ある夏の青春
・この作品に出てくる一切の人物、建物等は実在のものとは関係ございません。
・お見苦しい点が数多くあるとは思いますが、ご寛恕願います。
私はずっと、物語の登場人物に憧れていた。誰もが平凡だと思っていた彼らに、ある日突然試練が与えられる。辛い思いをして、時々泣いて、怒って、それでも耐えて、最後はとびっきりの幸せな結末を迎える。そんな選ばれた人だけが享受できる「特別」。私はそれを漠然と夢見ていた。
「特別」な人たちは物語の中だけではなくて、時折現実にもいる。画面の向こうで、私とは別の世界に住んでいるその人たちは、彼らに起こった「特別」を語る。いいなあ。そう思いながらも、「特別」は、私には縁遠いものだと思っていた。
これは私、いや私たちに降りかかった「特別」のお話。
何でもない普通の朝。幾重にも重なった蝉の鳴き声が木霊する。靄がかかった頭を振ってベッドから下りた。家の中の空調は専用のAIが管理しているから、室温に不快感はない。
居間に足を踏み入れる。おはよう、口の中でモゴモゴと朝の挨拶をすると、母さんが振り向いた。
「ハルカ、あのね、いくら夏休みだからって」
「わかってる」
ぞんざいに返事をして、私は朝食を食べ始めた。家庭用総合管理AIがニュースを映し出している。MOTHERの新たな命令がトップニュースになっているようだった。まぁ、どうだって良い。私にはどうせ関係ないから。
私が生まれる100年くらい前、人類史上最高の人工知能、MOTHERが誕生した。人類の英知の結晶とも言われている。
何にしても、今やMOTHERは世に欠かせない存在だ。昔の人たちはどうやってMOTHERなしで暮らせていたのかわからない。人類の知能には限界がある。MOTHERに決めて貰うのが一番いい。
本当はMOTHERが全てを管轄する方が効率は良いはずだけど、人類の生活は100年前とあまり変わっていない。もちろん色々と便利にはなった。
でも、子供は学校に通って、大人は仕事をして、そういう基本的なことは変わらない。遊んでばかりだと人類は堕落するから、というMOTHERの判断らしい。
正直私は勉強なんて馬鹿らしいと思うけれど、MOTHERの思惑は人間ごときにはわからないのだ。MOTHERはいつも正しい。少なくとも人間よりは、ずっと。
「MOTHERの判断を信頼しすぎるのは危険だと思うんだがなあ」
私の心の中を覗いたようなタイミングで、父さんが独りごちた。また始まった、と母さんがため息を吐く。
「MOTHERは確かにすごいさ。だけど、判断材料はあくまで現在の状況だ」
「ふうん、それで?」
父さんはAI関係の仕事をしている。だからこういう話題になるとよく喋る。相槌を打ったのに深い意味はない。実際のところ興味なんて欠片もないけれど、父さんが話している間は母さんに小言を言われずに済むから、それだけ。
「MOTHERが予測もできないような大きな変化が起こる可能性もあるってことさ。人間だって捨てたもんじゃない」
もう一度、ふうん、と呟いて、私はパンの残りを口の中に詰め込んだ。
身支度を整えた私は、行ってきます、と言い残して自転車に跨る。家に閉じこもって一人で課題をやるなんて気が狂いそうだ。課題をやらないわけにはいかないから、せめて誰かと一緒にしたい。
勢いよくペダルを踏み込むと生暖かい風が頬を舐めた。
家の敷地を出てすぐ、私はブレーキをかけた。耳障りな音が耳を刺す。油が足りていないらしい。危うく誰かにぶつかるところだった。歩くなら前を見て歩いてほしいものだ。
「危ないじゃん……って、アオ? 久しぶり」
「……ハルカ?」
アオは私のいわゆる幼馴染とかいうやつだ。アオの両親は仕事で忙しいから、小さい頃はよく我が家に預けられていたのだ。こんな前時代的どころか、2つも3つも前の時代みたいなご近所関係を築いているご近所さんもそうないだろうと思う。
小学生の頃はよく一緒に遊んでいたけれど、高学年にもなると自然と別の友人と遊ぶようになる。アオも1人で留守番ができるようになったし。
そんなわけで、アオと喋るのは随分久しぶりのことだった。どこか元気がない。俯いて、心ここにあらず、といった風体だ。
「どうしたの、そんなボーっとして」
「……ったんだ」
頭上では蝉の大合唱。暑さで早々にやられた頭が、大音量の鳴き声とリンクして痛む。アオの声はいとも簡単にかき消された。
「何、聞こえない」
大声で怒鳴ると、アオは私を睨んだ。直前までの覇気のなさが嘘のように。
「ほっとけよ、俺はあと1ヶ月で死ぬ。MOTHERに殺されるんだ!」
蝉の鳴き声に支配された空間での会話では埒が明かない。私はアオを連れて、強引に図書館の談話スペースに連れ込んだ。眉を寄せたアオは、文句を言うのすら面倒だとでも言いたげに、口を一文字に引き結んでいる。
「で、どういうこと」
「どうもこうも、お前ニュース見てないのかよ」
小馬鹿にしたアオの口調。そうだ、アオはこういうやつだったっけ。苛立ちよりも感慨が勝る。
「ニュース?」
「知らねえの、お前マジでアホだな」
呻いたアオはため息を吐いた。その面持ちは浮かない。
「ま、関係ないやつからしたらそんなもんだよな。人口爆発を防ぐために『間引き』するんだってさ」
人口と「間引き」という言葉が咄嗟には結びつかなかった。加えて、さっきのアオの『MOTHERに殺される』という言葉。アオが言わんとしていることは一つだった。
アオは、「間引き」の対象者に選ばれてしまったのだ。
「え、まさか、アオが」
「だからさっきからそう言ってるだろ」
私の怒涛の質問攻めに、アオは冷静に答えていった。通告が来たのは昨夜で、期限は1ヶ月。別れを終えて、踏ん切りをつけてから、1か月後に指定された場所に向かえば良いらしい。
今後の人間社会に大きな影響を与えると予測される人物だけを除外した、完全な無作為抽出の結果。アオは、選ばれてしまったのだ。
「俺に大した価値なんてなかったってことだな。ま、知ってたけど」
アオは笑う。全てを諦めたその目は光を失っていた。
私の中で沸々と怒りが沸いてくる。駄目だ。一番つらいのはアオなんだから。どんなにそう思おうとしても、勢いは収まらない。
「アオに価値がないわけないじゃん!」
思った通り、アオは傷ついた顔をした。全知全能のMOTHERに価値を否定されたアオ。傷ついているのがわかっていて、それでも言わずにはいられなかった。アオのことなんてロクに知りもしないMOTHERにアオの何がわかるというのだろう。
「MOTHERが言ってるんだぞ?」
「MOTHERの判断は今の材料だけだって、お父さんが言ってた。だから、一緒に証明しようよ。アオはめちゃくちゃ価値がある人間だって」
自分でも何を言っているのかわからない。MOTHERの判断は多分正しくて、アオは存在しなくても世の中に影響はないのだろう。でも、私には、それが許せなかった。アオは今ここにいて、確かに生きているのに、世界のために殺されるなんてあんまりだ。
「アオがいなきゃ、私は寂しいよ……」
「……何言ってんだ。最近ほぼ会ってなかっただろ。何も変わらない」
「変わるよ!」
同じように会わないにしても、アオが生きているのと死んでいるのとでは全く違う。別物だ。同じであるはずがない。
「どうせ俺がいなくてもすぐ慣れる、だから無駄なことは」
「やるよ。だって、そうじゃなきゃ、アオが死んじゃう」
馬鹿じゃねえの、ともう一度言ったアオは、私から視線を外した。
「お前がそれで満足できるなら付き合ってやるよ。どうせ1ヶ月、やることもねえし」
「アオの価値を証明する」と言ったところで、何かをしないことには仕方がないだろう。ただぼんやりと過ごしていたところで変化があるとは思えない。
作戦会議と銘打って、図書館でふたり顔を突き合わせる。ほどよく空調が利いているはずなのに、なぜか身体が火照る。
「で? 何するんだ」
「とりあえず、偉い人になればいいんじゃない? そしたら世界に影響も出やすい!」
「意見が馬鹿っぽい」
アオには一蹴された意見だけど、私の中では名案のような気がしてきた。偉くなる、うん、悪くない。どうしたらいいだろうか。とりあえず勉強はできないといけない気がする。
「よし! ふたりで勉強しよう!」
「何でそうなるんだよ……」
げんなりした顔のアオ。今まで勉強なんてロクにやってこなかった私たちだから、多分何かは変わるだろう。最近のアオのことは知らないけど、少なくとも多分中学の時はそうだった。
「あと1ヶ月で死ぬなら勉強より有意義なことやりたいんだけど」
ぶつぶつ言いながら、アオは立ち上がる。
「え、ちょっとアオ、どこ行くの」
「本探してくる。お前と違って勉強道具とか持ってきてないし。適当に勉強できそうなもの探してくる」
不満を言いつつも、私の気が済むまでは付き合ってくれるらしい。
そういえば、アオは昔からそうだった。私が、これをやりたい、って駄々をこねたら、呆れながらも一緒にやってくれた。おままごとなんて女の遊びだ、なんて妙に時代遅れなことを言うのに、ちゃんとお父さん役を演じてくれたっけ。
「何にやにやしてんだよ、気持ち悪い」
そう言い捨ててアオは行ってしまったけれど、私は決意を新たにしていた。やっぱり、こんなに優しいアオに価値がないなんて何かの間違いだ。私がどうにかして絶対にアオを助けるんだ。
その日は日がな一日、図書館で勉強をした。そろそろ帰ろう、ということで合意する。跡片付けをしていると、アオは大きく伸びをして、こめかみを揉んだ。
「こんなに勉強したのいつぶりだ? 頭痛え」
「うんうん、明日もやろ。そしたら何か変わるかも」
「……変わるかよ」
私はひとり達成感に満ち溢れていた。ついでに私の課題も捗った。これはいいこと尽くしだ。私って天才かもしれない。
だから、気づけなかった。アオが何を思って私の思いつきに従っていたのかも、アオの本心がどこにあるのかも。
そうして、2週間が過ぎた。朝からアオはこう切り出した。
「なぁ、これいつまでやんの? 死ぬまでの1ヶ月勉強するとか俺はごめんだからな」
アオは明らかに不機嫌で、それでいて、その言葉に私を責める響きは一切なかった。
その言葉が意味のある言葉として変換された瞬間、頭から冷水をかけられた心地がした。アオは私のことなんて信じちゃいない。
ただ、文字通り「私のため」に私の自己満足に付き合っているに過ぎなかった。そして、それはアオが死んだ後、私が納得して前を向くため、なのかもしれなかった。
私は何がやりたかったんだろう。何が天才だ。アオを取り巻く状況は何も変わっちゃいない。
変わったのは、私の課題が過去最高のペースで進んでいることと、タイムリミットが
二週間後に迫ったことだけ。私が自己満足に囚われている間に、状況は明らかに悪化していた。
「じゃ、じゃあ、別の手立てを考えようよ」
声が上擦っているのが自分でわかる。取り繕うように、口が勝手に回る。黙った方が良い、理性の制止は届かない。
「次は、ボランティアとかしてみない? そしたら、もしかして」
「何も変わんねえよ」
私の言葉を遮ったアオは、静かに断言した。アオからは何の感情も伝わってこない。自分勝手な行動への怒りも、自己中心的な私への不快感も、迫り来る死への恐れさえも。
絶対に言うべきではないと、今まで胸に閉じ込めていた言葉。それは、アオと再会してからずっと抱いていた、純粋な疑問だった。
「なんで……? なんでアオはそんなに平気でいられるの?」
絞り出した声は微かに震えている。視界が揺れて、じわりと滲んだ。部屋の照明から、白い筋が無数に伸びる。
「なんで怖くないの? わかってるの? このままじゃ、アオは……死んじゃうんだよ」
「わかってるに決まってるだろ!」
アオが怒鳴る。空気が震えた。アオは、俯いた。
「わかってるに決まってるだろ……」
今度の言葉に、力はなかった。真横に座っている私の耳に、辛うじて届くほどの小さな声。顔をあげたアオは、涙も流さずに泣いていた。
アオの目には涙すら浮かんでいないのに、アオが泣いているのが私には手にとるようにわかった。
「なんでお前が泣くんだよ、馬鹿」
私の髪をくしゃりと撫でる。耳元で、ふ、と笑った気配がした。湿った笑い声だった。ふわりと懐かしい匂いがする。アオの匂い。なんだか変態臭いけれど、昔から変わらない匂いになぜか安堵する。
「お前って、昔から泣き虫だよな。変わってねえ。世話焼きなのも昔から」
「……そうだっけ」
「そうだっての。んで、俺はいつもお前の強引さに救われる」
変わっていないのはアオの方だ。そうだ、昔からそうだった。アオは、自分が転んでも泣かない子だった。痛そうな傷を見た私が泣いて、それを見たアオが泣くのだ。
『だってハルカちゃんが泣いてるんだもん』
幼い頃のアオの声が遠くで聞こえた気がした。
「そんなんで、俺がいなくなったらどうするんだよ」
「アオがいないなんて無理だよ」
呟いた私に、アオは苦笑を浮かべる。私だってわかっている。アオだって、望んで死ぬわけじゃない。死なないで、と懇願したところで、アオを困らせるだけだ。
「アオはさ、何かしたいこととかないの?」
だから私は、わざと明るい声を出した。笑顔は引き攣っているし、鼻の奥はいまだにツンとしている。下手くそな演技を見たアオは小さくふき出した。肩を震わせて、アオは笑う。そんなに笑わなくても、とアオを覗き込んで気づいた。
アオは、泣いていた。さっきみたいな不自然な泣き方ではなく、普通に涙を流して。
「え、ちょっと、アオ」
「うるせえ」
慌てる私をあっさりといなしたアオは、嗚咽を噛み殺して、涙を流し続けた。思わぬ事態に、私は周囲に視線を彷徨わせる。しばらくして、躊躇いながら、右手をアオの背中にあてた。
アオは一瞬身体を強張らせたが、私を止めはしなかった。ぎこちなく、手を上下させて、背中をさする。アオがしゃくりあげるたび、身体の震えが直に伝わってくる。私は、ただアオの隣に、無言で座っていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。もしかすると10分程度かもしれないし、1時間近く経っているような気もする。アオの涙は止まっていた。
「頭痛え」
「泣きすぎだもん」
「うるせえ。お前ほどじゃねえし」
息を吸うように本音を言い合う。そうだ、そういえば昔はこうしてたんだっけ。年を重ねるごとに本心を隠す方法ばかり上手になった私たち。こんな風に思いきり泣いたのもいつ以来だろう。
「私の前でかっこつけなくていいよ、今更」
冗談交じりの言葉。アオには真意が伝わったらしい。戸惑うように視線を泳がせたアオは、大きなため息を吐いた。
「こわい」
たったの3文字。それは、他のどんな言葉より深く、私の胸を抉った。
「しにたくない」
続けられた言葉に胸が締め付けられる。アオは、ずっとひとりで戦ってきたのだろう。恐怖に呑まれないように。周りを心配させないように。自分が死んだあと、できる限り他の人が苦しまないように。
「アオは、死なせない」
「無理だって。……ハルカ、ありがとな」
アオは覚悟を決めてしまっている。そして、アオの死は、多分覆らない。私たちがどんなに抗ったところで、世界を変えることなんてできやしない。
結局その日は、何もしなかった。ただ、くだらないことをずっと喋っていた。普通の、当たり前の会話。アオが死ぬ未来なんて忘れてしまおうとして、ふたりで無駄に足掻いた結果。
いつも通り図書館を出ようとしたら、司書のお姉さんに声をかけられた。泣いているのを見られていたらしい。大丈夫です、と作った笑顔で言うと、お姉さんは寂しそうに笑った。
アオはずっと、こんな気持ちで笑っていたんだろうか。
それから一週間。私たちは毎日図書館に通った。勉強は、もうしなかった。もちろんボランティアも。好きな本を読んで、何でもないことを喋って、こんな日々がずっと続くのが当たり前って顔をして別れる。
アオの命の期限は、あと一週間。
「ねぇ、どこで、なの?」
主語も目的語も省いた私の質問は、アオには正しく伝わった。互いに意識しながら避け続けていた話題を私が持ち出したことに、アオは少なからず驚いた顔をした。
「×××に来い、って言われた。それ以上のことは、知らねえ」
「そっか」
アオが挙げた場所は、この辺りの住民なら誰もが知る、公的な手続きをとりまとめる施設だった。そこに行けば最後、アオは殺される。人類が増えすぎないための、生贄になる。
「……逃げちゃう?」
だから、私がそう言ってしまったのも、無理のないことだと思うのだ。
「逃げるって、どこに」
「わかんない。どっか、遠いとこ」
「MOTHERの目が届かないとこなんて地球上にあるかよ」
アオは不機嫌に吐き捨てた。私は、また同じことをしようとしているのだろうか。
「お前には普通に未来があるんだから、俺のことなんて早く忘れろよ」
「無理だよ、絶対忘れられない」
なんでだよ、とアオは困り顔で笑う。私は何気なく、むしろ無意識に近い状態で、アオに問われたその答えを考える。
「その理由」に思い至った瞬間、吐き気がした。
アオがいなきゃ嫌だ。寂しい。何もできずにこのままアオが死んでしまったら、一生後悔する。
こんな時にも私の中にあるのは、自分のことだけだった。どんなに耳障りの良い言葉を並べ立てても、最終的にはどれも全て自分のために帰結する。
そして極めつけ。最悪なのは、私がこの三週間でアオに恋をしていたこと。
アオは生きるか死ぬかの瀬戸際で、それも死ぬ可能性の方がずっと高い。私はそんなアオの横でぼんやりと生きて、アオが切望したこの先の人生を当然のように享受する。
「もうやだ……。なんで私じゃなかったの」
口にして、ハッとした。今のは確実にアオに聞かれたはずだ。アオの顔は強張っていた。見ればわかる。アオが責めているのはアオ自身だ。
「あ、アオ」
「悪かった。お前を巻き込んだ俺が間違ってた」
違う、そうじゃない。
頭には気分が悪くなるほど言葉が溢れているのに、私の声帯は仕事を放棄している。口が異様に乾いている。呪いにでもかかったように、私は口を開くことすらできない。
何も言えないでいる私に、無理して作った笑顔を貼り付けたアオは、悪かった、ともう一度言った。
「これは俺の問題だから。もうこれ以上踏み込むな」
今がアオに何かを伝える最後のチャンスなのに。私の声は出ない。生ぬるいものが頬を伝った。唇に流れた雫は、塩辛かった。
アオはそのまま踵を返す。アオの背中がだんだん遠ざかっていく。あの日にはあんなにすぐ近くにあったのに。あまりに明確な拒絶が伝わってくるから、余計に私は何も言えない。
きっとこれはアオの最後の優しさだ。私がこれ以上傷つかないように。私は、最後までアオといたいのに。最後になんてしたくないのに。当たり前のように「最後」という言葉が浮かぶ自分が嫌だ。
追いかけたい。話をしたい。でも、もしアオに拒絶されたら。アオをこれ以上傷つけてしまったら。そう思うだけで足がすくむ。
もう無理だ。もうひとりの自分が囁く。お前にアオを救うことなんてできるはずがない。お前にできるのは、ただ傷つけるだけ。
『俺はいつもお前の強引さに救われる』
耳元でアオの声が聞こえた気がして、衝動的に私は立ち上がった。ガタン、と椅子の音が鳴る。見渡しても、アオは、いない。
嫌だ。そう思った。
アオが死ぬということは、もう二度とアオには会えなくなるということ。そんな当たり前の事実に今更気がつく。
私が傷ついたって知るものか。そんな無茶をするのが私の役目。それを止めるのが、アオの役目なんだから。
凍てついた足は、いつのまにか自由になっていた。椅子を蹴って走り出す。倒れた椅子が大きな音を立てる。周りの視線が刺さる。構うものか。私は今、アオに話さなくてはいけないことがある。
机に出したままの本も、持ってきた荷物も全て置き去りにして、私は走った。まだそう遠くには行っていないはずだ。図書館の自動扉が開くまでの間すら惜しい。早く。早く。早く!
幸い、アオの姿はすぐに見つかった。図書館の建物のすぐ横にいる。端末で、誰かと通話をしているようだった。恐らく姿は映らない部類の通話だろうに。アオは小さく頷くと、何度も頭を下げた。相手は誰なのだろう。
まさか、通話中のアオに話しかけるわけにもいかず、私は居心地悪く、その場に棒立ちしていた。しばらく話して、アオはもう一度頭を下げると通話を終えたようだった。
「アオ」
小さな声で呼びかけると、アオはこちらを見た。その顔は今にも泣き出しそうだった。
「アオ?」
「ハルカ」
アオの声は、震えていた。
「連絡がきた。MOTHERが、処分命令を撤回したらしい」
一般市民である私たちにもたらされた情報は0に近いものだったけれども、要約すると、MOTHERにも想定外の事態が起こったらしい。その具体的な内容は教えられないとのことだったが、結局MOTHERの処分命令は、全ての対象について撤回された。
「なんだったんだろうね?」
「さぁな。まったく、人騒がせな……」
アオはむすっとしていた。死の恐怖から解放されて安心している一方で、無駄に振り回された気がするのだろう。もちろん私も同じである。
「でも、良かった」
「ちょ、泣くなって……!」
私が鼻をすすると、アオが慌てる。
私たちに当たり前の日常が帰って来た。「特別」は確かにドラマチックで感動的だったけれども、やっぱり普通が一番だと痛感した。どの物語の主人公も言うように普通の日常が一番、ってね。
300年に1人のプログラミングの天才と呼ばれ、「AIの倫理的価値観学習実現への寄与」が評価され、異例のノーベル平和賞受賞となった〇〇さんは、受賞式でのスピーチで次のようなエピソードを語った。
「私がAI工学に興味を持ったのは必然です。なぜなら、MOTHER最大の失敗と呼ばれる、あの人口削減命令がとある少年に下りなければ、私の両親は一生ただの幼馴染のまま過ごしたことでしょうから」
驚くべきことに、〇〇さんの父親アオさんは、少年時代に処分命令の対象となったのだという。それを何とか阻止しようと幼馴染のハルカさんと奮闘し(諸事情により、以下省略)