盛夏
キーヒとエナがやっとこさ再会します。
そして、キーヒはエナに武具を創ることを依頼します。
その出来上がった武具を見て愕然とする話です。
「あら、エリュイン。貴方が一人でここに来るのは珍しいですね」
穏やかに『赤の魔石』は言う。ここは魔石が存在するためだけの空間である。そこにエリュインは”調停者”に連れていくように依頼し、魔石達にある報告をするために来ていた。
エリュインは面倒であったが、この面倒をエナに負わせるのは哀れに感じてしまっていたのでここに来ることにしたのだ。
(あのキーヒという神に指摘されたからかもしれないが、私もエナに少しは懸想をしていたのかもしれないな。だから、エナにこの面倒を押し付けたくないのかもしれない)
エリュインは何者にも諭されないように鉄面皮で魔石達と対峙する。あのときはぐらかした言葉は相手が神だからではなく、直情的で何事も正面から見据えることが当たり前だと思いこんでいる性質の存在から突きつけられた言葉だからこそ、話術が得意で相手の言葉の裏まで読み取ることに長けた自分にはなかった考えだった。
確かにエリュインはエナから惚れられるように言葉巧みに動いていた。だが、伴侶としてというよりもエリュインがエナに持つ感情は妹のように思うものに近かった。それでもほんの僅かだけキーヒに指摘されたように小さな灯火のような恋慕もあったかもしれない。
(まあ、私のことを警戒しているのに惚れるわけはないか。慕ってはくれてはいたが一線を画する態度をとっていたのはわかりやすかった。エナも真っ直ぐすぎるきらいがあるからな)
街に出て茶屋で食べた菓子に目を煌めかせていたエナの姿を思い出す。歓喜に満ちた笑顔でそれを頬張る姿にこちらの頬も緩んだものである。だからこそ──。
(私は引かなければならない。エナの恋を、愛を守るためにも。それで今までも、これからも振り回すこと全ての贖罪になるとは思えないが、その一端にはなるだろう)
エリュインは息を吸うと、魔石達を見据えて朗々と語りかける。
「ええ、今日はご報告に馳せ参じました。エナと私との婚姻関係を結ぶ話ですが、あれは破綻しました。なにせ、私はエナのことに関しては妹のように思っております。その妹を伴侶として愛するという行為は人道に反しおります。また、エナも私のことを慕っておりますが警戒している面もあります。そのため、エナは私に本心を見せず、楽しく過ごしたとしても冷めた心地でいたことでしょう。私は以前、エナとの婚姻の話が出た際に『エナに惚れられれば婚姻関係になる』と申しましました。ですが、戦争もありましたし、エナは他の存在を恋い慕っております。それを横取りするような野暮な真似はする気がありませんから、この話はなかったことにしてください」
肩を竦めて言ってみるが、魔石達は無反応である。
(これは想定の範囲内だ。このあとに私を殺しにくるようなら、必死に抵抗して逃げたいところだな)
どのようにここから逃げられば生き延びられるかをいくつか考え、そのための魔法式を組み始める。その魔法式に”調停者”は気付いたらしく、その紫紺の瞳でこちらをちらりと見てくるが、すぐに視線を逸して魔石の方を見るとそれ以上は何もしてこなかった。
そして、先に口を開いてきたのはエリュインの予想とは反して『青の魔石』であった。
「貴様は我々の命令を反故にして無傷で戻れると考えているのか? 今すぐ貴様の命をここで奪うことも容易いのだぞ? その魔法式を発動させる前に、な」
剣呑な言葉を発する『青の魔石』の重圧は凄まじいものであった。その重圧を受け、エリュインは背筋に冷や汗が流れ落ちるのを悟る。だが、ここで怯んでは傲慢な魔石達の思うがままである。それに従うのも腹立つので、できるだけ叛逆した所存である。
「落ち着いてください、青。そのように殺気立っては建設的な話ができませんよ」
『赤の魔石』が『青の魔石』を嗜める。その言葉に不満げではあるものの、『青の魔石』の殺気は収まってきていた。それ以降、『青の魔石』は『赤の魔石』が話すのを待っているのか、ただ不機嫌になって黙りこくっているのかわからなかった。とにかく話す気がないと言外に言っているかのようであった。それを見て『赤の魔石』は溜息をついたかのような雰囲気になる。そして、『赤の魔石』は温和に問う。
「エリュイン、貴方はそれで良いのですか? エナと婚姻関係になりたいと微塵も思わなかったと?」
「……少しはそのように思ったこともあったかもしれません。ですが、エナが想う存在は私ではありません。エナは貴方に創られた存在であるから、家のしがらみもないでしょう。その点では自由です。だから、エナは好き合った者同士で婚姻関係になるのが彼女の幸福に繋がるかと」
「なんだ、貴様はエナに袖にされるのが怖いからそのようなことを言っているだけではないか。この軟弱者め」
努めて冷静に語っていると、嬉々として『青の魔石』が茶々を入れてくる。エリュインは苦々しく思いながら『青の魔石』を睨みつける。もし『青の魔石』に肉体があれば、にたりと底意地の悪い笑顔を浮かべていることであろう。『赤の魔石』は諌めるように、
「青、そのようなことを言ってはエリュインの神経を逆撫でするだけですよ。それにエナが恋に目覚めたのは良い兆候です。私はあの子のことを愛しています。だからこそ、エナには幸福になってほしいのです。だから、今回の件は果報でありましょう」
エリュインはその言葉に拍子抜けする。エリュインとエナとか婚姻関係になることに執着しているのは『赤の魔石』だと思っていたので、このようにすぐに考えを改めるとは思っていなかったのだ。また、エナの幸福を願っていると言っているが、エナは自信の能力でいらない苦労をしているのに、それを減らすことはしないようである。だから、エリュインは『赤の魔石』の言葉には矛盾を感じている。本当に母のように子を大切に思うのなら、その辛苦に寄り添い、解決する道筋を共に見出すはずだろう。だが、『赤の魔石』はそれをしない。以前、エナが能力の弱体化を願っても、それを拒否されたという噂を聞いたことがある。『赤の魔石』は『青の魔石』に比べたら慈悲深いのだろう。それは言葉から慈愛が滲み出ているからわかる。だが、その慈悲が人が想像するものと『赤の魔石』が実際に実行するものとの間で乖離があるのだ。そのことに『赤の魔石』は気付けていない。いや、気付かないだろう。魔石達の思考は人と異なるものだ。愛玩対象の思考など歯牙にもかけないのも道理である。
やがて、『赤の魔石』は恍惚とした声音で興奮を抑えながらエリュインや『青の魔石』に語り始める。仮に、『赤の魔石』に肉体があればうっとりとした表情をしていたことであろう。エリュインはその声音を聞き、ぞわりと背筋に悪寒が走った。
「なにせ、神族と我々の一族との間の子はこれが初めてでしょう? はたして、どのような存在になるか楽しみじゃないですか。ねえ、青」
「そうだな。半神半人は英雄の証であるが、我々の一族は人よりも格段に勝っている。その間の子となれば英雄を超える存在になるだろうな。もしや、神よりも能力に秀でた存在になりかねないな」
「そうでしょう? そのような存在がどのように成長するのか楽しみじゃないですか。ふふ、思いも寄らない存在に育つことだけは確実でしょう。私はそれが楽しみで楽しみでエナには早く神族との婚姻をしてほしいものです」
エリュインの予感は当たっていた。『青の魔石』は『欲』を司るのでわりと俗世的で厭世的な部分があるので考えていることが理解できる。だが、『和』を司る『赤の魔石』は無邪気で慈悲深い面がある。そこに騙される人間もいるが、このような突拍子もない考えを発することがしばしばある。『青の魔石』は『赤の魔石』の考えにはあまり興味がないようであるが、己の一族に執着としか思えない感情を発する『赤の魔石』はこのように人間の尊厳を無視したことをのたまうことがある。それは愛するという形で一族の人間を所有しているかのようにエリュインには思われる。比べて『青の魔石』は一族の人間に対しては放任主義というか、興味そのものがないようである。『青の魔石』にとって興味の対象は『赤の魔石』だけのようである。それも無責任だと思ってしまうエリュインであった。ほど良い距離感で魔石達と一族が共存するのが理想であるが、それを魔石達はする気は毛頭ない。
(自分が創り出した存在を尊重する気にもならないか。創り出したのなら、責任を持って面倒を見るべきだと思うのは人間の考えなのだろうな)
非常識な存在に支配されてしまっている己の一族の存在に嘆息をつきたくなる。なにより、この魔石達の存在を唾棄したくなっているエリュインであった。
*****
”鏡界の湖”から戻り、自室で強大になった自分の権能の制御を行うと朝餉の時間になっていた。キーヒは食堂に向かうと、キーヒの父であるトルマがゆったりと茶を飲んでいた。トルマはキーヒを自分の前に座るように促すと、キーヒは昨晩何も言わずに家を留守にした罪悪感でとぼとぼと席に向かう。そして、トルマから怒りの言葉を貰うと思い、身を縮こまらせていた。トルマは朴訥ながら、キーヒを穏やかに見つめ、問う。
「昨晩は何故戻ってこなかったのだ、キーヒ?」
「それは……。アラトスを取りに行っていたのです」
懐に仕舞っていたアラトスをキーヒはトルマに渡そうとする。トルマがそれに触れようと腕を伸ばす。だが、トルマの指が触れた瞬間、アラトスはトルマを拒絶するかのように紫電を走らせ、雷轟の如き音が食堂内に響いた。キーヒは慌ててアラトスを自分の手で持つ。トルマの手は雷光に灼かれており、その様を見てキーヒは自分のした愚行に青ざめてしまう。トルマは手の怪我を気にしないでいたが、轟音を聞きつけて他の家族がトルマの手の怪我を見て慌てふためいていた。それを落ち着けさせ、トルマはアルデリアに治癒魔法を使うように頼むと、アルデリアはその手に治癒魔法を施す。徐々にトルマの手が治っていくと、
「キーヒはアラトスが持ち主以外が持つと拒絶反応があるのを知らなかったのか?」
「はい……。父上、申し訳ありません」
「知らないのなら仕方があるまい。だが、これからは気をつけるのだぞ」
「肝に銘じます」
トルマはアルデリアに治癒してもらった手を開いたり閉じたりして具合を確かめる。すると、アルデリアの使い魔達に指示を出して朝餉を持ってくるように言うと、それらを持ってきて卓に並べていく。キーヒの前にも温かな朝餉と茶が置かれる。それを行儀良く食べ進めているとトルマが唐突に、
「そのアラトスはキーヒと懇意にしている娘の元に持っていくのか?」
キーヒはその言葉に口に含んでいた茶を吹き出しそうになるが、それを堪えてなんとか飲み下す。それでも咳き込んでしまい、まともに会話できるようになるまでずいぶんと時間がかかったものである。
キーヒは咳き込みすぎて涙目になっていると、
「な、何故父上がエナのことをご存知なのですか?」
「アルデリアが楽しそうに話していたからな。ああ、エナと共に”花畑”にも行っていたのだろう? その噂も耳にしている。人間嫌いのキーヒが人界の娘と懇意になるのは喜ばしいことだから覚えていたのだ。それにエナは新年の儀式のときにキーヒの相手をした娘らしいではないか。エナの創具師としての腕前は神界でも轟いているため、そのような情報に疎い私でも知っているぐらいだ。それに、エナには私も世話になっている」
(父上の耳にまで入っているとは……。なんだ? 俺とエナのことを知らない神がいないと思っていたほうが良いのか?)
トルマが息子の変化を嬉しそうに語っているが、当のキーヒは頭を抱えてしまった。その際に角に手が触れると、とあることを思いつく。だから、キーヒはトルマに頼みごとをすることにした。キーヒは顔を上げると、トルマの目を見て、
「実は父上に頼みたいことがあるのです」
「なんだ?」
「朝餉が終わってからで良いのですが、私の角を切ってほしいのです」
「そのようなことをしたら、見た目が見窄らしくなるのではなくて?」
アルデリアは心配そうにキーヒに声をかける。キーヒは頭を振って否定をすると、
「実は俺はエナを酷く傷つけているのです。その謝罪の意味もあってアラトスを入手した次第であります。そして、俺の角は堅牢でありながらも柔軟性に優れています。この角の形質は父上譲りです。父上も角から武器を創ったという話を以前されていたので、俺も自分の角でエナに剣を創ってほしいと思いました。悲嘆に暮れさせたのに、武器の創作依頼を出すのは身勝手なのはわかっています。それでも、エナを頼りにしていることを示すためにもそのようにしたいのです」
「……わかった。ただし、条件がある」
「条件、ですか?」
「エナにキーヒは謝罪できるか? できるのならば、以前私の角で創った剣でキーヒの角を斬ろう。それならば斬られるだろうからな。だが、できないというのならば、そのような身勝手をエナに押し付けるのは道理に反することだ。私はキーヒが道理に反することをするのならば、それを諌めるし見過ごす訳にはいかない」
キーヒは考え込む。確かにトルマの言う通り、自分の思い込みでエナに会いに行かなかったのでエナを酷く傷つけているのは間違いない。だが、自分は神である。そして、エナは人間ではないとはいえ人界で暮らす存在だ。そのような存在に謝罪ができるのかと思い悩んでしまう。なにせ、神としての矜持がそれを赦してくれないのではないかと思ってしまうのだ。
(それでも、エナとこれからも会っていきたいと思っている。エナは俺のことを尊重し、崇敬してくれていた。そのような俺が謝ったらエナは驚くだろうが、受け入れてくれるだろう)
嬉しそうに自分の名を呼んでくれるエナの姿を思い出すだけで目頭が熱くなる。このような熱い想いがあるのだ。神の挟持など吹き飛ばして、心の赴くままにエナと接すれば良いはずだ。それならば、できる。
「はい、謝罪はします。元はと言えば、俺の勘違いが原因で悲しませてしましたので……。それに俺はできるだけエナと共にいたいと思っていますから」
「なあに、キーヒ? それは求婚ということかしら?」
アルデリアが嫋やかに笑うと、キーヒは顔を赤らめて慌ててしまう。それを冷静に眺めるトルマとヒューリデンとキュリアであった。
「きゅきゅきゅきゅ求婚!? 俺はエナにはそのような感情は持っていませんよ! からかわないでください、母上!」
「からかっていないわよ。エナちゃんにご執心のようだから、いずれは求婚するのかと思っていたけど……。今のキーヒの様子ではそれはないみたいわね」
アルデリアは口元に手を当てて上品に笑うと、キーヒは恥ずかしさのあまり俯いてしまった。そうして朝餉の時間が過ぎていく。
朝餉が終わると、キーヒとトルマは庭に出る。トルマの腰には黒い艷やかでありながらも歴戦の剣であることが一目でわかる業物があった。キーヒは龍神の姿になると、トルマが斬りやすいように頭を下げる。初めて角を斬られるので心拍数が上がっている気がする。昔、父が話してくれたことを思い出す。
「私がこの剣を作るときに角を切ってもらったのだが、なかなか切れるものがなくて半ば引き千切るようにしていたな……」
あのとき父が珍しく苦笑しながら見せてくれた剣は今は父の手の中にある。幼い頃はそれがとても大きく、恐ろしく感じてしまっていた。寡黙な父がその時の痛みを思い出してわずかに苦悶の表情を浮かべたからだ。だが、今では最も信頼の置ける存在の一つである父が持つ剣なのだ。恐ろしさなど、とうに消えて今では頼もしさがあるぐらいだ。
「ふ」
神速と呼ぶしかない速さでトルマの剣が振り下ろされる。キーヒは痛みがあることを覚悟していたが、ことりと音がして地を見ると斬られた角が転がっている。
「反対も斬るぞ」
キーヒの顔の前を通って反対側にトルマが行き、同じように一息吐くと痛みもなく角が地に転がっていた。キーヒは人型になると、少し軽くなった頭に違和感を覚えながらも、角があった箇所に触れる。そこは剣で斬られたことがわかる美しい断面があった。キーヒは自分の角を拾い、トルマに頭を下げる。
「父上、ありがとうございます。エナにはことの顛末を説明し、謝罪します」
「わかった。だが、朝は天気の宮殿での責務があるのだろう?」
「そうですね。ですから、行くとしたら昼餉の後です。以前もその時間帯に行っていましたから」
「そうか」
トルマはそれだけを言うと居の中に戻っていった。キーヒも自室に戻って角を卓の上に置き庭へ出る。そして、龍神の姿になると天気の宮殿に向かった。
天気の宮殿に着くと人型になる。宮殿に詰めている神々がキーヒの角がないことに瞠目しているが、キーヒはその視線を特に気にしないまま天気を操作するための間に向かう。そこで小間使いと合流し、天候の調整を再確認する。そして、確認した天候を頭に叩き込み、地図に触れ魔法式を編み上げていく。それを地図に載せれば完成だ。
「さて、私の仕事はこれで終わったな。私は自居に戻るぞ。これでもやることが多くてな。夜には戻っている」
「わかりました。急用がありましたら、夜に伺います。……あの、その角はどうされたのです?」
小間使いの質問に周囲の神々が聞き耳を立てているのが気配でわかった。それでもキーヒは隠すことではないと思い、
「ああ、これな。私の角で一対の剣を創ってもらうために父上に斬ってもらったのだ。いやはや、父上の剣の腕前は見事なものだったぞ。痛みなどなかったからな」
からからとキーヒが笑っているが、小間使いは複雑な顔でそれを聞いていた。どうやら、キーヒの流麗な角がなくなり物悲しいようである。だが、そのような感情は今のキーヒにとっては煩わしいだけだ。だから、さっさと宮殿を出ると龍神の姿になり、自居に戻ろうとしたそのときである。
「キーヒ! もう大丈夫なのか!」
太陽神直々に声をかけられてしまい、キーヒは今までの自分が原因の長雨を謝罪していないことに思い至り、深々と頭を下げると、
「今までの長雨は私の不出来が致すところです。深く反省しておりますので、如何なる罰も受けるつもりです」
「いや、晴れ間も見えるからもうこの件は水に流そう。主神に伺ったが、キーヒの神格が上がったことに私が気付かず、キーヒの気持が沈んでいたのであのような長雨になっていたのだろう? だから、キーヒだけが原因ではない。それにしても、私と同等の神格になったとはな。これはキーヒにもこの宮殿で重要な役割に就いてもらわなければならないな」
太陽神はにっと人懐っこく笑うと、
「うぐ」
太陽神の魂胆がわかってしまったので、キーヒは思わず呻いてしまった。太陽神はキーヒに天気を決める会議に参加させようとしているのである。そこは古い神が多くなってきたので、若い神を入れたいと太陽神がぼやいていたのを思い出したのだ。
「そ、その! 今自分は私事で忙しいので難しいかと!」
「ああ。あの『赤の一族』の娘との逢瀬だろ? まあ、それが落ち着いた頃に考えてくれ。あと、今回のようなことは二度とないようにな」
「はい、承知しました……」
太陽神にまでエナのことを知られており、キーヒは羞恥で顔を赤らめてしまっていた。そして、気落ちして長雨を起こさないよう念押しされてしまい汗顔の至りである。太陽神は言いたいことを言ったからなのか、手をひらひらと振りながら宮殿に戻っていった。そして、精神摩耗しながらようやくキーヒは帰路についた。
自居ではエナの剣技を想像しながら剣の鍛錬を行う。あのような軽やかであり、相手を受け流す剣術は自分にはないものだ。そのような剣術を相手にしたことがあれっきりなのが侘しいものであるが、エナが手合わせをする気がないのだから致し方ない。
その後は家族揃って昼餉を食べ、食事を終えるとキーヒは自室に戻って角を持つ。龍神の角なので枝分かれをしているためか、抱えるのに難儀した。それでも人界への門を創り、エナの工房を目指す。龍神の姿では角を持つことが困難なので人型でエナの工房に向かうことにした。
(ようやく、ようやくだ! エナに会えるのだ!)
キーヒは歓喜で胸が打ち震えていた。強大になった権能を制御できていなければ、からりとした晴天になっていたことであろう。だが、今は権能を制御できている。この国の地図に雨を降らせる魔法式を組んだので何処かで雨が降っているはずである。それはエナの住んでいる都市から離れているので、その周囲は久しぶりの晴れで皆が喜んでいるに違いない。
キーヒはエナの居と工房がある敷地に張り巡らされた感知の魔法式をくぐり抜けると工房を目指す。エナは工房であの真紅の薄衣と長大な比礼で武具を創っているのが窓から見えた。今、扉から入るとエナの集中を途切れさせかねないので窓から覗いて創り終えるのを待つことにした。
しばらくすると、エナが舞いを終えた。そして、視線を感じたからなのか、振り向いてこちらを見てきた。その顔は驚愕で目が見開かれたかと思うと、くしゃりと顔を歪ませる。今にも泣きそうなエナの表情を見てキーヒはぎょっとしてしまい、その場で体を硬直してしまった。エナは窓まで駆け寄ってくると、
「どうして、今までいらしてくださらなかったのですか!? 私、キーヒ様に嫌われたんじゃないかと思って辛くて辛くて……!」
最後の方はしゃくりあげながら涙を流してエナは自分の気持を吐露する。エナがこのように泣いてしまうのは想定外でキーヒは戸惑ってしまった。とりあえず、角は小脇に抱えているので空いた手の袖で開いた窓越しにエナの目元を拭う。
「その、すまなかった……。来なかった理由も話すつもりだ。場違いかもしれんが、毎日我の社に参ってくれたのは嬉しく思う」
「だって……! キーヒ様に会いたかったんですもの! 前みたいに”花畑”に行ったり、暖かくなったというか、むしろ暑いぐらいですけど私の好きな湖の側で一緒にお話したりしたかったんです! でも、私が体調壊したり気持が不安定になったりしたことに呆れられて、私と関わり合いになりたくないと思われていたかもしれないと不安で一人で泣いていたんです……! でも、キーヒ様にも元気でいてほしかったですし、会いたかったから毎日参拝しに行っていったんですよ……!」
「我が中途半端な真似をしたから苦しませたのだな。それにしても、そうやって我と共にしたいことがあったのか。汝の気持を汲めなくてすまなかった。毎日参ってくれていたのも嬉しく思う」
キーヒは袖で拭っていた方の手をエナの頬に当てる。
(こうして触れることが許されるのだから、エナは怒っていないのだろう。ありがたいことだ)
キーヒは自分が謝罪できるか不安であったが、エナの顔を見ると謝罪の言葉がするりと出てきたことに自分でも驚いていた。神が人界に住む存在に謝罪できるのかと最初は疑問を持っていたが、エナの顔を見たらそのような安っぽい矜持は吹き飛んだ。
エナは頬に添えられたキーヒの手の上から自分の手を重ねると、愛おしさに満ちた笑みを浮かべる。そこには今まで会えなかった痛苦を微塵も感じさせなかった。そして、エナは情愛を込めてキーヒに話しかけてきた。
「もう大丈夫ですよ。だって、こうしてキーヒ様が会いに来てくださったんですもの。だから、これからは大丈夫です。あ、でもキーヒ様がお忙しいなら、先に仰ってくださいね。そうすれば、私もどれくらい会えないのかがわかりますから安心できます」
「わかった。これからはそうする。といっても、戦争も一段落し天気の方も魔法式を組んでいるからな。わりと時間の融通はきくぞ」
「そうなのですね。あ、工房の中に入られますか?」
「ああ、そうさせてもらうぞ。汝にはいくつか創ってほしいものがあるからな」
「キーヒ様が私にそのような依頼をされるのは珍しいですね」
エナが柔らかくキーヒに笑いかけてくれるだけで、キーヒの胸の内が温かなもので満ちていく。キーヒは逸る気持ちを抑えて、悠然と工房に入る。エナはキーヒが持っていたものが最初はわからなかったらしいが、聡い娘なのですぐに思い当たったらしい。エナはキーヒを気遣うように、
「キーヒ様、角がなくなられていたのには気付いていたのですが、まさか今抱えているのがキーヒ様の角ですか?」
キーヒはエナの心配を吹っ飛ばすようにからからと笑いながら、
「そうだとも。我の角は堅牢性と柔軟性を兼ね備えた稀有な存在だ。これは父上譲りなのだが、父上も自分の角で剣を創られているので我も創ってほしいと思ってな。鍛冶の神に頼むのも考えたが、我の知っている中で最も素晴らしい武器を創るのは汝だから汝に頼みたかったのだ」
「それでしたら、喜んで引き受けます! 今は繁忙期でもありませんから、今日の分の仕事も終わって好き勝手に創っているところでしたから」
「好き勝手か……。それでも鍛冶の神に引けを取らない武具を創り上げるのだから見事なものだ。あと、これを使って武具を創ってほしい」
キーヒは懐からアラトスをとりだすと、エナは目を見張った。そして、やや強張った声音で、
「キーヒ様。それをどうして手にされたのですか……?」
「ああ、色々とあってな。汝と仲睦まじく話していた金髪の男がいただろう? あの男に言われてアラトスを取りに行ったのだ。これをエナの元に持って行けば土産になるだろうと」
エナは険しい顔のまま唇を引き結んでいる。そのような姿を見たことがなかったので、キーヒは怪訝そうに、
「どうした? 何か思い煩うことがあったか?」
「……アラトスを取りに行くときに、魂があの湖に囚われて戻れないかもしれないことを知った上で手に入れたのですか?」
「いや。そのような説明はあの男からは受けなかったな。終わった後に『時間がかかっているから戻ってこないと思った』と嫌味は言われたが、我は気にしていないぞ」
「やっぱりそうなのですね……。説明もなしに取りに行かせるなんて非常識です。キーヒ様に何かあれば、私は……!」
またもやエナはぽろぽろと涙を零し始める。キーヒは慌てて、
「だが、こうやって土産にはなっただろう? 我は汝が喜ぶかと思って取りに行ったのだ。仮にそのように説明されていても、我はアラトスを取りに行っていたぞ」
「私はキーヒ様にアラトスを持ってきたからといって喜ぶわけではありません! 私はキーヒ様に会えるだけで良いのに……!」
エナは泣きながらきっぱりと断言する。その言葉を聞いて、キーヒは鈍器で頭を殴られたかのような衝撃を覚える。
(あの男め……! もしや俺を誑かすためにあのようなことを言ったのだな。それに『アラトスすら取れない存在がエナに相応しいと思わない』といったことも言っていたから、それも起因するかもしれん)
キーヒはなんとか平静を装い、
「汝を泣かせるつもりではなかった。すまない。話は変わるが、我の武具は創ってくれんのか?」
エナは腕で目元を拭うと一つ息を深く吸って吐き出す。それで気持を切り替えたのか、優雅な笑みを口元に浮かべ、
「いえ、創ります。それが私の矜持でもありますから。ただ、アラトスがあるのなら角で創った武器をアラトスに縁付けますか?」
「縁付けすると何ができるのだ?」
「キーヒ様は神であらせられるので輪廻することはあまりないかもしれませんが、輪廻した際にアラトスに結びついてその武具を喚び出し、使うことが可能となります。アラトスは一度加工されると、アラトスの性質に合わせて”鏡界の湖”の試練内容が変わりますが、アラトスの取得率は格段に跳ね上がるらしいです。そして、最初に加工された武具の本質を受け継いだものが使われるようになります。そうですね……。例えばアラトスが剣の形をしていれば、転生したその時代や国の文化に合わせて剣の形が変わることもありえます」
「なるほど……。我は神であるから、信仰さえあれば存在できる。仮に国がなくなったり、信仰されなくなれば消滅することもあるな。その時が我にとって転生の機会になるのだろう。それならば、汝の助言どおり、角で創る武器はアラトスに縁付けてくれ」
「わかりました。それで角で創る武器はどのようなものにしますか?」
「ああ、それはもう決まっている。一対の剣にしてくれ」
「双剣ということですか? でも、キーヒ様は両手剣を使われていますよね?」
「双剣ではないな。同じ剣を二振りという意味で一対と言ったのだ」
「そうなのですね。わかりました」
エナはキーヒから角を受け取ると、それを工房の中央に置く。そして、口上を述べながら舞い、真紅の長大な比礼で角を包んでいく。まるで比礼そのものが生きているかのように思われる動きをしていたが、そのように操れるのもエナの技量があってこそなのだろう。エナはそのまま淑やかでありながらも妖艶であり、大きく動いたかと思えばあまり動かないこともあり、思わず見惚れてしまう舞いであった。
(この舞いを見ていると新年の儀式の剣舞を思い出すな)
あのときの剣舞でもエナは誠実に、婉然と剣を振るっていた。それを彷彿とさせるのだから、エナの根本はあのときから変わっていないのだろう。それがキーヒにはなんとなしに嬉しく思った。
エナが舞いを終えると、比礼に包まれた剣が二振りキーヒの手元にやってきた。キーヒは剣を受け取ると比礼はエナの方に戻っていく。剣の鞘は見事な装飾が施されており艷やかな煌めきがあった。一振りの剣を抜くと、柄も刃も黒曜石のように漆黒の輝きがあった。剣を傾けて様々な角度から眺めるが、どこをとっても見事としか言いようがない業物である。
そして、エナがキーヒの元に来ると、
「キーヒ様。剣をこのように創りましたが、いかがでしょう?」
「ああ、見事だ。我の手に馴染む業物だ。ほれ」
キーヒは出来上がった二振りのうち一振りをエナの方に差し出す。エナは目を瞬かせると、
「あの、これはキーヒ様のでは?」
「もともと、汝に一振り渡すために一対で創ってもらったのだ。なに、神から揃いの剣を下賜されるのだ。縁起物だと思って貰っておけ」
「本当に良いのですか? 私より活用される方は他にいらっしゃると思いますので、その方に渡したほうがよろしいのではないのですか?」
「我は汝に渡したいのだ! 汝は剣術を使えるのに、これといって特定の剣を持っていないのだろう?」
「そうですね」
エナは反論しても無駄だと思ったのか素直にキーヒの言葉を認める。キーヒはにっとエナを安心させるように笑いながら、
「だから、この剣を汝に使ってほしいのだ。もし汝が受け取らないというのならば、この剣は今ここでたたっ斬る」
「そこまで仰るのなら、ありがたくいただきます。私もたまに工房で剣の鍛錬をしていますので、そういうときに利用させていただきますね」
にこりと笑いながらエナは漆黒の剣を受け取る。それに満足したのかキーヒは鷹揚に頷く。
「ああ。もしものときがあれば、その剣で相手を叩きのめせば良いからな」
「そのような物騒なことにならないように願っています」
エナは苦笑を浮かべると、丁寧にキーヒから貰った剣を戸口に立てかける。そして、キーヒの元に戻ると、
「それではアラトスと剣を縁付けさせますね。ついでにアラトスから武具を創ります。その際に比礼でキーヒ様を読み取りますので、不快でしたらすぐに仰ってくださいね」
「わかった」
エナはまた工房の中央に行く。そして、エナの両目が燐光を発しているかのように真紅に輝き出す。
(あれが『赤の一族』の魔眼なのか。初めて見るが美しい色合いをしているな)
エナは先程とは異なる口上を述べながら、より複雑に舞っていく。キーヒが掌の上にアラトスを乗せておくと、比礼がそれを優しく包んで持っていく。そして、キーヒにも比礼が柔らかに纏わりついていく。それは不快ではなく、むしろ心地の良いものであった。比礼に包まれているのでエナの姿は見えなかったが、複雑怪奇な動きをする比礼を眺めるだけでも飽きなかった。
どれくらいの時間が経ったのかはわからなかったが、キーヒを包んでいた比礼が離れていく。どうやらエナの作業が終わったらしい。剣はふわりと浮かぶと意思を持っているのかのように、キーヒの手の中に収まる。柄を握ると先程とは比べ物にならない程、手に馴染んだので驚きを隠せなかった。
「剣の方は縁付けが完了しました」
「して、アラトスの方はどうなったのだ?」
「もうそこにいますよ」
「ん?」
武具なのに『いる』という表現をされたことに疑問を覚えるキーヒであったが、足に何やら纏わりつく感覚がある。足元を見ると何かふわふわしたものが蠢いている。キーヒはむんずとその首根っこを持つと、顔の前まで持ってくる。それはやっとキーヒが自分を認識してくれたことがよほど嬉しかったのか、
「きゃん! きゃん!」
千切れんばかりに尻尾を振る子犬がそこにいた。
「犬う!?」
「犬ではないと思います。手足も大きいですし、体つきも逞しいですから狼ですよ」
「いや、そこの違いは律儀な汝がそう言うのならそうかもしれんが、子狼だと!?」
「そこですぐに訂正するのがキーヒ様らしいですね」
エナはころころと鈴を転がすかのように笑っているが、キーヒはとんでもない貧乏くじを引いたという顔をしている。武具というので何かしらの武器や防具になるものを思い描いていたのに、実際には何の役に立つのかわからない子狼である。これでは戦場に連れて行くのもままならない。
キーヒは呆然としながらも、ゆっくりと子狼を床に下ろす。すると、子狼はよたよたと頼りない足取りでエナの方に向かう。
(まずい!)
今朝のトルマの件を思い出し、キーヒが止めようとするのも間に合わず、エナはひょいと子狼を抱え上げる。エナの腕が雷光で灼けてしまうのではないかと思ったが、子狼はエナの腕の中で嬉しそうに尻尾を振っている。
「どういうことだ? アラトスはその持ち主以外が触れることはかなわないのだろう? 何故、エナは無事なのだ?」
「さあ、私にもわからないです。私はなんとなく大丈夫だと思って抱き上げたら、実際に大丈夫でしたよ。ですが、これは例外ですので、他の方に同じように抱かせない方が良いかと。それにしても珍しいですよ、生体型の武具は。私も話には聞いていましたが、初めて創ることになりましたもの」
「助言、感謝する。創具師である汝でもこのような存在は珍しいのか……。それは良いのか悪いのかわからんな。しかし、このような姿だと戦闘で役に立つのか甚だ疑問だ」
「まあ、アラトスは持ち主の精神性を映し出しますし、持ち主と共に成長しますからね」
「待て待て待て待て! それでは我が子供並みの精神をしているということか!? それに我は神だぞ! これ以上成長することはないはずだ!」
「そこまでは申し上げたつもりはないですが、当たらずといえども遠からずというところでしょうか。精神的成長の面から申し上げますと、あの新年の儀式のときに比べてキーヒ様の性格は穏やかになられていると私は思いますよ。だから、まだまだ成長の余地はあるかと」
エナが未だに真紅の燐光を発している瞳をしたままキーヒから少し視線を逸らせる。その態度でキーヒは愕然とする。
(俺の精神は子狼並みだということなのか……)
その事実に目眩を覚えてしまうキーヒだが、エナが魔眼を開放したままなのを不思議に思い、
「汝は魔眼を封じないのか? そのように開放したままでは疲労が溜まるのではないのか?」
「ああ、これですか」
エナは目元に手を持ってくると少しはにかみながら、
「私も自分のアラトスにキーヒ様からいただいた剣を縁付けしようと思っていたのです」
「そうなのか」
エナは床に子狼を下ろし、またもや工房の中央に戻る。そして、その手の中にはいつの間にか何も装飾がされていない真紅の仮面があった。どうやら、あれがエナのアラトスで創られたものらしい。エナは先程と似た口上を述べ、優雅に舞っていく。比礼で仮面とキーヒから下賜された剣を巻き取って舞う姿は言葉にできないほど素晴らしいものであった。キーヒはその姿に見惚れつつも足で子狼をあやしていく。キーヒのアラトスの加工と縁付けのときよりは短い時間で舞いが終わった。エナは魔眼をもう封じており、肩で息をしている。その肌も工房が温かいのもあるからなのか、じっとりと汗で濡れており艶めかしく感じた。
「終わりましたよ、キーヒ様」
エナが剣を抱えてキーヒの元に行こうとすると、疲労で足がもつれて倒れ込みそうになるのをすぐに駆け寄ってエナの体を支える。
「馬鹿者! あれほど無理をするなと言ったではないか!」
キーヒの叱責にエナは微苦笑を浮かべ、
「キーヒ様に久しぶりにお会いできて嬉しくて張り切っちゃいました……。今日は工房を閉じて自室で休もうかと思います」
「わかった」
それだけを言うと軽々とキーヒはエナを横抱きにして抱える。
「きゃ!」
突然のことに可愛らしく驚嘆の声を上げるエナだったが、キーヒは構わず工房の扉を目指す。エナは剣を抱えたまま抱き上げられており、その顔がほんのり朱に染まっている。
キーヒは少し身を屈んで扉を開けて出ると、子狼が出てきたところで同じように身を屈めて扉を閉める。そして、ふらふらと頼りない足取りで子狼はキーヒの後を追い、それを時折振り返りながら付いてきているのを確認するキーヒであった。その足取りはゆっくりとしたもので、エナに久しぶりに会えたからなのか気分も高揚している。やや浮かれたまま一人と一柱と一匹は連れ立ってエナの居に向かった。
キーヒはそのままエナの部屋までエナを横抱きにして来たが、子狼が階段を登るのに苦労していたのでエナが心配そうに、
「あの、キーヒ様。あの子は私が抱えていた方が良いのではないですか?」
「そこまでしなくとも良いだろう。ほれ、見てみろ。登りきって自信に満ちた顔をしているぞ」
キーヒは子狼が階段を登り終わると、その小さな胸を反らしているようにも見えるのでそのように言ったがエナはまだ心配そうに子狼を見ていた。エナの自室まで行くと、エナを寝台に座らせる。キーヒは手近にあった椅子を引いて座ると、子狼がキーヒの膝に座りたいのか足に纏わりついてきたので膝の上に乗せる。子狼はそれで満足したのかキーヒの膝の上でうとうととし始め、やがて眠ってしまった。それを眺めていたエナが穏やかに笑いながら子狼を起こさないように声を潜めて、
「眠っちゃいましたね」
「ああ、まだ小さいからな」
「あの、キーヒ様。私も汗をかいているので侍女を呼んで体を拭きたいので、しばらく客間でお待ちになってほしいのです」
「何故だ?」
「え!? だって、キーヒ様は男神ですよ。夫でもない男の人の前で裸を見せたくないのは当たり前じゃないですか」
「そういうものなのか?」
「そういうものなのです。なんでしたら、アルデリア様に伺ってみてください! アルデリア様も同じことを仰るでしょうから!」
頬を羞恥で染めながらエナは声を潜めるのも忘れて力説してくる。そのような剣幕を見たことがないキーヒはややたじろいで、
「汝を怒らせたくないから部屋は出ていくが、汝の裸を見てもなんとも思わないぞ。なにせ、汝は舞いのときの礼装が既に露出が多いではないか。あれを見慣れていると裸を見ても何とも思わんぞ」
エナは少し涙目になり、顔を赤らめて震えていた。キーヒは自分が何かエナにとって悪いことを言ったのかと思ったが、どの言葉なのかがさっぱり見当もつかなかった。エナは無言でキーヒを部屋から無理矢理押し出すと、
「体を拭き終わったら呼びに参りますから、それまで客間で待っていてください」
エナにしては冷淡な物言いでキーヒは落ち込みそうになる。それでも、今日はエナに会えただけでも良しと思うキーヒであった。それに、以前よりもエナは自分の意見を言うようになっているから良い兆候なのだろう。そのように考え、一人頷いて客間に向かった。そこで家令に茶を出してもらい、腕の中の子狼に気付いたのか柔らかな布を持ってきてくれた。キーヒはその布の上に子狼をそっと乗せる。子狼は広いところで寝られたからなのか、仰向けになって四肢を伸ばして熟睡している。
「狼はこのように寝るのか?」
思わずキーヒは茶を啜りながらそのような疑問を口からこぼしてしまう。窓から見える庭は丁寧に手入れがされたものである。これだけでもエナの家が有力で裕福な家庭なのが垣間見える。エナの所作も洗練されたものであるため、躾もきちんとされているのだろう。エナの話に兄弟のことが出てきたことがなかったので、この家の子はエナだけなのかもしれない。だが、エナは『赤の魔石』が直接創り出した存在だ。血は繋がらずとも、愛情深く育てられたおかげで、エナは傷つきやすいが性根は穏健なのだろう。そのおかげで職人からの信頼も篤い。
(こう考えると俺とエナは正反対だな。俺はわりかし一人を好むし、人間を厭っている。だが、エナは人間にいくら傷つけられても、人間を大切にしようとしている。自滅的にも思えるが、エナはそれをやめられないだろう。俺ならさっさと逃げているところだ。似ている点は愚直というか真面目であることぐらいか? それにしても、俺はエナのことをどう思っているのだろうな。友としてなら、あのときエナを避けなくても良かった。それにあの男がエナは俺に懸想していると言っていたが、エナは俺のことを信頼してくれているのはわかる。だが、俺は恋というものがわからないのだ。どのような感情が恋と呼ばれるもので、それがいつ愛に変わるのかもわからない。エナも以前よりは意見を言うようになったが、変わりはないように思える。本当にエナは俺に懸想しているのだろうか?)
そのように悶々と考え込んでいる主人をよそに子狼は腹を上下させて寝ている。
「お前が羨ましいぞ。なにも悩みがなくて」
苦笑して冷めきった茶を飲み干す。すると、客間の扉が開いてエナが入ってきた。身を清められたからなのか、少し爽快感のある顔をしている。
「お待たせしました、キーヒ様。まだお時間があるのでしたら、私の部屋で話しませんか?」
「ああ、そうさせてもらおう」
キーヒは眠っている子狼を抱えあげると、エナと連れ立って客間を出る。そして、側に控えていたエナの侍女に自室に茶を持ってくるようにエナは頼んでいた。
エナの自室に着くと、二人は小さな卓を挟んで椅子に座る。子狼はエナの計らいで寝台に置かせてもらえた。
「あの子、良く寝ていますね」
「ああ。主人の懊悩を知らずにな」
「懊悩って、何か悩まれているのですか?」
「まあ、色々とな」
「キーヒ様でも悩まれることがあるのですね」
エナが心底驚いた表情をしたので、キーヒは卓に頬杖をつき、
「汝にまでそのように思われているのは心外だな。今日、ここに来るまで多くのことがあったのだぞ」
「そうですか」
エナが神妙に答えると、侍女が茶を持って入ってきた。二人の前に温かな茶が置かれると侍女はすぐに下がった。
「さて、それでは本題に移りましょう。何故、キーヒ様は私に会いに来られなかったのですか?」
にこりと笑いながらも凄絶な怒気を放つエナであった。今までのエナなら遠慮しているところであるだろうが、このように遠慮なく感情をぶつけてくるのは自分の言葉を実行している証だ。それは喜ばしいことなので、キーヒも腹をくくって話すことにした。
「話せば長くなるのだが、人界の戦争の影響で神界にも異国の神がやって来て戦闘になったこともあったのだ。その対処と残務処理、戦争後の領土拡大に寄る地図の更新に合わせて魔法式を組み直す等細々したことが積み重なってエナの元に行くのが遅くなった。だから、汝を喜ばせたくて汝が”花畑”で好きだと言っていた花を持って汝の元に向かったのだ。するとな、汝と仲睦まじく話している男がいた。我はその男が汝と恋仲だと思い込み、汝に声をかけずに神界に戻った。我も男だから、恋仲の男がいる女の元に行くのは憚られる」
「え!? 恋仲の人なんていないですよ! あ、あの花はやはりキーヒ様だったのですね。最近まで生けていたのですが……」
「いや、今はそれは知っている。それに花はいつか枯れるものだから、そこは悪く思わなくて良い。さて、その時の考えは今思えば勘違いなのだ。その後は何もやる気が起きなくて義務と鍛錬だけを行って部屋に引きこもる毎日だった。ああ、人界での長雨の原因だが、あれは我なのだ。汝の純化の影響で権能が強化されているのに気付かず、迷惑を様々な神や人界にかけたのだ。今は権能をきちんと制御できているから、そのあたりは大丈夫だ」
「私の純化の能力がキーヒ様にも影響が出ていたのですね……。本当に申し訳ありません」
「汝が謝ることはない。鬱々と勘違いをしながら過ごして己を振り返らなかった我にも原因がある。我の兄に権能が強化され、神格が上がっていることを指摘されたので主神に拝謁したら、太陽神とほぼ同格の神格だと仰せられた。その後は水鏡の間で汝の様子を見たら、汝が一人で痛苦のあまり泣いている姿を見てな。居ても立ってもおられず、汝と恋仲だと思っていた男のところに行ったのだ」
「……それって、もしかしてエリュイン様のところに行ったのですか? エリュイン様はこの都市の軍の司令官ですから、警備も厳しかったでしょう」
「まあ、そこは雷轟と共に顕現した我を見て兵は恐れおののいておったから問題なかったぞ。そのエリュインという男がエナとは恋仲ではないと言っておって、それで我は勘違いをやっと悟ったのだ。だが、今更会いに行くのも不躾なのではないかと思っておったら、エリュインに”鏡界の湖”に連れて行かれてアラトスを取ることになったのだ。しかし、あの試練で甘美で安泰な人生を送らせられたから、汝との約束を思い出さなければ危うかったぞ。それでアラトスだけでは土産が足りんだろうと思って我の角も持ってきたのだ」
「ああ、それで一対の剣を創る話に繋がるのですね。私への土産として剣を下賜すると」
「そうだ。アラトスの方は予想の範疇を超えるものが出来上がったが、我の角でできた剣は満足しておるぞ」
「それは良かったです。ですが、角は良かったのですか? あれ程流麗で綺麗な角でしたのに」
「角は時間はかかるが、また生えるから汝が気にすることはない。……一つ汝に尋ねたいことがあるのだが構わんか?」
「なんでしょう?」
「エリュインが申しておったが、汝は我に懸想をしているのか?」
「え!? え、えー……。それは私にもわからないです……」
「そうなのか?」
今度はキーヒが軽く目を見開く番だった。エリュインがあのように断言していたのでエナは自分の感情に折り合いをつけて自分と接しているのかと思っていた。エナは両手で茶器を持ったまま顔を赤らめ、やや俯くと、
「私、街に出ないですし学舎にも行っていないので、同年代の子よりも幼稚な部分があると思うのです。だから、懸想と仰られても私がキーヒ様に抱いている感情がなんなのかわからないのです……」
最後の方は困惑して絞り出すような声であった。エナはやや悲しげに睫毛を伏せている。自分の至らなさに恥ずかしさを覚えているのだろう。キーヒは茶を飲み干し、茶器を卓に置くと、
「なあ、汝はこれからも我と会いたいか?」
「勿論ですよ! キーヒ様と会っていると気持が穏やかになりますし、私なりに楽しめていますし」
「そうか。我も汝に会うことは吝かではない。それならこれからも会っていこう。汝が望むなら久しぶりに明日は”花畑”に行くか?」
「それも良いですが、暑くなってきましたから街外れにある湖に行きませんか? 焼き菓子は今日仕込めば明日には間に合いますでしょうし」
「湖か……。汝がそこに行きたいのなら、そこに行くとするか」
「ありがとうございます。この季節だと私の好きな場所なのです、その湖は。キーヒ様と一緒に行けるのが楽しみです」
ふわりと柔らかく笑うエナは本当に嬉しそうであった。久しぶりにキーヒとどこかに行けるのが楽しみというのは本音のようである。その笑顔と言葉で胸の奥に温かなものが広がっていく。
キーヒは子狼を抱き上げ、自分の剣を腰帯に差すと神界への門を創る。そこを潜る前に、
「明日は昼餉の後に汝の元に来る予定だ。汝もそれで構わんだろう?」
「そうですね。私も昼餉を食べられるので、それぐらいの時間だと嬉しいです」
「それなら決まりだな。明日はそのぐらいの時間に迎えに来る。汝も今日は疲れたのだろうから、ゆっくり休め。焼き菓子の仕込みも無理をするな」
「わかっています。今日の作業以上の無理はしないつもりですから、そこは安心してください」
エナは微苦笑を浮かべると、それに満足したキーヒは門を潜った。
自居の庭に着くと、
「いい加減に起きんか」
子狼を揺すると、眠たげに子狼は瞼を開ける。そして、きょろきょろと興味深げに周囲を見渡している。
「ここが基本的にお前の家だ。部屋は俺の部屋で構わんだろう」
この小さな体躯では階段を登るのも一苦労であるだろうから、廊下に向かう階段までは抱え、廊下に着いたら子狼を下にゆっくり下ろす。子狼はふんふんと熱心に周囲を嗅ぎ回っている。見ていて飽きないがそろそろ自室に向かおうかと思っていると、アルデリアがキーヒに気付いてこちらにやって来た。
「あら、キーヒ。もうエナちゃんのところから戻っていたの? その剣はエナちゃんに創ってもらったのね。あと、この可愛い子犬はどうしたの?」
好奇心旺盛なアルデリアはアラトスで創られた子狼に触れようとするのをキーヒは慌てて止める。
「触れないでください、母上! その子狼はアラトスで創られていますので、母上を傷つけかねません!」
「そうなのね」
アルデリアは素直に手を引っ込めると、撫ででもらえると期待していた子狼は落ち込んでしまってキーヒの足に纏わりついてきた。キーヒは抱き上げて子狼を撫でて落ち着かせる。
「そのように扱っていると子をあやしているようにも見えるわね」
「まあ、自分の子みたいなものですから……」
子狼は撫でられて満足しているのか尻尾をぱたぱたと振っている。キーヒはエナに言われたことを思い出したので、アルデリアに尋ねてみることにした。
「母上。一つ質問があるのですが、よろしいですか?」
「ええ、大丈夫よ」
「エナが体を拭きたいので部屋を俺に出ていってほしいと言ってきたのです。ただ、俺としてはエナの礼装や儀式の衣を見てきているので、エナが肌を露出しているのは見慣れています。それにエナの裸体を見ても何とも思わないのに、それでも部屋を部屋を出なければならないのでしょうか?」
キーヒの言葉にアルデリアは顔を引き攣らせている。そして、一つ大きく息を吐くと、
「キーヒ、貴方がそこまで乙女心に無頓着だとは思わなかったわ」
「どういうことです?」
「エナちゃんは年頃の娘よ。それに良家の娘でもあるから貞淑で恥じらいもあるの。性に頓着せず奔放な娘ではないのよ。そのような娘が神であっても男の前で裸体になるのはとても恥ずかしいことなの。だから、エナちゃんが怒ってキーヒを追い出したのは当然よ」
キーヒは神妙にアルデリアの言葉を聞いていた。そして、ふと、疑問が湧いてきた。
「何故、母上は俺がエナに部屋を追い出されたのをご存知なのですか?」
「それはね、水鏡の間で二人の様子を見ていたからよ」
悪戯っぽくも嫋やかに笑っているアルデリアだった。キーヒは母の好奇心がそこまであったことに呆然としてしまっていた。
(もうエナとは密会という感じでもないから良いのかもしれんが、これはかなり恥ずかしいぞ)
恥ずかしさのあまり卒倒したくなったが、それはそれで格好がつかないのでなんとか踏みとどまる。アルデリアは嬉々として語る。
「だって、キーヒがあんなにうきうきして出かけるなんて久しぶりじゃない? それに材料を持っていったから真っ先にエナちゃんのところに行ったと思って様子を見ていたのよ。ほら、キーヒは不躾なところがあるから。案の定、エナちゃんに怒られていたけどね」
ころころと機嫌良く笑う母に脱力するしかないキーヒだった。アルデリアは慈愛を込め、
「でも、キーヒの様子を見ているとエナちゃんに会えたのは本当に良かったようね。前は陰鬱に部屋に引きこもっていたけど、今は活力に満ちているから。あ! 夕餉まで時間があるから、その子ための寝床を作らないと!」
それだけ言うと足早にアルデリアはその場を去っていった。どうやら、思い立ったが吉日と言わんばかりに子狼の寝床を作りに行ったようである。これでようやく部屋に戻れると思い、キーヒは自室に向かう。
自室に着くと、部屋に子狼を放す。子狼は興味深そうに様々なものを嗅いで回っている。キーヒは鞘から剣を抜くと、その出来に惚れ惚れとしてしまう。黒光りする刃の斬れ味は鋭いものだろう。明日、この剣で鍛錬を行うのが楽しみである。
自室で寛いでいると、アルデリアの使い魔が夕餉の支度ができたと呼びに来た。キーヒは子狼を連れて食堂に向かう。
食堂には既に他の家族が揃っていた。子狼は家族を見て回り千切れんばかりに尻尾を振っている。
(このような懐き方をしているが、本当に狼なのだろうか? いや、エナが言うから間違いはないだろう)
そのように悩んでいるが、子狼は構わず家族の間を縦横無尽に走り回っている。これはこの後ぱったりと寝るに違いない。
夕餉を食べながら今日あったことをお互いに共有していく。キーヒはエナにアラトスと角を使って武器を創ってもらったことを話した。そして、子狼を抱き上げると、
「これがアラトスで創られた俺の武具です。生体型は珍しいとのことですが、まさか子狼で顕現するとは思わなかったです」
「そりゃ、エナに振られたと思いこんで陰鬱に引きこもっているなら、精神も幼稚なもんだろ?」
「な……!」
キュリアの発言を聞き、図星をつかれたようで俯いてしまう。主人が落ち込んでしまったからなのか、子狼がキーヒに向かって慰めるようにきゅんきゅんと鼻を鳴らしている。キーヒは子狼を膝の上に乗せると、その頭から背にかけて優しく撫でていく。
「キュリア兄様の言うとおりです……。俺はまだまだ幼稚なのだと思います」
家族が珍しいものを見たかのようにキーヒを凝視してくる。それを不思議そうに眺めていると、ヒューリデンが穏やかに語りかけてくる。
「昔のキーヒなら怒髪天を衝いていただろうが、エナと会って性格が素直になったな。昔は変に意固地であったからな。これからも少しずつ精神的に成長すれば、その狼も逞しく成長するだろう。生体型なら自立した思考で行動することもできるはずだ。そういえば、その狼に名を付けたのか?」
「いえ、まだです。そうだな……。私が雷轟の神でもあるから『いかづち』とでも名付けますか」
「安直だな」
呆れ気味にキュリアが茶化してくるが、それを無視する。父であるトルマも雷轟の神であるので、その名前に満足したのか、
「良い名だ。そういえば、私もそろそろアラトスの調整のためにエナのところに行かないとな」
「あ、俺もです。兄様もそうですよね」
「そうだな……。予定を調整して行きたいところだ。ただ、細々と忙しいからな。そこが問題だ」
少し困り顔でヒューリデンが話す。キーヒは何故家族がエナについてこれだけ語れるのか不思議でしようがなかった。
「あの、何故皆エナのことを話されているのです? エナと知り合いなのですか?」
「なんだ、キーヒ知らんかったのか。アルデリア以外私達はエナにアラトスを加工してもらっておるのだぞ。神界でもエナの腕前は有名だからエナに依頼をする神も多い。それで依頼が多すぎてしまい、兄上の勅令が出てエナへの依頼の禁止令が出たことがあっただろう」
「え。あ、いや、確かにそうでしたね」
トルマの言葉に衝撃を受けるキーヒだった。だから、皆エナのことを知っていたのかと合点もいったが、エナの名声が広まっていることに実感がわかなかった。キーヒにとってエナは気のおけない話し相手である。皆がエナのことを褒め讃えていることを誇りに思うが、キーヒの知るエナと乖離しており戸惑いがあるのも事実だ。
(本当に俺はエナのことをどう思っているのだろうな。ただの友なのだろうか?)
そのような疑問が心の中に凝り固まって動かないでいる。だが、自分一人で考えていてもわからないままであった。
夕餉の後は記録結晶で戦術や戦略を学んでいると、扉を叩く音がした。子狼はキーヒの膝の上でうたた寝をしているためか、その音に気付いていないようである。
「キーヒ。入っても良いかしら?」
「どうぞ」
子狼を抱えて扉を開けると、両手に抱える程の浅い籠の中に柔らかな布が幾重も重ねられていた。どうやらアルデリアが言っていたいかづちの寝床がこれらしい。アルデリアが部屋の隅に籠を置くと、キーヒはその中にいかづちをそっと置く。いかづちはすやすやと寝息を立てて寝ている。どうやら、満足しているらしい。
「可愛らしいわね」
アルデリアは屈んで微笑みながらいかづちを眺めている。キーヒもこれからいかづちと共に成長しなければならないが、どうすれば良いのか途方に暮れている。それが顔に出ていたのかアルデリアは優しくキーヒの背を摩りながら、
「大丈夫よ、キーヒ。なんたって、キーヒにはエナちゃんがいてくれるじゃない。エナちゃんもキーヒといるときは楽しそうにしているみたいだから、お互いにそう想い合えているのなら、きっと大丈夫。なにせ、私は水と縁結びの神、ひいては出産育児女性関係なんでもござれの神なのよ! その私の言葉を信じなさいな」
「母上にそこまで言われれば安心できます」
アルデリアが明るく笑うので、キーヒもつられて笑顔を浮かべる。だから、するりと蟠っていた疑問をアルデリアに訊くことにした。
「母上、俺はエリュインという男からエナが俺に懸想していると聞きました。だが、エナに訊くと、恋愛ごとに疎いのでわからないと言われてしまいました。俺自身もエナに対して持っている感情が何なのかわからないままです」
「そうなの……。まあ、私はその感情が何たるかをわかっているけどね! それなら、明日エナちゃんと話してきて入れ知恵をしてくるわ」
「え、明日は昼餉の後にエナと出かける予定があるのですが」
「あら、そうなの? それなら朝餉の後に行って、昼餉までには戻るようにするわ。それなら問題ないでしょ?」
「そうしてもらえるとありがたいです」
「それじゃあ、おやすみなさい。キーヒ」
アルデリアは立ち上がると静かに扉を開けて出る。そして、いかづちを起こさないように扉を閉めた。キーヒも戦の勉強をする気がもう起きなかったので寝床に入る。そして、二つの寝息が部屋の中に静かに響いた。
まだ、愛だの恋だの自分の気持がわかっていない二人ですが、温かく見守ってくれますと嬉しいです。
こう、自分が好きなものを詰め込める小説は書いていて楽しいですね!