夏のある一日、もしくは殺人事件
「私は君のような夏の日を心から愛している。夏は還らない。君のその夏の日を眩しく思う」
夏の日――これがBの口癖だった。僕をしがない花屋のアルバイトから、小さな王国の王子にまでした人。まったく彼の城は小さな王国だった。徹底して外界からの接触を絶った、アラブのようなアジアのような――それでいてやはりヨーロッパの影の濃い、彼曰く美を極めた悪趣味な城。
貴族という概念は失われて久しいが、昔、彼は伯爵だったのだという。
初めて彼に出会ったときには正直驚いてしまった――Bは昔に負った火傷を隠すために顔の右半分を常に仮面で覆っていた。おまけに右足が不自由で杖をついている。僕は彼の半分だけの顔を眺めてはぞっとした。コツコツ響く杖の音もおそろしい。
しかし彼は残念ながら、左側だけは華のようなのだ。焼けてしまう前はさぞかし美男子であったろう。その半分が美貌だということが、かえってなんとも言えず不気味だった。彼が人並みのご面相であれば、気の毒だと思うに止まったに違いない。
彼は画家だった。同時に詩人でもあり音楽家でもあった。エトセトラエトセトラ……挙げればきりがない。芸術という曖昧な定義において、彼に不可能な手法などないようだった。彼は美しいものを、あらゆる形にした。彼にかかれば、この世に醜いものなど有り得なかった。彼の手は魔術師よりも魔法を使うことが上手だった。
彼は僕に演劇を習わせ、学校に通わせてくれた。演劇はそんなに好きでもなかったけれど、彼が言うならば仕方のないことだろう。彼は僕の保護者――支配者であるのだから。
学校は楽しい。僕は今まで学校に行っていなかったから勉強に追いつくために家庭教師までつけて必死に勉強をした。嫌な勉強をやってでも学校に行きたかったのだ。
「君が新しい夏かね」
ある日、僕がいつもどおり勉強をしていると、ある東洋人に話しかけられた。彼はCといって、Bの有力なパトロンであるらしい。Cは東洋人らしからぬ上背とりっぱな体躯の堂々たる紳士であった。年齢はまだ四十を回っていないと思われたが、何せ東洋人の年齢というものほどわかりにくいものはないから、実際はわからない。「そうらしいね」僕はそう答えた。Bは僕のことを夏としか呼ばないから、いつの間にか慣れてしまった。だが。
「“新しい”夏って?」
僕は尋ねた。しかし、Cが質問に答える前に、あのおそろしいコツコツという杖の音が響いてきた。
「Bが来るようだね」
僕は押し黙ってしまった。たいへん申し訳ないことだけれど、未だにBのことを得体の知れないものとして不安に思っている。扉が音もなく開いた。「Cさん」Bは非常になれなれしい口調でCを呼んだ。彼はどうやら数あるパトロンの中でも特にこのCを慕っているようだった。
「B、彼が例の?」
「ええ」
「ふむ」
Cは上から下から僕を一通り眺めた。東洋人特有のねっとりとした黒い色の瞳は、僕に視線以上の感覚を与えた。
「とても、似ているでしょう」
「あまりそうは思わんね」
「Cさんはいつもそうですね」
Bは笑った。彼の笑顔など久しく見ていなかったし、その笑顔は僕に向ける貼り付けたものとは違っていた。結局、僕の緊張と同様に、Bも僕に対して緊張していたのだろうか。そう思うと、今まで妖怪じみて見えていたBも同じ人間なのだと思えた。あくまでほんの少しだけれど。
Cはその後もしばらく僕の部屋に止まって、いろいろな話をしてくれた。その話の巧みなこと!僕はすっかり感心したり笑い転げたり大忙しだった。話していたのは結局、三十分程度だったけれど、それだけでもじゅうぶんにCが魅力ある人物だと知れた。彼がそろそろお暇すると言い出すと、Bはさんざにごねて、結局BはCを見送ると言って立ち上がった。これはすごいことだ――なにせ彼は体が不自由なので、よくよくそれを理由にしては金持ちの見送りを避けていた。それこそどんなに言われようと。ところがCには言われずとも立つのだ。BはCをパトロンとして慕う以上の感情があるのかもしれなかった。もっともそれは恋情には見えず、犬が主人を慕うような、子が親を慕うようなものに見えた。そして、CもまたBをかわいがっているように見えた。僕に見せた鷹のようなまなざしは緩んで、ときどきはそのごつごつした指がBの髪に触れた。それもまた、いやらしい類の恋情ではなく、親が子を愛おしむようなものに思えた。僕はなんだか目が当てられなくなって、目を逸らした。
僕はそのまま部屋にいて、中断された勉強を再開したが、間もなくあのコツコツという音が響いて筆を止めた。また扉が開いた。
「勉強は順調ですか」
「まあまあ」
「良い事です」
Bはそのままじっとソファに腰掛ける。もう慣れてしまったが、最初はその視線が嫌で仕方がなかった。
「彼のこと、お気に入りみたいだね」
僕は、こうして話し掛けることが彼の存在を認めることであり、そのせいで後々気まずくなる事を知りながらも、こう切り出してしまった。彼は答える。
「そうですね」
「どうして? 確かにすてきな人だけど」
「あの人は芸術に理解があります」
「そう? この前来た金持ちもなかなか造詣が深かったようだけど。散々語っていたじゃないか」
しかし、その間彼が不機嫌な顔をしていた事も知っていた。そのときの事を思い出したのか、彼が眉を寄せる。
「芸術は芸術家にしか理解できないものです。それ以外はただ、綺麗だ、面白いと言っていればよろしい。金持ちはそれを買えばよろしい。……彼はそれがわかっているから、私に変な趣向を押しつけたりしません」
ひどい傲慢だけれど、それが彼の美学なのだろう。芸術家というものがいかに気難しいか、彼の傍にいるとよくわかる。彼は滅多に怒らないが、滅多に笑いもしない。無機質な仮面と相俟って、僕は彼に表情――(この言葉はひどくわかりやすい。表に現れた感情!)がないのだとすら思った。
表情もそうだが、Bの髪は不思議な色をしている。水分を多量に含んだような琥珀の色。瞳はそれをもっと凝縮して濃くした色だった。どこかに異人の血が入っているのかもしれない。それが彼の神秘的なところ――悪く言えば不気味なところ――を増しているような気がする。紡がれる声や話し方にすら水の底のように絡みつくものを感じる。人はこれを愁いと呼ぶのかもしれなかった。その愁い声で彼は言った。
「そういえば、彼に約束をしましたので。あなたの絵が完成したら、一番に売ると」
「さすが、彼はいい趣味だね!」
僕はこの会話がばかばかしくって、鉛筆を放ってしまった。芸術がなんだ、結局商売じゃないか!
それにしても、神様は奇跡のようにBの腕の表面だけを焼いたらしい。彼は決して手袋を外さないが、動かすことに支障はないようだった。いっそ彼の腕の骨まで焼いてしまえば彼はこれほど気味の悪い偏執狂にならなかったのではあるまいか。
彼が狂人であるのは瞳を見れば知れる。僕を見つめる瞳、その濃い飴の色の瞳は、本当に飴となって僕にべたべたと纏わりつくようだった。僕は決して笑っていないだろう。しかし彼のスケッチブックの中の僕は、必ず笑っているのだ。青春そのものの姿で!
「そろそろキャンバスに描かないの」
僕は彼に監視される生活にうんざりしていた。だから学校が楽しみで仕方がないのだが――彼は言っていた。僕を学校に通わせるのは、その輝きを長く保つためだと。僕が輝いているかは知らないが、少なくともこの屋敷でずっと暮らしていたら、僕は腐っていただろう!
「そうですね、そろそろ描いてもいいでしょう……」
「どうせ描くならきれいに描いてね!」
彼はほんの少し笑ったようだった。
「私にとっては、綺麗に描かない方がずっと難しい」
Aの話をしなければならない。この城にはAの間という部屋がある。元々は実際にAという人物が住んでいたのだが、彼が若く美しいまま突然死んでしまったのを悼んでそのままにしてあるものらしい。
そのままというのは語弊がある。当時あったものはそのままに、しかし確実に物は増えている。Bが彼を描いた絵、彫刻や詩、写真、はたまた映画のフィルムのようなものまでがそこに運びこまれているのだ。Bはとにかくその部屋をAで満たしたいようで、僕と自分の他には決して人をいれなかった。僕だってそんな気味の悪い部屋に入ったのは一度きりだ。Aは確かに僕と面立ちが似ていた。この国では一般的な白い肌、青い瞳、金の髪。表情や仕草のすべてが輝いている、青春の形。そう、彼は夏の色をしていた。Bが僕のことを「夏」と呼ぶのはきっとそのせいなのだ。絵画の中の彼と今の僕は同い年くらいに見えた。
Bはときどきその部屋に一人で入っては、彼を偲んでいるらしい。Bは彼が急な病気で死んだのだと言っていた。僕と同い年くらいの、まして顔の似ている少年が死んだと聞くのはあまり気持ちのいいものではなかった。どうやらBの執着のせいで、Aは今も亡霊となってこの城を闊歩しているようだ。若く輝いたままの姿で。
「きみ、Bの屋敷から来ているらしいな」
放課後、Dが言った。Dは通っている学校の教師で、若く優しいため生徒に人気がある。僕もむろん彼が好きでよく質問をしに行く。だからこれは、そうやって授業についての質問に行った日の余談だ。
「Bを知っているの?」
「勿論、俺とBは――それからAもだけれど、この学校の卒業生だからね」
「へえ! Bが学校にいたの?」
「ああ、まだ火事にあっていなくてね。滅多に見られないような美少年だった」
意外だった。あのBが健全たる高校生の身分であったことが。制服を身に纏っていたことが。外では生徒のはしゃぐ声が聞こえる。Bもあの、喧騒の中にいたのだろうか。
「アルバムがある」
Dはちょっと席を外してすぐに戻ってきた。これが俺だ、と指差した先には今とあまり変わらない姿。そして、Aを見つけた。当たり前だが、写真や肖像画と同じ顔をしている。
「Aはどんな人だった?」
「Bに比べると、普通の少年だったな。よく冗談を言って、派手なことが好きで……あとはそうだな、勉強はよく出来て、運動も得意だった。明るくて人気者だったよ」
「ふうん」
なんだかイメージと違っている。Bの描く彼は、透明で聡明で神聖であり、侵しがたいものを持っていた。それもBの幻想なのだろうか。
「実際すてきな二人だったよ。AとBというのは。
Aは例のごとくの明るい派手な少年で、Bは大人しくて神秘的でね……足りない部分を補うみたいに二人は親友だった」
やがて写真の中にBを見つけた。まだ仮面もつけていない。ただ控え目に微笑んでいるだけの写真に僕はひどく驚いた。もはや妖怪じみた彼にも、こんなに愛すべきかれんな存在であった時期があったのだ!
「Bは元気かい」
「元気だよ!いやらしいくらいにね」
「そりゃ良かった。Dがよろしく言っていたと伝えてくれ――それから」
「なに?」
「Aが殺されたことは、たいへん不幸なことだった、とも伝えてくれ」
それはまったく不意打ちの発言だった。もちろん僕はその本意を尋ねた。
「どうもこうもない。ただの質の悪い冗談さ」
彼は僕の肩を叩いた。
「話しすぎたようだ。きみ、早く帰りなさい」
Dはアルバムを閉じて立ち上がった。僕も立ち上がり、家路を急いだ。
僕は賢いので、もちろんDから聞いたことは何一つBに漏らさなかった。ただ「Dという人を知っている?」とだけ聞いた。Bは、ちらりとこちらを見て、「彼がどうかしましたか」と聞いた。
「学校の教師なんだ」
「Aとは仲が良かったようですね、彼は」
なんてことのないように言って、Bは読んでいた本を閉じた。
「Dは他に、何か言っていませんでしたか」
「よろしく、だって」
「そうですか」
Bはまた本を読み始めたし、僕は無理やり読まされているシェイクスピアの文字をただ追っていた。明日も演劇の練習がある。演劇の練習をして気付いたことがある。僕のやりたいことはどうやら少なくとも演劇ではないようだ。そういう意味で、いろんなことには挑戦するべきだ。
いやいやながら演劇を見る目も少しは養われた。演技を見破る能力。たとえば今の会話――普通の人間が見ればなんのことはない会話だろう。しかし僕は見た。Bの指先に走る微かな動揺を。Dは、もっと深く事を知っているはずだ。そして、Dが知っていることをBは知っている。
もっとも、だからといってAに興味はないが。僕は頬杖をつく。気付けばBがまた僕を見ている。よく疑問に思うのだが、Bはどうして見るばかりで僕に触れないのだろう。僕はまるで動物園の猿か何かだ。
「それは当然だな」
Cが言った。たまたまBが席を外したときのことだった。僕は先ほどの疑問を彼に聞いたのだった。
「どうして? 却って気持ちが悪いのだけど」
「芸術は見るものだよ」
「僕は人間だよ。芸術じゃない」
「Bは、人間は飼わないよ」
Cは事も無げにそう言った。僕は少しむっとしたが、なんとなくそうではないかと察してはいたから激昂こそしなかった。僕はBにとって『もの』である。そして僕は『もの』であるから大事にされている。皮肉なことだが、みじめな生活に戻るくらいなら、こうして『もの』であるほうが人間らしくいられる。
「絵画や彫刻は見る芸術、音楽は聴く芸術だが、残念ながら人間は触覚の芸術というものを生み出していない。だからBは一切きみには触れまい。何も生まれないからね」
「彼はAにもそうだったの?」
「A? むろんそうさ。BはAのことを崇めていたようだった」
「Aのことは詳しく知っている? 彼の死んだ理由も」
僕はAの話題でふと例のことを思い出した。Cに聞いたら、真実が聞けるかも知れなかった。ところが、CはBともDとも違うことを言った。
「Aはかわいそうに、自殺をしたんだ。よほど病気で思いつめていたんだな」
「ほんとに? Bは病気で死んだと言っていたよ」
「Bには言わないでもらいたいが、Aが亡くなったとき彼はひどい錯乱状態でね。どうやらそのときの記憶が曖昧らしいんだ。だから彼にショックが少ないよう、病気で亡くなったと言ったんだ。じっさい、Aはひどい病を抱えていたからね。
口さがない者はAの死は殺人だなんていうけれどね、それはAが最後にはほとんど外を出ずに、この屋敷の者以外には元気だと思われていたからだ」
「ずいぶんぺらぺら話すね!」
「君は頭がいいからな。下手に隠すよりも言ってしまったほうがいいさ。何かAについて言われたんだろう? 隠すと好奇心が頭をもたげる――私も君ぐらいの年齢のときそうだったからね」
Cは相変わらず、ひどく聞きやすい声と明瞭な言葉で話す。信用してしまいたくなるが、苦境を生きてきた僕には、もしかしたらそれは詐欺師の口調かもしれないと感じられた。
「倫理として、人の死を茶化したり詮索してはいけないよ。賢い君にはわかるね。ましてAは自殺――不名誉な死。一切の口外は不要だ」
「うん……」
釘を刺されてしまった。もちろん下種な詮索などする気はないし、まして口外などする必要がないが、ここまでいろんな人で話が違っていると、気になってしまう。一応はCの言うことで説明はつくが、僕の直感がなぜかそれは違うとざわめいていた。Cは大人だ。Cは口が上手い。Cは東洋人だ――騙されてはならない。東洋人特有のゆらゆら揺れる黒い神秘的な瞳。いざというとき、あまり動かない表情、仕草。そのすべてが魔術師めいている。魔術師――要はイカサマ師だ。遠い国に思いをはせる。動物が口を利くという遥か遠い海を越えた国。
「僕とAは似ているよね。写真も見たけれど。あなたは前に似ていないと言ったね。どうして?」
「顔はね、よく似ていると思うよ。Bもよく見つけ出したものだと感心した」
「じゃあなんであのとき似てないと言ったのさ」
「きみとAでは決定的に違うところがある。――Bをどう思っているかだ。AはBを確かに愛していたよ。きみは?」
「あんなばけもの。って思ってる」
「ははは、ばけもの、ね。きみとAはそこが違う。AはとびきりBを愛していた。かわいいと言っていた。そう、きみ」
「なに?」
「そうやって、Bと距離を置いて、決してBを愛してはいけないよ」
Cはそうして、黒い瞳で僕を射抜いた。僕の色素の薄い、青い瞳はきっと傍目にも完全に負けているだろう。
「まさか」
僕は鼻で笑った。
「愛したりしないよ、あんなの!」
僕はBを、どうして愛せるものだろうか! Cは不思議な微笑でこちらを見ている。彼はきっとBを愛しているだろう。魔術師のような彼をも惹きつけるBの暗い魅力というのは、悪魔だとしか思えない。Aは――あの、夏の象徴のような眩しい彼は、陰鬱たる彼をどうして愛したのだろうか。また、どのように愛したのだろうか。
コツコツとあの音が響く。あの人とは顔を合わせたくない!
「僕はもう寝るからね!」
僕が慌てて扉を開けると、Bが扉の前に立っていて、思わず押しのけてしまった。彼はかわいそうに足が不自由なものだから無様に転んでしまったので、仕方なく手を差し伸べる。ところが彼はうずくまって右目を押さえて起き上がらなかった。見ると、いつも彼が身につけている仮面が外れて、落ちてしまっている。僕はその仮面を取って、彼に差し伸べたが、彼はうずくまったまま決して顔をあげようとしなかった。
「どうしたのさ。どこか打った?」
「B!」
呼んだのはCだった。彼はBの背を擦ってやる。Bはそれでも少しも動かない。Cはこちらを向いて、
「君は早く部屋に戻りなさい」
と言った。僕は訳がわからないながらも頷いて仮面をCに渡してそこを後にした。そして部屋に戻ったのだが、あんなことになってはなんだかぐうぐう寝てもいられない。Bはいちおう僕の恩人であるのだし――思い立って、僕は彼の様子を見るついでに謝ろうと立ち上がった。この時間では使用人もほとんど眠っているようだ。そして先ほどまでいた部屋にたどり着き、扉を開ける。思わずノックを忘れていた。
「ひゃっ」
そこで見た光景に僕は小さく悲鳴を上げて、扉を閉じて、そして走って自分の部屋へと戻った。心臓がひどく落ち着かない。
小さい頃からろくでもない環境にいた僕は、それこそいろんなものを見てきたけれど、それでも、驚いてしまった――見たのはCがBに口づけている姿。ソファに身を預け、それを受け入れるBには不慣れなことなど見当たらなかった。見たのはほんの一瞬だったが僕にはわかった。あれがいつもの彼らの姿なのだと。そう、僕はろくでもない環境にいて――いろいろ見てきたのだ。あれは痴情の行為だった。あの後、Cの太い指がBの服を暴き――そこまで想像が出来るほどには。ああ、僕はあんな現場を見てしまって、いったいどうなってしまうだろう? こんなつまらないことで追い出されてはたまらない。たまらない――今日はとても眠れずに過ごした。遠くに、彼らの乱れた呼吸さえ聞こえる気がした。
「おはようございます」
Bは今朝も変わらず僕より先に朝食の席についていた。僕は挨拶も出来ずに立ちすくむ。
「どうしました。早くお座りなさい」
ちらりと僕を一瞥するその姿、表情、どれを取っても昨日と変わりなかった。僕は怯えながらも席に着いた。朝食には最低でもパンと卵とハムはつけてもらう。昨夜のことは夢だったのだろうか。まさか。なぜなら僕はこの日一睡もしなかったのだから。
「B」
「どうしました」
「……なんでもない」
「怖い夢でも見ましたか」
「うん」
Bは本当にいつもと変わらない。どうやら追い出される気配もない。ひとつ息を吐いて、朝食を平らげる。そうだ、彼の角度からは僕が見えなかったに違いない。彼は片目が見えないのだし、それに僕はノックの音すら響かせなかったのだから。
Bの持つナイフが朝食の魚を割く。指が白い。フォークでそれを口に運ぶ。唇は赤い。赤い――
「ずいぶんと眠たそうだな」
「わかる?」
「どうした、勉強しすぎたか」
「そんなとこ」
僕はまたDのところに質問をしに来ていた。
「あんたのせいだ」
「俺に恋でもしたか」
Dはちっとも意に介さず、日誌を書き込んでいたが、
「あんたがAのことなんて言うから」
の声に筆を止めた。
「Bは何か言っていた?」
「僕はAが殺されたとあんたが言ってたことは話してない。ただ、教師でこういう奴がいるって話したんだ」
「それで?」
「お友達だったんだってね。Aと」
「まあな」
Dは眼鏡を外した。若くともやはり教師らしい、諭すような落ち着いた物腰は鳴りを潜めて、おそらくはAとつるんで遊んでいた頃だろう顔に戻る。
「すげえいい奴だった。早くBとは縁を切れって言ったのにさ」
「どうして、殺されたって思ったわけ? 本当は自殺だと聞いたよ」
「Cさんにだろ? あの人は昔からB贔屓が激しくていけない……」
「Cを知ってるの」
「2つ上の先輩で、演劇部の部長だったんだよ、昔ね。俺は部員だった」
「でも、Cはもっと老けた人だよ」
「東洋人だろ?」
「そうだけど……」
「あの人はいつも早く大人になりたいと言っていたよ。しばらく会っていないが、そのためにきっと、髭を蓄えていることだろう。誰よりも巧みに話すことだろう。――彼の言う大人というのは四十を超えた男だった。五十六十ならもっといいと言っていた。皆が皆、若くいたいと願うのに彼だけは違っていた」
Dの話す現在のCの様子はとても真実に近かった。ああ、Cもこの学校の卒業生! おそらくはAのこともBのことも良く知っていたことだろう。
「悔しいよ。俺は今でもとても悔しく思っている。だからこうやって鮮明に覚えているし、誰かに話したくもなる。まあ、君には関係のないことだが……聞いてくれよ」
「Aのこと?」
「そう」
「何かを見たの?」
「その時たまたまCさんと一緒にAの見舞いに行って――そう、嵐の夜だったから、帰るに帰れなくなって、泊まりこんだんだ。そして、その日にAは死んだ。首から血を流してね。どう考えても病気の死に方じゃない」
「遺体を見たの?」
「ああ、見つけたときにはAは首から血を流して息も絶え絶えで、それでもそのときはまだ生きていた。横でBが剃刀を持ってふるえていて――それを見たCさんが、自殺だ! って叫んで……」
「…………」
「俺はAに話しかけた。意識があるか、大丈夫か、って……Aは確かに頷いた。そして、何か、何か言おうとしたんだ。唇が動くのを見たけれど――目が閉じられて、それで、医者が来る頃には息絶えていた」
「警察はどうしたの?」
「殺人か自殺か――むろんこの二点だったよ。彼らの焦点は。Bは本当にばかみたいにぼんやりしてしまって口も利けないから何も聞かれなかった。
俺は言ったんだ、Aは自殺をするようなやつじゃないって。でも、俺はまだ高校も卒業していない子どもだった。衝撃でふるえていた。Cさんは有名な商人の息子で、優秀な大学に通っていて、成績も上々、評判もよろしい優等生で、何より、自信を持ったしゃべり方が出来ていた。彼が言ったんだ。
『Aは確かに自殺をするような人ではありませんが、病気にかかってしまって心が弱くなっていたのかもしれません。駆けつけたときには、BはAが握った剃刀を抜いてやるところでした。Bには医学の知識がなく、抜いたら出血するものとは思わなかったのでしょう。Aを助けるための行為です。Dが信じたくないのも無理はありません。彼も混乱しているでしょうから』
――こうだ。淀みなくね!」
「それで、警察はCを信じたんだ」
「そう――それでね、俺はCさんが大人になりたいと言っていた理由がわかったよ。子どもには何も出来ない。まして彼は東洋人だろう? 信頼を得るためには大人になるしかなかったんだ。――やっぱりこれを思い出すたび悔しくなる。俺は絶対にAが自分で剃刀を握っていたところなんて見ていないし、Aは自殺なんて考える奴じゃない」
「本当に?」
「むろんそうさ――あるいは、もしも、もしも仮に、Aが自殺するとしても、奴はビルから飛び降りるだろう。なるべく人を集めて、とびっきり目立って、とびっきり迷惑をかけるようにね。派手なことやお祭り騒ぎが大好きだったんだ。あんなふうに大人しく消えるみたいに死ぬなんて」
「D……」
「きみはね、実にAに似ている。その顔も、生意気な口の聞き方も――体を大事にして、よく遊んで、よく勉強するといい。勉強はどんなものでも損にはならないからな」
Dはまた眼鏡をかけて、教師の顔へと戻った。
僕は車に乗せられていつもの帰途に着きながら、Dの話を頭で反芻する。
Dは、Aが殺されたのだと言っていたが、暗にBがAを殺したのだとも言っているのだ。思い出す。朝食のときのナイフ。赤い唇。ぞっとする。
無論、主観だけでは結論は出せない。Dが正しいとは限らない。警察の判断通り、Cが一番冷静であり、間違っていない可能性もあるのだ。
「ご主人様は臥せっておいでです」
帰宅するとこんなことを言われた。
「そう」
僕は特に何も思わなかった。見られることなく勉強が出来て快適だなあと思ったくらいだ。Bはときどきこうして病気になる。確かに、どうにもあの肌色は健康体とは思われない。何せ蝋のように白いのだ。きっと触れても温かくもなんともないんだろう。それに口づけていたC。彼は――彼はBを本当に、母のように恋人のように、――女性のように愛しているのだろうか。だから、Dの言うようにあのとき庇ったのだろうか。
家庭教師の授業が終わると、これから僕の自由時間だ。普段は本を読んだり、好きな勉強をしたりしているのだが、今日はなんだか聞いた話が頭に渦巻いて仕方がなかった。――Aの間に行ってみよう。僕がそう思ったのも自然なことだ。彼に、Aに触れてみようじゃないか。僕のそっくりさん。
扉を開ける。眩しい色彩が飛び込んでくる。いつだって青や緑や眩しい光の色で彩られたAの様々なもの。微かに芳香が漂い、妙なる音楽が流れている、麻薬めいた部屋。そっと絵画に触れてみたが、それはただ油絵のでこぼこした感触を伝えてくるだけだった。
「A、きみは何を考えていたの?」
問いかけても、もちろん声は響かない。
「きみは誰を愛して、どうやって死んだの?」
その声は何枚も何枚も飾られた彼の絵に、写真に、捧げられた詩に、音楽に、すべて吸収されるようだった。
「きみに聞きたい。僕はきみに似ている? 誰よりも……きみに聞きたい」
肖像画。写真。彼は口をきかない。
「よく似ていますよ」
声が響いて、僕は飛び上がるほどに驚いてしまった。Aのゆうれい! しかし、振り向くと、Aの姿はなくて、代わりに青ざめたBの姿があった。
「B……」
僕はゆうれいを見たよりもおそろしい気分になった。どうして、あのコツコツという音に今日に限って気付かなかったのだろう!
「何をしているんです」
「別に……絵が見たくなって」
「絵なら他にもたくさんあるでしょうに」
Bの口元が笑みの形に歪んだ。けれど笑っていないのはありありと伝わってきた。
「Aは美しいでしょう」
「そうだね。嘘みたいにきれいだ」
「私はAのように美しくなりたかった」
Bはうっとりと呟いた。
「別に、あんたも見ようによってはきれいだと思うよ、Aとはぜんぜん違うけど……」
「では、私が好きですか」
「好きではないよ……僕は男色家じゃないもの」
「そうでしょうねえ、やはり」
彼は別に激昂するでもなく、ただ額に手をやって笑った。
「醜く焼け爛れた顔では愛されるのは困難でしょうねえ……私が私ではなかったら、こんな男はごめんです」
「顔が焼けているとか、杖をついているとかじゃないよ。僕はあんたが……なんだか気味が悪くて仕方ないんだ。あんたが健常者であっても、やはり気持ちが悪いと思う」
「炎は私の体だけではなく心も焼きました。ええ、私は昔はもう少し明るかったのですよ。これでもね」
Dが見せてくれたアルバムを思い出す。明るい日差しの中で微笑んでいたB。彼にも、青春があったのだ。そして、親友であったというAと共に、理知的でかわいらしい、誰からも愛される少年だったに違いない。
「Aは、どんな人だったの……」
「美しくて、優しくて、明るくて、運動が得意で……そうですねえ。私にないものすべて持っていました。私は幼い頃から彼が好きで、彼の気に入るよう必死についてまわっていたものです」
「理想を押しつけてただけだろう」
「あなたにはわかりますまいねえ……私が彼をどんなに深く愛していたか」
優雅に首をかしげる仕草には、どこか人をばかにしているようなものを感じた。Bにはまだ、優雅でいられるほどの余裕があるのだ。
「否、今でも愛している、か……私は、彼を」
「愛しているならどうして殺したの」
「Aは病気で死んだのですよ」
Bはふらふらと壁に凭れかかった。
「そうでしょう、A」
肖像画の、写真の、彫刻のAは、何も返事をしなかった。そしてBは、僕を見た。
「あなたはもう眠りなさい。私ももう――」
Bはひどく青ざめて、荒い息を吐いていた。その顔色は、照明が薄暗いせいだけではないだろう。
「B、どうかしたの……」
「どうもしませんよ、早く部屋に戻りなさい」
「でも、なんだか具合が悪そうだ。誰か呼ぶ?」
「いいから……どうか二人きりにさせてください」
Bはそのままずるずると座り込んでしまった。その視線の先は、僕には何もないように見えた。しかし彼は二人、と言った。
カタカタと、物音がするような気がした。Bが空に向かって言葉を発した。
「ねえ……A……」
僕はおそろしくなってその場を辞した。最後に聞いた、甘えるようなBの声が忘れられない。今日も眠れない――そう思ったが、昨夜も一睡もしていなかった体は休息を求めていたらしく、いつになくゆっくりと眠った。
Aは何も喋らない。ただきらきらと輝いているだけだ。ねえ、A、きみは誰を愛していたの? Bを愛していたの?
今朝の朝食の席にBはいなかった。もともと病気で臥せっていたのを、昨日歩きまわったせいで余計にひどくしたものらしい。
もうBは長くは生きられないだろう――使用人の噂話を耳にしてしまった。
もしそうなったら僕は、また元の惨めな生活に戻るのだろうか。夏は短い。そして還らない。Bが描くA。写真の中のB。紛れもなく輝いていた夏の色の二人。
僕に真実はわからないが、もしも、Bの現在の姿を過去に知ることが出来たら、僕ははたしてかわいらしいままで彼を殺してしまおうと思わずにいられるだろうか。眩しい、夏の姿のままで。