花七日
目の前にいるのは、鴛青と我が子だけ。
自らの邸に帰ってきた私たちは然したる会話もなく、ただ散りゆく桜を眺めていた。言葉を容易に落とせば、何かが終わってしまうことをお互いに知っていた故に、忍び寄る終わりから目を背けようとしている。それでも、言葉を紡ごうと思ったのは、鴛青に遺したいものがあったからだった。
「鴛青」
私のそれから目を背けて、鴛青は揺り籠の中ですやすやと眠る我が子に視線を向けた。言葉を落とすことが躊躇われるような背に、一度声を失う。言おうとしていたものがその一瞬で何処かに飛んでいって、いたたまれぬ空気を壊す為に再び名を口にする。それでも振り向かぬ鴛青に触れようとした時、不意に腕を掴まれた。一気に引き寄せられ、抗うこともなくその腕の中に囚われる。
「えん……」
言葉の端を攫って、口づけが降ってくる。与えられた甘さにただ応えていると、鴛青の手が腰帯にかかったのが分かった。ぐっと手に力が入り、それが一気に引かれる。衣擦れの音が世界に堕ちても、鴛青は構わず唇を離し、私の首筋に噛みついた。
それでも、私はなんの抵抗もしなかった。夢中になって、私の身体に自らの痕跡を残そうとする鴛青の痛みに気づいていたから。
「……何故、何故抗わぬ!」
袷の隙間から手を差し入れようとした鴛青が、咄嗟に声を荒げた。指先から熱を失ってゆく手が冷たくて、痛くて堪らない。
「私は……貴女を、抱こうとしているのだぞ……? 産後間もない貴女の身体を考えず、ただ己の欲望の為に!」
「鴛青」
虚ろな眼差しをした鴛青の唇を奪う。言葉など煩わしくて、この熱で鴛青を取り戻したかった。だが、唇を離したのは私からだった。
「……違うだろう。そなたはそのような男ではない。……私が子を宿せば、再び戻れるやもしれぬと、思うたのだろう」
鴛青に触れたくて伸ばした手が掴まれて、床に縫い止められる。籠められた力に鴛青の本気を知る。
「違う……! 私は最低な男なのだ。貴女はそんな私に愛想を尽かすのに、それでも私は貴女を抱こうとする、……最低な男なのだ……!」
涙の雫が降ってくる。本当に最低な男は涙など流さぬものよと思いながらも、言葉にすることは出来なかった。故に、代わりに告げたのは希望だった。
「私の名……花にはそれぞれに意がある。紫苑は……」
いつの日か忘れ去られる美しい言葉を知っておいて欲しかった。そして、私の名に籠められた本当の意も。野に咲く薄紫の小さな花。その花の意を、瑪瑙を揺らすあなたに捧げよう。
「『君を忘れず』」
透明で美しい雫が鴛青の瑪瑙から走っては、私の上に散ってゆく。そうして、鴛青のもので私の中をもっと満たして欲しい。
「そなたが望むのならば、私を抱けばいい。私は拒むことはせぬ。私とて、そなたに触れられることは嬉しいのだ……されど、これだけは……覚えていて欲しい」
一度言葉を切って、息を吐き出す。静寂に満ちた中で、その息の音がそっと誓いを奏でる。
「私はいつ何時もそなたと共に在る。姿が見えずとも、声が聞けずとも、そなたと我が子の傍に、ずっと……そなたを永久に、愛しているから」
鴛青の瞳が際限まで開かれる。
あの頃は決して口にしなかった言葉。照れ臭くて、そして何よりもその言葉を遺された鴛青が苦しむと分かっていたから。それでも、私は告げた。愛の言葉が鴛青を生かすと信じて。
「紫……何故、今それを……」
はらはらと散ってはまた散りゆくその涙を、鴛青の手から逃れて掬う。それでも掬い切れぬそれに唇を寄せて、私の熱を移す。冷え切ってしまった身体に私の熱を移すことで、もう一度立ち上がれるように。
「そなたが苦しむと思い、口に出すことを躊躇っていたが、……もうそれは止めた。私の我侭だと分かっていても、私を愛してくれたそなたを私自身がなきものにせぬ為に。私はそなたが私たちの子を守り育て、我が子が誇れるような強き父となり、そうして……これからの時を生きてゆくことを、ただひたすらに願うておる。その為に、私がそなたに遺せるものは……愛しかないのだ」
微笑もうとした私に、鴛青は拒絶を表すように首を横に振った。
「貴女が言いたいことは、分かっている……私は、父になるのだ。自分一人で嘆いていたこれまでとは違う。子を守ってゆかねばならぬ……それでも、私は寂しい……寂しいのだ……」
絞り出すように届いた声に、思わず鴛青を抱きしめていた。その切実な訴えを聞いてやれぬ自分が、情けなくて。
「……私は、貴女を離したくない。貴女を喪えば、この世界は全ての色を失くし、不幸しか呼ばぬだろう」
「いいや……違う。それは、違うぞ鴛青」
鴛青の身体を起こして、戸惑ったその瞳を見つめる。
――不幸ではない。この世界は決して。鴛青の手を引き、無理矢理立たせて我が子が眠る揺り籠の前に二人で立つ。
「この子は、……私とそなたを繋ぐ者。一度切れかけた絆を手繰り寄せて……そうして、私とそなたにこの上ない、幸いをもたらしてくれたではないか。この子が在る限り、世界は幸いに満ち溢れておる」
無邪気な顔で眠り続ける我が子は、まだ世界を知らぬ。だが、どうか優しい世界であって欲しいとひたすらに願う。私が道を拓き、宋鴻が道を創り、鴛青が繋げてくれるその世界に、この子は生まれた。何が待っているのかは分からずとも、その名に籠めた想いが花開くことを母は祈る。
「この子の名は、……菖蒲、『吉報』だ」
「菖蒲……」
呆然としたまま呟いた鴛青の手を引っ張って、二人で菖蒲に触れる。
「そなたは強く、生きねばならぬ。菖蒲を守り、この世界を守ってゆく為に。そして、誰かの幸いを守る為に」
堰を切ったように泣き続ける鴛青の背をもう片方の手でさする。
「私とそなたの絆がたかが死んだくらいで消えると思うておるのか。世の理を歪めてまで、私をこの世界に呼び戻したのは、そなたのその重苦しいまでの愛情があったからだ。それがなければ、私は此処にない」
「……紫は、なんて冷たい女だろうか。菖蒲が紫に似ぬようにせねば……」
泣きながら笑う鴛青は、片方の手を菖蒲の頬に当て、愛おしむように撫でた。何処までも優しいその仕草に、私も自然と鴛青の肩に身を任せていた。
「私は、そなたの阿呆が移らぬかどうかの方が心配よ……」
「阿呆が少しくらい移った方が、貴女の毒気と混ざって丁度いいかもしれぬぞ」
「毒気だと?!」
抗議の声を上げかけた口が慌てて塞がれる。菖蒲は僅かに顔を歪めさせたが、泣き出すことはしなかった。溜息を吐いた鴛青にそのまま縁側に連れ出される。
「全く、菖蒲が寝ているというのに大声を出すとは」
「そ、そなたのせいだろうが!」
「分かったから、分かったから……もう少し静かに」
馬鹿にされたように頭を撫でられたが、私はその手を避けることはなかった。少しでも触れ合っていたい想いが通じたのか、私の腰に鴛青の手が伸びて、引き寄せられる。
「……あの子は、菖蒲は……おそらく、普通ではいられぬ」
鴛青の肩にもたれたまま、私は桜を見つめていた。
「菖蒲の力がどの程度あるのか……まだ、分からぬ。師匠の魂は引き継げるものではない故、私を超す程の力はないと思うが……私自身の力も強大だ。私は子を成すことは考えておらなんだ……故に、そのようなことを師匠に聞いたこともなかった」
胸を過ぎるのは、李人のこと。常人の母胎を通してさえ、李人は羅人の力を継いだ。菖蒲は私の胎内を通して産まれている。そのような菖蒲がなんの力も受け継がぬはずはない。
「力がいつ発現するかは、神のみぞ知ること。それにも拘らず、制御するはずの母である私はない。蝙蝠があれば……まだ、よかったやもしれぬが」
「その蝙蝠は今、何処に……」
「分からぬ。あれは本来師匠のものであったし……宿主を喪い、滅びたか……それとも、新たな宿主を探しているのか……」
このようなことになるのなら、正式に継承の儀をするべきだったが、今さらそれを悔やんでも遅い。
「大抵のことならば、鴉が対処してくれるだろう。天狗としての生は終わったとゆうても、完全に力がなくなった訳ではないからな。故に、そなたの手に負えなくなったら、鴉の許へ。鴉も心得ておる。まあ、そなたが行くよりも先に鴉の方が飛んできそうだが」
「誠に、しっかりした母親だな……其処まで考えていたのか」
「当たり前だ。逃れられぬ運命を菖蒲に与えてしまった私の責任よ。出来ることなら、私が傍にいてやりたかったが、それが叶わぬのなら……今考えられぬ最善を菖蒲に遺さねば」
鴛青は紫苑の後ろに回り、ぎゅっと抱きしめた。こうして抱きしめると紫苑が安心することを鴛青は随分前から知っている。自分では気づかぬ内に震えている紫苑をどうにかして守りたかった。
「……私たちの娘ならば、大丈夫だ。たとえ、強大な力を授かってしまったとしても、己の境遇を嘆くことよりも、明日を見続けるような……そんな強い子になるに違いない」
紫苑の手が自らのと重なって、淡い熱を発する。お互いにその熱にしがみついて、お互いにもたれ合って、そうして二人は立っていた。そうでなければ、白み始めた空を見続けることは出来なかったから。
「そうだな……そなたが申すと、誠にそう思えてくるから不思議よの」
紫苑が強く掴まった手が痛い。
引き裂かれそうに辛いのは、きっと鴛青だけではない。自分も置いて、菖蒲も置いて、紫苑は今度こそ本当に独りになる。発狂してもおかしくないその孤独に耐えられているのは、偏に紫苑の誇りがそうさせているだけ。
「……これ程にも、離れ難くなるのなら、……いっそ知らぬ方が幸せだったのか」
ぽつりと漏らしたのは、紫苑の本音。
「生きることを望んだのは、これ程までの寂しさを知る為だったとゆうのか……」
紫苑の肩の向こうで、桜が散る。
はらはら、はらはらと絶え間なく、紫苑を黄泉路へと誘うかのように。腕の中に抱きしめることでそれをなんとか留めようとしても、残酷にも太陽は昇る。
「それでも、私は紫に会えて幸せだった」
たとえ、短い間だけであっても。たとえ、その後に訪れる絶望がさらなる痛みを伴ったとしても。
「菖蒲を腕に抱き、そして……貴女を再びこの腕に抱けている幸せを思えば、私の人生は……素晴らしいものであった。紫もそうであろう……?」
哀しみよりも何倍も勝るのは、その幸福感。愛し、愛されて……短き人の一生において見つけることすら困難な、己にとって最良の人をも見出せた。そして、愛の証とも言うべき我が子、菖蒲を天から授けられた。
その人生を、誰が不幸だと言えるだろうか。
「鴛鴦の契りを」
雄の鴛と雌の鴦。常に寄り添い続けることから生まれた美しい言葉。
鴛青は紫苑から離れ、目の前で片膝をつき、驚いている紫苑の片手を取った。白く小さなその手に口づけを落とすと、微かに震えたのが分かった。
「共に生きてゆきたいと思える人は、貴女意外におらぬ。たとえ、今この時が過ぎれば生涯目にすることの出来ぬ貴女だとしても。それでも、貴女は私の傍にいて……声が聞けずとも、姿が見えずとも、……私が人生を懸けて愛した人は、ずっと此処に居続けてくれるのだろう……?」
紫苑の言葉をなぞるように紡ぐ誓いの言葉。
明日も、明後日も、死が二人を別つその時まで、共に老いていきながら、他愛のない喧嘩をして、当たり前の日常を慈しみながら、そうして生きていきかった。自分以外の人の前では、素直になれぬこの愛しき人の手をずっと、ずっと……放したくなかった。それでも、……
「紫……どうか、私の妻に」
それでも、自分は生きてゆく。
最愛の人が喪われた世界を、最愛の人が遺してくれた愛し子と共に。――最愛の人が自分に願ったことを、叶える為に。
泣き崩れた紫苑を精一杯抱きしめる。紫苑の匂いを、熱を、記憶を、一つも忘れぬように。
「返事はくれぬのか?」
「……馬鹿、鴛青。今頃遅いわ……女子を待たせおって……」
「いつも私の方が置いてけぼりを食わされて、待たされる身だからな」
「そなたがとんまで間抜けだからだ。……それなのに、そのようなそなたを愛してしまうとは……全く、私も間抜けよ」
腕を解いて、二人で向き合いながら笑った。そんな他愛のない遣り取りが無性に嬉しくて。
「夫というものは、もっと頼りがいのある男のことだと思っておったぞ」
「妻というものは、もっとお淑やかな女子のことだと思っていたぞ」
想像していた夫婦とはかけ離れた相手だが、それでも不思議とこの人以外に番になれる人はいないとも思える。だからこそ、唯一無二のその相手を喪うことが、これ程に苦しいのだ。
紫苑の頬に手を走らせて、そのまま引き寄せる。長い長い口づけを交わして、唇が離れた時、吐息を漏らすように紫苑が呟いた。
「……さて、迎えがきたようだ」
はっと天に視線をやれば、暁の太陽が闇を追い払って、新しい朝を引き連れていた。希望に満ちた夜明けであるはずなのに、心は引き裂かれるように痛い。
「菖蒲を」
無言で頷いて、揺り籠に眠る菖蒲を抱き上げた。そのまま紫苑と共に庭に下り、まるで定められていたかのように桜の許へ向かう。枝が天を覆い隠すように伸びたそれで、紫苑をこの世界に絡め取って欲しいと願うが、桜はさらさらと風になびいただけだった。しばらく、桜を見上げていた紫苑がこちらを振り向き、腕の中の菖蒲に触れた。頬に口づけをして、母親らしい情愛を込めた眼差しで菖蒲を見つめた。
「どうか、菖蒲を頼む」
「分かっている。菖蒲は私が必ず守る」
鴛青の言葉に安心したように微笑んだ紫苑は、再び自分を見上げた。
「愛している……鴛青」
そして、紫苑自ら唇を奪い、触れるような最期の口づけを交わす。その行為に、微かに震えてしまったことをどうか紫苑に知られていなければいい。菖蒲がいることでどうにか抑えている衝動が、今にも爆発しそうになる。
「愛している……紫」
出来ることなら、引き留めたい。どれ程格好悪くてもいい、紫苑を得られるのなら。それでも、自分がそうして引き留めることは、紫苑にとって一番辛いということも分かっていた。切なげな表情をした紫苑に精一杯の笑顔を返して、鴛青は菖蒲ごと紫苑を抱きしめた。
「紫苑の意、決して忘れぬ……」
『君を忘れず』
紫苑と出会った日。紫苑と再会した日。紫苑と語らった日。紫苑に触れた日。紫苑と共に戦った日。紫苑が喪われた日。紫苑が還った日。そして、菖蒲が産まれた日。そのどれもが、かけがえのない日々だった。忘れられるはずがない。そのような美しい日々を。
腕を解いて、紫苑は桜の幹に手を触れた。太陽が差し込み、その身体がきらきらと宝石のように輝きを放つ。
「……このような奇跡は、もう二度と起こらぬ」
徐々に陽に透けてゆく紫苑の顔を見れば、それが真実であることは容易く分かった。だが、鴛青は不敵に微笑みを返す。
「この世界に絶対はない。そうだろう?」
ただの悪あがきかもしれない。それでも、人の願いが世の理を僅かでも動かすことを、此度の奇跡が語っている。ならば、鴛青は願い続ける。
「故に、私はいつまでも、……いつまでも此処で、貴女を待っていよう。……いつの日か、会う日の……夢を、見よう」
いつの日か、自らも命を終えて、土に還るその時まで。この世ではない世界で結ばれることを信じて、鴛青は待つ。鴛鴦の契りを交わした唯一の妻に、再び愛を誓う為に。
紫苑は一瞬だけ驚いて、だがすぐに呆れるように笑った。その口が『馬鹿ね』と動いたのを最期に紫苑の身体は光の粒となって、天へと昇っていった。
「また、会おう。……いつの日か」
天に向かって囁いた鴛青の瞳から、涙が散った。それでも、あの時の絶望に塗れた自分とは何処か違っていた。腕にずっしりとかかる命の重さが、今の鴛青を生かしている。
――『吉報』。その名に込められた想いが、どうか自分たちの生を導いてくれることを鴛青は願った。