四
王宮は真夜中でも眠らない。
連日連夜晩餐会、舞踏会などが開かれ、様々な客を招いているためだ。
その晩も例に違わず舞踏会があり、きらびやかな招待客にホールはうめつくされていた。本来ならば、主人がいないステラには参加する権利はないのだが、これだけ大勢の人が参加するパーティならば、一人くらい紛れ込んでもばれはしないと思った。
持っている中で一番いい服は先日ドリスに紹介されるときにヴィンセントから貰ったものだった。その淡い空色のドレスを着て、だが目立たぬように行動する。幸い顔見知りも参加していないし――と辺りをぐるり、見回したステラは一瞬飛び上がりそうになる。なぜかヴィンセントが招待客と談笑していたのだ。
(どうして今日に限って!)
ヴィンセントの社交嫌いは有名であるが、さすがに主催者が王族だと断りにくい部分もあるのかもしれない。
漆黒の夜会服を着た彼の姿はきりりと凛々しい。整えられ、撫で付けられた金髪は、たくさんの照明を反射して眩しいくらいだ。どこか退屈そうな青い眼は、一旦輝くと、好奇心に溢れみずみずしく、ひどく魅力的に見えた。
こちらを見ていないのに、なぜか見張られているような気にもなり、ステラは一気に気鬱になる。邪魔されるに決まっているし、彼に自分のしようとしていることを悟られたくなかった。とにかくヴィンセントに見つからないようにと、なるべく遠巻きに距離を取り、扇で顔を隠し、一方で王太子と話をする機会を窺うことにした。
そして、僥倖は突如訪れた。
談笑していた王太子が、酔いを覚ますとテラスから庭へ一人で出て行ったのだ。この機会を逃してなるものか。彼の影を追って、ステラは別の出入り口から、中庭へと駆け降りた。
誰も彼も夜会に夢中なのかステラの行く手を阻むものは何もなく、気がつけば王太子の背中が見える位置に彼女は立っていた。
月が大きな人影をまろやかに照らす。風が庭の刈揃えられた芝を撫でていく。
人は誰もいない。
すべての状況が、神が、ステラに行けと言っているようで。
一歩、二歩、三歩。
すると麗しいとも言える赤い髪の男性が振り返り、こちらをじっと見つめてきた。
「メレディス嬢か。……何か用か?」
デビューの時以来だろうか。彼の視線がステラに止まったのは。
ゆるく癖のある前髪の間から甘く見つめられてステラは反射的に答えた。
「どうか、私を妃殿下の代わりにお側に召してくださいませ」
単刀直入な懇願にも王太子は表情をぴくりとも動かさなかった。ただ静かに問うた。
「自分が何を言っているかわかっているのか?」
まるで取り合わない。嘲るような響きに、ステラはむきになる。
「私は、あなた様の公妾になりたくて、王都に参ったのです。どうか、どうかお見捨てにならないでくださいませ! ――お慕いしております!」
それを聞いて、王太子はふっと笑みをこぼす。後ろでさくりと土を踏む音がして、この場に介入する他者の存在を急に感じた。
いや、そもそも王太子の周辺に人が居ないわけがないのだ。警護の人間一人も、居ないことが不自然だったのだ。
ステラは冷水を浴びせられ、夢から冷めたような心地になる。頭が働き出し、これが仕組まれたことだとようやく気がついた。
(え、これ、もしかして嵌められた!?)
青くなるステラにも王太子は容赦しなかった。次に彼の口からこぼれた恐ろしい言葉にステラの世界は崩壊した。
「ディアナ、聞いたか?」
まさか、とステラは固まった。そして木の陰から現れた長い黒髪を見てその場に崩れ落ちる。最悪の展開だった。
「別宅に行ったんじゃ――」ステラは言いかけて全てわかった。「全部、私をおびき出すための餌だったってわけ?」
王太子は静かに頷いた。
「おれの言ったとおりだろう? ディアナ、この女は、おまえに近づいて、おまえを裏切って、あさましい願いを口にした。友情など――まやかしだ」
ディアナの顔はとても見れなかった。ステラはうずくまったまま、王太子に尋ねた。
「どうして、こんな罠を?」
どこで疑われたのだろう。身元が割れるような決定的な間違いなど犯していないはずなのに。
「ディアナを責めるなよ? 様子がずっとおかしいのに、一人で抱え込んで何も言わないから、原因をおれと母上で調べたら、おまえに行き当たったというだけのこと。王宮の侍女の募集で王都にやってきたのだろう? 目的を知っていれば採用しなかった。公妾を狙うために妃の侍女になろうなど、あまりの厚顔さに感心しているところだ」
「ちがうわ――そんなんじゃない」
ステラの反論は王太子の不敵な笑みに跳ね返される。彼はステラの言い分など無視して続けた。
「口で言いきかせてもディアナのことだ、信じないだろうから、おれは、動かぬ証拠を見せてやることにしたんだ」
「――私は……っ」
生き抜くために友情は諦めると決めたはずだった。だが、ディアナの顔を見たら、言い訳をしたくて仕方なかった。でもなんと言えばいいのだろう。彼女は今にも泣きそうな顔でステラを見つめていた。
『裏切っていたの?』
彼女の漆黒の目はそう言っていた。ステラは何も否定できなくなった。
たとえ実行していなくても、ステラはここまで来てしまった。ディアナの『私を、忘れないで』という必死の願いも振り切って、想いを告げてしまった。それは立派な裏切りだ。
手の中からこぼれ落ちていくものに気づいた時、ステラは絶望した。
(ああ、私、こんなにもあなたのことが好きだった)
欲しかったものがすり替わっていることに気づかなかった。かけがえの無いものを失ったと実感して、胸が早鐘のように鳴っていた。全身の血がものすごい速度で流れているのを感じる。目の前の風景がたわむ感覚。目までもが脈打っているような気がする。今すぐに発狂しても、失神してもおかしくないとステラは思った。
(誰か、助けて。私、ここから逃げたい)
子供のように泣き出したくなりながら、ステラは願った。
そのとき。
風が吹いて、穏やかな心安らぐ香りが流れてきた。
「あぁ、どうやら迷い犬がおじゃましているようだ」
柔らかい声と同時に緊迫した雰囲気が崩れる。
「ヴィンセント?」
王太子の鋭い視線がステラから外されて、そのまま声の主――ヴィンセントに突き刺さるのがわかった。
「ごめんね。うちのワンコ、管理が行き届いてなくて。こんなことなら、鎖につないでおけばよかったかな」
さくさくと草を踏む音が近づいたかと思うと、後ろからひょいとお姫様のように抱き上げられる。見かけを裏切る腕の強さに、胸の温かさに、どこかに落ちかけていたステラは救われた気がした。
「……わ、ワンコって何!? なんで犬扱い!?」
絶望の淵から拾い上げられ、反論できるくらいの力を得て、ステラが問うと、ヴィンセントはこちらを見る事なく王太子とディアナに向かってくすりと笑った。
「春も終わろうっていうのに、発情しちゃったのかな」
「はつじょう? ――って、」
思わず繰り返してしまった後にぎょっと目を剥く。なんて言葉を吐くのかと強く言い返そうとすると、ヴィンセントはなぜかステラの唇をその唇で塞ぐ。
(え)
唇に触れたものの正体に気づいたステラは悲鳴を上げようとしたが、直後、穏やかな笑顔の中に、吹きすさぶ冬の嵐のような瞳を見つけた。刺すように睨まれて声が凍った。
(……怒っている……!)
しかも今までに見た事がないくらいに。
彼は唇を浮かすと、笑顔と同じくらい柔らかい口調でステラを諭す。
「愛の告白をするってことは、突き詰めればそういう事だろう? でも、相手を間違えちゃだめだ。あぁ、二人とも邪魔して悪かったね。誤解もあると思うけど、また後日に説明と詫びをさせてくれないか」
「誤解だと?」
一瞬王太子とヴィンセントの視線が鋭くぶつかり合うのがわかった。
「さすがに信用できないか」
ヴィンセントはわずかに苦しげに眉を曇らせると、睨みつける王太子から目を逸らして言った。
「だけど、今日のところは引き取らせてもらっていいかな。二人とも疲れているみたいだし」
そこで、ヴィンセントはステラに柔らかい笑みを向けた。
「それに――彼女には淑女とはどういうものかってしっかり躾をしておきたいから」
笑顔と声の穏やかさと話の内容の不穏さとの差異が恐ろし過ぎて、ステラは顔を引きつらせる。
ヴィンセントの異様な様子に気付いたのか、気味悪そうに顔を歪める王太子と、ただ呆然とするディアナに向けて清爽な笑みを残すと、ヴィンセントは固まったステラを抱えて庭から立ち去った。