一
ヴィンセントがあんな風にステラを連れ去ったおかげで、場は一応収まったことになっていた。
ステラは発情した犬のように扱われたまま。それは相当に不本意な事だったのだが、おかげで王太子に直訴した事に対する処分は未だにない。
だがステラは王太子の寛大さを讃える気にはならない。王太子は寛大なわけではなく、彼にとってもあの事件はなかった事にするのが一番傷が少ないからだ。万が一ステラと王太子の仲が広まれば、寝取られかけたとディアナは笑われ者にされ傷つくだろうから。きっと過去のことの業だと騒ぎ立てられるのが目に見えるようだ。
事件を公にしてわずかにでも得をするのは、ディアナに懸想しているヴィンセントだけだが、ディアナを愛し、思いやる彼は当然沈黙を保っている。他に事件を知っている人間もいないため、あのときあの場にいた四人が揃って口を閉ざせば、表立って変わるものは何もない。
しかし当人達の想いだけは複雑に絡まったままだ。ディアナはもうステラを王宮に呼び戻さなかったし、確執が消える機会も無く日々は流れていた。
教会の鐘が高らかに鳴って午後を告げた。王宮にいるときは午後のお茶会の準備を始める時間だった。だが今のステラに仕事は無い。次の仕事が決まるまでと、客人としてストックポート邸に置いてもらっているけれど、追い出されるのも時間の問題だろう。
『ステラ――今日のお菓子は何がいいかしら?』
そんな幻聴さえ聞こえそうで、ステラは憂鬱さを隠せないでいた。
(こうなるのは、当然よね)
完全に嫌われてしまったとステラは落ち込むけれど、友人などいなかった彼女にはどうやってディアナの心を取り戻せばいいのか見当もつかない。
小さく溜息をつくと、後ろから笑いを含んだ声が上がった。
「寂しそうだね。ディアナがいないと随分退屈だろう」
「……別に」
応接室に入室してきた人物を確認する。だが挨拶もせずに、ステラはふいと目を逸らした。あれから、どうも彼と真っ直ぐ目を合わせることができないでいる。目が合うと凄まじく気まずいのだ。
「謝ったらいいんだよ。ディアナならきっと許してくれるから。そういう人だって良く知っているはずだろう」
ヴィンセントはすぐにステラの悩みごとを察して助言をくれる。今回ばかりは自分でも顔に出ているとは思う。だが、彼女は余計なお世話とばかりに眉間に皺を寄せた。自分がした事を思い返すと、そんなに簡単に修復できるとは思えないし、それに――
「それはのろけなの? だから見込みないってば。人ごとだと思ってのんきなものね」
彼がディアナを誉める度になんだかむっとするのはなぜだろう。王太子がディアナとべたべたと戯れている時でもこんな気分になった事はないのに。
(どういうつもり? あんな風に、く、くちづけなどしておいて)
心の中で文句を言ったとたん、頭に血が上って慌てて頭を振った。
(違うわ、違う。あれはキスじゃない)
彼に言わせるとそうらしいのだ。口を塞いだだけだとはっきり言われた。
だがステラには、ヴィンセントの行動が到底理解できない。
確かに最初にくちづけられた時、彼は両腕が塞がっていて。でも二回目は違ったはずで、手で塞ぐことができたはずなのだ。
思い出してステラは手のひらに汗をかく。背を何かが駆け回るようなむずがゆい気分が沸き上がった。
思わず気持ち悪いと言ってしまったけれど、本当にそうだったわけではない。
行為自体は耳学問で知っていたけれど、くちづけは単に唇を合わせるだけだと思っていた。だが違った。だから驚いてしまったのだ。
(だ、だって! なんであんな事!)
まさかあんなことが口の中で行われているなど、聞いていないし、夢にも思わない。
感覚を思い出すだけで頭が噴火しそうになる。あれ以来彼に対して威勢を欠くのは、またあんな風に口を塞がれては敵わないと思うからで、その意味では口封じと言って間違いはないのかもしれない。
悩まなければいけない事は別にあるのに、ステラの頭半分はヴィンセントに支配されていた。追い出したくても、強烈な体験が居座って出て行ってくれないのだ。
ステラはひとまず目の前にあったオイルランプを手に取り、磨きながら無心を心がけた。ランプ係があとで「それは私の仕事ですが!」と主張するのが予想できたが今はどうでもいい。やはり手を動かしていると頭が冴える。一つ大きな息を吐いて、問わねばと思っていた事を口に出すことにした。
「ええと……あの、私っていつまでここにいていいの?」
切り出されるのをびくびくしながら待っていたのだが、なぜかヴィンセントはその話を口にしなかった。
ステラが漏らした家の事情を聞いて同情しているのかもしれない。何だかんだで優しいヴィンセントならば有り得るが、いつまでも厚意に甘えるわけにはいかない。衣食住には金がかかるのだ。普通は招待されたら招待し返す。そうやって釣り合いをとっている。だが、プレンストン男爵家は彼を招待仕返すほどの家ではない。メイドもろくに居ない家にどうして公爵の王子様を招くことができようか。
しかしヴィンセントは肩をすくめて意外な答えをよこした。
「君がいたいだけいたらいいよ」
「え?」
耳を疑うステラにヴィンセントは一つ咳払いをすると、はっきりとした口調で言い直した。
「僕が君を王都にとどめた理由を忘れていないか?」
「あ、そういえば」
彼の恋人役。すっぽりと抜け落ちていたステラが呟くとヴィンセントは苦笑いをした。
「だから、ただで置いてあげているわけじゃない。君さえ良ければ、ここにずっといてくれても別に構わない。もし働かないと退屈でたまらないというのなら、侍女の職を探してもいい。身の振り方をゆっくり考えればいいよ」
「え、でも」
反論しつつも、帰らなくて良い――そのことに肩の力が抜けるのがわかった。
「それに、ジェラルド以外にも良い縁談はあるかもしれないしね。幸い社交シーズンだ。君が思っているよりも金持ちは多い。あの成り上がり男よりはマシな男、探せばちゃんといると思うよ?」
ヴィンセントがステラの思考を促す。確かに猶予が貰えるのならば、こちらでもう少し良い相手――王太子はもう無理だとは思うけれど、お金持ちの貴族の後妻くらいにはなれるかもしれない。
手っ取り早くトマスからの借金を肩代わりしてくれる男が最善だが、そんな都合の良い男はいただろうか。
ひっそり花婿候補に思いを馳せるステラの前で、ヴィンセントはぎこちない笑顔で何か窺うようにステラを見つめている。
(そういえば)
ステラは目の前の男も公爵で王子だったと思い出した。
頭脳明晰で容姿端麗、しかもお金持ちなのだ。臆病者だけれど、優しいと言い換えられるかもしれない。
とりあえずステラが結婚相手に望むもの――『賢く』て『若く』て『金持ち』である――はすべて満たしている。
しかしステラはすぐに駄目だと思った。
彼には致命的な欠陥がある。彼の目にはディアナしか映っていない事を、ステラは観察してきて誰よりもよく知っているつもりだ。五年という年季が入って腐りかけていた愛は、彼の心構えが変わったおかげで、今は熟成しはじめてしまった。
(……彼はディアナとのこと、前向きに考えだしたばっかりだものね……)
しかもステラの言葉が彼に火をつけたのだ。そのせいで彼は一生独身ということになりかねない。もちろん、ディアナが王太子と別れることなど考えられないし、彼は確実に振られるとステラは信じているが、傷心の彼に付け込むのは何となく良心が咎めた。ステラは恩人に対して礼を欠くほど堕ちるつもりはないのだ。何より、そんな卑怯な真似はきっとプライドの高い彼の美意識に反するだろう。
大体、彼に向かって散々悪態を吐いたステラなのだ。厚意を好意とは思えないし、そう取るのはさすがに厚かましいと思う。これ以上嫌われたくはないし、今の位置で彼が立ち直るのをそっと支えてあげるべきだ。その方が喜ばれるに決まっていた。
惜しく思いながらも、頭の中の花婿候補の名簿からヴィンセントの名をそっと削除すると、彼から目を逸らした。
「ええと、ちょっと考えてみるわ。とにかく、続けて置いてくれてありがとう」
心を込めて礼を言うと、ステラはあっさりと席を立とうとする。それを見て、ヴィンセントは笑顔を真顔に戻した。
「他に約束がないなら、お茶を一杯くらい付き合ってくれてもいいんじゃないかな?」
「一緒に?」
「そうだよ。一人じゃ退屈だろう?」
どういう風の吹き回しだろうとステラは彼の顔を見つめながら考えたが、ひょっとしたら退屈なのは彼の方かもしれないと思い当たる。
ならば話題を提供してやればいい。一石二鳥だと手を打った。
「そうだわ。じゃあ、あなたのお知り合いの紳士、どなたかを紹介してくれないかしら」
*
茶を飲み終わるとステラはそわそわと部屋へと引っ込んだ。きっとこっそりとランプでも磨いているのだろう。ステラは何かしていないと気が済まないらしく、使用人達の仕事を少しずつ奪ってしまっているらしい。執事が「こんな苦情がでるのは初めてです」と苦笑いをしながら申し出た。
ヴィンセントも今日は晩餐会に招待されているので、すぐさま身支度をし始めたけれど、あまりのあっさりした茶会の終了に小さな溜息が出る。
すると微かな咳払い。後ろを見るとオスニエルが笑いを必死で堪える顔をしていた。
「笑うな」
「辛うじて堪えておりますが」
ヴィンセントは今度は遠慮なく大きな溜息をついた。オスニエルはとうとう吹き出した。
「眼中にないって事だよなぁ」
ヴィンセントは呟くと、茶会の最中、一生懸命メモを取るステラの姿を思い出した。
しつこく尋ねるステラに、ヴィンセントは渋々、寄宿学校にいた頃の友人を三名ほど紹介したのだ。
たったの三人? と顔をしかめた彼女だったが、すぐに気を取りなおした。もっといるでしょう? 知り合いの知り合いとか? と餌のおかわりを待つ子犬のような表情で続きを求めるステラは、さらにヴィンセントの交友関係を詳らかに聞き出した。彼女のメモに候補が書き込まれるたびに、ヴィンセントの眉間には皺が増えた。
彼女は花婿候補の一覧表を作り上げて満足げにしていたが、そこには最後までヴィンセントの名が書かれることはなかった。
「まったく脈無しとは思えませんが。ただ、少々回りくどかっただけではございませんか」
オスニエルが慰めを入れるがヴィンセントはむっとして撥ね付けた。
「慰めはいらないよ。彼女は鈍くはない。ああ言って食いつかないなら脈がないってことだ」
オスニエルは首を傾げながらもヴィンセントに問う。
「では、諦められるのですか?」
「そんなことをすれば今度こそ本物の負け犬だ」
そう口にしたヴィンセントの頭にある事がひらめいた。
(つまりは、まずは負け犬じゃないってことを見せる必要があるって事か)
不完全燃焼だった前の恋。もう恋の炎は穏やかな熱を残して消えかけていて、放置していてもいずれ消えるだろう。だが、ステラはそんな終わり方には納得しない。彼女は完全燃焼して、さらに自分で水をかけて恋を終わらせた。
「負け犬返上の参考にさせてもらうかな」
(うん。そろそろ仲直りもしないといけないし)
ヴィンセントはそっと窓際に寄ると遠くに見える王宮の尖塔を見つめた。以前は身を切るような景色だったが、今はもう心は痛まない。そしてこれからも痛むことはないだろう。小さく息を吸うとヴィンセントはオスニエルに命じた。
「近く茶会を開く。王宮のお二人を招きたいから、招待状をを届けてきてくれるかな」