第4話 名付け
夢を見ていた、気がする。
何の夢かは、よく覚えていないが、幾つもの景色が通り抜けていった。
俺は、それぞれの場所で、それぞれの名前で呼ばれていた。
どちらも懐かしい場所だった。
どちらにも、かけがえのない大切な人がいた、はずだった。
―――……くん、……なくん……
―――……ん、……シオ……
大切な人たちだったはずなのに、まったく、思い出せない。
人がいるのは分かるのに、その顔は見えない。親しい人だと分かるのに、思い出せずに、ただ、景色だけが走馬灯のように流れていく。
それまでの“自分”。
今、ここにいる“俺”。
どちらも“自分自身”なのに、背中合わせに向き合えない壁を感じる。
ふいに、目の前に7つの光が集まってきた。眩しいほどの光に、俺は、呆気なく呑みこまれた。
『目が覚めたか?』
「……あー、おはよう?」
俺は、天井から差し込む光に目を瞬かせながら、黒い獅子に応えた。
『おはよう?“おはよう”とは、何だ?』
「ん~、朝の挨拶?朝、起きた時や会った時に交わす挨拶……」
『ふむ。ならば、“おはよう”』
ぱたぱたと尾が地面を叩いている。
俺は、自分の頭を掻いてから、なんとなく獅子の背中をぽんぽんと軽く叩いた。
周囲は、地上の陽光を吸収する苔ですでに明るい。俺は大きく伸びをして起き上がると、泉に向かった。
冷たい水で、顔を洗う。
気分まですっきりするような冷たさに、俺は、着ているシャツで顔を拭った。
なにか、“夢”を見ていた気がする。
誰かに、呼ばれていた気がするが、はっきりとは思い出せない。
「………シオ………?」
耳に残る音を拾う。
俺の“名前”なのか、その一部なのか。それともまったく別のものなのか。
「…シオ。……シオン?」
どこか懐かしい響きだった。
俺は、なんとなく、泉に視線を落とす。朝の光が反射して、水面が鏡のようになって、俺の顔を映し出す。肩に掛かる青い髪は、暗蒼色で根本はほぼ黒いが、先に行くほど綺麗な青になっている。
透き通る白い肌に、金色に近い琥珀色だが、やや緑がかった色の目。整った顔は、まだ若干の幼さが残る。年で言えば、20歳前くらいだろうか。
自分の顔なのに、酷い違和感だ。
俺の“認識”では、俺は黒髪黒目で、黄色味を帯びた肌の平凡な男だったはずなのに、なんだろう。この容姿の違いは。なんとなく、年も違う気がする。
水面に映る少年とも青年とも言える年齢の男は、本当に“俺”なのだろうか?
俺は、自分の頬を触った。
水面に映る“俺”も、同じ動きをする。
そのまま、頬を抓れば、………痛い。
「……痛い……」
俺は、おもわず蹲った。
「また、“謎”が増えた……」
もう嫌だと、俺は呻く。
記憶喪失で、容姿まで変わっている設定って、一体何得なんだろうか?
少なくとも、俺得ではない。
「しかし、まぁ、悪くない」
俺は、あえてポジティブに考えることにした。
俺自身の“認識”ではどこにでもいる“平凡”な男だった俺が、美形とまでは言わないが、そこそこに良い見た目になっているのだ。これは、良いことだろう。
………多分。
「あー、自信無いなぁ……」
俺は、立ち上がって溜息を吐いた。
とりあえず、獅子の元に戻る。
寝そべっていた獅子が、顔を上げて、俺を見る。
「……なに?」
『ふむ。“名前”をつけてくれないか?』
「いや、無理。俺自身だって、名前無いのに、なんでお前につけないといけないんだ」
『ふむ。なら、我が名を与えよう』
「いやいやいや、却下!俺の名前は、俺でつけるからいい!」
俺は、ルクムの実を取りに、祭壇横の脇道に入った。
その後を、獅子はのっそりと付いて来る。
『そなたの“名前”はどうするのだ?』
「ん~、………そうだなぁ。“シオ”か、“シオン”か…………そんな感じで」
『“フォン”は、聖なる音に連なる。名に加えるのは、やぶさかではない』
「“オン”?………フォン?発音が難しいな………とりあえず、“シオン”でいいか」
『適当だな』
俺の言葉に、獅子が呆れたように言う。
まぁ、夢でなんとなく“残った”言葉を名前にしましたなんて、言えない。
俺的には“シフォン”より“シオン”の方がカッコいい気がするので、“シオン”なのだ。
『で、我にも“名前”をつけろ』
「…………って、言われてもなぁ」
俺は、ルクムの実を取ると、それをかじった。
甘酸っぱくもジューシーな味が、口一杯に広がった。獅子にも幾つか投げると、器用に前足を使って、実を食べ始める。
「タマ、ミケ、ポチ…………はないか。うーん、レオン、は白いライオンだっけ?」
『いくら何でも適当すぎる。
我は“猫”ではないのだぞ?』
獅子は、不機嫌に鼻を鳴らした。
いや、でも、“猫科”じゃんか。どうしても、そっち方向に思考が傾くのは仕方がない。
「じゃあ、“ノワール”とか?」
『よくわからんが、安直な名前な気がする……』
ちっ!……“クロ”だと安直だからと少し変えただけなのに、看破してやがる。
「………あー、じゃあ、“クロガネ”は?」
俺は、獅子の漆黒の毛並みを見つめながら言った。
触り心地は最高だが、艶やかな毛並みは見ようによっては、まるで鋼のようと言えなくもない。
まぁ、黒から連想して思い浮かんだだけで、ぶっちゃけこじつけだが。
『ぬ?………なにやら、渋さを感じる。よいな、それ』
「だが、呼び名は“クロ”だから、結局、意味がないと…………」
『何故そうなる?!』
やっぱり、“クロ”で良かったか。
最初から、“クロ”を出しておけばよかったんだな。名は体を表すーー全身真っ黒な獅子には、ぴったりの名前だ。
やはり、シンプルなのがいいよな!
俺は、うんうんと、頷いた。
「じゃ、そういうことで、“クロ”な」
『何が“そういうこと”なのだ?そして、“クロ”とは、どこから出た。“クロガネ”の方が、どう聞いてもカッコいいだろう?!
何が不満なのだ!』
「えー………言いにくさ?」
さらりと答えた俺に、獅子は絶句した。
いかにもショックを受けました的な表情が、器用すぎる。え?お前、本当に獅子だよね?
俺は、あらかさまにしょんぼりと落ち込んだ獅子を見て、苦笑する。
いや、出会ってたった1日なのに、怖くないわ、これ。
最初の威厳はどこにいった?
「名前は“クロガネ”で、愛称が“クロ”でいいだろ?」
『ぬ?しかし、それでは………』
「はいはい、それで決まり!」
まだ、なにやらごちゃごちゃと言っている獅子ーークロガネを無視して、俺は、ルクムの実を採集した。
そして、祭壇の広間へと戻る。
パーカーに、追加分の実をしまうと、水袋の水も補充した。ついでに、口を濯ぐ。
クロガネも、ブチブチ言いながらも、祭壇に戻ってきており、俺は荷物を手に彼を見た。
「クロガネ」
『………こういうときだけ、きちんと呼ぶのは狡いと思うんだが』
「気に入らないのか?」
『違う。………気に入ってるからこそ、ちゃんと呼んで欲しいのだ。“シオン”よ』
呼ばれた“名前”に、俺はおもわずにやける。
他の誰でもない“俺”の名前。
特別な意味などないそれが、今日からの“俺”を示すものになるのだ。
「まぁ、互いに名前も決まったし、そろそろ覚悟を決めて、行こうか?」
『我はいつでも行ける。そなたが遅いだけだ、シオン』
「はいはい。……じゃあ、行こうか。背に乗せてもらうのは、外に出てからの方がいいか?」
『そうだな。野獣どもも、昼間は現れない。あいつらは、夜行性だからな。
言っておくが、我も長くここにいたから、世情には詳しくないぞ?』
「それはなんとなく分かる」
クロガネに促されて、魔法陣の中に一緒に入る。彼曰わく、上階だけでなく、幾つか行き来が可能な魔法陣があちこちにあるらしい。
『確か、森に埋もれた神殿の祠にも通じていたはずだ。あそこに出られれば、一番近い町に1日くらいで行けたはずだが……』
「それって、どの位前の話だ?」
『ふむ。………ざっと、百年ほど前だな。我の封印が解けて、暇だったから、しばらくは周辺を見回った折の話だ』
俺が、丘で目覚めたときに見た町らしき灯りは、随分、遠かったような気がするから、森を抜けるのに数日は掛かると思っていた。
いや、しかし、案外近いのか?
俺は、首を傾げた。
「………まぁ、いいか。どのみち、避けては通れないんだしな」
これからどうするにしても、町に行かなけば、どうしようもないのだ。
俺が考えている間に、魔法陣が光り始める。
そうして、俺たちは、忘れられ、廃墟と化した神殿を後にしたのだった。