三
その頃、郊外のサウザン・パレスでは、大きな体に押しつぶされた肘掛け椅子が悲鳴を上げかけていた。
「アトリー男爵令嬢、ステラ・メレディス。そんな女性は存在しない――今、そう言ったの?」
公爵邸執事、ブライアンの持ってきた報告にドリスは目を細めた。
息子のヴィンセントが順調に交際を続けている。それだけでも奇跡的なこと。
五年前の婚約破棄で心に傷を負った可愛い息子は、いくら良い縁談を持ってきても歯牙にもかけなかったから。多少家柄が劣ろうと、跡継ぎには替えられない。大目に見ようと結婚を進めるつもりで調査をさせたが――どこの誰ともわからない娘となると、話は別である。
「いえ、メレディス家に娘は存在はするのですけれど、あのようにお元気なはずはないのです。病気がちで、デビューもしていないそうですし」
「じゃあ、あの娘は一体誰だというの」
「それが、こんなものを手に入れまして」
銀盆の上に置かれた分厚い手紙をドリスが手に取ると、ブライアンは補足した。
「ご命令通りに、ストックポート邸のメイドを買収しまして。最近娘宛に届いた手紙でございます」
「『親愛なるミス・ステラ・ハントリーへ』。ハントリー? メレディスではなくて?」
呟きながらドリスが見やると、ブライアンは心得たとばかりに言った。
「貴族名鑑によりますと、北部プレンストン男爵令嬢のようでございます」
「どうして身の上を偽っているの?」
有能な執事はそれも調べてきたようだ。調書を読み上げる。
「憶測ですが、その手紙の差出人、トマス・アボットという男から逃げるためかと。ミスター・アボットは貿易で財を築いた中流階級の男です。プレンストン男爵家は彼の家に領地を狙われているようです」
ああ、とドリスは顔をしかめた。それは最近良く聞く話で、中流階級から上流階級へとのし上がろうとする者が手段を選ばなくなってきたという。騙されて財産を失い、泣く泣く所領を手放したという話は社交界の中で、格好のネタとなっている。情報を共有しつつ、そうはなるまいと皆心を引き締めているのだ。
「成り上がりものが増えて、社交界に卑しい者があふれだす。本当に嫌な時代になったものね」
うんざりとしながらも、ドリスは身を乗り出した。じゃらり、と耳に垂らした耳飾りが音をたてる。
「男爵令嬢には目をつぶる事はできるけれど、借金は駄目。その娘は、邪魔でしか無いわ。なんとしても引き離しなさい。あの子のためにならないわ」
ドリスはぎりりと歯ぎしりをする。
(それに、私は、これ以上あの女に負ける訳にはいかないの)
昔からライバルだった女――アリスティアは、当時の王太子に見初められ、今は王妃になり、この世の栄華を全て手中に収めたかに見えた。
王太子と最初に縁談が持ち上がったのはドリスだったのに、アリスティアに奪われた。
ドリスが先に男児を産んで、王夫妻にはなかなか子が生まれなかった。もしかしたらと望みを持ったとたん、アリスティアは王子を産んだ。
今回もそうだ。ディアナという裕福な家の娘を手に入れて、資産を増やそうとしていたら、横から王太子にかっさらわれた。
そして王太子夫妻に王子ができず、今度こそ我が子が王位に――と思ったとたん、やはりドリスの野望は打ち砕かれた。
あと一歩で欲しいものに手が届かない。ドリスは悔しくてたまらない。だけど、嫉妬を表に出すのは更に悔しいのだ。だから、ドリスはせめて王妃よりも良い暮らしをして、差を付けねばならない。
そのためには、ヴィンセントが結婚する相手は、この家をさらに富ませるような相手でなければならない。身分は多少低かろうと、しっかりとした持参金があることは前提も前提である。それがないどころか、借金があるなど、言語道断。爵位はなくとも、大陸出身の富豪の娘の方が幾分ましかもしれない。
「ですが、どうやらヴィンセント様は本気のようですよ。今から彼女を王太子妃付きにしていらっしゃるのも、王太子殿下をお支えになる将来を見据えてのことで――」
聞いたとたん、ドリスはカッと頭に血が上るのがわかった。
「将来ですって? 王太子に擦り寄って、ヴィンセントがどうするつもりだというの?」
「……」
失言だとわかったのかブライアンは青くなる。ドリスを怒らせてクビになった執事は大量にいるのだ。
「あなた、職を失いたくなければ、よく覚えておきなさい。――ヴィンセントはいずれ王になるのよ」
ブライアンは戸惑いを隠さない。ドリスが乱心したとでも思ったのか、辺りを見回して諫めるように言った。
「ですが。プリンセス・ディアナは御懐妊されていらっしゃいます。となりますと、継承位は、王太子殿下に続いて、お腹のお子様が第二位で――」
ドリスはピシャリと遮る。
「生まれるのは王子だとは限らないわ。王女だったら、ヴィンセントの方が王位継承順位は高いのよ」
それはそうですけど――と言いかけたブライアンだったが、ドリスが睨むと反論を飲み込んだ。
「それに、」
言いかけてドリスは口をつぐむ。だが、心の中には口にしようとした仄暗い考えは焼き付いてしまっていた。冷たい笑みを顔に張り付かせ、ドリスは手元の手紙をじっと見つめた。
*
アリスティアは尋ねてきた息子ジェラルドを椅子に座らせると問う。
「ディアナの様子は?」
「相変わらず、なんとなく気鬱な様子だ」
ジェラルドが憂鬱そうに答える。
「気のせいじゃないの」
「いや、絶対におかしい。おれが言うんだから間違いない」
どこから湧いてくるのか自信過剰に言う息子に、アリスティアは呆れた。
「また喧嘩でもしたのじゃないの」
彼らの前回の夫婦喧嘩は確か、公妾を集めることに対して、ディアナが「仕方ないわね」と妙に聞き分けが良かったことから勃発したと聞く。
あの娘は、どこまでも王太子としてのジェラルドの未来を最重要に据えていて、自らの気持ちを押し殺すだけでなく、王太子でないただの一人の男の気持ちをないがしろにすることが多々あった。世界は広く見えているけれど、その分近くが見えていないのだ。娘にしておくには惜しいと昔から思っていたし、そこに惚れたのだから、息子も諦めてはいるようだが。
「喧嘩なんかしていない」
「ああ、喧嘩にならないものね。あなたが一方的に怒っているだけだもの」
むうっと顔をしかめるジェラルドは、だが、反抗心をすぐに捨て去ったようだった。ディアナのことが最優先な彼は、小さな諍いに使う時間も勿体無いらしい。
「以前はもっと明るかった。子ができて、心配事が増えたからだろうが……取り除いたつもりでも上手くいっていない」
「取り除いた?」
「おれは、ディアナの不調は、時期的に最近入った――母上の紹介してくださった侍女のせいかと思っていたんだ」
「ああ、公妾狙いの……ええと、ステラ・メレディス――いえ、ハントリーだったかしら。うまく煽って、炙りだしたんじゃなかったの?」
その点で、アリスティアはジェラルドに協力した。ステラからディアナを引き離し、侍女の仕事を奪うという罠を仕掛けたのだ。
「そうだ、炙りだした。公妾にしてほしいと願い出た。だけどそれを聞いてもディアナが手放さなかった。すぐに侍女として呼び戻したくらいだ」
あいつ、おれよりステラのほうが好きなんじゃないか――などと腐り始めたジェラルドに冷たい一瞥を投げると、アリスティアは小さくつぶやいた。
「そう。残念ね。いい機会だから、『あちらの勢力』も炙りだして、一網打尽にしたかったのに」
「残念?」
ジェラルドは聞き逃さず、気味が悪そうにアリスティアを見つめた。
「何をたくらまれておられる? 元々は母上がディアナに充てがった娘だろう? 抜かりないあなたのことだ。素性も目的も最初からご存知だったはず。ご存知で、どうしてディアナの元へやられた?」
「私は、何も知らなかったわよ?」
言い当てられたアリスティアは、微笑むと話を逸らすことにした。
都合が悪いことには口をつぐむに限るのだ。
「ところで、ディアナのお腹の子は王子かしら」
質問に答える気のないアリスティアにジェラルドはむくれた。
「どちらでもいい」
「良くないわよ」
アリスティアは静かに息子の思い違いを正した。
「この国のどれだけの人間が、長子相続に頭を悩ませていると思っているの。私もあなたも、情だけで動く訳にはいかないの。それだけは間違えないでほしいわ」
本音を言うとね、孫は別にディアナの子じゃなくても構わないの。息子が激怒する言葉をかろうじて飲み込むと、アリスティアは聖母の笑みとも讃えられる笑顔を浮かべた。
*
「お茶を淹れるわね」
「あ、だめよ。私がやる」
「たまには任せてちょうだい。うんと美味しく淹れてあげるから」
ディアナは微笑んで椅子を立ち上がり、小さくため息を吐いた。
お腹は日に日に膨らんでくる。それに釣られるようにして、届く《悪意》は増えてくる。
ディアナはちらりとステラに目線をやる。
ステラを自分の侍女として呼び戻して数日が経つ。
真剣にチェス盤を睨んでしまって、茶のことはもう忘れている。侍女としては失格だけれど、友人だと思ってくれているからだろうし、むしろ嬉しいくらいだった。
だが――
それが、最初にディアナのもとに届いたのは、ステラがディアナの侍女として勤めだしてすぐの事だった。
部屋にひっそりと置かれていた封筒には、細長くちぎられた紙が入っていた。リボンのような細い紙には一文だけが浮かんでいた。
『私の幸せを踏みつけて微笑むことができるのですね』
気味が悪くて燃やしてしまったが、同じような手紙が定期的に届いていた。
手紙は手紙と呼べないほど小さくちぎられた紙に、短い言葉だけがいつも同じ字で書かれていた。目にするたびに、まるで小石を投げつけられたかのような気分になった。
この程度の些細なことで騒げば、もっと悪質な嫌がらせに耐えてきた歴代の妃に笑われる。そんな女を選んだジェラルドが笑われる――そう思ったら言えなかった。
些細なこと。実害など無いし、気にすることもない。そう思い込んで今まで沈黙して来た。
ただ、『もしも目の前で微笑む人物から送られてきていたら』という考えが、じわじわとディアナを蝕んでいたのも事実。
手紙は執事が持ってくる外部からのものと違い、直接部屋に置かれていたが、ディアナの部屋に入れる者は数少ない。懐妊と同時に使用人を少数精鋭にしている関係で、メイドが数名、家政婦と、執事、それから――侍女。全部、ディアナが信頼する大事な人達ばかりだが、動機を持っている人間となると、更に限られてしまう。
(ちがう。違うに決まっているわ)
ステラと友情を確かめ合ったのはつい先日のこと。彼女の本当の名前を知り、彼女の家の事情を聞き、ディアナとジェラルドは彼女がそうせざるを得なかったことを理解した――はずだった。
だからこそ、悪意を増した手紙が未だに届いているという状況が理解できない。
(絶対違うもの。疑われるのがわかっていて、賢いステラがやるわけないわ)
この友情は無くしたくない。ディアナはステラが好きだし、彼女がディアナに見せる顔が嘘偽りのないものだと信じたい。だから必死で否定する。
(でも、だから届ける方法が変わったのかしら? 直接だと疑いがかかるから?)
疑いの芽は今にも芽吹きそうで、ディアナはぎゅっと目をつぶった。
「なあに? あなたの番よ?」
クイーンの前にポーンが置かれる。良い手を打ったのだろうか。ステラが楽しげに微笑む。
と、そのとき、扉が開いてセバスチャンが入室した。彼は銀盆を手にしている。ステラの肩越しに近づいてくるのが見える。どくんと胸が音を立て、心がざわついて仕方ない。目が離せない。
「どう、降参?」
「……まさか」
笑おうとしたディアナは、不意に吐き気をもよおす。悪阻だろうか。いや、もうそんな時期はとうに過ぎているはず。
唐突に原因に気がついた。セバスチャンが持ってきた盆に乗っている『あれ』のせいだ。
「ちょ、っと。――大丈夫?」
ステラがディアナの背を優しく擦り、慌てた様子で呼び鈴を鳴らす。その手の暖かさは本物だろうかと薄れゆく意識の中でディアナは考えた。
ステラが王宮に戻ってきてから届く手紙は、以前のようないたずらとはかけ離れていた。
嫌がらせ程度だった言葉が、はっきりとした怨念になっている。
『私の幸せを踏みつけて微笑むあなたに、不幸が訪れますように』
呪いなど怖くない。だけど、手紙の差出人を確かめるのが、ディアナはただひたすらに怖かった。
*
ディアナが倒れたという知らせに、慌てて駆けつけたジェラルドは、眠る妻の頬をなでたあと、銀盆の上に置かれたままの手紙の束に目を留めた。
その内の一通を見て、思わず眉を顰める。
「これは、なんだ?」
一通だけ開封済みの物があった。誘うように揺れる封筒を見て、これを読まなければならないと直感したジェラルドは、わずかな罪悪感とともに手紙を開く。そして文面を見た直後、妻の不調、そして彼女がどうしてその原因を打ち明けられなかったのか――全てが雷光のようにつながっていく。
「ふざけたことを――!」
ジェラルドは立ち上がると旋風のように部屋を飛び出していた。