八
ヴィンセントはステラを連れて屋敷の庭へと出て行く。太陽は高度を上げ、庭のトピアリーは今の騒ぎの間に仕上がっていて、輝くばかりの庭園にステラは見惚れかけた。
だが、クマの形をしたトピアリーの影からのそりと現れる人影に、ステラは目を見開いた。
先ほどのされたトマスがふらふらとこちらに歩いてくるではないか。
「どうやら、罪は無くなったみたいだな? なら、帰ろう」
「一人で帰ったんじゃなかったの。っていうか、ここまで追ってきたわけ!?」
「あれくらいで、諦めるわけが無いだろう」
「ほんっとナメクジみたいな男ね! しつこいわ!」
ステラはうんざりとしつつも途方に暮れる。ステラにはまだ大量の借金があり、返す当ても無い。
一瞬ディアナや王太子を頼る手も考えたけれど、貸してもらったとしても、返すのはきっと不可能だ。好きな人たちにはそんな風に迷惑はかけられない。それはステラの矜持だった。
「でも、……わかったわ。借りたものは返さないといけないものね」
ステラがそう言ってヴィンセントに今までの礼を言おうと振り返ると、彼は今までに見た事が無いくらいにがっかりとした顔をしていた。
「あのさ。だから、どうしてそこで僕を頼らない?」
「え?」
「君の家がどれだけの借金を抱えているか知らないけれど、僕は、公爵なんだよ? 言えば力を貸す事くらい、わかるよね?」
「でもあなたにこれ以上迷惑かけられないし。返す当てもないし」
「僕が何のために王子である事に固執したと思っているんだ?」
急に問われて、ステラは視線を彷徨わせた。確かに、一時破滅まで考えていた彼だ。地位への執着は不自然だ。
「ディアナを手に入れるためには地位と財産が必要だと思ったから?」
そう自分で言っておいて、ディアナ相手には権力も財産も武器にはならないと思い、すぐに言い直した。
「――なわけないわよね? じゃあ、どうして」
首をひねるステラに、ヴィンセントは疲れた顔を見せた。
「君を手に入れるためには、必要だと思ったからだよ」
「え?」
意味がわからずぽかんとするステラに、ヴィンセントは大きなため息を吐いた。
「君、さっき僕が母に言っていた言葉を聞かなかったの?」
「え? あれお芝居でしょ、偽の恋人のふりをしていただけで」
「母は君の身分が偽りだと気づいていただろう? なのに演技を続ける必要がどこにあるんだい?」
それもそうかも、とステラは思った。
直後、ヴィンセントの言葉の意味が急に理解できて、ステラは目を見開いた。
「え、つまり――」
間髪入れずにヴィンセントは言った。
「僕は、君が好きだよ」
「ど、どこが!?」
「なんで!?」
ステラとトマスの声が被り、ステラは思わず「うるさいわ」と部外者トマスを睨みつける。
「彼女の魅力がわからない男が、どうして結婚を申し込もうなんて思っている?」
ヴィンセントもちらりとトマスに視線をやる。トマスは先ほどのされた事を思い出したのか、後ずさった。
「彼女の両親がこしらえた借金は僕が払う」
「え、でも悪いし」
「妻の拵えた借金なら、夫が責任を持って返す。そんなにおかしなことじゃないと思うけれど?」
「つ、つま?」
不満そうだね? とヴィンセントはため息を吐く。
「君はこのナメクジ男とそんなに結婚がしたいわけ? 僕よりも、彼がいいって言うのか?」
「ナメクジだと!?」
トマスが不満の声を上げるが、ヴィンセントはそちらに目を向けることもなくステラを真剣に見つめた。
「ステラ、僕は王にはなれないし、確かにジェラルドには及ばないかもしれない。だけど、きっと君を幸せにしてみせるよ」
「あ、あの――、私、なんていうか」
かああああと顔から音がしたかと思った。ステラは自分の頬が瞬く間に赤くなるのを感じて焦った。
「夢、じゃないわよね?」
「確かめてみようか?」
指が頬に触れたとたん、つねられると、痛みを覚悟したステラは、急に近づいた顔と、頬に重ねられた柔らかい感触にぎょっとする。
「夢じゃないよ」
予想を裏切られた上に、至近距離で甘く見つめられて、
「な、な…………!」
卒倒しそうになったステラは思わず膝を折る。だが、彼に抱きとめられて「返事は? 僕と結婚してくれる?」と強引に問われた。
はい――と答えそうになったステラだったが、その前にトマスが恨めしそうな顔で割り込んだ。
「ストックポート公。こんな女のどこがいいんです。完全に金目当てですよ? 男爵位以外にいいところがなにもない。私にはその爵位が必要で、あなたには必要ない。ならば譲ってくれてもいいはずだ!」
返事を遮られたのに腹をたてたのか、ヴィンセントは氷のような眼差しをトマスに突き刺した。
「金目当てで何が悪い? 彼女が選んでくれるのなら、僕はどんな理由でもいいし、そのために王子位や爵位に執着したんだ」
そう言ってヴィンセントはステラに同意を求めるように微笑んだ。いっそ嬉しそうな表情にステラは戦慄する。
よくよく考える。今彼は何と言った。ステラのために身分や金に執着したみたいなことを言わなかったか。
「ちょ、ちょっと待って……私、あなたにどういう風に見えているわけ?」
恐る恐る尋ねるステラに、ヴィンセントはニコニコと頷く。
「負けず嫌いで、野心家で、欲張りで。金と権力が大好きだと思っているよ。だからこそ、君を手に入れるためには僕は王子でなければいけないし、金だってもっと稼がなければいけない。君のためなら何でも手に入れられるように」
「あの……それって、普通、全力で避けるべき女じゃない?」
一体どういう悪女だ。それは巷で魔性の女とか、傾国の女とか言われるような女性ではないだろうか。
「さあ? 僕は多分普通じゃないんだろう。まぁ、確かに『あなたさえいてくれたらいい』とか可愛らしいことを言ってもらえたら最高だと思うけれど、君が言うとあまりに似合わないしね」
(じょ、冗談じゃないわ!)
これはいけない。このまま了承の返事をしたらステラは極悪女のレッテルを貼られたまま。金と身分に釣られて結婚をしたと思われてしまう!
「私、あなたが王子じゃなくたって、お金持ちじゃなくたって頷いたわよ」
地を這うような声が口から漏れると、ヴィンセントの顔がびくりと強張った。
「でも、君は、さっき僕のことを相棒で恩人だって――」
信じられないとでも言いそうな顔。
自分にも彼にも本気で腹が立ってきたステラは足を開いてどっしりと構える。腰に左手を当てて、右手をゆっくり持ち上げる。
そして、びしりとヴィンセントに人差し指を突きつけた。
「一度しか言わないわよ。よぉく聞いておいて。――私は、あなたが好き。王子だからでもお金持ちだからでもないわよ? 臆病者で、負け犬で――でも誰よりも人の気持ちを思いやれる、優しいあなただから好きなのよ!」
叫んだ瞬間、ステラはヴィンセントの腕の中に痛いほどに抱きしめられていた。
「好きだ。好きだ、すきだ――」
ヴィンセントの言葉一つ一つがステラの乾いた心へ染みこんでいく。何度も繰り返されて、ようやくステラは彼の言葉が彼の本心だと信じてもいいような気になってきた。
(本当に私を? ディアナじゃなくて、私を?)
こみあげるものにぼろぼろと涙がこぼれていく。隠したいのに両腕が自由にならず、ステラは俯いて隠そうとする。だが、ヴィンセントが彼女が俯くのを許さない。頬の涙をキスですくい、そのまま唇を塞いだ。
柔らかく温かい感触に、ステラの頑なな心はゆるゆると溶けていく。
角度を変えては深まるくちづけの合間、息を継ぐ隙にステラはこぼす。
「私の方が、たくさん、たくさん好きなんだから」
「そんなところまで負けず嫌いなのか? でも、そこは譲らないから」
「譲りなさいよ。負け犬、のくせに」
「もう負けないよ。――僕の方が、好きだ」
いくつものキスの間、唇の上で囁かれる。
離れた場所で「あああああああ、私の爵位がああああ」というトマスの呻き声、そして「じゃまするな」と諭す声、聞き慣れたくすくすという笑い声などが聞こえたけれど、ステラはヴィンセントの腕から逃れようとはしなかった。
あまりにも幸せで――できなかったのだ。
《完》
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