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くだらない・くだらない

作者: AK

 なんだか知らないけど、泣けてしまったんです。

 でも、泣いている最中はとても気持ちよくて、泣いていることを続けたくて、暖炉に薪を次々に放り込むみたいに、ずっと、泣けることだけを考え続けていました。

 いろいろな、悲しい思い出。

 それが何だったか、泣き止んだあとでは、全然思い出せないんですけど。

 体の中の悪いものが、全部涙で流れてしまったみたいに、泣いたあとは生まれ変わったように清々しい気分でした。

 洟をかんでからわたしは出かけました。

 夏の日差しはもう暑かったけれど、湿気を含んだ空気は、植物の匂いも閉じ込めていて、胸いっぱい吸い込むと少しだけ元気をもらえる気がしました。

 特に細い道の、右手が水田になっている場所を歩くときは、生き生きとした稲の香りがむせ返るほど感じられて、通りかかった風が稲の先を絨毯のようになだらかに撫でていくのと重なって、ひとつの生き物を見ているような、わくわくする気持ちを与えてくれました。

 肩を怒らせてるのにビクともしないで固まっている、案山子さんだけがそれに同調していませんけれども。

 わたしも同じように両手を水平に持ち上げて、案山子さんの真似をしてみせました。怒った顔をして、実り始めた稲を啄みに来る鳥たちを、威嚇する態度も示して。

 動きのない入道雲を見つめながら、しばらくその体勢のまま我慢してると、チリンチリンとベルの音を鳴らして、自転車に乗った男子生徒がわたしのすぐ後ろで止まりました。

 同じクラスの斉藤君でした。

 何してるんだよ、と斉藤君は呆れたような顔でわたしをじろじろとうかがっています。

 わたしは恥ずかしくて顔が赤くなるのを感じながら、案山子の真似だよ、ともじもじと答えました。ほら、そこにいる。

 斉藤君はわたしが指差した案山子さんを見つめて、ふうん、と胡散臭そうに言いました。

 しばらく案山子さんの方を見つめてから、斉藤君はふいに自転車のハンドルを握る両手を水平方向に少しだけ掲げ、またハンドルを掴むと何も言わずに学校の方角へと自転車を走らせていきました。

 一緒に真似してくれたんですね。

 去っていく斉藤君の後ろ姿を見つめながら、馬鹿にするなよ、と小さな小さな声でつぶやきました。でも、本当にそう思ってたわけじゃありません。

 わたしはまた歩き始めました。

 わたしよりも背の高いひまわりが、もっと素直になりなさいとお説教をするみたいに、わたしを見下ろしています。

 でも素直になんてなれません。それがわたし。

 案山子さんは相変わらず肩を怒らせて、でも何事にも動じず、稲を啄みに来る鳥たちに睨みを利かせていました。

 くたくたの麦わら帽子が、とても似合っていたと思います。

 わたしにも自分に似合う何かが見つかればいいのにな、と心から思いました。

 例えばそれが、くたくたの麦わら帽子だったとしてもです。


   *   *


 きょーこちゃんは欠席でした。お家の都合で、と担任の先生は簡単に説明しました。会いたかったのになあ、とわたしはとても残念に思いました。

 久しぶりに顔を合わせたクラスのみんなは、ちょっとずつ別人になっているみたいでした。

 プールに通っている子たちは、肌が焼けて少しだけ虫みたいなメタリックな感じになっていました。

 プールに通っていない子たちは、肌の色はそんなに変わっていなかったですが、プールに通っている子たちと比べると、わたしが覚えているよりも大人びて見えるような気がしました。

 不思議です。

 みんな、与えられた時間を目一杯使って鳴き声をあげる蝉たちみたいに、本当に一生懸命でお互いの近況報告をしていました。

 自由研究の進み具合だとか、花火大会の約束だとか。

 胆試しに行こうぜ、なんてはしゃいでいる男子生徒もいました。

 斉藤君は、野球に興味があるらしくて、友達と夏の甲子園の話をしていました。

 バットを振る身振りをしながら熱心に話す様子は、なんだか微笑ましいです。

 わたしもきょーこちゃんとお話をしたかったのに、と改めて思います。

 どこかへ遊びに行く約束もしたかった。

 そうしたらわたしは、きょーこちゃんに伝えられることが、いっぱいあるのに。


   *   *


 実はわたしも、この後遊びに行く約束をしていたんです。

 呼びかけたミサキちゃんの話によれば、女子だけ五人くらいで海に行く、ということだったんですけど、何だか知らない間に男子グループも五人くらいが加わって、結構な大所帯になっていました。

 男子の中には斉藤君もいました。

 もともとミサキちゃんのお父さんのワンボックスカーで乗り合わせて行く、という話だったので、さすがに定員オーバーです。

 ですので、二回に分けて移動するそうです。

 片道十分もしないくらいの近場ですしね。

 まずは第一陣が出発して、わたしを含む第二陣はもう少し学校で待機です。

 校門を出て、そんなに離れていない場所にある雑木林の木陰で、わたしは車を待っていました。

 国語の先生が、もうちょっと奥まで足を踏み入れてですけど、青葉闇という季語を教えてくれた場所です。

 その呼び方だけでなんだか涼しくなるようで、わたしの好きな言葉です。

 すると同じく第二陣の斉藤君がやってきて、何だかちょっとだけ深刻そうな顔で訊ねるのです。

 なあ、今日のコバなんだか変じゃなかったか?

 コバ、というのはわたしたちの担任のことです。小林先生。もちろん先生の前ではコバなんて呼ばないですけどね。

 そうだった? とわたしは返事をしました。特にそうは思わなかったけど。

 ならいいんだけどな、と言い残して斉藤君はまた校門のほうへと歩いていってしまいました。

 わたしは今日の小林先生について、もう一度だけ思い起こしてみました。

 変なところ?

 でもやっぱり、何も思い当たるところはありませんでした。小林先生はいつも通りに見えました。

 それなのに斉藤君の変に思いつめたような顔のせいで、わたしは何だか不安になってきました。

 別にそんな不安がることじゃないよ、とわたしは自分に言い聞かせました。

 でも胸騒ぎは止まりませんでした。

 わたしは雑木林を抜け出して、校門のところまで戻りました。

 斉藤君に、詳しく話を聞きたかったから。

 制服のシャツを脱いで、空色のTシャツで日向に立っている斉藤君は、おでこににじんだ汗も拭わないでじっと考え事をしていました。

 校門のあたりには斉藤君を含め、ミサキちゃんのお父さんの車を待っている第二陣の人たちと、それとは関係なくホースで水をまいている女子生徒が三人いました。

 打ち水のつもりなのでしょうか、熱くなった地面に水をまいていたのですが、いつの間にかホースを持った子がふざけて他の生徒に水を浴びせていました。

 甲高い笑い声が響いています。

 わたしが斉藤君に近づく前に、ミサキちゃんのお父さんの車が校門前に到着して、わたしたちを呼びかけました。

 先に行ったはずのミサキちゃんもまだ助手席に残っています。

 結局斉藤君に話しかけることのないまま、わたしはその車に乗り込むことになりました。


   *   *


 車の中ではミサキちゃんがしゃべりっぱなしでした。

 南の島に行って、サンゴ礁を見て、夜は満天の星空で天の川がキレイで……と先週行ってきた海外旅行の話をずっと続けています。

 みんな相槌を打つのに疲れていました。

 斉藤君は窓際のシートに座っていて、ずっと窓の外を向いて話に参加しようとはしていませんでした。

 考え事を、してるみたいです。

 ミサキちゃんがそのことに気づいて、助手席から器用に体をひねって振り返ると斉藤君に声をかけます。ねえねえ斉藤君、車の中暑い? 大丈夫? アイスクリームとか食べる?

 斉藤君は視線を変えずぼそっとした声で、白玉ぜんざいが食べたい、とつぶやきました。

 ああ、斉藤君面倒くさいんだな、と思いました。

 ミサキちゃんはお父さんに、コンビニに白玉ぜんざい置いてあるかな? と真剣に訊いていました。どうだろうなあ、とお父さんは答えつつ、ちょうど通りかかったコンビニに車を停めました。

 ちょっとここで買い物をします! とミサキちゃんは車内のみんなに声をかけました。何か欲しいものがある人は、ここで買ってください!

 どうせ海へ行ってもいろいろと買えるはずですけど、今ならミサキちゃんのお父さんがおごってくれるかもしれない、と計算を働かせた何人かが車を降りました。

 斉藤君とわたしと、あと別の男子生徒が残りました。

 ミサキちゃんは斉藤君に、車を降りないのか訊ねました。

 斉藤君は首を横に振って、ちょっと車に酔ったから休んでる、と伝えました。

 酔い覚ましの薬を買って来ようか、と心配そうな作り声で訊ねるミサキちゃんに、休んでいればすぐ治るから、と斉藤君はやっぱり面倒くさそうに答えていました。

 白玉ぜんざいあったら買ってくるね、と言い残して、ミサキちゃんはコンビニへと駆けていきました。

 斉藤君が大きくため息をつく音が、車内に響きます。

 面倒くせえな、あいつ、と斉藤君じゃないほうの男子生徒がつぶやきました。

 わたしが聞いてるのにそんなこと言っていいのかな、とわたしは心配しました。

 まあ、別に本人に言ったりはしないんですけど。

 でも斉藤君はもっと大胆に、俺、あいつ嫌いだわ、と答えていました。

 クスッときたことは内緒です。

 斉藤君はわたしに向かって、今日の集まりはいつごろ決まった話なのかと訊ねました。

 結構前からだよ、とわたしは答えました。話自体は夏休み前にあって、ミサキちゃんのお父さんの車で海まで移動する、ということまで決まってた。本当は女子だけ五人の予定だったのが、男子も含めて十人近くなるというのは今日初めて聞いて、びっくりしたけれど。

 斉藤君はまたため息をついて、うぜえな、とつぶやきました。

 もてる男は大変だね、と別の男の子が茶化しました。

 それには取り合わないで、斉藤君はまたわたしのほうを向くと真剣な顔で訊ねるのです。

 さっきも言ったけどさ、今日のコバ、やっぱり何か変じゃなかったか? 何となくぎこちないというか、オドオドしてるというか。帰り際に俺たちが海に行くって集まってるとき、コバは俺たちのことじっと見てたんだ。俺と目が合って、慌てて視線を逸らせて教室を出て行ったんだけどさ。それが気になって……、変なことを訊くけど、心当たりはあるか?

 もてる男は大変だね、と繰り返す男の子は完全に無視して、斉藤君は答えを求めるようにわたしを見続けていました。

 ちょっと顔が熱くなります。

 それはともかく、そんなことにわたしはちっとも気づいていなかったし、斉藤君の言う心当たりというものも見当がつかなかったので、分からないとつぶやいて首を横に振ることしかできませんでした。

 そっか、と斉藤君はこわばっていた表情を少し緩めて、また窓の向こうに視線を向けました。

 しばらくして、コンビニのレジ袋を提げて嬉しそうに駆け寄ってくるミサキちゃんの姿が目に入りました。

 白玉ぜんざいあったよ!

 斉藤君は形ばかりのお礼を言ってそれを迷惑そうに受け取りました。

 ミサキちゃんはわたしと他の男子生徒にソーダ水をくれました。わたしは、ちゃんとお礼を言ってありがたくそれを受け取りました。

 みんなが遅れて戻ってきて、ミサキちゃんのお父さんも運転席に座って、車は動き始めました。

 海まではもうすぐそこです。

 心当たり、という斉藤君の言葉をふいにまた思い出しました。

 きょーこちゃんのことが頭をよぎりました。

 違うよね、とわたしはその考えを振り払いました。

 でも急にきょーこちゃんと会いたい気分になって、自分がここにいることが、何だか息苦しいような気さえしてくるのです。

 わたしはこっち側じゃない。

 そんなわたしの気持ちとは正反対に、ミサキちゃんの甲高いおしゃべりは、ずっと車内に響いていました。


   *   *


 先に着いた第一陣の人たちは、もう水着姿に着替えていました。

 わたしたちもすぐに脱衣所で着替えます。

 人でごった返しの海辺は、正直言ってわたしはあまり好きじゃありません。

 わたしは、みんながはしゃいでいるのに加われればそれで楽しめるのです。

 泳げないですし。

 そんなわけで、海には入らずに砂浜で遊んでいることのほうが多かったです。

 ビーチバレーごっことかですね。

 それで疲れるとひとりで海の家に行って冷たいものを飲みながら休憩しました。

 一緒に来た、わたしもよく名前を覚えていない男子生徒が、どこから調達したのかアロハシャツ姿でやってきて、似合う? とわたしに訊ねました。

 似合ってるよ、とお世辞を言ってあげました。

 得体の知れないトロピカルジュースという飲み物を飲んでいるわたしの隣の席に、彼は座ってコーラを注文しました。

 それから塩味の焼きそば。

 特に会話もなくて、遠くではしゃいでいるミサキちゃんたちご一行をわたしたちは何となく眺めていました。

 ちりんちりんと軒先に吊るした風鈴が音を立てます。

 ジョッキに入ったコーラと、それから塩焼きそばが運ばれてきました。

 食う? と塩焼きそばのパックを差し出されましたが、お腹へってないから、とお断りしました。

 おっけ、と言って彼はがつがつと豪快に食べ始めました。

 ビーチサンダルを脱いだ右足を、左足の腿の上に載せています。

 ちょっとお行儀悪い。

 裸足の指先ががっしりとした肉付きで、しっかりと日に焼けていて、男の子だなあという感じです。

 きっと水泳部。

 すごい勢いで焼きそばを食べ終った後、ごくごくとコーラを半分くらいまで飲んで、唐突に彼は海辺のほうを指差してわたしに訊ねるのです。

 あいつのこと、どう思う?

 わたしはとぼけて、誰のこと? と澄まして聞き返しました。

 彼はミサキちゃんの苗字を言いました。

 どうと言われても、とわたしはまたはぐらかして答えます。

 俺は嫌いだね、とどこかで聞いたようなことを彼もまた繰り返しました。俺だけじゃない、クラスのやつらはみんな嫌ってる。今あそこで一緒にはしゃいでいる女子連中だって、内心あいつのこと嫌ってるよ。

 わたしは、ふーん、とニュートラルに相槌を打つくらいしかできません。

 お前はあんまりそういうことなさそうだよな、と彼は不思議そうに言いました。割と、誰とでも仲いいというか。あいつとも上手に付き合ってるよ。

 誰とも深く付き合わないだけだよ、とわたしは答えました。浅く広くというだけ。だからきっと、卒業しても友だちでいる人って全然いないよ。みんな離れていっちゃう。

 さみしい話だな、と彼はあっさり言いました。

 残っていたコーラを一気に飲み干しました。

 本当はお前みたいなやつがクラスのまとめ役だといいんだけどな、そうしたら。そこで言葉を切ると、彼は立ち上がり空のジョッキとプラスチックパックをまとめて返却口まで持っていって、そして砂浜のほうへと去っていきました。

 わたしは、ぼんやりと彼の言ったことについて考えていました。

 本当はわたしみたいなやつがクラスのまとめ役だといいんだけど、そうしたら?

 真っ先に浮かぶのは、やっぱりきょーこちゃんのことなのです。

 今、どうしてるかな。

 空を見上げると、いつの間にか灰色の雲が一面に行き渡って太陽を隠そうとしています。

 夕立の気配です。


   *   *


 学校で降ろしてもらったときには、もう雨は止んでいました。

 雲の隙間から太陽の光が斜めに差して、濡れたアスファルトの路面を、ギラギラと光らせています。

 今日はありがとうございました、とミサキちゃんのお父さんにお礼を言いました。

 お父さんはにっこり笑って、こちらこそ、ミサキと遊んでくれてどうもありがとう。これからも仲良くしてやってね、と答えました。

 みんなが散り散りに帰り始めた頃、ミサキちゃんはわたしを呼び止めて、今日はありがとう、と心をこめて言いました。

 夕立に降られちゃって残念だったね、とわたしはやや話を逸らすふうに返事をしました。

 それに取り合わないで、ミサキちゃんはじっとわたしの目を見つめて、本当に心から感謝しているように言うのです。

 千夏ちゃんが来てくれて、本当に助かったんだよ。千夏ちゃんはみんなの気を遣ったり、場を和ませたり、そういうことをすごく丁寧にやってくれるから。本当は、わたしがそういうのをやらなくちゃいけないんだけど、わたしはそういうの苦手で……。いつも自分のことばかりになっちゃう。本当は、影でこっそり嫌われてるってのも知ってる。でも千夏ちゃんは、そういうの抜きでわたしと付き合ってくれるから。ときどきね、わたしはクラスの誰からも、嫌われてるんじゃないかってすごく不安になるときがあるの。でもそういうとき、千夏ちゃんがいてくれることがすごく心強い。ねえ、千夏ちゃん。わたしと、友達でいてくれる?

 そんなに不安そうな表情のミサキちゃんを、わたしは初めて見ます。

 いつもの自信に満ちたミサキちゃんからは、想像もつかない顔。

 わたしは、正直なところ返事に困りました。

 ミサキちゃんが持っているらしいわたしへの信頼は、間違っています。

 それでもわたしには、その間違いを矯正させるだけの強さはありません。

 そんなの、今さらだよ、とわたしは笑いながらミサキちゃんに言って、ミサキちゃんの手をぎゅっと握り締めます。

 ミサキちゃんはびっくりした表情になって、それから泣きそうな顔になって、わたしの手を握り返してありがとうと答えました。

 ウソがいつか本当になればいいのだけれど、とわたしは思いました。

 ミサキちゃんと別れてひとりで家まで帰る途中、わたしの頭の中で繰り返されたミサキちゃんの姿。

 きょーこちゃんの姿。

 今日のことがあっても、やっぱりわたしには、ミサキちゃんに対して憎悪の感情しか湧いては来ませんでした。


   *   *


 帰り道にある小さなお花屋さんにホオズキが並んでいました。

 お盆の季節だな、とぼんやりと思いました。

 それが、妙に印象に残ったのです。

 出かけるときに花を咲かせていた玄関先の朝顔が、萎れていました。

 それと対応するみたいに、お母さんの様子が少しおかしかったのです。

 家の中は妙に静かで、ただいまと言っても、いつものようにおかえりという返事が来ないのです。

 みんな出かけているのかな、と思ってリビングに入ると、お母さんはちゃんといました。

 テーブルに座って、どことなく難しい顔をしています。

 どうかしたの? と訊ねます。

 そこでようやく、思い出したようにおかえりと言って、わたしのほうを向きました。

 何か言い出しにくそうな様子で、でも結局はわたしに向かって話しかけるのです。

 学校から、担任の小林先生から電話があって、千夏とお話がしたいんだけどって、そうおっしゃるの。クラスのみんなと遊びに出かけていますって伝えると、帰ってきたら折り返し学校まで電話を下さいって。ねえ、小林先生、妙に深刻そうな感じだったんだけど、千夏何か心当たりはある?

 心当たりという言葉を、またか、という気分でわたしは聞きました。

 わたしはやっぱり首を横に振って、分からないよ、と答えるだけでした。

 何かあったのかな、とお母さんは心配そうにつぶやきました。

 訊いてみるよ、とわたしは言って電話をかけました。

 それをお母さんは不安そうに見守ります。

 小林先生に電話で話をしてみると、時間があるなら直接学校へ来て欲しい、とのことでした。

 親も一緒のほうがいいんですか、と訊ねると、今日はとりあえずひとりでいい、という返事です。

 今日は、ということは明日もあるのかな、と思いました。

 ともかく、お母さんの言うとおり小林先生の声はとても深刻そうに曇っていました。

 お母さんが不安になる気持ちも分かります。

 どうだった? 先生は何ておっしゃってた? とお母さんが眉を寄せて訊ねます。

 わかんない。とりあえず学校へ来て欲しいって言ってたから、これから行こうと思う。自転車使うね。

 不安げな表情のまま、お母さんはうなずきました。

 わたしはお母さんの心配を少しでもやわらげようと、笑いながら話しかけました。大丈夫だって、大したことじゃないよきっと。わたしが悪いことするような子に見える?

 そんなふうに思ってるわけじゃないけど、とお母さんは表情を変えないで答えます。でも、何かよくないことがあったんじゃないかって。

 心配しすぎだよ、と努めて明るい声で言ってから、いってきますと声をかけて家を出ました。

 いってらっしゃい、と静かな声でお母さんも言いました。

 ところで、お母さんに伝えなかったことがひとつあります。

 小林先生はわたしに、きょーこちゃんのことで、と伝えていました。

 でもそれを、今お母さんに伝えたところで何になるわけでもない。そう思って、わたしはお母さんに何も言わずに家を出ました。


   *   *


 職員室全体の空気も不穏に張り詰めているようでした。

 職員室に顔を出すと、小林先生はわたしを生徒指導室まで連れて行きました。

 向かい合ったソファーにわたしを座らせると、ノートを片手に先生も座って、書き込みをしながらわたしに質問をしました。谷口さんのことで、何か思い当たることはある?

 今日は学校に来てませんでしたね、とわたしは答えました。

 最近、何か変わったことはあった?

 わたしは考え込む仕草をして、最近は以前みたいに遊ばなくなったので、と答えました。昔は、結構まめに遊んでいました。きょーこちゃんの親戚の家に泊りがけで遊びに行ったりもしました。ふたりで蚊帳のかかった部屋に布団を並べて、一緒に寝ました。楽しかったです。

 あなたはミサキさんと仲が良かったね、と先生が言いました。

 それなりに、とわたしは答えました。

 ミサキさんと谷口さんの関係は、どうだったのかな?

 それは先生もご存知のはずです、とわたしは珍しく自分の言葉に毒をこめて言いました。

 先生は少したじろいだようでした。

 それにつけこむ形で、わたしは逆に先生へ質問をしました。

 きょーこちゃんに、何かあったんですか?

 そう訊ねながら、わたしにはもう、だいたいのことは薄々分かっていましたけど。

 先生は首を横に振って、今日それをお話しすることはできないの、と言いました。

 きょーこちゃんは元気ですか、とわたしはしつこく訊ねました。

 それも、今は答えられない、と先生は言いました。

 そんなふうに答えなくてもいいのに、とわたしは不満でした。本当にそうであっても、今は、そんなふうに答えなくてもいいのに……。

 もう少し質問が続いたあとで、今日はこれで大丈夫だから帰っていいと先生は言いました。

 失礼します、と言ってわたしは部屋を出ました。

 校舎を出ると、厚い雲が再び太陽を隠して、あたりはすっかり薄暗くなっていました。

 今わたしの思っていることが、全部わたしの思い過ごしであればいいんだけど、とわたしは思います。

 自転車置き場のところで、わたしは泣き始めました。

 今朝のときのように、理由もなく、というのではないと思うのです。

 それでもわたしには、わたしが何のために泣いているのか、正確なところはわからないのです。

 ただ、きょーこちゃんのことを考えると泣けてしまうのです。

 くだらない、くだらないとわたしはつぶやきます。

 やがて静かに雨が降り出して、わたしの涙と同調するようでした。

 この雨と同じように、いずれすべてが通り過ぎてしまうことなら、何もかもがくだらないと思うのです。

 そしてくだらないもののために何かを投げ出すことは、もっとくだらない。

 そう思うのです。

 遠くで雷の音が聞こえました。

 雨の中、わたしは泣きながら自転車を走らせます。

 くだらない、くだらないと魔法の言葉のように唱えながら、いつもは徒歩で通る通学路を、わたしは自転車を走らせてたどっていきました。

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