長雨
キーヒがエナのことを思って腐っていましたが、それでもエナのことを思って行動をして持ち直す話です。
色々詰め込んだら長くなってしまいました。
この話もやっと半分です。
キーヒは実につまらない毎日を送っている。楽しみという楽しみもなく、天気を司る宮殿での会議に参加し、雨や雷を魔法式に組み込むとさっさと居に戻ると剣の鍛錬を行う。そこでは以前はエナの動きを想像して相手にしていたが、今では何もわからぬものを相手に剣で叩きのめしていた。それらが終わって昼餉を食べると、小間使いから細かい仕事を言い渡されない限りは自室に引きこもっていた。
「はあ……」
何度したかわからない溜息をつく。鬱々とした気持が自分を支配することなど初めてであり、どのように対処して良いのかわからないので寝台に横になってごろごろと無益な時間を過ごしている。
(エナのあの笑顔は俺だけのものではなかったのか……)
その考えだけが何度も浮上してふわりと霧散する。エナには友人がいないとしても、人界に恋人がいるのなら、自分がエナと共に時間を過ごすのは無粋というものである。
(そうであるのはわかっているが、やはり納得できていない自分が幼稚で嫌気が差す)
はあ、と溜息をつくと仰向けになってぼんやりと天井を見る。エナが自分に向けて嬉しそうに笑ったり、屈託なく笑ったりしてくれるのを見てどこか心が安らいでいたのは事実としてある。また、自分もエナよりは頻度は少なかったが笑っていた気もするので、あの時間がもう来ないと思うと胸をかきむしって慟哭を上げたくなる。それほどキーヒの中でエナの存在が大きくなっていた。
最初は手合わせのために会っていたが、それからは正直どうでも良くなっていた。ただ、隣でエナが苦しまずに笑ってくれれば良いと思っていたような気がする。
(だから、もう俺がエナに関わらないでいるのが良いのだ。時間が経てばエナも約束を忘れて俺を諦めてくれるだろう。それがエナの幸福に繋がるのだ)
そのように思っていても漏れる溜息は止められないキーヒであった。鬱々と落ち込んでいると、自室の扉が叩かれる。どうやら小間使いが書類仕事を持ってきたらしい。仕事をしていれば少しは気も紛れるので、扉を開けて小間使いを招き入れることにする。書類の説明を受けて書類を集中して書いていく。それもすぐに終わってしまうので、自分の紋が掘られた印鑑を押印し、小間使いに渡す。小間使いは礼をして部屋を出ると恭しく扉を締めた。
それを見送るとまた寝台に横になる。このまま眠ってしまえれば何も思い浮かばずに時間を過ごせるかもしれないが、元来勤勉でもあるキーヒはそれがなんとなく後ろめたく感じてしまい、ごろごろと寝台の上を転がるばかりである。それに寝てしまって夢でエナの姿を見てしまえば、キーヒはやるせない気持に陥ってしまって自己嫌悪をしてしまうだろう。だから、正直最近は眠ることも怖くなっている。どうにも時間を潰せないときは記録結晶に保存されている物語を読んだり、昔の戦争の記録を見て戦術や戦略を学ぶことにしている。キーヒは神であるので睡眠は殆ど取らなくても生存し続けられる。そのため、夢を見ないようにここ最近はほとんど眠っていなかった。
たまにエナが健やかに過ごせているかを見るために水鏡を使うことがある。水鏡で見る限り、以前よりは精力的にエナは創具師の仕事や職人への指導を行っているように見える。エナが心身共に健やかに過ごせているのなら、キーヒにとってはそれだけで充分だった。だが、自室や工房でエナ一人でいるときは気落ちしている表情ばかりしている気がする。
(これは……。エナは無理をしているのではないのか?)
そのような疑問を持っても、キーヒには何かエナのためにすることはできないのだ。その役目は自分ではなく、エナが笑いかけていた金髪の美丈夫が相応しいからだ。この金髪の美丈夫はよくエナの元に訪れているので恋人であるのだろう。エナも男の話が面白いのかコロコロと可愛らしく笑っているのを見られる。だが、少し強張った笑顔を向けることもあるのが不思議である。その無理をしている表情をみると胸が苦しくなる。だから、最近はそのような思いにならないように水鏡を見たい欲求を抑えてあまり見ないようにしている。その代わり、自室で虚ろな時間を過ごしているのだから、どちらにせよ意味はないような気がしてしまう。
寝台に横になって窓から外をぼんやりと眺めると霧雨が絶え間なく振り続く毎日であった。
*****
エリュインの話は面白い。その巧みな話術で話の虜になりそうな程である。また、エナはまだ人々に対して警戒してしまうが、エリュインが休暇の日は街に遊びに行き、活気に溢れた市場の様子を見たり、茶屋で過ごしたりできるのは夢に見ていたので、エナは少々浮かれつつも大いに喜んでいた。それを見て満足そうにエリュインは笑っていた。空は曇天であるが、今にも雨が降り出しそうである。ここ最近は毎日霧雨が降っているので、傘は手放せない日々である。それも大体午後に降ることが多いので、皆ほとんどの用事は午前中に終わらせる。そのため、慌ただしく人々が行き交うのをエリュインと共に眺めていた。
一方でエナはいつもキーヒのことが気にかかっていた。キーヒは人を厭うのでこのような場には来れないだろうが、それでも暖かくなったのでエナの気に入りの湖の側で侍女が作ってくれた焼き菓子を持って共に食べたり、話したりすることができればどれほど楽しめるだろうかと夢想してしまう。
(本当ならエリュイン様は私に惚れられようとしているのに、キーヒ様のことを考えるのは失礼かもしれない。けど、思うだけなら良いよね)
そのように罪悪感が湧くのをなんとか誤魔化しているエナであった。エリュインの案内があれば確かに街に来て悪し様に言葉を投げかけられることはなかった。だが、エナに対してこの都市の英雄であるエリュインと共にいる自分に羨望を纏った嫉妬と創具師で武器防具を大量に作った元凶ということで亡くなった兵の家族から憎悪の眼差しを向けられてしまう。そして、その感情がエナに伝播してしまい、純化の能力で心の中で増大してしまう。エナはなんとか平常心を保とうと必死になってそれらの感情を抑え込んでいた。
「顔色が悪いぞ、エナ」
「……そうですか? 大丈夫ですよ」
エナは努めて平静を装ってエリュインに笑いかけてみるが、エリュインはふう、と息を吐くと、
「それだけ冷や汗をかかれていれば、流石の私でも気付くとも。今日はもう終わりにしよう。エナの居まで送るぞ」
苦笑しながら言われてしまい、エナは少しだけ申し訳なく思ってしまう。折角エリュインが休日を自分に使ってくれたのに、それを不意にした自分に対してもう少し打たれ強くならないかと思ってしまう。そして、とうとう霧雨が降り始めたので二人共傘を差して歩いていく。
(普通の人ならこの程度なんとも思わないのかな? 私は普通の人間ではないから、こんなに悪意に弱いのかもしれない……。キーヒ様に言われたけど我儘を言えるようになれば少しは強くなれるのかな?)
エナはエリュインに送られながら、そのようなことをつらつらと考えてしまう。エナは純化の能力が周囲に勝手に作用してしまい、大抵の場合は心を占めている感情が純化され、その感情に取り憑かれてしまう人間の姿を多く見てきた。その姿はエナを恐れさせるのに充分なものであった。人間があのように狂乱してしまう姿を見て、周囲もぎょっとその人間を見るがすぐに興味がなくなるのか視線を逸している。エナはそれができずに見続けてしまうので罵詈雑言を浴びたことが何度もある。それはキーヒにもエリュインにも話していないことである。キーヒに話したら、そのような人間に対して赫怒の炎を滾らせ、その手で殺しかねないだろう。また、エリュインは眉を顰めて、何かの事故に見せかけて暗殺しかねないだろう。
(私、わりと厄介な男の人に気に入られているのかな?)
ふと、そのような疑問が頭を過るが、それをエナは言葉にするのは躊躇われた。それを言ってしまえばエリュインは苦々しく笑うだろう。キーヒなら半眼で色々言ってくるかもしれない。それなら、キーヒの反応の方がわかりやすくて好ましく思うのは無礼にあたるのかと疑問に思ってしまう。
(もともと、キーヒ様は人間を厭う方だから、もしかしたら私が無理をしたことで呆れられてしまって、私にはもう会いたくないのかもしれないのかな?)
エリュインの後ろを歩きながらそのようなことを考えてしまう。キーヒはある意味筋の通った性格をしている。搦め手な方法を好まず、自分に対してはまっすぐに向き合おうとする神だ。だが、神にも心はある。心変わりをしてしまい、自分が飽きられてしまったのかもしれないと思うと涙が零れそうになる。エナはぐっと唇を噛み締めると、地面を見ながら歩いていた。
「着いたぞ」
エリュインの言葉にハッと顔を上げると、確かに自居の門の前であった。
「あの、今日はありがとうございました」
頭を下げるとエリュインはエナの頭に優しく触れ、
「まあ、街で少しは楽しめたようで良かった。私といれば少しずつ他人の視線にも慣れてくるだろう。そうすれば、街にいられる時間も増えるはずだ。そういう時間を増やしていこう」
「はい」
エリュインなりに慰めの言葉を言ってくれるのは申し訳ない気がしてしまう。
(私は誰にでも気を遣わせてしまうのか……。私はやっぱり普通の人間みたいになれないのかな?)
エリュインはエナの頭に触れたままの手をわしゃわしゃと動かす。エナは咄嗟のことに頭を上げて呆気にとられてしまう。エリュインは自信に満ちた笑みを浮かべ、
「別れ際にそのような辛そうな顔をされると、帰りにくくなるだろう。エナは今日は楽しめたか?」
「はい……」
楽しめたのは事実だ。街に行き、その活気を久しぶりに見ることができたのだ。それで心が少し浮ついてしまった部分もあった。
「なら、笑ってくれ。そうすれば、私は安心して戻れる」
「わかりました」
エナは少し強張った笑顔をエリュインに向ける。エリュインはそれに不満げであったが、
「まあ、もっと素直に笑ってほしいが及第点というところか」
傘を肩にかけて差しているエリュインは軽く肩を竦める。それを見てエナは恐縮してしまう。
(私、どうやったら素直に笑えるのだろう……)
キーヒと時を共にしていたときはこのように強張った笑顔をしていなかったような気がする。それがエリュイン相手だと上手く笑えないのはエナ自身も理解できないでいた。エリュインはエナの知らない刺激的なことを教えてくれるので、それを楽しめているのは事実としてあるのだから笑えるはずなのだ。それなのに、心のままに笑えないのが不可解である。
家の方から侃々諤々の声が聞こえてくる。エナがその声を不思議そうに聞いていると、
「不穏な空気であるな……。エナ、お前の部屋まで送る」
「え、でも良いのですか? エリュイン様もお忙しいのに」
「あの声はこの都市長の声だ。それにエナの父君の声もする。都市長の声が勝っているが、父君がそれを覆そうとしているから、助け舟を出そうかと思っている」
「はあ……」
ここからは騒音としか思えない声が聞こえるだけなのに、誰が話しているのかを把握できる技術を持っているのは話術の得意なエリュインらしい。とりあえず、二人は門を通って家まで行く。そして、侍女に傘を渡してエナとエリュインはエナの部屋に向かう。客間に近くなったからなのか、エナにも父が都市長を宥めるような声が聞こえてくる。二人からエナの名前が何度も出ているので、自分は顔を出したほうが良いのかと思って悩んでいると、エリュインは声を潜めてエナの耳元で囁く。
「都市長はエナに入れ込んでいるから、碌でもないことだと思うぞ。ここはこっそりと向かうのが良いのが経験則としてある。遠回りしてもエナの部屋に行けるか?」
「あ、それならこっちです」
ひそひそとエリュインが声をかけてきたので、エナも自然と声を潜めて会話をする。客間の前を通らないでエナの部屋に行こうとすると、客間の扉が突然開いて、
「おお、エナ殿がお帰りか! エリュインもいるのなら話が早い! 二人共こっちに来てくれ!」
都市長は嬉々としてこっそりと移動しようとした二人に話しかけてくる。エリュインは都市長に聞こえないように舌打ちをしたのをエナは聞き逃さなかった。このような裏表がある性格が胡散臭く感じる一因でもあるように思えた。
都市長は強引に二人の背中を押して客間に入れる。そこには疲労の色がやや濃い父の姿があった。エナはとりあえず父の隣に座ると、エリュインは都市長の後ろに立つ。エナはエリュインに座るように勧めるが、都市長がいる手前それができないので首を横に振られた。エナは父の様子とエリュインの言葉で都市長が新年の儀式のように無茶を言うのではないかと身構えてしまう。
都市長はエナが来たことでにこやかに話し出す。
「最近の長雨で農家や商人から晴れ乞いの儀式の要請が来ているのです。晴れ間もない天気が続くと、作物の成長に影響が出ますからね。ですから、その晴れ乞いの儀式をエナ殿に街の中央にある舞台で是非やってもらいたいのです。また、それ以外の民も太陽を見られていないので不安に思っております。その不安を払拭するためにもお願いしたいのです!」
確かにこの曇天や霧雨が続くのは異常である。エナは工房にいることが多いのであまり天気に頓着していなかったが、それでも太陽をここまで見ていないのは生まれて初めてかもしれない。
(雨ならキーヒ様の権能の影響だろうけど、キーヒ様に何かあったのかな?)
キーヒのことを心配になって口元に手を持ってきて考え込むエナの様子を何か勘違いしたらしい都市長が更に捲し立ててくる。
「実はこの異常な天気はこの都市を中心に他の都市でも起きています。そうなると、作物や畜産への影響がとても大きくなり大恐慌が起きかねません。だから、どうかお願いします!」
「先程から申し上げておりますが、晴れ乞いの儀式なら太陽神を祀る社の管轄です。そこが行うべきで、エナがやることではありません」
父の冷徹な反論にエナはおろおろとする。
(どうしよう……。人の役には立ちたいけど、誰かの仕事を奪うのは駄目なことだし……)
エナが悩んでいると、エリュインが確認するように、
「都市長殿、太陽神の社の者は既に晴れ乞いをされているのですか?」
この問の答え次第ではエナが晴れ乞いをしないですむかもしれないのだ。エリュインの頭の回転にただ舌を巻くエナである。太陽神の社の人間が晴れ乞いをほとんどしていないのなら、この話は蹴ることができるはずである。そうすればエナも面倒を背負わなくてすむのだ。
都市長はさも当たり前のように、
「ああ、それは既に何度も行っているらしい。だが、それでも晴れてくれないのだ」
エリュインは都市長が自分に背を向けているのを確認してから溜息を漏らす。エナが都市長の言葉を聞いて悩んでいると、気になったことが浮かび上がったので質問してみることにした。
「太陽神の社で晴れ乞いをしているのに、何故私なのですか? 私は太陽神の社で働く人間ではありませんので晴れ乞いの舞いは知らないですよ」
「そこは社の人間に教授してもらえるように話は通してあります。エナ殿の新年の舞いは神々も賛美しておられましたからな。その舞い手なら太陽神も喜ぶことでしょう。そうすれば、この憂鬱な天気もどうにかしてくれるはずだと考えております」
「はあ……」
どうも胡散臭い話な気がしてしまう。この天気の異常は太陽神だけの問題ではない気がするのだ。キーヒがエナに会いに来てくれないのと何か関係あるのではないかと勘繰ってしまうが、確証がないので推測の域を出ないものであった。だから、その考えは口に出さないでおくと決めた。そして、エナは毅然と視線を都市長にむけると、
「わかりました。その話を受けましょう。困っている方々を放っておくことはできませんから」
「エナ、本当に良いのか?」
父が心配そうに訊いてくるのを作り笑顔で誤魔化しながら、
「大丈夫よ、父様。今は工房も繁忙期ではないから、時間も作りやすいもの。職人さん達には私から説明すれば納得してくれるはずよ」
「そうか……。エナが決めたことなら何も言わん。だが、この間のような無理をするようなら、すぐに止めるからな」
「わかってる。心配してくれてありがとう、父様」
エナが過労で倒れてしまったときから、エナが無理をしないように父なりに目を光らせている。それは父の不器用な愛情であるのだろう。そのような愛され方がエナには心地良かった。
都市長は破顔すると、
「いやはや、エナ殿が快諾されて良かった良かった。それでは三日後にお願い致します」
「三日後!? それは急ですね……」
エナは都市長の言葉に顔を引き攣らせているが、都市長はにこやかに話してくる。
「いえ、本当はもっと早くにやりたいのですが、エナ殿も練習が必要でしょう? エナ殿の能力ならすぐに覚えられると思いますから、それぐらいの日程で行うことにしたのです。エリュイン、エナ殿の晴れ乞いの儀式で邪魔が入らないように軍をいくらか配備しろ。折角の儀式の邪魔はさせたくないからない」
「……承知しました」
エリュインは都市長のこのような無茶を幾度となく叶えてきたのがわかる疲れ切った返事をした。そこにはエナもエリュインに同情するが、晴れ乞いの舞いの練習をするには明日の早い時間には太陽神の社に行かなければならないだろう。いや、職人達に説明しなければならないから、その後になるので少し遅れるかもしれない。
(昼餉は外で食べられる何かを予め作ってもらうか、抜くかしないと……)
成長期のエナは食事を抜くのは非常に心身共に辛苦を感じるため、何か作ってもらう方向で侍女にこの話し合いの後に頼むのが良い気がしてきた。
(それにいつかはわからないけど、キーヒ様に会うには無理しないで健康でいなければならないもの。その約束だけは守らないと、キーヒ様に怒られちゃうからね)
エナは一人でクスクスと笑いだしそうになるのを堪えると、神妙に都市長を見る。都市長は自分の欲求が満たされたのか、満足そうである。
「それでは私はこれで失礼します。エナ殿、三日後は宜しくお願いします」
都市長はそれだけ言うと、足取りも軽く客間から出ていく。エナと父は都市長とエリュインを見送るために玄関まで送ることにした。玄関で都市長とエリュインは頭を下げてくるので、エナも慌てて頭を下げる。そして、頭を上げると二人は傘を差して門を出ていくところだった。それを見送ると、エナは傘を持って出かけようとする。
「どこに行くんだ、エナ?」
父が不思議そうに尋ねてきた。エリュインと出かけて都市長と会談をして疲れていると思っているのだろう。エナは自然に笑いながら、
「いつも行っている社に行くだけよ、父様。大丈夫。街外れにあるから、人に会うこともほどんどないし」
「そうか。だが、あまり遅くならないようにな」
「わかっているって」
エナは苦笑を浮かべて、心配性で愛情深い父を安心させる。そして、エナは毎日通っている社に向かった。
その社は人間嫌いの神を祀っている社であるため、社の人間も手入れに来るだけで社に入り浸ることはしない。さあっと霧雨が降り続ける音がしており、傘からは雨粒が静かに零れ落ちていく。エナは社に着くと手を合わせて目を閉じる。
(どうか、キーヒ様が健やかに過ごされていますように。そして、またキーヒ様が会いに来てくれますように)
その社はキーヒを祀る社であった。キーヒの紋が彫られた社は街の喧騒から離れた静謐な地にあるのが特徴である。
神の性質によって社が置かれる位置は様々である。人に友好的であったり、位の高い神だと街中に社があったり、豪奢であったりする。逆にキーヒのような神を祀る社は人の喧騒が届きにくい場所に置かれている場合がほとんどである。そのようにすることで神の機嫌を損ねないようにするのが通例である。
エナがこの社を訪れるようになったのは戦争が中盤に差し掛かった頃である。それぐらいの時期から体調も本調子になり、心の疲弊もとれ始めていた。そのため、散歩がてら毎日この社に行ってキーヒに参ることが日課となっていた。キーヒの武勲を思えば、この祈りはすぐには届けられないだろう。それでもいつか届いた折にはキーヒが来てくれると信じて通っている。今はこの異常な天気の問題があるので、それの解決に奔走して会いに来れないのかもしれない。それは少し寂しいが仕方ないことである。
(暇なのかお忙しい方なのかはよくわからないけど、大切な役割を担うことが多いからお忙しいのだろうな。また以前みたいに”花畑”を一緒に眺めたり、私の好きな湖の側に行けたりすると良いな)
そのようにキーヒと共にいることを想像すると、エナの胸の内に温かな感情がじんわりと広がってくる。キーヒがエナのところに会いに来る前には感じられなかった感情であるため、この感情の名前はまだエナはわからないでいた。それでも、この感情を殺すような真似はしたくないと思っている。
エナは顔を上げると家に戻っていった。そして、夕餉をとり、風呂にも入ると明日からの練習に備えて早めに寝台に横になった。
次の日、エナは集まった職人に晴れ乞いの舞いを踊る件を伝え、明後日まで工房にあまりいないことを述べるとエナの体調を心配する声が上がった。職人達もエナが過労で倒れて以来、エナの体調を慮る言動が増えた気がする。そのように気を遣わせて申し訳ないが、やると決めたことなので大丈夫だと答えた。職人達からすれば、自分の娘と同じぐらいの年齢のエナに責任を負わせ過ぎなのではないかと考える者もいるようだが、それでもエナが堅実に仕事をこなしているので、あまりその辺りは追及できないでいるようのをエナは感じ取っていた。
「私は大丈夫ですから、工房のことは宜しくお願いします」
そうエナに頭を下げられてしまえば、職人達は気難しそうな顔をして黙り込んだ。反論する職人がいないのを確認すると、エナは侍女に作ってもらった弁当を持ち、侍女と共に太陽神の社に向かう。
太陽神の社ではエナに舞いを教えるために巫女が数名いた。
(ん……? どうして何人も巫女がいるの?)
エナは社の仕事をするための巫女も一緒にいると思っていたが、晴れ乞いの舞いはどうやら複数の節から成立しているらしく、それぞれの節の担当がいるらしい。
「都市長からお話は伺っています。エナ様に晴れ乞いの舞いの伝授を頼まれていますので、今日を含めて後二日しかありませんが、気合い入れて頑張りましょう!」
巫女達の気合の入った視線と声音にエナは体をビクつかせてしまった。そして、なんとか頷き、
「それでは宜しくお願い致します」
教えを乞う立場なので頭を下げる。巫女達は遠慮なく、
「頭を上げてください、エナ様。それよりも早速特訓ですよ! さあ、さあ!」
エナは礼装である赤の薄手の衣を身に纏い、巫女達に連れられて社の舞台にまで案内される。太陽神の社はキーヒの社に比べて綺羅びやかで見ているだけで元気が貰えそうな雰囲気である。だから、ここに仕える巫女達も活気に溢れているのだろう。その活気に気圧されつつも、エナは晴れ乞いの舞いを教えられ、それを必死になって身につけることだけを優先した。日が暮れる頃には解放されたが、それでもまだ完璧には踊れなかった。エナは侍女に頼んでキーヒの社に寄り、そこで祈りを捧げて自宅に戻った。
それから二日後のことである。その日も午前中は少し晴れ間が見えたが、厚い雲が空を覆っている。まだ雨は降っていないが、午後になればいつものように霧雨になるだろう。雨が降る前にエナは街の中央にある観劇用の舞台にエリュインの軍に連れられて向かう。そして、舞台の裏で晴れ乞いのための衣装に着替え、仮面を被る。これで神からしたら、エナではなく人界の代表が晴れ乞いをしたとみなされることになるだろう。仮面には個を消す効果があるため、このような人々の願いを乗せて儀式を行う際には仮面を被ることが習慣となっている。
準備が整ったので、エナは舞台に上がる。舞台の周りにはエナに危害を加えないように軍人がずらりと並んでいるため異様な光景である。そして、人々は客席から好奇心と心配がないまぜになった表情でこちらを見ている。観衆はエナが登壇することは知らないかもしれないが、噂にはなっているのかもしれない。そのように思うとやや気が重くなるが、それでもエナは真っ直ぐ見つめる。
一礼をしてから、口上を朗々と述べながら晴れ乞いの舞いを踊っていく。その幻想的で荘厳な様に人々は見惚れてしまっていた。晴れ乞いの舞いは太陽神の巫女が同じように踊ることがあっても、エナのように人々の目を、何より神の目を引くことはできまい。それほどエナの舞いは完璧でありながら優雅で、幼いながらもどことなく妖艶さを感じさせるものであった。
エナは長丁場の舞いを誠心誠意を持って踊り、歌っていく。それに観衆は心奪われてしまっていた。
(皆殊勝にこちらを見ている……。これも純化の影響なのかな?)
そのようなことがちらりと頭を過るが、それでもエナは舞いを止めなかった。エナも頑固な面があるためか、やると決めたことはやり遂げる性格だ。それで無理をしてしまった失敗もあるが、今回はそのようなこともなかった。だから、今回は大丈夫だと思いたい。
エナの祈りの舞いは観衆を魅了し、その声は神界にまで届くかと思われるほど通る声音をしていた。舞台を見られない人間もエナの声を聞いて、その蠱惑的ともとれる音質に耳を思わず傾けるほどであった。
エナは舞いを終えると、舞台袖に戻る。観衆がもっとエナの舞いを見たいと要望を出しているのが聞こえてくるが、それが嘆願の声からいつの間にか怒号に成り代わっていた。エナはその声が恐ろしくなってしまい、ぎゅっと体を縮こませる。軍と民衆の怒号のやり取りやエリュインが指示を出す声が聞こえてくる。外では狂騒というのに相応しい乱闘に近い騒ぎが起こっているのかもしれないと思うと、外に出るのも怖くなってしまった。
太陽神の巫女達はすぐさまエナを着替えさせると、薄布を頭から被せて顔が見えないようにする。そして、巫女達も地味な格好に着替えると、
「正直、エナ様の噂は太陽神から伺って半信半疑でしたが、今回の件で確信しました。恐ろしい目に遭わせてすみません。軍が民衆の目を引いているうちに裏口から出てしまいましょう。エナ様の居まで私達が責任を持ってお送りしますから安心してください」
エナ達は裏口から出ると、少し遠回りをしてエナの居まで足早に向かう。途中、何事かと見てくる民衆もいたが、それを無視して進んでいく。巫女達からは焦燥と共にエナのことを迷惑に感じているのが伝わってきてしまい申し訳なく思ってしまう。
「あの、もう大丈夫ですから! 私と侍女だけで帰れますから!」
エナが巫女達の純化された感情に触れたくないので、そのように提案しても巫女にしっかりと手を握られたまま歩く速度は速いままだ。一番年嵩のある巫女が穏やかに、
「遠慮されないでください、エナ様。街中でも何があるかわかりません。ですから、居までお送りするようにエリュイン殿に頼まれているのです」
「エリュイン様が?」
エリュインはあの暴動が起こることを予測して巫女達にそのように依頼していたということなのだろうか。暴動が起きることは陣頭指揮を執ることに長けているエリュインなら予測できたことなのかもしれない。エナは前を見ることができずに俯き、静かに霧雨に打たれる。
(私は……。私は色んな人を助けなければならないのに、迷惑ばかりかけてしまっている。私は多くの人の手助けをするために創られたのに、これでは本末転倒じゃない)
頭から薄布を被り、俯いているためか周りの侍女や巫女達はエナが苦悶の表情を浮かべても気付いていないようである。皆足早にエナを送ることに必死だ。だから、気付かれなくて良かったとエナは思えている。
『汝はもっと我儘になって良いと思うぞ』
キーヒが言ってくれた言葉を思い出す。キーヒの言うようにエナは我儘を言えないで自分の意思を抑圧して生きることが癖になっている。だから、我儘を言うというのが実際どのようにして良いのかエナには見当もつかなかった。顔を上げて空を眺める。少し雨粒が大きくなったようで顔を伝う雫が目の縁に集まり、零れ落ちていく。それはさながら涙のようであった。
*****
キーヒが自室の机の上で突っ伏していると、突然部屋の扉が開いた。
「邪魔するぞ、キーヒ」
小脇に籠を抱えて次兄のキュリアがそこにいた。キーヒは首だけそちらに向けると、気怠そうな犬のようにキュリアを眺める。そして、キュリアの持つ籠の中には大量の記録結晶が入っているのが見えた。
「キーヒ……。食事の時も思っていたが腐っているな……。とにかくお前宛に記録結晶が来ているぞ」
「俺宛にですか?」
なんとか上半身だけ起こすと、キーヒはキュリアが持ってきた記録結晶を受け取る。キュリアは縁結びの神であるため、人界からの要望や祈りを記録結晶化し、それを担当の神に届けるのが主な役目だ。届けられた祈りに対して、神が権能を発揮させるかはその神次第である。すぐに権能を発揮して祈りを実現する神もいれば、何度も何度も祈りをさせてやっと動く腰の重い神もいる。ちなみにキーヒは面倒なので前者である。
受け取った記録結晶を起動すると、それは晴れ乞いの内容であった。キーヒは怪訝そうに、
「これは晴れ乞いですから、太陽神の管轄なのでは?」
「それがなー」
キュリアはキーヒの部屋にある椅子を持ってきて、キーヒの隣に座る。兄が座ったので、キーヒは反射的にしゃんと背筋を伸ばす。気分は腐っていても、キーヒの生真面目な部分が残っていることに満足したらしいキュリアは苦笑を浮かべながら、
「最初は太陽神の元にお持ちしたことはしたんだよ。だから、太陽神も記録結晶の多さからすぐに対応すると仰ってくれたのだが、それでも霧雨という中途半端な長雨が止まないのだ。だから、母上と太陽神とも相談して古い雨の神が何かやっているかもしれないとなり、そちらにも記録結晶をお持ちして雨を止ませてほしいと伝えたのだが身に覚えがないと仰ってな。ほとほと困って現役の雨の神であるキーヒのところに持ってきたのだ」
キュリアはどん、と籠をキーヒの机の上に置くと、その中には籠から零れそうなほど記録結晶が入っていた。それら全てが晴れ乞いにまつわるものだと思うと頭が痛くなる。
「それに神界でも雨が降り続いているのが不思議でもあるのだ。作物の研究を行う宮殿では霧雨の影響を受けないようにはなっているが、流石にこうも続くと皆鬱屈した気持になるものだ」
「そうなのですね。ですが、俺も知らないですよ。俺はいつもどおり会議で決められたとおりに魔法式を創っているだけですよ」
「そうだよなあ。キーヒはそういう神だものなあ。面倒事を厭うから基本的に言われた仕事しかしないものな」
「……まあ、そうですね」
兄の無邪気な物言いに引っかかるものがあったが、それは無視することにした。キーヒはつい先日あったことをキュリアに話すことにした。
「先日ですが、太陽神から直々にこの件で質問を受けましたよ。俺は思い当たることがなかったので、自分が創った魔法式を太陽神に見せました。太陽神もそれを確認して不思議がっていましたよ」
「ああ、太陽神は既に動いていた訳か」
キュリアは顎に手を当て、何か考え事をしている。キーヒはさっさと一人になりたいので、キュリアの用事をすますためにも質問してみることにした。
「キュリア兄様。何か考えられていますが、どうされたのです?」
「いやな、晴れ乞いが行われているのはこの地域なのだ」
キュリアは籠とは別に持っていた記録結晶を起動させ地図をキーヒに見せる。晴れ乞いが行われている地域に点が打たれており、それはおおよそ円形になっていた。
「この都市を中心に晴れ乞いが行われているのだ。都市間ではそこまで遣り取りしていないからか、どこが中心点になっているかは人界では把握できていないらしい。ちなみに、この都市を中心に長雨が続いている」
キュリアが指で示した都市を見て最初は訳が分からなかったが、キーヒはようやくその都市に思い当たる。その都市はエナが住んでいる都市なのだ。
「どうやら、キーヒもわかったようだな。キーヒが足繁く会いに通っていた『赤の一族』の娘がいる都市がここだ。なあ、キーヒ。本当に何も心当たりはないのか? 俺はキーヒがこの鬱屈するような霧雨の原因を作っていると思っているのだ。それに神界でも雨が続いている。神界では特に問題があるわけではないが、皆不思議がっている。……本当に何も思い当たらないのだな?」
「見当も付きませんね。俺はこの件には関係ありません」
「そうか……」
キュリアはがっくりと肩を落とす。キーヒはキュリアの推理に正直腹が立っていた。キーヒからすれば、自分が何かをしたわけではないのに、長雨の原因にされてしまっているのだ。人界でも神界でも困りごとの原因を自分になすりつけられてはたまったものではない。
キュリアは気持を入れ替えて、明るくキーヒに語りかけてくる。この気持の切り替えの上手さは正直今の自分にとっては憧れの対象であるが、そうやすやすとできるわけではないので、キーヒはすぐに諦めてしまった。
「太陽神のところにこの晴れ乞いの記録結晶の山を持っていったら頭を抱えられたぞ。それで『雨はキーヒの担当でもあるから、発破をかける意味合いでキーヒの元にも持っていってくれ』と仰ったので持ってきたのだった」
「はあ」
机の上の籠にはこんもりと記録結晶の山ができている。これだけの声が集まっているのに何もしない神であれば信仰を失いかねない。それを避けるため、早急に解決が望まれているのだ。それはキーヒも理解しているつもりである。だが、それでも何もできないのが現実だ。
キュリアが急に黙ってこちらを見てくる。キーヒの印象としては、キュリアは明朗に話してその場に話の花を咲かせるのが特徴だ。だから、わりとひっきりなしに喋っている印象があるので、このように見つめられると異様に感じてしまう。
「どうかされましたか、キュリア兄様?」
不審に思いながら尋ねると、キュリアは重々しく口を開く。
「なあ、キーヒ。最近、神格が上がったのか? 俺の見立てだと下手すれば太陽神と同等以上の神格に見えるのだが……」
「はあ!? 神格はそう急激には上がらないですよ! 何を言うのですか……」
キーヒは半眼になってじっとりとキュリアを睨む。キュリアの妄言に付き合ってられないと態度に表すかのように机に突っ伏す。キュリアはそれを気にせずに飄々と、
「まあ、神格はいくらか上がっているから、主神に一度謁見させてもらった方が良いぞ。それだけの神格なら今までの権能の制御では上手くいかずに、キーヒの精神状態が影響されている可能性が高い。なにせ、最近のキーヒは部屋に籠もりっきりで鬱々としているからな。そのような精神状態なら長雨にもなるだろうよ。それが意識的ではなく、無意識で権能が発揮されているのが問題だから、俺が戻ったらすぐに主神と謁見しろよ」
「……わかりました。ただ、そのようなことは今までなかったので、本当に俺が原因ではないかもしれないですよ」
「そうかもしれん。それにキーヒは言ったことは守る神だから、その言葉を信じるぞ。だから、その相談を含めて主神と謁見して話すんだよ。最終的には『訓練しろ』で終わるかもしれないが。神格が上がれば権能も強力になる。だから、信仰を得続けるためにもその権能を制御できなければならない。キーヒは訓練するのは好きだろ? いつも剣の鍛錬は欠かさずに行っているからな」
「まあ、そうですね」
キーヒは机に突っ伏して顔だけキュリアの方を向けている。キュリアは懐から記録結晶を取り出すと、それをそっとキーヒの目の前に置く。
「キーヒ。俺のキーヒに対する一番の用事はこれを届けることだったが、危うく忘れそうだったぞ」
からからとキュリアは笑っているが、キーヒは訝しげにその記録結晶を見ている。のそのそと起き上がると、その記録結晶を起動させる。それは音声のみの記録であった。
『どうか、キーヒ様が健やかに過ごされていますように。そして、またキーヒ様が会いに来てくれますように』
その言葉を聞いてキーヒはくしゃりと顔面を歪める。その記録結晶はエナのキーヒへの祈りが籠められたものであった。今にも泣き出しそうなキーヒにキュリアは温和に声をかける。
「その祈りは毎日届けられている。なあ、キーヒ。キーヒなりにあの娘を大事に想っているのだろう? 会いに行かなくて良いのか?」
キーヒは何かを言おうと口を開くがすぐに閉じて唇を引き結ぶ。今、エナへの気持を言葉にしたら泣き出してしまいそうだった。いくら気心の知れた兄の前でも泣くのは忸怩たる思いがある。だが、何か言わなければならないのはわかっている。わかっているが言葉にしてしまえば、狂おしいほどにエナを渇望する感情が暴走しかねない。なんとか気持ちを落ち着かせようと息を整える。キュリアはキーヒを静かに待ちながら見つめていた。そして、ようやくキーヒは惨苦の言葉を繰り出す。
「俺は……。俺はあの娘に会うわけにはいかないのです」
「……そうか。わかった! とにかく、すぐに主神の元に行けよ!」
キュリアはキーヒの言葉を掘り下げず、さっさとキーヒの部屋から出ていった。キーヒは椅子に浅く座り、背もたれに体を預ける。そして、目を瞑り、あのときの言葉を思い出す。
『ああ、またな』
その言葉が何度も何度も頭の中で繰り返される。永劫に来てはならない次を望んでしまった罰がこれなのだ。だから、時間がかかってもこの感情を受け入れるしかない。
(そろそろ主神のところに向かうか)
キーヒは立ち上がると、扉に手をかけて廊下に出る。あのように机に突っ伏したり、寝台に横になったりして時間を無為に過ごすよりも主神に謁見し、神格が上がっているか見てもらえば少しは気が紛れるだろう。庭まで辿り着くと、キーヒは龍神の姿になって、主神のいる宮殿を目指した。
主神の宮殿に着くと、人型になる。龍神のままでも良いのだが、なんとなく主神も人型であるので、キーヒもそれに倣っている。見目麗しいく、神界でも珍しい褐色の艷やかな肌は他の神々の目を引く。それはいつものことなのでキーヒは神々の視線を無視しつつ、謁見の間に急ぐ。謁見の間は誰も謁見していなかったので、キーヒはすぐに通された。
「久しいな、キーヒ。噂では籠もりきりだと聞いていたぞ」
「それは事実ですので、反論の余地もありません。主神に一つお尋ねしたいことがありまして参りました」
「ほう、なんだ?」
「私の兄のキュリアから神格が上がっていると指摘をされたのですが、本当にそうなのかと主神に確認したく参りました」
「なるほど」
主神はしげしげとキーヒを見る。キーヒは少し居心地が悪くなるが、それをおくびにも出さないようにする。ぱん、と主神は自分の太腿叩くと、
「これは面白いことになっているな。キーヒよ、お主の神格は太陽神以上になっているぞ。それでもキーヒの父である我の弟ほどではないがな」
「はい?」
どうやらキュリアの見立ては正しかったらしく、かなり神格が上がってしまったらしい。だが、神格を上げるには多くの信仰を得ることや長年の鍛錬が必要となる。この短期間でそれほどの神格が上がることがキーヒには信じ難かった。
「キーヒよ、これほど急激に神格が上がったことの原因で思い当たることはあるか?」
「いえ……。存じ上げません」
「そうか」
主神はぽつりとこう言葉を漏らした。
「すると、あの『赤の一族』の娘の影響か……」
「へあ!?」
キーヒは思わず奇声を上げてしまう。エナのことが主神の耳まで入っていることに初々しい恥ずかしさを感じつつも、キーヒはそこでエナの存在を指摘される意味がわからないでいた。だから、主神に訊くしかないと思ったのだ。
「何故、主神がエナのことをご存知なのです?」
「それは人間を厭うキーヒが入れ込んでいる娘なら気にもなるだろう。だから、噂を集めてみたのだ」
がははと豪快に笑われてしまい、汗顔の至りであるキーヒであった。主神は打って変わって表情を引き締めると、
「ふざけるのはここまでにしよう。その『赤の一族』の娘の能力が純化というのは噂では聞いたことがある。その純化の能力の影響を受けたかもしれないな」
「純化……ですか?」
キーヒはエナからそのような話を聞いたことがなかった。聞いたことがあるのは、自分に向けられる感情が極端になり、それが伝播して自分に伝わるのが辛いということぐらいだった。また、仮面を使って神等の能力を行使することができるというのと創具師として生きていること、そして花を愛でるのが好きであることぐらいしか知らない。
(純化についてはエナが意図的に隠していたのか? いや、話す機会がなかったのかもしれんな。それにエナは遠慮する性格だ。純化の何たるかはわからないが、それが私の負担になると判断したかもしれん)
「なんだ、キーヒ。娘から純化について聞いていないのか?」
「はい……。恥ずかしながら」
主神は何か思案しているようであるが、それも一瞬のことだった。
「確かにあの娘はかなり気を遣うから、キーヒに話して重荷になりたくなかったのだろう。新年の儀式の前に我と謁見した際も奥ゆかしかったからな。話が逸れたな。純化という能力は力となるものを純粋なものにする力だ。それが感情であり、肉体であり、能力であってもな。我々神に対する影響なら既に純粋な存在であるから神格や権能が純化され、強化してしまうのだろう。キーヒはそれに気付いていなかったために能力を濫用する結果になってしまったのだな」
「うぐ! もしかして、主神は今回の長雨の原因が私であることに気付かれていたのですか?」
「可能性として最も今回の異変を起こしそうなのがキーヒだとは思っていたぞ。だが、それは可能性の域を出ないので助言はしなかった。『赤の一族』の娘との関わり合いやキーヒが落ち込んで部屋に籠もってしまっていたからな。それにキーヒは雨と雷轟を司る神だ。その感情が良い意味でも悪い意味でも天気に影響を出すのは必然ではある。だがな、キーヒよ。お主は神だ。神であるのなら権能を濫用してはならぬ。それは胸に留めておけ」
「承知しました。有難き言葉を賜われて恐悦至極であります」
キーヒは主神の言葉を受けて、自分の内にある権能を把握する。確かに、新年のときよりもかなり強大になっている。この権能が自分の感情を受けて雨を降らせていたのだ。それがわかれば、長年慣れ親しんできた権能だ。その制御を改めて取得するにしても時間はそうかからないだろう。
「ありがとうございます。それでは失礼します」
キーヒは主神に礼をすると、謁見の間から出ていった。そのまま主神の宮殿を歩きながら、権能の制御を行っていく。それはさながら権能を包み込み、小出しにしていくように行っている。権能が強力になったので包み込むのに苦労するが、それも数時間でその技能を完璧に習得できるだろう。未だに気分が落ち込んでいるため霧雨は降っているが、少し雨脚が弱まっている気がする。
(ついでにあそこに寄るか……)
本当は見てはならないとはわかっているが、エナが幸福そうに笑っているのを知ることができるだけで、痛みは伴うものの少しは心の平穏がキーヒに訪れるはずだ。
キーヒが水鏡の間の前に来ると、水鏡の調整を行っていた母であるアルデリアがちょうど出てきたところであった。
「あら、キーヒ。少し顔が晴れやかじゃない。最近は暗い表情が多かったから心配していたのよ」
そういえば居でもほとんど喋らないで食事を家族で共にしていたので、皆言葉には出さないで心配はしてくれていたことに思い至る。なにせ自分の家族は心根が穏やかな神が多いのだ。だから、覇気のないキーヒのことを気に病むのは当然のことである。そのことに今まで考えられていなかったことに面目ないと思い、
「申し訳ありません、母上。今まで心配をかけてしまいまして。俺は……、まだ時間はかかりますが、大丈夫になりますから」
「そう? あ、今から水鏡の間に行くのね? そして、あの娘を見るのでしょう? 私も気になるから一緒に見ても良いかしら?」
きらきらと好奇心に満ちた母の笑顔に対して拒否するのは流石のキーヒも罪悪感があったので、頷いて二人で水鏡の間に入る。キーヒは水鏡に触れると、
「エナを映してくれ」
水鏡はその言葉に応じて、エナの姿を映し出す。エナの部屋の中は照明魔具の灯りで照らされていたが、やはり薄暗く感じてしまう。
(そういえば、もう夜なのだな……)
そのようなことをぼんやりと眺めながらエナを見る。すると、アルデリアが焦りながら、
「ちょっと、この子泣いていない?」
「え?」
目を凝らして見てみる。エナは椅子に座り、俯いて静かに涙を零していた。声は聞こえないが、この泣き方なら声を押し殺して泣いていることだろう。エナは周囲に気を遣い、我慢しがちな性格なのはキーヒも知っている。この泣き方がその性格を顕著に表している。
自分が側にいてはならないが、このような泣き方を見てしまうと、得も言われぬ感情で胸が張り裂けそうである。
キーヒはすぐに人界への門を創ると、アルデリアの静止の声を無視してエナのいる都市に向かった。
(あの男の衣服や甲冑からは推察すると、軍の高官だろう。そこに向かわなければ)
キーヒは雷轟と共に軍の司令部の庭に降り立つ。その轟音を聞いて兵達がわらわらと出てきた。キーヒはとりあえず目に入った俗物の兵に声を掛ける。
「おい」
「はいぃ!」
その兵はこの辺りでは珍しい褐色の艶めかしい肌をした秀麗な神であるキーヒに見惚れており、声をかけられて素っ頓狂な声を上げていた。キーヒは兵のそのような態度は歯牙にもかけず、
「軍の高官がいる建物はどれだ?」
「司令部はあちらの建物になります……」
兵が奥まったところにある堅牢な建物を指し示すと、キーヒはそちらに向かって大股で歩いていく。蟀谷から生えた流麗な角を見て神であることがわかるからなのか、すんなりとその建物の中に入れた。
キーヒは目に入った扉を手当たり次第開けていくが、目的の人物の部屋には辿り着けないでいた。苛つきが増してきたところで、最奥にある重厚な扉を開くとようやくその人物に辿り着いた。
「轟音が響いていましたが、やはり貴方がいらしたのですね」
その人物──エリュインは椅子から立ち上がると慇懃無礼に頭を下げる。キーヒはそれを無視して机越しにエリュインの胸ぐらを掴むと、今にも噛みつかんばかりに、
「汝はエナの恋人なのだろう!? それなのにエナが泣いているのを放っておくのか!?」
「エナが泣いていたのを何故ご存知なのです?」
エリュインの冷淡な質問にキーヒは水鏡で見ていたことを言うのはどこか後ろめたく感じてしまう。
「それは汝には関係のないことだ! エナと恋仲なら、慰めの言葉の一つや二つエナにかけてやらないでどうする!」
「いくつか訊きたいことがありますが、少なくとも勘違いされていることがあるので訂正させていただきます。私とエナは恋人ではありませんよ」
「……は?」
エリュインはキーヒに胸ぐらを掴まれたままだったが、キーヒの間抜けな声と共にそれから解放された。エリュインは衣服の乱れを冷静に整えているのをキーヒは呆けたように見ている。
(こいつとエナが恋人ではないのなら、何故エナはあのように笑っていたのだ?)
そのような疑問がキーヒの頭の中でぐるぐると巡っている。
「エナは私の話を面白く聞いていますが、私自身に対しては警戒心を持っています」
「だが、仲良く話してエナは笑っていたではないか……!」
「そうかもしれません。ですが、あれも私の話に反応しているだけで、私が距離を詰めようとエナは離れていきます。エナは私のことを信用していないようですからね」
あっさりとエリュインが語る言葉にキーヒは頭が痛くなりそうだった。キーヒが見ている限りでは、エナはエリュインに対して穏やかに笑っていたはずだ。だから、自分は身を引こうと思って今まで過ごしていたのだ。
エリュインはキーヒに対して、神として尊重しながらもどことなく小馬鹿にした調子で、
「エナが懸想している相手は私ではなく、貴方ですよ。キーヒ様。あれだけエナとキーヒ様のことが神界で噂になっているのであれば、おのずと私の耳にも入ってきますからね」
「はあああああ!?」
キーヒはその言葉に素っ頓狂な声を上げてしまった。エナが自分に対して親しみを込めて笑ってくれていたのはわかる。それに神として崇敬している部分もあるのは知っていた。だが、エナが自分に対してそのように思っているのは想像していなかったので青天の霹靂であった。だから、キーヒは混乱で声が上ずったまま、
「それなら、何故汝はエナと親しくしていたのだ?」
「ああ、それは魔石達がエナと私との間で婚姻関係を結ぶように命令したのですが、私は自分に惚れていない女と婚姻する気はないので、惚れさせようとしていただけですよ。まあ、私自身エナに惚れる気は毛頭ないですが」
「な……! 汝はエナの心を弄ぼうとしていたのか!」
赫怒で目を釣り上がらせてキーヒは掴みどころのないエリュインに怒気の言葉を投げつけた。
「そうともとれますね。あのような娘に気に入られたとしても、あまり嬉しくはありませんが。『赤の魔石』に言われるがままに生きていて、自分の意思というものを感じさせない存在などつまらないでしょう」
エリュインはその視線に侮蔑の色を込めてキーヒを見据える。その態度にキーヒは今すぐにでもたたっ斬ろうかと思ってしまった。だが、エリュインはおそらくこの都市の軍の司令官なのだろう。さすがのキーヒでも一時の感情でそのような人間を殺してしまえば、両親や主神から咎められてしまうので、それは避けたいと思っている。
なにより、エリュインの言葉でひっかかるものがあった。エリュインはエナに意思はないと言っていた。だが、キーヒの前ではエナは好きなものは好きだと言い、それを愛でていた。キーヒとの手合わせを断った理由も納得できるものであった。『赤の魔石』の言うとおりに生きているのなら、あのように不器用な生き方をしないのではないか。エナはいつも自分に向けられる他人の感情に振り回されて辛苦を感じていた。それでも誰かの役に立とうと自分を奮い立たせる姿が無理をしているように見えたからキーヒはあのような助言をしたのである。だから、エリュインのエナを侮辱する言葉にキーヒは業腹であった。
「エナはキーヒ様に会えなくて寂しいのですよ。だから、泣いているのです。そのような私以外の何かを想っている娘に興味を持てと言われる方が酷というものでしょう」
「……」
キーヒはエリュインの自虐的な言葉に黙るしかなかった。エリュインも魔石達に振り回せれて辟易しているのかもしれない。それに魔石の一族もキーヒが知らないだけでしがらみが多いのかもしれない。そこは哀れに思えるが、エナを侮辱したことだけは赦せないでいるキーヒであった。
「それで? 汝は何が言いたいのか?」
「キーヒ様はエナを悲しませていた自覚はありますか?」
質問を質問で返されてしまい苛ついてしまうが、根が真面目なキーヒはエリュインの言葉を思案する。エナが泣いていた原因が自分が会いにいかないからだと今なら思えるが、エリュインに指摘されるまではエリュインが原因だと思っていた。そのため、今は少し罪悪感がある。キーヒは言い難そうに、
「まあ、ある……」
「それなら、エナに土産を持って会いに行くのが良いかと」
「土産?」
突然何を言い出すのかとキーヒは半眼になってエリュインを見る。エリュインはその視線を意に介さずに、人好きそうな口調で、
「ええ、そうです。その土産を持っていけばエナは大いに喜ぶことでしょう」
「ふむ……」
エリュインとエナが恋仲ではないとわかると、エナに会うのが楽しみ半分、いつまでも会いに行かないのでエナに嫌われてしまったと懸念が半分というところである。だから、エリュインの言葉に惹かれて何か土産を持っていくのが良いと思えている。
「土産なら、神界の”花畑”に行くとするか。そこにはエナが気に入っている花も咲いているからな」
「いえ、それよりも喜ぶものがありますよ」
「ほう、それは何だ?」
エリュインの言葉に興味を持ち、キーヒは好奇心に満ちた眼差しで尋ねる。
「アラトスです」
「アラトス……。あの『魂の結晶体』と呼ばれるものか。確かに、それで創られた武具はそのアラトスの持ち主にとって唯一無二の武具となると聞いたことがあるな。そのアラトスを持っていけば確かにエナも喜ぶことであるだろう。良いだろう、そこに案内しろ」
「わかりました。”調停者”よ、私達の話を聞いていたのだろう? 出てこい」
エリュインの言葉で忽然と姿を表したのは白金色の長い髪に、紫水晶のような瞳を両方に持つ美しい女だった。その女は紫色の衣を身に纏い、気怠げにエリュインに話しかけた。
「ええ、聞いていたわよ。でも、魔石達の思惑に反することをしても良いのかしら?」
「構わん。エナが私に惚れることがないのなら、この話は無効だろう。それよりもキーヒ様を”鏡界の湖”に連れていけ。アラトスを取ってくるとのことだ」
「わかったわ。それでは参りましょう、キーヒ様」
”調停者”と呼ばれた女は腕を上げすっと人差し指を振り下ろす。すると、そこに空間の裂け目ができた。”調停者”がそこに入っていったので、キーヒもそれに倣う。その見たこともない空間を歩いて先に辿り着いたのは、開けた場所にある湖であった。その湖は周囲の光を反射して鏡のようでもあり、目を凝らせば水底も見える気がする不思議な湖であった。
「……何故汝がいる」
「キーヒ様が無事にアラトスを手に入れられるのか見届けないとならないかと思いまして。勧めた人間が行く末を気にするのは道理でしょう」
いけしゃあしゃあとエリュインは言うが、キーヒはこのエリュインに感じられる軽薄さが気に食わないでいた。だから、エリュインの言葉を無視して、”調停者”に質問をする。
「この湖に連れてこられたが、どうすれば良いのだ? まさか、飛び込めと?」
「そのまさかですわ。ほら、早く行かないと夜が明けてしまいますわ」
確かに夜になったばかりではあるが、うかうかしていると朝が来てしまうだろう。キーヒは意を決すると湖に飛び込んだ。
湖の中に入ると不思議なことに呼吸はできていた。そして、浮かんでいるのか沈んでいるのかわからない不思議な感覚が体を蝕むので気持ち悪くて仕方がない。それでもその感覚に呑まれながらも思うのは唯一つである。
(エナに会えるなら、俺はどのようなことでもするぞ。だから、待っていてほしい)
*****
キーヒは目が覚めると長い夢を見ていたような朧げで索漠とした感情に支配された。
「大丈夫ですか?」
妻である美しい女神に起こされたが、それで不機嫌になるわけはなかった。キーヒは不器用であるため、妻に対しては自分の子達に見られないところで愛情を直接伝えてきていた。妻もそれに満足しているのか、とても嬉しそうに笑ってくれるので、それだけで十分であると思えた。
「ああ、大丈夫だ。起こしてくれて助かる」
「これぐらいはしますよ。ささ、今日も天気の宮殿で会議があるのでしょう? 急いで支度しないと間に合いませんよ」
「そうだな」
キーヒは妻に手伝ってもらいながら衣服を着替える。そして、身支度を整えて龍の姿となって天気の宮殿に向かった。
そこではキーヒは雨と雷轟を司る神として神格も上がり、天気を決める際の会議にも出席することになっていた。正直に言えば面倒なので、他の神に押し付けたいところである。神格が同等の太陽神がそれを許すわけがないので、渋々出席しているキーヒであった。会議の後は雨や雷を降らせるための魔法式を組んで、剣の鍛錬を家で行うのが日課である。剣の鍛錬をしていると、まだ小さな息子達が一緒になってやろうとするのを妻が微笑みながら眺めるのが日常となっている。
それからもキーヒは多くの信仰を受けて神格が上がるが、それでも人間を厭うのは変わりなかった。人間に対して友好的な女神である妻はその部分には呆れながらも受け入れているようであった。キーヒが鍛錬を欠かさず行うのは、いつ他国の神に攻め込まれても問題なく対処できるようにするためであった。そのような戦争も人間がいる限り、たまに起こるので油断はできないでいた。
そして、神代が過ぎ、人々の間で科学が普及し始めた。そのためか、人間が天気のメカニズムを解明すると共に古い神への信仰が薄れてしまい、キーヒの権能も薄れていった。
そして、自分の子や妻はそれほど信仰を集められなかったせいか、キーヒよりも先に消滅してしまった。それに悲しみを覚えるが、いずれ来ることだと思い諦観を持っていた。そして、とうとうキーヒ自身も消滅しようとしたとき、
(まあ、悪くない生ではあったな。好き勝手にできたし、子や妻にも恵まれたからな)
キーヒは満足していた。だが、満足しているはずなのに、妙な焦燥感に襲われてしまい頭が混乱している。
(何かを忘れているのか? だが、この生で後悔することはないぞ)
遠くにあり、ぼんやりとした記憶が藻掻いてその存在を示すかのように思い出される。
『それでは、またお会いしましょう、キーヒ様』
(ああ、そうだ……)
キーヒは消滅の間際にようやく思い出す。あのまだ幼さが残る娘が少し強がりながら言ったではないか。この言葉の前では誰かに迷惑をかけたくないと思いながらも、それでも自分のことを信頼して涙を零してくれた存在がいてくれたではないか。何故このような大切な記憶を、約束を忘れてしまっていたのだろうか。確かに幼稚な自分は彼女のせいにして不貞腐れて周りに迷惑をかけていたのは馬鹿げたことをしたと思っている。だから、それも謝らなければならない。そして、再会の喜びを分かち合うのだ!
(俺はエナに会わなければならないのだ!)
このような場で消滅するわけにはいかないと己を奮い立たせると、いつのまにか自分の目の前に手の中にすっぽりと収まりそうな程の大きさの角ばった鉱石が浮いていた。その透明の鉱石は黒く、中を紫電が走っているのかのように見える。キーヒはそれに右手を伸ばすと強く握りしめた。
*****
気付いたらキーヒは湖の上に立っていた。そして、右手の中を見るとあの鉱石が紫電を走らせて煌めいている。もう湖の中に落ちることがないのか、全く沈みもしないのでそのまま湖の上を歩いて”調停者”やエリュインのいるところまで戻ってきた。
エリュインはやや苦々しい表情を浮かべると、
「よく戻られましたね。あれだけ時間がかかっているから戻ってこないかと思っていましたよ。土壇場で自分の立場を思い出して戻ってこれたのですね」
「汝はそのような事態になることがわかっていて我をこの湖に招いたのだな」
鋭く射抜くようにキーヒはエリュインを見るが、エリュインはそれを意に介さずに、
「ええ、そうですよ。アラトスすら取れない存在がエナに相応しいと思いませんからね。戻ってこられないのなら、この湖に囚われて魂だけが彷徨い続けたまま輪廻を迎えることもできないんです。そうならなくて良かったですね」
挑発するかのようにエリュインは言い切る。キーヒはその言葉の棘に気付いたが、それよりもこの言葉に含まれた意味が気になってしまった。
「なあ。汝こそエナに懸想していたのではないのか? エナのことでここまでやる理由がそれぐらいしか思いつかないぞ」
「さあ、どうでしょうかね。人間の心は複雑ですから、神にも推し量れないことがあるものですよ」
「そうか……。なにはともあれ、これでアラトスを手に入れられたから、エナも喜ぶことであろう」
上機嫌にキーヒは言うと、白々しい目でエリュインが見てきた。それを無視して”調停者”に話しかける。
「ここから神界に戻りたいのだが、それはできるのか?」
「可能ですよ」
女がここに来た時と同じように腕を上げて真っ直ぐに振り下ろすと、その空間に裂け目ができた。そして、その裂け目から見えるのは見慣れた神界の光景であった。朝陽が昇り始めているのか空が明るくなりつつある。これからエナの居に向かうのは非常識であると思い、キーヒは”調停者”が創ったその裂け目から神界に戻った。
神界に辿り着くと、そこは自分の居の庭であった。見ていた光景の場所と異なる場所に通されて混乱したが、気を利かせてくれたと思うことにした。
キーヒは手の中にあるアラトスを見る。その中では紫電がいくつも走っているのが見えた。
(これが俺の魂の結晶ということなのか……。案外ちっぽけなものなのだな)
それを懐にしまうと、キーヒは自分の部屋に戻る。そして、明日エナに会うことを楽しみにしつつ、自分の肥大化した権能の制御をする鍛錬を行う。それもすぐにできたので、これであの正体不明の長雨はなくなることだろう。
それからしばらくすると、日も昇りきり久しぶりに青空が見えた。