えられると「ありがとうございます」と言い置いて、弟を腕にへばり付けたまま立ち去ろうとした。その後ろ姿にマグラの眉根が歪む。


 また彼女は弟の匂いを振り撒いて歩くつもりらしい。

 もしどこかで獣人と出くわしでもしてみろ。すぐ隣の幼い弟の匂いだけでは何の虫除けにもなりはしないのに。

 そもそも弟のものだっていらない。マグラだけで十分なのだ。


(一度言い聞かせる必要があるな) 


 任務中なので今は仕方がない。次の機会にじっくりわからせるつもりで、けれども必要最低限のマーキングは忘れずに行う。いつもの調子だとアデルが転んでしまいそうなので触れる程度に擦り付けた。エレノアの香りを間近で堪能出来る一番好きな瞬間だ。


「鈍い」

「えっ」

 

 一言忠告だけするとポカンと気の抜けた表情を覗かせた。仕事中よりも幼く見えるその顔に後ろ髪が引かれる思いだったが、任務を遂行するために急ぎ足でその場を去る。

 後方で「……そちらが避ければいいじゃない」などとぼやいているエレノアはやっぱり鈍感だと思った。




「でもまぁ弟で良かったな」


 後ろから追い掛けて来たルークはそんなことを言うが、ちっとも良くないので無視しておいた。


「マグラはどの辺りにいたんだ?」

「向こうの木の上。警らの死角になりそうなところで気配を探ってた」


 残念ながら目ぼしい進展はなく、しかし期せずしてエレノアに関する情報は獲得したわけだが。

 隣に並んで歩くルークが囁く。


「人混みに紛れ込むかと思って店通りを見て回ったが収穫なしだ」

「単独では動かないと思う。何人かでまとまっている気がする」

「悪目立ちしないか? 一人見つかりゃ側に仲間がいるってことだろ?」

「裏を返せば一人が上手くやれば仲間も成功だ。この時間まで商会や換金所に顔を出していないなら追われていることには気付いてる」

「手っ取り早くどうにかしたくて焦ってるってことか」


 マグラが首肯するとルークは思案顔で唸った。


「だとすると益々わかんねぇな。ある程度の人数で固まりつつも目立たずに動く、なぁ」


 はたして動いているのだろうか。

 容疑者の屋敷には聞き込みも張り込みも入っているので戻れるわけはなく、顔が知られた連中なら日中に大っぴらに歩き回れない。潜伏するにしても王都城下の土地建物はしっかりと管理されているはずだ。


「王都の目撃情報も顔見知りの商人からだったか?」

「ああ、支部長の話ではそうだ」

「警護団に話を通す前に商人たちは事件を知ってたのか」

「商売ってのは信用第一だからな、自分たちに火の粉がかからないように徹底したんだろう。王都で店を構えてる商人からすりゃ、根無し草の犯罪者なんて同業でも庇う意味がない」


 ならば、どこかに匿われている可能性も低いと思われる。

 小声で話し合っているうちに、気付けば先程まで身を潜めていた大木の下にいた。互いに意見を交換して捜索を再開することにした。


「俺はここで周辺を探る」


 そう伝えて跳ねるように幹を登る。マグラが獣人の特徴を露わにするとルークは小声のまま続けた。


「何かあったら呼んでくれ」


 耳を済ませつつ、頷いて返事をしたそのときだった。


「アデル!!」


 聞き違うことのない声が愛弟の名を叫んだ。

 ピンと立った耳がそちらを向いて音を拾う。

 複数の足音、車輪の軋み、呻き声、怒声。


「ルーク待て!」


 登ったばかりの木から即座に飛び降り、次の瞬間には駆け出していた。


「西の方向、馬車の止まる開けた場所だ! エレノアが襲われた!」

「何だって!?」


 灰地に黒の縞を描いた尾が風に靡く。

 その背後にルークの声はもう届かなかった。

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