二
「来てくれると思っていたよ」
微笑むヴィンセントに対して、ステラは落ち着きなく過ごしていた。
真珠色の茶会服はヴィンセントからの贈り物だ。今度は何を企んでいるんだと訴えたら、エスコートする女性が見劣りすると僕の評判に傷がつくなどと言われて、有無を言わせず着飾られてしまった。
だからてっきり招かれた茶会にでも連れて行かれるのだと思っていたが、それがステラを部屋から誘い出す罠だったと気づいたのは、庭に出てからのこと。
初夏の日差しがそのヴィンセントの金髪を輝かせる。笑顔は眩しいが、ステラの表情は氷のように固まったままだった。
大げさに着飾ったステラを待ち受けていたのは、ストックポート邸でのこじんまりとしたガーデンパーティ。手入れの行き届いた庭にはステラとヴィンセント、それからディアナと王太子の四人しか参加者がいなかった。
集まりの目的は明らか。誤解を解くと彼は言っていたが、誤解ではないのだから、単なる謝罪だと思った。そして謝罪はおそらく受け入れられないだろう。考えただけでステラは怖くて仕方がなかった。生まれて初めて本物の恐怖を知ったと思った。
「こ、こんなの、聞いていないわ! だまし討ちもいいところ! 私、帰る――」
叫んで、あたふたと屋敷に戻ろうとしたら、ヴィンセントが体を張ってステラの退避を拒んだ。
「ちょっと、退いて!」
「嫌だよ。なんでこんなところで往生際が悪いんだ。逃げるなんて君らしくない。いつもは止めても自分から飛び込んで行くくせに」
「今回はいつもと話が全然違うのよっ! 退きなさい!」
ステラが吠えるとヴィンセントがやれやれと肩をすくめた。
「どうして君、そんなに偉そうなの。僕はこれでも王子で、君を窮地から救った恩人なんだけど」
「今はただの障壁よ!」
と、そのとき、後ろで吹き出す音がする。恐る恐る振り向くと、ディアナがくすくすと笑っていた。
「おい。おまえがそんなだと、示しがつかないだろう。おまえは、夫を寝取られかけた女なんだぞ? もっと怒れ。せめて笑うなよ。軽んじられたおれが間抜けに見える」
王太子が隣で不機嫌そうに諭している。「可笑しいから拗ねないで」と余計に笑いが加速したディアナはとうとうテーブルを軽く叩いて笑っている。
「拗ねているのは誰のせいだ」
「ごめんなさい、でも、だって」
しばしディアナの笑顔に見入っていたステラは、呆然と彼女に問いかける。
「怒っていないの……?」
ディアナは目尻に堪った涙を拭きながら、ステラに向き直った。
「確かに最初はすごく落ち込んだけれどね。怒るって言うよりは悲しかっただけ。あとは申し訳なかったわ」
「申し訳ない?」
わけがわからずにステラはただ繰り返す。
「あのときね、私『やっぱり』って思っちゃったの。私、もしかしたらあなたがジェラルドを狙っているのかもって、どこかで疑っていたの。だから、あんな卑怯な罠なのに、止められなかった。友達って言いながら、あなたを信じ切れてなかったって事よね。だから、おあいこかなって」
「……馬鹿よ、あなた」
ステラは自分の声が上ずるのを感じて、言葉に詰まる。
(そんなのいくら秤にかけてもおあいこになんかならない)
「人を疑う事なんて、当たり前の事じゃない」
頬を何か熱いものが伝うけれど、拭う事もせずに訴えた。ディアナは逆らわずに頷く。
「そうね。だけど、疑い続けたら疲れちゃうじゃない? 信じる方がずっと楽だし、幸せだわ」
「騙されて泣くのはあなたなのに?」
「騙した方がきっとよっぽど苦しいわ。だって自分にも嘘を吐き続けるのだもの。――ほら、私は泣いていないけれど、あなたは泣いているじゃない?」
ディアナが手を伸ばして、ステラの涙を拭おうとした。
「――ねえ、仲直りしましょう。私、やっぱりあなたが大好き」
ステラは思わず後ろに後退りする。そして大げさなくらいに頭を強く振った。
(だめよ、そんなに簡単に許しては)
ステラは強烈な誘惑に必死で逆らった。これではディアナのためにはならない。この女はもっと世間を知るべきだ。世の中にはステラみたいな人間の方が多いという事を教えてあげなければ、また騙されて――そして今度こそ泣くだろう。
「……私、また王太子殿下を狙うかもしれないわよ? 今度こそ本気よ?」
真剣に聞こえるようと声を出すと、まるで呪いのように響く。
ちらりと目を流すと、ディアナの後ろの男二人がぎょっとした顔をしている。ディアナはおやおやと目を丸くするが、肩をすくめて微笑んだ。
「今度は気をつけるから大丈夫。私、あなたに負けないように努力しないとね」
そこで王太子が不気味そうに顔をしかめる。
「おい――変な努力はするなよ。おまえが張り切ると碌な事がない」
ディアナは頬を膨らませると、後ろを振り向いて文句を言った。
「失礼ね。変な努力って何よ」
「今までの事を胸に手を当ててよく考えろ。馬鹿」
「馬鹿って言わないで。教えないでおいて何よ」
延々と続きそうになった二人のじゃれ合いをヴィンセントが遮る。
「はいはい、痴話げんかはそこまでにして。どうやら仲直りもすんだ事だし――そろそろ僕の話も聞いてくれる?」
「話? これで終わりじゃないのか?」
王太子の纏う雰囲気が尖る。彼は挑戦的な目をヴィンセントに向ける。不穏に曇った空気に、ディアナとステラが同じように息を呑む。ヴィンセントはふんわりとした笑顔を浮かべた。
「本題はこれからだ。――ディアナ、それからジェラルド。君たちに話があったんだ」
ヴィンセントはそこでステラをちらりと見つめたあと、ふっと息を吐いて、ディアナに向き直った。背筋を伸ばし、胸を張り、そしていつもの穏やかさにわずかな熱を込めて、ディアナに向かって囁いた。緊張していたのか、声はひどく掠れていた。
「ディアナ。君をジェラルドと奪い合わなかったことを、僕はずっと後悔してきた」
その言葉に王太子が色めき立ち、「ディアナ、帰るぞ」と席を立とうとする。だが、ディアナは「最後まで聞いてからでも遅くないでしょう?」と静かにヴィンセントを見つめて続きを促した。
「勝負を全て君の判断に任せて、戦おうともしなかった。だから、君のことを吹っ切れずにこうして独りでいた」
「ヴィンセント、おまえ、いまさらなんのつもりだ。おまえまで、おれを裏切るつもりなのか?」
王太子が顔を赤くしている。眉を寄せた痛々しい表情は、ステラに裏切られた時のディアナの顔によく似ていると思った。
「ヴィンセント。だから、この女を送り込んだのか? そうして、ディアナの不在を狙っておれを試すような真似をして――」
それは誤解だとステラは慌ててヴィンセントを見やった。だが、彼は否定の一つもせずに黙って王太子を見つめている。
ヴィンセントが友情までもを壊そうとしているのを感じ取る。以前言ったように、自暴自棄になり、破滅を望んでいる。ステラはとっさに間に入っていた。
「違う――違います。それは誤解ですから。あれは、私の独断です。ヴィンセント殿下は関係ないのです。むしろ、私があなた達の仲を割かないように、見張ってくださったのよ。ねぇ、そうでしょう。そう言ったじゃない」
「いいや、それだけじゃないよ」
ステラが必死でかばったのに、ヴィンセントは否定しなかった。
「僕はきっと心のどこかでジェラルドがディアナを裏切ることを望んでいたんだろう。だから、君を領地に帰さなかった」
ステラは彼の頬を張って目を覚まさせたい衝動を必死でこらえる。馬鹿だ。この男はとことん馬鹿だと思った。前さえ向いていれば道は見えてくるというのに、どうして下ばかり見ようとする!
「あなたはそういう卑怯な真似はしないわ。だってそんなことしたら、ディアナが悲しむもの。身を引いたのも、五年間想い続けていたくせに態度に出さなかったのも、恋敵と相変わらず仲良くしているのも――あなたの腰抜けな行動は全部、ディアナの幸せのためのものじゃない。そんなあなたが、私をわざわざディアナのところに送り込ませるわけがないの。矛盾しているの、気づいている?」
ここは譲らないとずいと顔を上げると、ヴィンセントは鬱陶しげにため息を吐いた。
「本当におせっかいだな、君。ちょっと黙ってて。僕はディアナとジェラルドと話がしたいんだ」
ステラの頭を横に押しやると、ヴィンセントはディアナへの告白を続けた。
「ディアナ。僕は君が好きだった。この五年、ずっと君を想っていた」
ディアナはなぜか微笑んでいた。隣で王太子が目を釣り上げているというのにどんな肝の座り方をしているのだ。呆れかけたステラの耳に、ヴィンセントの信じられない言葉が飛び込んでくる。
「だから、ジェラルド。君に決闘を申し込むよ」
「な、何言ってるの!? あなた、本物の馬鹿!?」
決闘など時代錯誤な言葉に、ステラは卒倒しかける。縋るようにヴィンセントを見つめるが、彼は動じなかった。
「これは僕のけじめだ。五年分の想いに決着を着けるための。勝ち目がないことくらいわかっている。だけどしっかり終わらせて、僕は前に進みたい」
ヴィンセントはそう言った直後、なぜかステラを射抜くように見つめた。
「君にも、立ち会ってほしい。僕の昔の恋の終わりを見届けて欲しいんだ」
「……い、意味がわかんない……んだけど」
頭が全く働かないのは、おそらくヴィンセントの眼差しが今までになく真剣で、今までになく甘かったからだ。
見つめ合う二人に向かって、王太子が大きくため息を吐いた。
「で………これは何の茶番なんだ? ヴィンセント」
「何って、決意表明だよ」
王太子がやれやれ、といった様子で天を仰いだ。横でディアナが、「ね? あなたが怒る必要、なかったでしょう?」とやはり微笑んでいる。なぜか、急に話が丸くまとまったかに思えたが、一人全く事態が把握できないステラは目を白黒させる。自分のことを愚かではないと思っていたが、今、彼らの言うことが全く理解できずに戸惑いが隠せない。
「おまえを疑ったおれが馬鹿だった。だけど、そこのメレディス嬢の言うとおりなんだろうよ。確かにおれとおまえは一度ちゃんと腹を割って話すべきだった。すまなかった。おれがその機会をおまえから奪った。友情を盾に、おまえの想いの行き場をなくした。一番卑怯なのはおれだ」
「いいんだ。僕はこれでよかったと思っているし」
「……そうみたいだな」
王太子がステラに胡散臭そうな視線を投げる。
「ねえ、なに? 決闘はなしなの?」
今しか聞けないと思って尋ねるが、王太子はステラから視線を外してヴィンセントを見やると、答えにならないことを返した。
「おまえの趣味は良くわからん。……ディアナのもだが」
すると、いつもの調子を取り戻したヴィンセントが楽しげにからかう。
「ああ、ディアナがステラに言った言葉が、おまえも欲しいってわけか」
すると、王太子は苦いものを無理やり食べさせられたような顔をした。