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牙猪に向かってゆっくりと近づく。壁に近い位置だとイノシシの全力の突進を誘発できない可能性に加えレンを攻撃のターゲットにする可能性も出てくる。不測の事態が少しでも減るように広々とした中央で戦いたい。
あちらも思いは同じなのか動く気配は無い。
近づきつつ観察した牙猪は覚悟していたよりは小さく、頭のてっぺんが股間ぐらいに来る。雑学の類でイノシシの牙はちょうど人間の太ももにある大動脈を抉れる位置にあるとか聞いた覚えがあるので故郷のイノシシと同程度の大きさではある。
(まぁ、あんな牙で突かれたら大動脈じゃなくても致命傷になりそうだな)
ただし、その牙だけは魔物らしく殺意に溢れていた。故郷のイノシシの牙が果物ナイフなら目前のイノシシの牙は柳葉包丁である。わざわざ、種別名に牙を入れるのも納得の存在感である。
牙猪の敵対距離に入ったのか唸り声をあげ、前足で地面を掘るような動作を始める。素早く左右を確認。壁は遠く、戦闘に影響は出ない距離。後ろを振り返っての確認はできないが数えていた歩数が正しければ十分に距離はある。視界の範囲内の地面で態勢を崩すほどのデコボコはない。
恐怖と緊張で心のゲージが満たされているが無理やり笑う。
「よっしや!!来い!!」
大声と同時に牙猪がこちらに向かって走り出す。予想以上に早い。瞬きするのも怖い。
だが、見えている。牙猪の速度。こちらとの距離。視線。走るための前足の前後運動。
半身に構え、膝を軽く曲げる。両手で構えた槍を強く握り過ぎないように意識する。
みるみる近づいてくる牙猪。こちらの作戦は至ってシンプル。突進を避けつつ、槍で突く。
作戦とも言えない出たとこ勝負の真っ向勝負なのには理由がある。確かに罠などの搦め手を使えば安全に戦えるだろう。しかし、初心者卒業の相手にそれはどうなのか?という事だ。
これから最下層の地下30階を目指すにおいて牙猪など比較にならないほどの強敵と戦うことになるだろう。その全ての戦いで事前に準備ができるとは到底思えない。慎重に進むとは決めているが常に万全の状態で戦えるとはかぎらない。傷つきながら数多くの敵と戦い続けることもあるだろう。戦力的に格上の敵と戦わないといけないこともあるだろう。
そのような窮地に陥ったとき事前準備を徹底して戦った経験しか無かったらどうなるだろうか。安全策を取り続けることも安全を失うきっかけになるかもしれない。だからこそ、レベルだけではない地力を上げるためにも出来る範囲で作戦はシンプルに、真っ向勝負で戦っていくとレンとも話し合い決めたのだ。
ついに回避行動開始の範囲に牙猪が入る。軽く曲げていた膝を伸ばし地面を蹴りつける。同時に槍で狙う場所、前足の付け根を見据える。正面から側面に移動することによってより視線が通る。
視界の変化から牙猪の突進コースから外れたと感じ、利き足で地面を踏みつけ移動の慣性を消す。
牙猪の突進コースから外れたのにそのまま突進を続ける動作以外の前兆は見えない。槍を突き出せば刺さる距離。
移動の慣性を消すために地面を踏みしめた利き足を今度は槍を突き出すために地面を踏みしめる。ここが勝負所。
(全力で槍を突くのではなく、きちんと狙った場所を突けることを最善として……)
狙いから大きくずれることなく前足の付け根その前方、肩関節部分に当たる。
瞬間、両手に凄まじい衝撃。こちらに突っ込んでくるそれなりの速度とそれなりの質量を正面から若干ずれたとは言え槍で突いたのだ。織り込み済みの衝撃を槍に全体重を乗せ、踏ん張って耐える姿勢に入る。
穂先が皮膚を突き破り、筋肉に潜り込む感触を両手に感じる。耳をつんざく高音。靴底が地面を削りながら後退するが構わず姿勢を維持することに注力する。現状で牙猪の正面からずれた位置にいるが姿勢を崩して倒れ込んでしまうと牙猪の突進に巻き込まれる可能性が出てくる。さらに運悪く牙が自身の体に突き立ってしまったら。
両手に感じる筋肉を裂く感触に硬い感触が混じり始める。視線の先、穂先の金属部分は牙猪の肉体に潜り込み見えない。
それでも、止まらない状態に内心焦り始めるがついに地面を削っていた靴底がついに地面を踏みしめる。最初から余力など考えてもいない全力だったが更に絞り出すように歯を食いしばり全身に力を入れる。
しばしの均衡。やたらあっさりと押す力が抜け、前のめりに倒れ込みそうになるのをどうにかこらえる。牙猪が倒れる。
慌てて槍から手を放し、牙猪からも距離を取る。視線を牙猪に向けたまま、背中の剣を抜き放ち構える。
凝視している牙猪が薄くなり始め、ついに消えてなくなる。
「勝った?」
「倒したー!!」
小さく漏らした声はすぐに背後からの大声で塗りつぶされた。