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花六日

「私を解放してください」

 鴉は何百年ぶりに再会した鷹に、開口一番そう告げた。

 羅人を亡くし、そしてついに最後の主紫苑も亡くした。本当に全てのものを失った鴉は、自らの命を終わらせる為に、鷹と契約した天狗としての生を破棄するつもりだった。破棄したとしてもこの身に残る力は、すぐに消えるものではない。それでも、いつの日か迎えるだろう死を夢見ることが出来る。

 紫苑が遺した人々に仕えるという道もあった。だが、鴉はどうしても羅人と紫苑以外の人に仕える気にはなれなかった。二人が望んだことだと分かっていても、二人だけがいない世界で、命を懸けた二人を敬わず、のうのうと暮らし続ける人を鴉は愛せなかった。そんなことを紫苑に言えば、馬鹿者と怒られるのだろうが、鴉にとって紫苑はそれ程に敬愛した主だった。

 久方ぶりに姿を現した自分に、鷹はなんの言葉もかけなかった。何かを期待していた訳ではないが、端くれでも同じ天狗である自分も感情の起伏はあるというのに、鷹にはそれが全くないとしか言えぬようなその態度。

「契約に反することは重々承知しております。されど、どうかお聞き届けください」

 深々と頭を下げる。

 以前紫苑に話したように、契約を交わした以上それを覆すことは不可能に近い。しかも、鷹の力は強大で言うまでもなく情を解さない。契約を破棄するどころか殺されることもあり得る。いいや、殺されるならまだいい。契約も破棄されず、夜叉やさらにおぞましいものに堕とされれば、死よりも惨い苦しみを永遠に味わい続けることになる。

 恐ろしい程の静寂が鷹と自分の間に堕ちた。それでも、鷹は何も発さない。耐え切れなくなって、恐る恐る顔を上げれば、鷹がこちらを見ていたのに気づく。表情のない美しい顔にある双眸は何処までも冷徹で、それが一度だけ瞬きをする。その瞬間に、鴉は全てが終わったことを知った。



(……す)

 声が聞こえる。目覚めるはずのない意識の底に、自分はいるというのに。

(ら……す……)

 黒くねっとりとした液体の中に、沈められていた身体が微かに動く。それでも、魂は未だ囚われたままで、固く閉じられた瞳は開かない。

(から……す……)

 声がさらに強く、鮮明になってゆく。その声は愛しさと懐かしさを孕んで、久しく感じなかった鼓動の高鳴りを知る。

(から、す)

 声が一際響いて、私を包んでいた液体がざあっと引いてゆく。温かい光が見えぬ瞳の上から差し込み、自分で抑えることも出来ずに涙が零れ始めた。私はこの光を知っている。温かくて、愛しくて、私に生きる希望を与えてくれた、私の主。

(鴉)

 涙が止まらない。何故だとか、そんな陳腐な問いはどうでもよかった。それよりも、私は恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がなかった。このような惨めな姿に成り果てた私など、決して見られたくはなかったのに。

(もうし、わけ……ありま、せぬ……)

 紫苑の唯一の臣としての誇りが今まで鴉を支えていた。鷹に無我の境地に堕とされた後も、それだけが鴉の希望であった。それがずたずたにされたような気がして、鴉に残されていた最後の心の欠片が砕け散る予感がした。

(許さぬ。そなたは生きよ)

 心臓に手が伸ばされる。たったそれだけで心ではなく、魂を囚えている枷の一つが砕け散った。あまりの驚きにさらなる痛みを感じる。これ程までの力を持った紫苑が、どうして私のような者に魂の危険さえ省みず、情けを与えるのか。何も成せず、ただ朽ちてゆくばかりの私に。

(私が与えるのはただ一つ。あとはそなたが選択せよ)

 強烈な光と共に、与えられたのは衝撃。残っていた枷の半分が壊れ、戻ってきた力に発狂しそうになる。だが、紫苑はそれでも足らぬと言わんばかりに一つの名を堕とした。

「娥江」



 はっと鴉の目が開く。

 やっと息をすることが出来たかのように荒い呼吸を繰り返し、極度の頭痛と耳鳴りに胃の中のものを吐き出してしまいそうになる。さらにずっしりと感じる何かの重みが胸の上にかかって、身体を起こすことすらままならない。その何かがぴくりと動き、鴉の視界にさらりと髪が零れ落ちる。その瞬間に漂うほのかな香に、鴉は瞬時に覚醒した。

「紫苑様!!」

 重過ぎる自らの身体も忘れて飛び起きる。しな垂れかかるその身体を助け起こして、何回か揺するがなんの反応もない。

「紫苑様!! お願いです! どうか、目を開けてください!」

 混乱して、身体を揺すりながら叫ぶ。もしや、自分を助ける為に紫苑が犠牲になってしまったのか。鴉は人格も忘れ、半狂乱になって叫び続けた。紫苑を犠牲にしてまで、助かりたかった命ではないのに、それなのに自分のせいで紫苑を……?

「大丈夫だ」

 泣き叫ぶ鴉の隣に、懐かしい人が座り込む。

 あの日、最後に見た鴛青は紫苑の抜け殻を抱き、ただ泣き続けていた。だが、今の鴛青はそれが幻であったかのように、一本強い信念を胸に抱いているように思えた。何も出来ずに鷹の手足となり、紫苑が命懸けで守った世界を壊そうとしていた自分とは雲泥の差だった。

「鴛青、殿……」

 鴛青がそっと紫苑の身体を抱き、額にかかった髪を払う。触れるような口づけを交わし、耳元で囁く。

「紫」

 すると、紫苑の瞼が震えた。ぴくりと指が動き、微かに顔が歪む。

「紫苑様!」

 勢いで言葉を放つが、紫苑はそれを迷惑だというようにさらに顔を歪めた。

「……うる、さい……少し、気を失っていただけだ……」

「紫苑様!!」

 いても立ってもいられず、紫苑の両手を強く掴んだ。

 瞳を閉じたまま動かぬ紫苑の姿は、容易に恐怖を引き寄せた。全て失うという己の宿業に紫苑をも巻き込むならば、終わりの訪れぬ生の中で彷徨い続け、精神をも発狂し、さらなる闇に堕ちることすら厭わぬのに。

「魂を呼び戻すなど、紫苑様とてやってもいい術と決してやってはならぬ術はあります! 何故、ご自分を擲ってまで私などを助けようとなされるのです!! 私は自ら死を選んだというのに……」

「私が勝算なき賭けに打って出る訳なかろう。それに、自らを貶めるようなことを申すでない。多少の危険を買ってでも助ける価値があるのだ、そなたにはな」

「されど! 私が自ら招いた不始末を紫苑様が清算する必要などありませぬ!」

「いいや……私のせいだ」

 紫苑の顔が微かに陰る。

「そなたのことを羅人師匠より託されていたのに、あの時の私は己にばかりかまけてしまった……すまぬ、何を言うても、最早言い訳にしかならぬな」

 鴛青に助けられて、紫苑は立ち上がる。だが、鴉は紫苑の言わんとしていることが理解出来ずにいた。

「紫苑様……? どういうことなのですか? 羅人様がなんと」

「それは……そなた自身がもう分かっておるはずだ。そして、あちらもな」

 大きな衝撃と共に、目の前に宋鴻と縺れ合った鷹が落ちてきた。鷹の攻撃を反射的にかわした宋鴻は、このような状況にも拘らず、何処か愉しげであった。鷹もそのような宋鴻を面白がるように見つめてから、こちらを向く。

「得たか」

 鷹が誰でもなく、自分に対して言葉を放つ。今まで鴉に見向きもしなかった鷹が。

「立つのだ。……娥江」

 鴉の身体が震えた。どうして、その名を。

 その名は鷹と契約を交わした時鷹に捧げ、鴉として新たな生を得た私はその名を失くしたというのに。どうして、その名を紫苑が?

「……流石、と言うべきか。羅人という人は。そして、その方も」

 鷹が愉快そうに紫苑を見る。それに応酬するように私もまた笑い返す。

「存外に容易だったとおっしゃっていたぞ? そなたもついに耄碌したのであろうな」

「紫苑様……?」

 戸惑ったままの鴉の手を引き、隣に立たせてやる。

「師匠は、そなたを自由にしてやる為の手を考えていらっしゃった。その過程で得たのが、そなたの真名だったのよ。私は師匠が亡くなる前にそれを受け継いでいた」

「しかし……羅人様は何故、私の為にそのようなことを……? 私は羅人様にお渡し出来る対価など何も持ってはいないのに……」

「それならば、既に充分過ぎる程貰っておる。師匠と私の両方でな」

 瞳を伏せて、鴉に対して僅かに頭を垂れる。

「……そなたの長きに渡る忠義に、心からの敬意を」

 鴉の瞳から、一気に涙が零れた。嗚咽を漏らし、私にしがみつくようにして膝から崩れ落ちてゆく。その背を一度だけ抱きしめて、鷹に向き直る。

「鴉の解放に必要なものは、鴉の真名とそして契約主であるそなたの命。鴉の真名は既に得た。なれば、あとはそなたの命をいただくのみ」

「その方如きに奪われる我だとでも?」

「違うな。そなたは自ら差し出すつもりだろう」

 貼りつけた笑みのまま、鷹は私に向かって攻撃を発した。なんの前触れもなく唐突に。

「紫!!」

 私を庇おうと血相を変えて飛び出した鴛青とは正反対に、私はただ鷹を見据えていた。そして、涼しい顔のまま指の一本も動かさず、結界を操る。轟音と強風が髪を絡め取るように吹き荒れても、私はもちろん全ての人が毛程の傷も負わなかった。誰もが驚いていたが、最も驚いたのは鴉であった。

「鷹、殿……?」

 戸惑いを滲ませた声が私ともちろん鷹にも届いた時には、鷹は羽を広げ、天にはばたいた。それに呼応し、私も地面を強く蹴って鷹の姿を追った。しばらく悠々と目の前を飛び続けていたが、鴉たちに聞かれぬ距離まで開けると、鷹はくるりとこちらを振り向いた。

「……何で気づいた」

 飄々とした態度は変わらぬが、私は既に気づいていた。鷹の寿命を。

「森はその主に呼応するもの。そなたの霊気を始めこそ感じたが、今は薄れている。それ故にだたの人でしかない者たちが、たとえそなたが本気を出さずとも、相手をすることが出来た。それに、誇りを重んじるそなたが私を一思いに殺さぬのもな……最早、私を殺す程の力など残ってはおらぬのだろう」

 鷹は鼻で笑いはしたが、それを否定することはなかった。その態度に、私が言ったことが事実であるのを知る。

「天狗は……不死だと聞いたが、違ったのだな」

「不死であるのは、事実よ。それど、我は森を守る為に在り、それ故に力を使う。……我が申すことはその方も身に覚えがあろう」

 力を使うことの代償。

 今はない背中の桜を想う。そして、刻まれるごとに耐えていたあの壮絶な痛みも。全ては、なんの代償もなしに叶うものない。その世の理が廻り続ける為に。

「されど、衰えゆく我が身を晒し続けることは、我の誇りが許さぬ。潔く散ってこそ、……我が命というもの」

 再び羽を動かし、断崖絶壁が広がる森の奈落の上を飛ぶ。その妙にゆっくりとした動きが、先程まで微塵も感じさせなかった老いを滲ませていた。

「鴉を残してゆくのか」

 ふわりと風に漂いながら、鷹はただ天を見上げていた。

「あれにはあれの道があろう。我は、あれを知った日から、あれがいつの日か我を殺してくれることを願っていた。我を終わらせられるのは、娥江しかおらぬ」

「鴉……いや、娥江と何が……」

「長き時を生きると……見なくてもよいものまで、見ることになる……娥江が生きて、死に……そして、また生まれ……誠に、気が遠くなる程の時が経った……今思えば、あの時の我の決断は……娥江の生を、歪めてしまっただけなのかもしれぬ」

 こちらを向いた鷹が浮かべていた表情は、あの時の羅人そのものだった。これから死にに逝く者の何もない、ただただ真白な微笑み。

「鷹!」

 引き留めても無駄なことは分かっていた。だが、私は思わず声を上げていた。だが、鷹は伸ばした私の手を取ることもなく、ただ懺悔に似たそれを告げる。

「娥江は、我の愛しき者の生まれ変わりであった」

 驚きに言葉を失った私の目の前で、鷹の羽が止まった。羽ばたくことを止めた身体は空中でぐらりと傾き、そしてそのまま奈落の闇へと落ちていった。

 一言の声も上げずに、鷹は最期まで誇り高く死んだ。その潔い死に様に、私はなんの言葉も発することが出来なかった。



「鴉……すまぬ」

 戻ってきた私を出迎えた鴉に、開口一番にそう告げる。

 鷹がそう望んだとしても、言わずにはいられなかった。私が羅人に抱く感情と違うとはいっても、鴉も鷹に対して何かしらの感情は抱いているに違いないのに。

「いいのです……鷹殿がそう望まれているのかもしれぬと、私も薄々気づいておりましたから。されど、最期まで羅人様と紫苑様のような師弟関係を、築くことは出来ませんでしたね……元々、そういう間柄では、ありませんでしたが」

「そうでは……」

 やるせなく笑う鴉に、私は思わず鷹の最期の言葉を告げかけた。だが、言葉がそれ以上紡がれることもなく、私は呑み込んだ。あの言葉だけで、鷹が鴉に対してどう想い、接していたのかが分かる。それでも、鷹が最期までそれを鴉に言わなかったのは、鴉が天狗になる道を選んだ理由を鷹自身が一番よく分かっていたからなのだろう。

「……鷹は鷹なりに、そなたを……大切にしていた。決して、無関心だった訳ではない」

 ぼそぼそと呟いた私に、鴉は驚きながらも深く安堵したように笑った。その穏やかな横顔は何処までも優しくて、私は真実を告げることをやめた。真実が全て暴かれる必要はない。おそらく鷹もそう思い、鴉の今の幸いを守ったのだから。それを壊す権利は私にはなく、それにもし本当に明らかになるべき真実ならば、いつの日か鴉が知るその時に全てを任せよう。

「あの者は、死んだのか」

 気づけば、共に戦ってくれた者たちが私たちを囲むように立っていた。その内に宋鴻を認めると、手を組んで、頭を垂れる。

「申し訳ございませぬ。私の力が至らず、鷹は自ら谷に身を落とし、自害いたしました。声一つ上げることなく、潔い死に様であったと」

「誠に死んだと確かめたのか。あの者は空を飛べるはず」

「鴉を見れば分かります。鷹の死がなければ、この者は此処に留まることは叶いませぬ」

「相分かった。その言葉、信じよう」

 宋鴻が剣を鞘に収め、それに倣い鴛青たちも警戒を解き、剣を収めた。それを認めると、鴉が威儀を正して宋鴻の前に膝をついた。

「此度の騒動は全て、私の不徳とするところ。我が主、紫苑様にはなんの咎もありませぬ。あなたが私に死を与えるというのなら、私は命を以って罪を償いましょう。されど、紫苑様にだけは決して手を出してくださいますな。私にとって、あなたの命令よりも、紫苑様の命の方が大事にございます故」

「王である私よりも、紫苑を選ぶというのか」

 宋鴻は別段気を悪くした風でもなく、ただの興味で鴉に尋ねる。それに鴉は頭を上げて、いっそ清々しい程に答えた。

「ええ。天狗であった私に人の王など、価値はありませぬ故。我が身を捧げるに値する人はこの世界で、紫苑様以外にはいないのです」

 鴉のその答えに、宋鴻は心の底から笑った。

 王に価値はない。あるのは、紫苑ただ一人だけだと。即位してからというもの以前にも増して、自分の前で本心を語らなくなった者たちばかりの中で、鴉は違った。その姿は、鴉の後ろでこちらを射殺さんばかりに睨みつけている紫苑に、よく似ていると思う。

「ならば、そなたにのみ罰を与えよう。怪しげな妖術で人心を惑わし、民を恐怖に陥れたそなたの罪は重い。そなたが申すように死を以って、それを償うのが最も相応しい」

 鴉はそれを妥当だと受け入れ、頭を垂れようとした。

「……だが、そなた自らの意志ではなく、操られていたと聞く。残念ながら、その黒幕と思われる人物は既に命を落とし、真実を知ることは永遠に叶わなくなった。なれど、罪の報いは受けたと認めよう」

「では、私は無罪放免ということでしょうか」

 釈然としない様子で眉を顰める鴉に、宋鴻はさらに続けた。

「いいや。そなたが此度の一件の引き金になったこともまた事実。故に、……そなたをこの森の守護者と定め、そなたの主を命果てるその時まで人々に伝え続けよ」

 息を呑んだのは鴉だけではなかった。宋鴻の思いも寄らぬ答えに、私も鴉同様言葉を失っていた。

「そなたも知るように、私の王座は紫苑あってのものだ。しかし、民はそれを知らぬ。知らぬからこそ、そなたの主を貶め、……軽んじる。それは、そなたも望むところではなかろう。……また、この神聖なる森を守る者がなくなった今、新たな守り手が必要だ。それに相応しきはそなた以外におらぬ」

「……お言葉ですが、それでは罪の贖いに相応しいとは思えませぬ。私は……」

「それ以上申すでない。私の前で、死を乞うことだけは決して許さぬ」

 一瞬で冷たい空気を纏わせた宋鴻を見つめる。宋鴻の瞳も私を見て、その言葉が鴉ではなく、私自身に投げかけられたものであることを知る。

「そなたは、生きよ。生きて、伝えよ。この時代に戦い、そして散っていった人々を……それをそなたへの求刑とする」

 鴉の肩が震えているのが分かる。

 宋鴻は、与えてくれた。鴉が望んでも決して得られなかった――生きる意を。失うばかりだった鴉の手にやっと、やっと……掴むものを。それはきっと鴉にとって、何にも変え難い幸いとなるだろう。私は表情を和らげ、宋鴻へ僅かに頭を垂れた。鴉の最後の主として、言い表せぬ程の感謝を籠めて。

「紫苑」

 名を呼ばれて、顔を上げる。

 宋鴻が片手を挙げ、他の者たちにこの場を離れるように合図をしている。皆が足早に離れてゆく中で、私は人知れず緊張していた。今すぐこの場を逃げ出せるのなら、そうしたい。だが、何故か足が地面に縫いつけられたかのように一歩も動くことが出来なかった。

「紫苑」

 再び、宋鴻が名を呼ぶ。無意識に宋鴻と視線を合わせてしまった私は、咄嗟にしまったと思った。苦笑するようなそれでいてあの頃と全く変わらぬ穏やかな瞳。私の頬に涙が走る。

「そなたには苦労をかけたな……」

「苦労など、そのような……私は、ただ……我が君に生きていただきたかった、だけなのです……」

 逃れらぬ運命を変えて、未来を遺し、そうして新たな世界に宋鴻を留めたかった。全ては、私の我侭に過ぎない。

「まだ一年しか過ぎてはおらぬが、……そなたが願ったような……桜が降るように美しい世界に、少しは近づけただろうか」

 泣きじゃくる私の涙を拭いながら、宋鴻は呟いた。その真意に気づいて、さらに涙が増す。

「その為に……この一年、無理を通されたとおっしゃるのですか」

「そのくらいせねば、そなたに申し訳が立たぬよ」

 宋鴻の声に、悔恨の念が滲む。それを悟った時、不思議と私の涙は退いていった。

「我が君……あなた様は、誠に……馬鹿にございますね」

 泣き笑いの表情を浮かべているだろう私に、宋鴻は呆気に取られて笑った。

「私に馬鹿だと? 紅玉以外に初めて言われたぞ」

「ええ、馬鹿です。馬鹿で……どうしようも、なくて……故に、もう私をお忘れになってくださいませ」

 目を見開いた宋鴻の目の前で手を組み、膝をつく。

 最期ならば精一杯笑い、そして鮮やかに消えよう。宋鴻がこれから後、私という存在を引き摺らぬよう、前だけを見て歩いてゆけるように。

「今日を持ちまして、御前辞させていただきとうございます。お許しいただけるのなら……骸骨を乞い、今度こそ……永久(とわ)の眠りに」

「……許さぬと言ったら?」

 その時、宋鴻が見せた表情は今までのどれとも違っていた。

 失われそうになっているものを、拳を握りしめることで、なんとか留めようとするかのように、酷く空虚な宋鴻が其処にいた。

「許さぬ……そなたが何故、二度も死なねばならぬ! この世界と私の為に全てを捧げ尽くしてくれたそなたが、何故!!」

「それが、世の理にございます」

 声を荒げた宋鴻を、一声で制する。本音をいえば、単純に嬉しかった。宋鴻が私の死を引き留めてくれることが。酷い裏切りを働いたこの私を。

「本来、私はいるはずのない者。還るはずのない者。そのような私がこれ以上此処に在ろうとすれば、また新たな歪みが生じましょう。それに、命を喪った私が命を得ようと願っても、その代償に差し出せるものなど、最早何もありはしないのですから」

「そなたは稀代の陰陽師であろう! どうにかする(すべ)が……そなたが生きられる術が……!」

「願っても叶わぬものがあらねば、人はつけ上がりましょう。此度は、ただ神が一度きりの機会を与えてくださっただけに過ぎぬのです。……先の生で、あれ程の罪を犯した私に。なれば後は、罪を償わねばなりませぬ」

「罪があるとしたら、それは私だ! そなたに全てを押しつけ、のうのうと王座に座っている私こそ、最も罪深い……! どうか、罰するなら私を……この声が神に届くのなら、どうか……どうか、紫苑を助けてくれ……紫苑を助けてくれるのならば、全国に何百という社を建てよう、……極上の捧げ物もいくらでも用意する……だから……」

 崩れかけた宋鴻を抱きとめる。

 震える肩に手を添えれば、なお一層震えが伝わって、治まったはずの涙が再び零れそうになる。

「感謝します……我が君……私は、我が君より多大な信頼とそして、幸いをいただきました。これ以上何かをいただいては、罰が当たります……」

 宋鴻の身体を離し、再び手を組み合わせる。

「私は我が君に仕えることが出来、誠に幸せでした。ですから、我が君はこれ以上苦しむ必要などないのです」

 私に出来ることはもうあまり残されてはおらぬが、どうか少しでも宋鴻が楽に生きられるように。

「忠告を申し上げるとすれば、少し肩の力を抜いて、周りの者たちに頼ってください。朝廷の膿は、私と策が全て出し尽くしたはずです。皆、心より我が君にお仕えしようとする者たちばかり。私に与えてくださった信頼を今度からはどうかその者たちへ」

 少し、羨ましい。

 宋鴻の許で、宋鴻の信頼を浴びて、これからの長き時を共に駆けてゆくことの出来る者たちが。私には叶わなかった夢を享受出来る者たちが。

「これから先の未来は、私も知らぬ歴史。もう、我が君に未来を教えて差し上げることは出来ませぬが、裏を返せば我が君次第で未来は如何様にも広がってゆくということ。されど、恐れることはありませぬ。我が君は、我が君が理想とされる世界を必ずや成し遂げましょう。あなた様は私がお仕え申し上げたたった一人の我が主であらせられるのですから」

「随分、自信満々に申すのだな……」

「ええ。私は、私の選択になんら後悔を持ちませぬ故、あなた様を主として、この世界を変えてくださる方として、選び仕えてきた今日これまでの私の生も、同じなのでございます」

「……嘘を吐け、私生活では後悔だらけの癖をして」

 格好つけていたつもりが、ぐっと言葉に詰まる。

「鴛青のような阿呆に子が育てられると思うのか? 子まで阿呆になったらどうする」

「……何処でそれを……」

「私はこの国の王なのだぞ。私が知らぬとでも思ったか」

 先程までの空虚さを消して、宋鴻は私に真剣な眼差しを向けた。

「故に、心配するな。子は私たちが共に守り育ててゆく。そなたの代わりにどのような災厄からも守ってやろう。母であるそなたを知らぬその子を、抱えきれぬ程の愛情で包んでやろう」

「我が、君……」

「否は受けつけぬ。真っ先に私に子の顔を見せなかった罰だ」

 私の両の手を包み、やっと微笑みを見せてくれた宋鴻に万感の思いで頭を垂れる。

「ありが、とう……ございます……我が君」

 掠れた声は『我が君』という言葉を、噛みしめるように囁いた。

 生涯、その言葉を捧げるのは、宋鴻しかいない。光輝く未来を生きるその生に、少しでも私が役に立てたならいい。それだけを携えて、私は宋鴻の生から今度こそ、身を退こう。過去の人間が未来を壊すことのないように。鷹のように、宋鴻の前でだけは、潔く去れるように。

 我が君、我が君……我が君――

「お別れに、ございます……」

 刹那、森を駆け抜けていった風は宋鴻と私の別れを見送るようだった。切なさに滲んだ胸の奥で、その風の匂いを最期の時まで忘れないでいようと思った。

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