終
「え……上、父上!」
誰かに揺すられて、鴛青ははっと瞳を開けた。
夢現のまま身体を起こせば、どうやら書きかけの紙の上で一時夢を見ていたらしい。その夢の名残が鴛青の胸に小さな引っかき傷を残して、微かに疼く。
「また、書きかけのまま寝ていたのでしょう! 早く、呉陽殿が痺れを切らしていますよ!」
「菖蒲は随分しっかりして……年々紫に似てきたなあ……」
「父上を私が面倒を見てやらねば、母上に叱られますからね」
「いや、逆では……」
てきぱきと書き散らした紙を手際よく整頓してゆく菖蒲も、今年で十七を迎えた。呉陽によると菖蒲は紫苑の悪いところを全て受け継いでしまったと言うが、鴛青にとっては紫苑の美貌をすっかりそのまま受け継いでしまったことの方が心配だった。菖蒲の美しさを何処ぞから聞きつけたのか、菖蒲の部屋をどうにかして垣間見ようとする野郎共がひっきりなしに出没して、近頃それを追い払うのに鴛青は寝不足だった。近衛大将軍ともあろう自分の邸に忍び込むとは大した度胸だと思いながらも、菖蒲のこととなれば話は別だ。
「また、母上の夢を見ていたのですか?」
「いや、仕事のな……」
「惚けても無駄です。譫言で母上の名を呼んでいましたから」
纏めた紙をずいっと渡されながら、鴛青は思わず溜息を吐いた。
「紫が戻ってきた頃の夢を、な……」
視線を落とし、並んだ字面を見つめた。文章になってしまうと、あれ程の想いも幸いも何処か平坦なものになってしまうような気がするのは、自分の文章能力が低いせいに違いない。
「……今でも、母上が恋しいですか」
何気なさを装いながらも、敢えて自分を見ようとせぬ時の菖蒲は、答えをちゃんと知りたい時の仕草だった。故に、鴛青も今度は正直に答える。
「恋しいさ。出来ることなら、もう一度会いたい」
あれから十七年の月日が経ったが、紫苑が再び現れることはなかった。
紫苑が遺してくれた邸で菖蒲と二人で生きてきた。毎日のように訪れる仲間たちはせっせと菖蒲の面倒を見てくれたし、母のいない菖蒲の為に香蘭は母代わりを申し出てくれた。陛下に至っては、毎年豪勢な誕生祝を贈りつけてくる程、我が子同様に目をかけていただいている。そのような人々に支えられて、本当に恵まれた十七年間だったと思う。
「もう一度会って、此処まで立派に育った菖蒲を見せたい」
巡る季節の間、鴛青はずっと桜を見続けてきた。奇跡が訪れぬことを知りつつも、儚い期待を抱いて。落胆することは何度もあったが、その度に菖蒲が情けない父親であったはずの自分を支えてくれた。
「ならば、それを早く完成させてくださいね」
顔を上げた鴛青は、立ち上がった菖蒲を目で追いかけた。
「策兄と父上が書き上げてくれるもので、私は母上を知ることが出来るのですから」
「菖蒲……いや、ちょっと待て! 策兄ってどういうことだ! あいつ、まさか菖蒲に手を出そうと?! 菖蒲、絶対に策だけは駄目だ! 策みたいなへなちょこ男など、私は許さん!!」
「はいはい。策兄は今や立派な御史大夫です。父上のような武術馬鹿とは基準が違うのです」
言い争っている二人を呆れながら傍観していた呉陽は、思わず噴出さずにはいられなかった。娘にすら武術馬鹿であることが知られているではないか。
「あっ、呉陽殿!」
それに気づいた菖蒲が呉陽の名を呼ぶと、鴛青の顔色がさあっと引いていった。
「いやっ、これには事情がありまして……決して呉陽殿の来訪を……忘れていた訳では……」
「忘れていたのだろう。嘘が相変わらず下手糞な男だな」
「そうですね、父上。近衛大将軍の威厳の欠片もありませんね」
「息子よ、よく分かっておるな」
「違いますって! 陽凱! お前も呉陽殿に似て嫌味っぽくなってきたな……」
「言い返せば、菖蒲も紫苑殿そっくりと父上が」
「菖蒲を巻き込むな!」
「……皆様、茶の準備が整いましたので、どうぞ」
菖蒲が差し出した盆が上手く間に入って、爽やかな香りを誘った。呉陽は趣味のよい茶器が並んだそれから一つを取り、豪快に呷る。
「上手い! また、腕を上げたな。こればかりは、紫苑にも鴛青にも似ずよかったな」
鴛青の料理の悲惨さは、もちろん菖蒲も嫌という程知っている為、心から頷いた。気をよくした呉陽は、持っていた包みを菖蒲に差し出した。
「おぬしの好きな菓子だ。妻がこしらえていたのをこっそり拝借してきた」
「香蘭殿に怒られますよ……」
「おぬしの為だと言えば、むしろ喜ぶ」
包みを受け取りながら、菖蒲は微笑んだ。母のいない菖蒲にとって、母の愛情を教えてくれたのは香蘭だった。香蘭は実の子である陽凱と分け隔てなく育ててくれ、紫苑に返すはずだった恩を自分に返すように心から菖蒲を愛してくれた、二人目の母のような存在だった。
「某はおぬしの父と話がある故、陽凱の相手でもしてやってくれ」
「失礼な父上。菖蒲では私の相手にはなりません」
「その言葉を言ったことを後悔させてやろう」
不敵な笑みを浮かべた菖蒲に、陽凱もにやりと口の端を歪めた。そのまま庭に下り、早速手合わせを始める。その様子を眺めながら、鴛青と呉陽は菖蒲が用意してくれた茶菓子に手を伸ばした。こういう休日の過ごし方が爺臭いと部下に言われる理由なのだが、二人はそれに全く気づいていない。
「やはり、父が武術馬鹿だと娘もああなるようだな……嫁の貰い手に困るぞ」
呉陽自ら指導しているとはいえ、陽凱は同じ年頃の男子と比べて、父の贔屓目ではなく、武術に長けていると思う。近々、武科挙を受けさせるつもりでもある。そのような陽凱に菖蒲は互角に対している。
「私や菖蒲に負けるような男に、嫁がせるつもりなどありませんから」
菖蒲は別として、鴛青に勝てる男などいるのか……未だに、武術仕合などで年甲斐もなく優勝する男に、対峙しようなどという婿がいたら、それだけで諸手を挙げて拝みたい程の貴重な存在だと思うが。
「来るべき日に向けて、武術を知っておくのも何かの役に立つかと覚えさせましたが、その日が来る前に菖蒲は女武人として名を挙げるかもしれませんね」
ほくほくと嬉しそうな鴛青を見て、がっくりとする。娘なのに、武人って……それでいいのか。
「……まだ、分からぬのだな」
「十七年か……紫苑が死んで、もうそんなに経ったのだな……」
短かったのか、長かったのかは分からない。それでも、自分の手に目立つ皺が過ぎた年月を物語っている。
紫苑が言ったように、菖蒲がいつ力を発現してもいいように鴛青は力のことを娘に話し、お互いに覚悟を持ちながら、今日までを過ごしてきた。だが、これまでの平和な日々が危機感を薄れさせる。紫苑が初めて見誤ったのではないかと思ってしまう程に。
「いずれ、その時は来ましょう。それがあの子の運命だとしたら」
逃れられぬ運命と紫苑は言った。だからこそ、その時は必ず来る。
『そうね……鴛、青……』
「紫……?」
微かに聞こえた声に、思わず腰が浮く。
「鴛青、どうした?」
「今、紫苑の声が……」
「父上!!」
菖蒲の鋭い声がこだまする。妙な胸騒ぎに鴛青も呉陽も本能に近い衝動で、庭に飛び出した。
其処に在ったのは、黒い影。いつ何時も、紫苑の傍に寄り添い、付き従ってきた者。久方ぶりに見るその姿に驚いて、飛び出したまま言葉を失っている自分と呉陽とは正反対に、菖蒲と陽凱がやけに落ち着いていた。視線の先にいるその影を、以前から見知っていたかのように。
「鴉……」
「久方ぶりに存じます。鴛青殿、菖蒲殿」
天狗ではなくなったとはいえ、一種独特な雰囲気を醸し出す様は、以前となんら変わらなかった。逆に以前には感じなかったはずの畏れのようなものを感じて、一瞬身震いをする。紫苑という主がいたからこそ、抑えられていた何かがなくなり、これが鴉の真の姿だと理解する。妖しく閉じられた瞳が開き、それが菖蒲を見て、そうして自分を見た。その動作だけで、全てを理解する。
「その日が、来たと……」
その瞬間に、菖蒲の目の前で光が炸裂した。目も開けられぬはずの光の中で、何故か自分と菖蒲と鴉だけは、それを見届けていた。光の玉の下に菖蒲が手を出すと光は一層の輝きを放ち、後に残ったのは見慣れたあれだった。言葉を失っていた自分の代わりに隣にいた呉陽が呆然と呟く。
「あれは紫苑が持っていた、蝙蝠……」
突然の出来事に言葉を失う者ばかりの中で、菖蒲は冷静だった。蝙蝠を見つめ、何かを決するような眼差しは在りし日の紫苑そのものに見えた。
「……鴉」
「それが現れたということは、紫苑様の次の主として、菖蒲殿が選ばれたということ。それを握れば、あなたはもう常人ではいられなくなる。それに残る紫苑様の力の欠片は、あなたの中に眠っていた力を容易に呼び覚ますことでしょう。されど、それを望まぬのならば、私がそれを壊すようにと紫苑様より言いつかっております。……どちらを選択するかは、あなたの自由です」
「そなたは、母上の娘である私を主とは見ぬのだな」
「紫苑様の娘であろうと、私がお仕え申し上げようと決めたのは紫苑様自身です。私が仕えるに値する何かを、あなたに見出せぬ以上、あなたはただの人に過ぎませぬ」
「言い切るところが、実にそなたらしい……と、母上もおっしゃったのだろうな。ならば、そなたは見届けよ」
菖蒲は宙に浮いたままの蝙蝠に躊躇いもなく、手を伸ばした。
「全ての事象には意がある。ならば、今この時にこれが現れたことにも意があるのだろう。ならば、私は進むのみ」
「菖蒲!」
咄嗟に叫んでしまったのは、何故だったのか。
菖蒲を止めたかったのか、それとも揺らぐことの知らぬその姿に紫苑の幻を見たからなのか。こちらを振り返った菖蒲の黒髪が揺れる。その後ろで舞っている桜がその黒と混ざって幻想的な美しさを描く。
「母上も、私と同じような想いだったのでしょうか」
紫苑と同じ黒曜石の瞳が僅かに細められて、一瞬桜を見た。
はらはらと音もなく、散りゆくそれに何を知ったのか。されど、どうか生きることを諦めないで欲しいとひたすらに願う。散る桜は美しなれど、儚い人の生をそうやって散らすことだけは、紫苑も自分も望んではいないから。再び自分に視線を向けた菖蒲が、鮮やかに微笑む。
そして、新たな幕が開いたことを鴛青は悟った。
*
そして、儚き奇跡は過ぎた。
この世に摩訶不思議なことは多なれど、人の想い程それに相応しきものはない。この話を信じるか否かは人次第であり、私はただ此処に遺すだけである。
私はこれを記しながら、桜を見上げている。春が過ぎ、夏も秋も過ぎ、そして冬が過ぎて、再びの春が過ぎても。風と共に揺蕩う白き花びらが絶えぬ限り、私は此処にいよう。
いつの日か、訪れる愛しき人を待って。
愛しき人を繋ぐ、縁を待って。
鴛青
『鴛鴦奇譚』
こんにちは、紫苑です。
無事に第二作を書き上げることが出来ました。
今回は前作の続き、紫苑の死を迎えた人々と戻ることを許された紫苑のお話です。
サブタイトルの花七日とは花の盛りが短く、儚いことのたとえで、紫苑の命を指しています。希望を与えられはするけれど、結局は枯れてしまう。それでも、紫苑は懸命に生き、一つ一つ自らの死の清算をしてゆく。それは決して無意味なことではなく、紫苑にとっても、後悔を抱えたまま生きてゆこうとしていた人々にとっても必要なことだったと思います。
今ある幸いを大切に。
紫苑のように得てしまえば、失う怖さを知るでしょう。
それでも、再び会えたことをよかったと言える鴛青のように。
奇跡のような人と人との出会いに感謝して。
最後まで拙い文章をお読みくださり、誠にありがとうございます。
皆様の生に、幸多からんことを。
紫苑