三
ステラは蒼白な顔で辺りを見回していた。マカボニー製だろうか。オイルで磨きぬかれた猫足の上質な肘掛け椅子に座っているというのに、尋問されているようにしか思えない。――いや、ステラのやった行動を考えると間違いなく尋問なのだろうけれど。
カーテンは既に閉じられている。屋敷に連れ込まれた頃には既に日が暮れかけていたし、空腹具合から言っても、もう夕食の時間だろう。
目の前には金髪の青年が同じく上質な肘掛け椅子に腰掛けている。深い青色の瞳が印象的な、端正で上品な顔立ちに、流れるような所作は貴族にしか見えない。だというのに晩餐会の予定もないのだろうか。細身のしなやかな体を包むのは昼用のフロックコート。夜会服に着替えることもなく、くつろいだ様子だった。
ステラは王太子の住まうという王宮の塔を目指して歩いているところを捕らえられ、強引に馬車に詰め込まれた。そして次に外の景色を拝んだ時には、どこかの邸の玄関だったというわけだ。
無謀だとは思ったけれど、王家にも非がある。厳重注意くらいで済むかと思っていた。甘かったと思う。
だが、出された手当は、わずか十ルピア。きっと旅費で消えてしまい、なんの足しにもならないし、大見得切って出てきた手前、家族に顔向けできない。なにより、戻ったときには両親は嬉々としてトマスとの縁談を進めてしまうのが目に見えているのだ。どうにかして王都にとどまらねばステラの未来に光はない。
ステラにはああするしかなかったのだ。だというのに。
(それをどうして邪魔するの!)
男を睨みながらステラは尋ねた。
「うちのメイドは?」
男が誰でここがどこかも気になったが、まずは姿が見えず心配だったマリーのことを尋ねた。巻き込むつもりはなかったのだけれど、ステラを置いてさっさと逃げればいいものを、律儀にその場に残ってしまったものだから、一緒に連行されてしまったのだ。
「貧血を起こして倒れた時に腰を打ってしまってね。大事はないけれど、ちょっと療養が必要かもしれないな。今は別室で休んでもらっている。治ったら領地に送ってあげるから安心していいよ」
男はにこやかに笑い、ステラはひとまず胸をなでおろした。だが、
「主人が型破りだと使用人も大変だな。もうちょっと使用人のことを考えてあげないとだめだよ」
男の軽口に、むっとしてステラは反論する。
「いつもこんな風というわけではないわ」
「そうなの? 田舎の流儀かと思っていたよ」
「田舎娘だと馬鹿にしているの?」
「いいや、君の行動は常軌を逸していたけれど、それにしてはあまりに堂々としていたからね。この頃は男爵令嬢もいろいろだなと思っただけだ」
男爵令嬢と強調され、身の上を知られていることに怯んだステラは、むっつりと言った。
「常軌を逸してなんかいないわ。だって国母よ? どれだけの富が転がり込むと思うの」
そう言うと男はおやおやと意外そうに眉を上げた。
「国母だって? 侍女の募集という話から、どこがどうしてそうなるんだ?」
「ごまかしても無駄よ。侍女集めは、公妾を集める口実でしょう? 王太子殿下は離婚するか、公妾の非嫡出子を世継ぎにするかの選択を迫られているわ。だから見初められて王子を産めば、勝利をつかめるの。――あなたも貴族でしょ。わからないなんて言わせないわよ」
説明しながら睨むと、男は肩を竦める。
「でも、そうだとしても、ジェラルド殿下はディアナ妃殿下にぞっこんだ。君に手を出したりしないと思うよ」
ステラは鼻で笑った。
「ぞっこんとかそういうのは関係ないの。このまま跡継ぎの男児がなくては、王位はいずれ従兄で、推定相続人のストックポート公爵に渡ってしまうもの。そんなの王妃陛下を始め、王太子側の人間からしたら面白くないに決まっている。周りがうるさかったら考えを改めざるをえないでしょう?」
「へえ。いろいろ考えての行動だったのか」
男が楽しげなのがステラの癇に障る。
「だけどさ。君は思い違いをしているみたいだ」
「なにを?」
「侍女の募集が打ち切られたわけを聞かなかったみたいだね」
不穏な言葉に、男の笑顔が急に不気味に見える。
「定員超えとかそういうことではなくて?」
遅れてきた手前、てっきりそういう理由だと思っていたステラははっとした。到着時の他の令嬢たちの帰郷を思い出し、いくつかの可能性が頭の中を駆け巡る。
「王都に来たばかりみたいだから、知らなくても当然だけれどね……ディアナ妃殿下が身ごもられた」
ステラは一瞬なにを言われているかわからなかった。じわじわと理解すると同時に、目を見開いた。
「…………みごも、られた? 五年も兆しがなかったのに? よりによってこの時に?」
「神が哀れに思われたのかな」
聖職者のような清廉な顔をして男は言った。
「だから君は諦めて領地に戻るといい。あの二人の間に割って入るなんて馬鹿な真似は――」
「冗談じゃないわ」
ステラが低くつぶやいて遮ると、男は「は?」と眉を寄せた。
「どうして諦めなければならないの?」
「どうしてって君――」
「まだチャンスは残っているのに?」
「どこにチャンスが有る? 二人の絆の強さなど、吟遊詩にもなるくらいだ。この国の民ならばよく知っているはずだろう。愛しあう二人に割って入るような野暮はするもんじゃない」
どこか苦しげに男は言うが、ステラは頷かなかった。
「まだ王子は生まれていないもの。勝負をする前に逃げ出すなんて――そんな腰抜けはあの負け犬の公爵だけで十分だわ」
「……負け犬?」
男が目を見開き、傍で控えていたやたら体格の良い近従が、物言いたげに一歩足を踏み出した。だが、男は手を差し出して近従の動きを封じる。一瞬怯んだステラだが、男がやけに鋭い目で続きを促すようにこちらを見るので、言葉を続けた。
「権力で劣るからって女を諦めたあの公爵のことよ。簡単に身を引くなんて、その程度の気持ちだったってことでしょ。本当に好きだったら、戦って王太子の地位を手に入れるくらいの気概を持てばいいのよ」
と、
「――殿下はディアナ妃殿下のお心を思いやられて」
なぜか侍従が負け犬公爵の事をかばい、男が「やめろ」とそれを遮った。
侍従の態度がまるで公爵の身内みたいだと思ったステラは、次の瞬間、脳裏にひらめいたある考えに青ざめた。
思わずもう一度男を観察する。金色の髪に、青い瞳。その特徴でふと思い当たることがあった。それはデビューの時に拝謁した国王と同じもの。王太子は例外的に母親に似て受け継がなかったらしいが、金髪碧眼は王族に特徴的な色だとどこかで聞いた気がした。そして、現在アルドリアに若い王族男児は数えるほどしかいない。十代後半の王子はいないことから、目の前の男は、そうは見えないが二十代ということだろう。
(つまり――この人って)
「プレンストン男爵令嬢、ミス・ステラ・ハントリー。令嬢にしてはけっこう察しがいいんだね。ちょっと反応は遅かったみたいだけれど」
男が微笑む。だが笑っているのは口元だけで、青い目は見るものを凍らせそうな冷たさを湛えていた。
「僕はストックポート公爵、ヴィンセントだ。一応王子の称号も持っているかな」
本人を前に暴言を吐いてしまったステラは逃げ出したくなるが、身元までしっかり割れていては、逃げ場などないと思っていい。どう考えてもただでは済まない。ならばとステラは大きく息を吸うと、胸を張った。
「そう。公爵ご本人だったの。――でも、謝りませんわ」
身分を明かせば泣いて謝るとでも思っていたのだろう。ヴィンセントは目を見張った。
「だって腰抜けも負け犬も本当のことでしょう? 自覚もあるはずだわ」
ふんと笑って虚勢を張ると、ヴィンセントはたまらないといった様子で笑い始める。今度は口元だけの笑みでなく、心からの笑みに見える。だがそれが不気味でもあった。
(罵られて笑うなんて、どういう趣味よ)
逆にステラが虚を突かれる番だった。
「本人を前に悪口を言えるんだね。皆腫れ物を扱うような態度だから、そういうのは新鮮だな」
怒っていないのか。内心ほっとしたステラだが、一瞬の後、それが勘違いだと知る。
「だけど――無礼をあっさり赦すほど僕は優しくはないんだ」
またもや目だけ笑わない笑顔でヴィンセントは言ったのだ。
「ど、どうする気」
気が緩んだところの奇襲攻撃に、ステラは勢いをそがれたまま問い返す。虚勢が剥がれて焦るステラをヴィンセントは面白そうに見る。
「今すぐ領地に帰るのならば見逃すよ?」
それはできない相談だわ――と思わずステラの眉が寄るのを見逃さずに、ヴィンセントはすかさず言った。
「だけど、君はそういうタイプの女性じゃないみたいだ。――だから取引しないか?」
*
ヴィンセントが提示したのは、ステラが王都に残れるように職を紹介しようという、いわゆる美味しい話だった。
だがヴィンセントはステラを口説き落とすのにそれから一刻を要した。男爵令嬢は初見通りにやはり貴族令嬢らしくなく、疑り深く、「あなたなに企んでるの?」となかなか頷かなかったのだ。
聖堂の鐘が、リン、ゴンと夕食の時間を知らせた。
今日は誘いもないし――というより、ここ数年は大抵の誘いは断っているのだが――夜が更けたらクラブに出かけようと思っていたけれど、無理かもしれない。いつまでもこうしている訳にはいかないし、ヴィンセントは仕方なく少しだけ本音を混ぜた嘘を口にすることにした。
「僕にはまだ伴侶が居ないんだけれど」
「え、あなた何歳だった? ――いえ、失礼ですが、殿下はお幾つでいらっしゃったでしょうか」
ステラは怪訝そうに遮る。情報通に見えるのに公爵の歳も知らないというのは、本当に王太子以外には興味が無いことの現れだろう。前半の礼を欠いた直接的な質問に苦笑いしつつも答える。
「二十五歳」
大抵の人間はこう聞くと驚く。ヴィンセントの外見は年齢よりも若く見えるらしいのだ。夜会で出会うご婦人方の言葉を借りると、瑞々しい少年のようで、ジェラルドと並ぶと――実際はヴィンセントの方が三つも年上だというのに――弟に見えるとのこと。
悪い意味ではないと皆言う。悪意を感じたこともないし、若々しい容姿は人々の油断を誘う。ヴィンセントは自分の武器の一つだとさえ思っている。
「え、私より七つも上……でしたっけ?」
例に違わずステラも目を泳がせる。同じ年代だと思っていたのがありありとわかって、笑いが漏れそうになった。深刻な顔をせねばならないというのに、彼女の表情があまりにもわかりやすくて、どうも調子が狂う。
「うん。さすがに歳を取るごとに周りがうるさくなってきてね。母など顔を見るたびに跡継ぎをって騒ぎ立てるし、勝手に縁談を進めようとするものだから、うんざりしているんだ」
「まさか……五年経つのに、まだ失恋を引きずっているの? ――いえ、いらっしゃるのですか?」
淡い空色のまっすぐな瞳で、心を覗きこむように見つめられ、ヴィンセントは目を瞬かせた。
「……取ってつけたようなのはもういいよ。丁寧なのは君には似合わないようだ」
これは敬意がないことを暗に示しているのではないか。苦笑いしつつもヴィンセントは内心、爽快ささえ感じていた。鋭く遠慮のない言葉は、ヴィンセントの機嫌を窺う鈍い刃のような言葉よりも痛みが少ない。
この娘相手には上辺だけの会話は無用だ。ごまかしは効かないととっさに判断する。
「……ああ。ディアナ以上の女性が見つからなくてね。独身を貫きたいけれど、身分を考えると無茶な願いだともわかっている。だけどそれらしき女性が傍にいると思わせておけば、とりあえず周りは静かになる」
「つまり、偽の恋人になれって言うの? だけど、恋人は困るわ。私の望みは知っているのでしょう? 変な噂がたったら結婚できなくなるもの」
やはり話が早い。一説明すれば五は理解する回転の早さに、ヴィンセントは思わず唇の端が上がりそうになる。
この国では賢い女は疎まれる。きっと今まで親に散々叱られてきたに決まっているのに、それでも己の道を曲げずに突き進んできたのだろう。その様子が目に浮かんでしょうがない。
「君が嫁き遅れたら、僕が本当に結婚しても別に構わないけれど」
からかおうとしたら、真に受けたステラは憤って眉を釣り上げた。
「仮面夫婦なんてまっぴらよ」
「公爵夫人は駄目で、公妾はいいのか?」
父を早くに失ったヴィンセントは、若くして公爵位の他に男爵位などの多数の爵位を継いでいる。伴う資産は膨大だ。それをわかっているだろうに全く食指が動かないのだろうか。
(野心が有るのかないのか、よくわからない子だな)
吹き出しそうになりながら問うと、
「全くその気がないくせによく言うわ。悪いけれど、負け犬は好みじゃないの」
とばっさり断られる。ヴィンセントの様子を窺うオスニエルが、苦笑いをしているのを見て、ヴィンセントは酷く愉快になった。心の中で「合格」と丸をつけると、笑いを堪えるのをやめて言った。
「残念だ。――じゃあ、そうだな。ひとまず、君が王都に残れるよう、王宮の侍女に推薦してあげるよ。それなら文句はないだろう? それで、僕の母親の前だけで、恋人のふりをしてくれれば十分だ」
「だけど……万が一、あなたの恋人だと社交界で噂になったら困るのだけれど、安全の保証はできる?」
ステラは念を押した。アルドリアのように未婚の男女の関係にうるさい国で、年頃の娘としては当然の不安だろう。ヴィンセントは微笑んで彼女の心配を和らげる。
「そうだな。君の素性を偽っておくよ。母はとても単純な人だからきっと気づかない。だから、もし触れ回っても別の人物のこととして広まるから、君自身に傷がつくことはない」
そこでステラはようやく頑なさを解く。眉間の皺を伸ばして、
「わかったわ。それなら安心だわ。――じゃあ、遠慮なく」
にやりと令嬢にふさわしくない顔でステラは笑った。
なんとか『本当の理由』を隠し通せたヴィンセントは胸を撫で下ろし、「詳細はまた明日詰めていこう」と話を打ち切る。オスニエルに部屋の案内のための執事を呼ぶように頼んだそのときだった。
「それより」
ステラが突如不可解そうな顔をして尋ねた。
「あなた、本当にこのままでいいの? 自分の想いから逃げてていいの?」
今度こそヴィンセントはステラが別の生き物にも思えた。眉を寄せると意図を尋ねる。
「どういう意味?」
ステラは空色の目に真剣な光を灯した。
「だって……あなた、彼女がまだ好きなんでしょう? 諦めきれないんでしょう? だけどその想い自体から逃げているじゃない。だから五年も経つのに未だに吹っ切れていないの。……ねえ、逃げ続けて手に入るものなんて何もないのよ? 欲しいものを欲しいって言う事さえ怖がるなんて、馬鹿みたい。そうやって自分から日陰に逃れて、欲しいものを前に指をくわえて生きてて、本当に満足なわけ?」
なんなんだ、この女。
生まれて初めて聞くような言葉の数々で、ヴィンセントは価値観を揺さぶられて面食らう。だが、言葉に含まれる無数の無遠慮な棘は、瞬く間にヴィンセントの心を傷だらけにした。じわじわと、熱くどす黒いものが胸を満たしていくのがわかった。それが怒りだとわかるまでに間があったのは、ヴィンセントが怒りという感情をしばらく忘れていたからだった。
「君さ、おせっかいだって言われない?」
微笑みを絶やさぬままだったのは多分年上の男としての意地だった。ヴィンセントはステラを見つめる。
「だいたい、自分は誰かに恋をして、想いを伝えたことはあるのかな? 人にとやかく言うくらいだから、自分も言えるんだろう?」
「もちろんよ。時が来れば、ちゃんと言うわ。あなたと一緒にしないで」
ステラは好戦的な光を湛えた目でヴィンセントを見つめた。
「ふぅん? 本当かな」
睨み合う二人の間に、緊迫した空気が漂った。
主人の不機嫌を敏感に嗅ぎとったオスニエルが、気を利かせる。「執事が来ませんね。私がお部屋に案内いたします」とステラを客室に案内する。
残されたヴィンセントは、苛立ちを抑えるためにまず茶を口に含む。芳醇な香りが怒りを徐々に溶かしていく。一つ大きく息を吐くと、ようやく余裕が取り戻せた。
(子犬に吠えられたくらいで、一体、どうしたんだよ?)
落ち着きを取り戻せば、馬鹿馬鹿しくて苦笑いが出た。ヴィンセントは今後のことに考えを巡らせはじめた。
(あの子、一応男爵令嬢だし、王宮に潜り込ませることは可能だろうけれど……問題は誰のところにするかだな。年齢や身分を考えるとディアナの元が一番だけれど、それだと本末転倒だし)
クリスタルのチェスボードには同じくクリスタルの駒が美しく並べられている。
「キング、クイーン、ルーク、ビショップ、ナイト、ポーン。さて。キングはジェラルドにしておこうか。クイーンは……」
駒を人に見立て配置する。ステラを送り込む先を考えながらヴィンセントはつぶやいた。
相手側のポーンを一歩前に進めると笑いがこみ上げる。態度は勇ましいけれども、彼女には動かせる駒が自分以外にない。だというのに、どうやって戦うつもりなのだろう。これが他の令嬢であれば呆れるだけだけれども、ステラならば、なにか驚くような奇策をやってくれるのではという妙な期待が湧いてしまう。
かたりと扉が音をたてるのを耳にしたヴィンセントは戻ってきた近従に向かって零した。
「貴族の令嬢としてはありえないほど賢しいよね。大体、ドレスとできるだけ良い『結婚』のことしか頭にない子が多いのに……狙うのが王太子の離婚、もしくは公妾で、未来の国母っていうのがまた異色だよ。久々に退屈さから解放された」
あれだけの暴言を浴びせられた後でも、苦笑いにわずかな好意が交じるのは、彼女が刺激的だったからだろう。国内で好まれる女性像とは正反対ではあるが、ヴィンセント個人の好みを言えば、頭の回る子は嫌いではない。むしろ好きだ。話していて愉しいからだ。
ディアナもステラとは違う性格ではあるが、やはり他の令嬢たちよりも広く世の中を見渡していて、理知的な会話を楽しむことができた。――思い出すと胸が痛むが。
ヴィンセントは自駒のナイトを弄びながら小さく息をついた。
先ほど吐いた嘘――ディアナが忘れられないことも、母の干渉が鬱陶しいことも、ほとんど本当のことだった。ただ、ステラに構う一番の理由は、彼女の行動を見張るため。ステラはあのように賢いし、行動力もある。自力で王宮に潜り込んで、本気で王太子夫妻に割って入りそうだった。ジェラルドとディアナ、二人の幸せに、ヴィンセントは少しの罅も入れたくなかった。そのためには自分が哀れな道化になっても構わない。それがヴィンセントの愛し方だ。誰にも邪魔はされたくない。
「確かに殿下が手を焼かれるのは珍しいですね」
くすくすという笑い声が返ってくる。
ずっと我慢していたのか、彼は笑いっぱなしである。
「目の前に王子がいるのにだよ? 僕を落とせば公妾なんて比べ物にならないくらいの財を手に入れられるというのにね。相当僕が好みじゃなかったんだな」
「だからこそ、殿下にはご都合がよろしいのでしょう。母上様にご紹介されるにも、ステラ様ならば安心だと」
心の中で出した『合格』という言葉が聞こえていたような反応だ。
「さすがにおまえには全部お見通しだな」
ヴィンセントは小さく自嘲して、ナイトを相手のポーンと自分のクイーンの間に置いた。
「彼女は僕が好みじゃないらしいし、……僕はこれから先誰かを愛すことはないだろうからね。お互いに、都合がいいことこの上ない。彼女はこの上ないいい駒だよ」
心からの本音を漏らすと、いつの間にか笑いを収めていたオスニエルは悲しげに目を伏せた。
*
案内された客間の暖炉には、火の着けられたばかりの石炭が赤々と燃えていた。暖炉はしっかりと磨かれていて、埃ひとつ付いていない。
廊下にも暖炉があったが、全てに火が入れられていた。それだけで、どれほどの規模のお金持ちなのかがわかってしまう。ステラの住むカントリーハウスには暖炉はあれども、手入れをする人間が足りないせいと石炭が高いせいで、火を入れているのは居間の暖炉だけだったのだ。
「お茶はいかがですか」
美しい客間メイドの勧めに従い、ソファに恐る恐る腰掛けると、弾力があり、座り心地は最高だった。
上質な茶器は薄さと強さを併せ持った凛とした美しさを思わせる。中に注がれるのは琥珀色の紅茶だ。甘い香りが鼻を抜け、ステラは思わずうっとりとため息を吐いた。テーブルにはキュウリのサンドイッチが置いてあり、空腹のステラは思わず手にとる。メイドはにこやかに微笑み、他にいくつかの菓子を並べると、丁寧なお辞儀をして出て行った。
オイルランプは一点の曇りもないほどに見事に磨かれている。一切の淀みはこの屋敷には無縁のようだった。
夜とは思えないほどの明るい部屋は、ステラの屋敷からすると別世界だ。
トランクの中から小さなチェスボードを取り出すと、ステラは小さく息を吐く。
幼い頃からチェスが好きだったステラは、こうして長旅には必ず一式持っていく。残念ながら、どんな社交場でも相手をしてくれるような殿方には巡りあえていないが。
「元婚約者、か」
木でできた駒を並べながら、自分の持ち駒を頭のなかで並べて動かしてみる。
キングは王太子ジェラルド。クイーンは王太子妃ディアナ、ビショップにはアルドリア国教大主教なんてどうだろう。それから、さきほどの推定相続人ストックポート公、ヴィンセントは。ナイトと思い浮かべたが、違和感に首を振る。そして次にルークと考えた時、すとんと腑に落ちたことがあった。
「城壁?」
負け犬公爵が? ――くすりと笑うと、ステラに助け舟を出すふりをして、立派に妨害を仕掛けてきたヴィンセントの笑顔が思い浮かんだ。
ヴィンセントがステラを王都に引き止める理由など、そう多くはない。恋人のふり? だれでもいいだろうに、それをわざわざなぜステラに頼む? 考えればすぐにわかった。彼は職という餌を出して、ステラを手元において見張るつもりなのだ。それも、自分を裏切った娘を守るためだけに。
五年も経つというのに、王太子妃を忘れられない寝取られ男。それほどまで想っているのに、討ち入って奪うわけでもなく、ただ、現状に佇みつづける男。悲恋に酔い、生暖かい同情の沼から抜け出すのを恐れ、どの方向にも足を進めることができなくなっている姿は哀れで、それ以上に情けなくて……とても理解できないと思った。歩兵であるステラでも、前進だけはできるというのに、縦横無尽に動ける力を持っていてもその場に留まり続けるというのは理解不能だ。
(そりゃあ、恋人を奪われるのもしょうがないわよ。私がディアナで、彼が王太子であったとしても、ジェラルド殿下を選ぶ)
王太子の人となりは、デビューで対面したときの印象しかない。一瞬の会話だから、一日に何百人と謁見する彼がステラを覚えていることはないはず。だが、ステラの目には彼の鮮烈な容貌は焼き付いていた。燃え盛る炎のような男だと思った。静かな湖面のようなヴィンセントとは真逆だ。だが、どのような男であれ、婚約しているにも関わらず情熱的に奪いにやってくる男に揺れない女がいるものか。
欲しいものは欲しがらねば手に入らない。待ちの姿勢で手に入るものなど何もないとステラは思う。そんなステラだからこそ、力づくで欲しいものを掴んだ王太子に憧れるのだ。
だけど、あの負け犬殿下も、上手く焚き付けてやれば持ち駒に変わるかもしれない。
クイーンを倒し、キングを手に入れるための駒に。
(だって、くすぶり続けているものは、再燃しやすいと思うの。それに、もし彼が動かなくても『元婚約者様』には使い道はたくさんあるわ)
だから彼の出した条件を呑んでみることにした。美味しい餌に騙されたふりをして、いずれ時が来ればこちらの駒にしてやるのだ。
ステラはふふ、と笑みをこぼすと、柔らかいベッドに横になる。沈み込む身体をしっかりと包み込む寝具は、やはり上質だった。
一旦は絶望の縁から落ちたステラだったが、谷底には柔らかい落ち葉が積もっていて、ステラを助けてくれた。まだ動けるのならば、もう一度上へ向かってのぼり始めよう。
「諦めないわ。私は、いつか、この生活を手に入れてみせる」
ステラはその晩、今までにない上質な眠りに落ちたのだった。