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花五日

「失礼します」

 ここ数日間、幾度となく訪れた包拯の部屋を再び訪れる。案の定、包拯に嫌な顔をされたが策は気にしない。そのようなところが、益々紫苑に似てきたと近頃の包拯は密かに思っている。

「また、来たのか……一体どうしたのだ? 呪符の件は最近出た件でもあるまいに……紫苑殿にせっつかれたのか」

「そうではありませんが、侍御史であることを馬鹿にされましたので、ちょっと」

「見返したいという訳か。誠に分かり易い男だな、全く」

 溜息を吐きながらも、包拯も先に見ていた資料を脇に寄せ、策が差し出した資料を手に取った。

「御史の報告によると、その女が山を出入りし、呪符を配っているのは間違いないようです」

「女は普通の娘だったのか?」

「見た目は、其処らの娘たちとなんら変わりはないと。しかし、一点だけ、女は操られている可能性もありと」

「操られている?」

「女が一瞬だけ、それまでの表情を一変させた時があったようです。自分が何故、此処にいるのかも分からぬといった感じで、しかしすぐに元の状態に戻ったので、真偽の程は確かではありませんが」

 顎に手を当て包拯が唸ったが、その時扉の向こうからぎゃあぎゃあと騒ぎ声が聞こえてきた。そして、断りもなく部屋に雪崩れ込んできた面子を見て、包拯と策はがっくりと肩を落とした。

「呉陽殿……鴛青殿……何をしているのですか……」

 太尉と近衛将軍という立場を何処かに落としてきたとしか思えぬ二人に、策は盛大に溜息を吐く。ついでに此処が不正を正す御史台であるということも、すっかり抜け落ちているに違いない。今の時刻は、確実に勤務時間内であると思うのだが。

「策聞いてくれ! 呉陽殿がな、私になんの断りもなく紫苑を行かせたのだぞ!」

「某はやめた方がいいと勧めたが、紫苑が行ったのだ! そもそもおぬしが王妃様に連れていかれたからであろう!」

「王妃様?」

 初耳の包拯に飛び上がって、策は呉陽の口を塞ぐ。不可抗力だったにしろ、紅玉を外に連れ出したのが包拯に露見したら、大目玉どころではない。

「そ、それはいいですから、今日は此処に来るなど何かあったのですか? また、紫苑殿ですか?」

「紫苑しかなかろう……」

 呉陽もがっくりと肩を落とす。すぐ帰ってくるなど、紫苑の言葉を信じた自分が馬鹿だった。紫苑はあれきり夜が明けても、帰ってこなかったのだ。

「昨日、おぬしから借りた呪符を紫苑に見せたのだ。そうしたら、紫苑はいきなり犯人が分かったと言って……」

「そして、お一人で行かれたと」

 そうだと言うように、呉陽は盛大に溜息を吐いた。そんな呉陽に我慢がならなかったのか、鴛青は冗談では済まされぬ程の殺気を伴って、呉陽に食ってかかった。

「何故、止めなかったのです! 紫苑は産後一日しか経っておらぬのですよ!」

「それは、某も言った。だが、紫苑がその程度で思い留まるような女ならば、誰も苦労はせん」

 隣で反論する鴛青は別として、包拯と策は確かにと頷かざる得なかった。

「呉陽殿は、紫苑殿が行った場所に心当たりはありますか?」

「いや……紫苑は何も言わなかった。犯人の名前さえ……だが、信じたくない、故に確かめねばと」

「確かめる?」

 策はその言葉に考え込んだ。策の情報が確かであるのなら、あの山に紫苑が行った可能性は高い。だが、犯人の情報は女であるということだけで、策たちもそれ以上は何も分かっていない。それにも拘らず、紫苑はこの世界に戻ってきて数日しか経っておらぬというのに犯人を知り得た。しかも、呪符に手を触れただけで。

「何を考えておる?」

 言葉もなく考え込んだ自分に、包拯が尋ねる。

 策は、よく考えるようになったと思う。以前のように、己の感情のまま考えを吐き出すのではなく、一度溜め込んで、よく咀嚼してから、注意深く発言するようになった。侍御史に昇進させる時、まだ若いという意見の(ことごと)くを包拯は取り下げたが、それに見合うだけの成長を策は遂げている。

「……紫苑殿が底知れぬ力を誇った陰陽師であることは承知しています。しかし、今の紫苑殿はかつてとは状況が違うはずです」

 以前までの紫苑は、知り得た歴史を元に力を行使し、それ故にその力を最大限生かすことが出来得たと言っていた。されど、今の時は紫苑の知り得ぬ新しい歴史。何が起こるのかは紫苑にとっても未知数のはずであり、触れるだけで全てを見通せる程、都合のよい力があるとはどうにも思えなかった。

「呉陽殿、あと他に何か覚えていませんか? 紫苑殿の行動や些細な言葉でもいい……そうたとえば、紫苑殿特有の力に関することで」

 あの時の紫苑との会話を振り返る。もう何もないぞと言いかけたが、はっと目を見開く。

「そういえば、……」

「そういえば、なんですか! 早く、思い出してください!」

「鴛青は黙っていろ! すっかり忘れていたが、あの呪符に関することで紫苑が興味深いことを言っていた」

「興味深いとは?」

「某たちにはあの呪符はただの紙切れにしか見えんだろう? そう思って某は思い出したら出そうくらいに袷にいれておいたのだが、紫苑は某が邸に着いた時から、呪符の気を察知していたらしい」

「呪符の気?」

「なんでも、術者には術者同士しか察知出来ぬ、それぞれ異なる気なるもの持っているそうだ。名の代わりのようなもので、紫苑のような余程強大な術者ではない限り、それを消すことは出来ぬと」

「……それが事実と、したら……先程の紫苑殿の言葉を合わせると、……その呪符の気とやらが、紫苑殿の見知った人物である可能性は」

 触れるだけで犯人が分かったと言った紫苑。そのからくりは今の呉陽の話でおおよそが掴めた。ならば次に重要なのは、その分かった犯人が誰なのかということ。信じたくないというのは、その人物を以前から知っていて、なおかつ此度の事件を起こすような人物ではないと思っていた者。御史の報告にあった操られているという単語が頭を過ぎる。だが、それは私たちしか知らぬ情報であり、紫苑は何も知らぬはず。故に、確かめると……

「何?」

「紫苑殿が戻ってきてから、まだ会っていない方はおられますか? ……陛下を除いて」

 それまで一人蚊帳の外だった鴛青が、あっと声を洩らす。一気に視線を浴びた鴛青は僅かに言葉を詰まらせた。

「えっと……そういえば、鴉を見ておらぬなと」

「鴉? 誰ですそれは」

「策はおそらく見たことがないと思うが……かつて、紫苑の邸で紫苑に仕えていた者で……」

「紫苑殿の邸に、鴛青殿以外の人がいたというのですか?」

「鴉は紫苑がこの世界に来た当初から紫苑に仕えている、紫苑にとっては腹心の臣のような者よ。私と紫苑の前以外では、人の姿でいることも稀で……そうだ、呉陽殿は見たはずですよ。あの時、闘技場で黒い装束を着た、涙黒子が印象的な……」

「嗚呼、あの時……おぬしたちを包んでいった黒い翼を持った女か! あれはなんだったのだ?」

「元は人間で齢数百を超える大天狗だと……紫苑の師である、静羅人が存命の頃より仕え続け、紫苑がこの世を去ると同時に消息不明に……故に、紫苑を追って、殉じたとばかり思っていましたが」

――天狗。この事件の手がかりが呪符である以上、犯人が常人である可能性は低いと思っていたが、まさか天狗とは思いもしなかった。紫苑に頼ることはなるべくしたくはなかったが、紫苑が今この時期に戻ってきたのは、確かに意があるのかもしれない。

「……その鴉という天狗は、どの程度の力を? まさか、紫苑殿と同程度の力を持つのですか?」

「私も詳しくは分からぬが、……おそらく鴉は、紫苑には敵わぬと思う。紫苑自身も、自分より力を持つのは師以外におらぬと言っていた……だが、私たち常人の敵う相手ではないことは確かだ」

 そう言った鴛青は、くるりと踵を返した。そのまま無言で部屋を出て行こうとしたのを呉陽が寸前で捕まえる。

「何処に行くつもりだ!」

「決まっているでしょう。紫苑を迎えにいってやらねば」

「今、常人が敵う相手ではないとおぬしが言ったばかりではないか!」

「それでも、私が行かぬ理由にはなりません。愛する人を今度こそ、私は守りたい。……その為ならば、私はたとえ限りなく低い可能性だとしても、それに全てを賭ける」

 その言葉に、呉陽ははっと目を見開いた。

 かつて、紫苑も同じことを言ったのを思い出す。どのような理由を並べ立てたとしても、それはやらぬ理由にはならぬと。一筋でもいい、其処に希望があるのなら。

「……紫苑殿も同じことを言うでしょうね。分かりました。私も行きましょう」

決然とした表情で顔を上げた策に、驚いて振り返る。

「何を言っておるのだ。よい、私一人で行く」

「格好つけるのも大概にして欲しいですね、将軍。あなたは紫苑殿が向かわれた山が何処なのか分かっているのですか。闇雲に探し回る時間などありませんよ」

「ならば、場所を教えるのだ。文官のお前にやれることはない」

「そのような理由が、やらぬ理由にならぬと言ったのはあなたですよ。私は全てを見届けなければならぬのです。紫苑殿に託された未来の為に」

 鴛青は、言葉を詰まらせた。

 策は何も分かっていない。人外の力を操る者たちの戦いを。それに対したことがあるのは自分だけだ。その戦いで人外の力を操る者たち同士の凄まじい力のぶつかり合いを鴛青は見た。自分が行ってどうにかなるものではないだろう。あの時も、鴛青は何一つ紫苑の力になることが出来なかった。そのような戦いに他の者を連れてゆく訳にはいかない。

「ならば、某も行くぞ」

「呉陽殿?!」

「たとえおぬしが鬼神の如き強さを誇るといっても、おそらく武術のぶの字も知らぬような策だけでは心許なかろう」

「失礼ですね。私も多少は出来ますよ、多少は」

「呉陽殿、これは今まで私たちが相手にしてきた者たちとは違うのです。命を落とす可能性がある以上、貴方は陛下の許から離れるべきではありません」

 ただでさえ、宋鴻は一人でこの国を支えようとしている。政の上で、非常に大きな位置を占める呉陽が、今喪われる訳にはいかぬのだ。

「……鴛青。おぬしは何か勘違いしておらぬか? 某たちは、死にに逝くのではない。紫苑を連れ戻し、陛下の御代の憂いを失くす為にゆくのだ。……それに今度こそ、誰か一人に全てを背負わせるつもりはない。……おぬしならば分かるだろう」

――その痛みを。

 この一年の間に、降り積もっていった後悔という名の痛み。宋鴻より下賜された剣の柄を握る。大司馬となった時、呉陽はこの剣に誓った。宋鴻の御代を守り続けることと、もう誰一人死なせぬことを。

 容易に諦められるものではないのだ、この命は。だが、諦められぬものはそれだけではない。

「……紫苑に遺された時が、もう幾許もなきことを……おぬしなら知っておろう。故に、そうまで焦って紫苑を連れ戻そうとしておるのだろう」

 言葉を失って、唇を噛んだのが答えだった。その鴛青の態度に、狼狽した策が呉陽に詰め寄る。

「そ、それは……誠なのですか?! 何故、そんな……」

「某には分からぬ。だが、それが事実ならば某も紫苑を連れ戻すことに意があると思う。最期の時こそ、戦いもなく穏やかなままで……逝かせてやりたい。あの時、そうであったからこそ」

「……ゆかれよ」

 厳格な声が、その場に道を創る。椅子から立ち上がった包拯が其処にいる者たちを順に見据えた。

「誰もが、今この時を後悔せぬ為に。未来を拓き、明日を生きる為に。……御史台長官として命じる。策よ、一連の事件の首謀者と見られる者を連行し、紫苑殿を無事帰還させることを命ず。共に戦い、……全てを見極めよ」

 策が手を組み合わせ、上官に対する礼を取る。

「御意」

「朝廷は、貴殿らが戻られるまで私が預かる。陛下のことも心配召されるな。呉陽殿、鴛青殿……貴殿らが進むべき道を歩まられよう」

 包拯もまた、手を組み合わせる。

「貴殿らにこの国の次なる道を委ねる」

 静かに頭を垂れた包拯に、鴛青と呉陽も同じように垂れた。

「包拯殿……恩に着ます」

 そして、弾かれるようにその場を後にした。

 後に一人残された包拯の部屋の扉が開く。高雅な香を漂わせたその御方に包拯は慌てることなく、最上の礼を尽くす。

「いかがなされますか。……陛下」

「私は……」

 そっと呟かれた言葉に、包拯は柔らかく微笑んだ。



 頭上から降ってきた巨岩を涼しい顔で、粉々に打ち砕く。どうやら本気を出していないのは私だけではなく、相手も同じらしい。早くに帰るつもりが、日を跨いでしまった。

「いつまでも飽きぬものよ。あれのことなど捨て置いて、男の許に帰ればよかろう」

 ばさりと羽が風を切る音がして宙を見れば、鴉と同じ黒い翼を背に生やした天狗が木の枝に腰かけていた。にやにやと意地の悪そうな笑みを浮かべたその天狗は、雪のように白い髪を背中に垂らし、片足を立て頬杖をした腕は抜けるような白磁の肌。それと正反対の漆黒の衣と翼が、毒々しい色彩を織り成す。鴉を超える長寿であるはずだが、微塵もそれを感じさせぬ若々しい姿をしている。

「私もそうするつもりだったがな……とち狂ったそなたを野放しにしておく訳にはゆかぬのだ」

「とち狂ったのは、我ではないぞ? その(ほう)の背後に庇っておる者が此度の暗躍者に相違あらん」

 苦しげな表情で、一時気を失っている鴉をちらと振り返る。

「私にそのような戯言が通じると?」

 再びの視線を天狗に向けた時には、私の顔から一切の笑いが消えていた。

「本来、そなたのような存在は人界に踏み入らず、自然と共に在り続けるのが真の姿のはず。人を妖術によって誑かし、あまつさえ望んでおらぬ者をそなたの道楽に巻き込むとは、伝説の大天狗の名が泣くとゆうもの。……のう、鷹」

 にいっと唇を三日月に歪ませて、鷹は嗤った。枝から飛び降り、音もなく私の前に降り立つ。

「……其処まで我に敬意を払わぬ人の子は、その方くらいよ。鴉ですら、我に出会った時頭を垂れたとゆうに」

「鴉をこのようにしたそなたに払う敬意など、端から持ち合わせておらぬわ。私が膝下を屈すると決めたのは、この世でただ一人。例外はない」

「誠に……人の性を現したような傲慢な娘よ。その傲慢さが、己が身を再び滅ぼすことになろうとも、その方は決して退かぬ。だが、その潔いまでの傲慢さはいっそ見ていて小気味いい」

 女のような長い睫毛を伏せて、鷹は近くにあった木の枝から一枚の葉を取る。そっとそれに唇を寄せる様は、見た目の年齢にそぐわぬ静けさを滲ませていた。

「……何が目的だ」

 ゆっくりと瞼を押し上げ、私を見た鷹はただ静かに笑っていた。

「目的? それは鴉に聞けばよかろう。尤も聞けたらの話だが」

 先程口づけた葉が、鷹の掌上で浮かび上がる。それに呼応するように背後で意識を失っていたはずの鴉がゆらりと立ち上がる。身を翻して鴉を観察すれば両腕がだらりと垂れ、意志の強い瞳が宿っていた其処には、ただ虚ろな(まなこ)があるだけだった。

「その方の傲慢さで、それの所業を裁くがよい。命を救ってやるも命を滅してやるのも、その方の自由。されど、命を救えば自我を失ったそれはその方の主の世界を壊し、逆に滅するならば……その方に尽くし続けたそれの忠を踏み躙るということ」

 かっと頭に血が昇った私は、鷹の足元に向かって攻撃を発した。それを難なく避けた鷹は、ひらりと再び木の枝に着地した。

「我をどうにかしようとしても無駄よ。今それを動かすのは、それ自身の意思。我はきっかけを与えてやったに過ぎぬ」

「そなたの道楽も此処までくれば、悪趣味以外の何者でもないな!鴉はそなたの弟子であろうが!」

「その方ら人の子の弟子というものがなんなのか天狗(われ)は知らぬ。故に人の勝手な理屈を当て嵌めようと考えるな。天狗には天狗の流儀がある」

 せせら笑いをしていた鷹の表情が一瞬にして剥がれ落ちる。冷たい刃の切っ先のような鋭さに、鷹の本質を見出す。

 鷹は、天狗を統べることの出来得る力を持つ者。されど、自由気ままな性にそれは似合わず、多くの伝説を残したが子飼いの天狗や弟子を一人も置かぬ一匹狼のような生を送っていた。それに変化をもたらしたのが、鴉との出会い。他との係わりの一切を拒み続けていたはずの鷹が、何故か鴉を受け入れ、その身を天狗に変えた。その後も鴉を殺すでも世話をしてやる訳でもなく、ただ遠くから見ていた。鴉が鷹の許を離れ、羅人を主に決めた時も鷹は言葉も感情も、何も発さなかったと鴉に聞いたことがある。

「……なるほど。ならば、私も天狗の流儀など知らぬな」

 言い返した私に、鷹は我が意得たりというように再び笑みを戻す。

「私は私の願いの為に、全てを懸ける覚悟をとうに決めておる。我が君の御代を阻むものあれば、私は全てを滅す」

「さすが、羅刹と呼ばれただけはある……その方は己の願いの為に、鴉を殺すか」

 地面を蹴って、一気に鷹との距離を詰める。驚いた様子も見せず、不敵に私を見つめ返した。

「阻むものは全てと言った」

 視線を交わす二人の間に、黒い影が光の速さで遮る。飛び退いた私の前に、鷹を庇うように虚ろな目をした鴉が立ち塞がる。

「やはり、その方は傲慢よ。神にも等しい我に盾突くとは」

 鴉が羽ばたかせた翼から矢のように羽が放たれる。それを、片手で横に払い落とす。

「さて……真の傲慢は、どちらやら。私を縛る枷であった蝙蝠(かわほり)は、最早ないぞ」

 手を天に翳し、暗雲を呼ぶ。忽ち猛獣の唸り声のような轟音を響かせて、天は荒れ狂う。それに対するかの如く、鴉もまた陣を出現させた。膨れ上がる力が森を振動させ、異常にも思える気の高ぶりが伝染してゆく。それらが、今にも衝突しようかという時でも、ただ鷹は冷静だった。長い髪をそっと掻き上げ、荒れ狂う天を仰ぐ。

「それでいい……己が望むものは、己が手で掴まねば」

 そして、世界が揺れた。


 *


 その衝撃は、其処にいた全員が気づいた。

 今までに感じたことのない揺れ。足元を掬われるようなそれに鴛青は思わず天を見上げていた。

「なんだ……あれは……」

 隣に立ち尽くしていた呉陽も絶句する。墨で塗りたくられたような雲が天を覆い尽くし、巨大な渦となって、今にもちっぽけな自分たち人間を呑み込もうとしていた。

「紫……」

 口走った名は、ざわざわと鳴り合う木々に紛れてすぐに消えた。どうしようもない不安が自分の胸を支配している。それでもぎりぎりのところで冷静さを保っているのは、一つの確信だった。

「……行きましょう」

 鬱蒼の茂る木や葉を押し退けて、鴛青はその先を目指す。

「ですが、闇雲に動き回るのは得策とは言えないかと」

「確かにな。鴛青、何か策はあるのか」

 黙り込んだ鴛青に、呉陽は盛大に溜息を吐く。

「そんなことだろうと思った。いいか、無謀なことをやらかすのだけは決して許さん。某たちは戻らねばならぬ場所がある」

「では、どうやってこの広大な森から紫苑を探し出すというのです!」

「いいから、話は最後まで聞け! 先程、気の話をしただろう。通常は某たちには分からんものだが、紫苑程の術者であれば某たちにも分かるように発現させることも可能だと、紫苑が言っていた」

「気を発現させる? それはどういう意ですか」

「某もよく分からん! だが、紫苑が万が一のことを考え、且つ某との会話を忘れておらねば、それが何処かに残っているかもしれん」

 目を見開いたまま視線を辺りに這わせる。次第に、暗雲が立ち込めていた天から、冷たい雫が落ち始めた。呉陽が憎憎しげに天を見上げ、鴛青に向かって叫ぶ。

「その気とやらがどのようなものかは分からん! だが、おぬしならば判るだろう!! 紫苑の何かをおぬしが感じ取れぬはずはない!」

「なんて無茶苦茶な……」

「うるさいぞ、策! 青二才は黙っていろ! 鴛青……おぬしと紫苑の絆だけが、今は頼りなのだ」

 今や雨は叩きつけるかのように降り続けている。紫苑の欠片とでもいうべき気を残酷にも全て流し去ってしまおうとするかのように。鴛青は瞳を閉じて立ち尽くした。鴛青にとってもなんの確信もなかった。それでも呉陽が言ったように、もし見つけられるとしたら自分しかいないという確信だけはある。

 雨が降り続ける。その音に紛れて、一時紫苑と過ごした束の間ともいえる今日までの数日間を思い出した。紫苑に再会した喜び、この腕に抱けるとも思っていなかった我が子との出会い。紫苑はおそらく自分に哀しみしか与えられぬと思っているのだろうが、それは違う。紫苑は自分にとっての幸いだ。

――これ以上ない程の。

「そうだろう……紫」

 そっと瞼を開く。目の前の獣道にうっすらと光が走っているのが見える。思わず踏み出した鴛青の耳に懐かしい笑い声が響く。

(嗚呼、そうだな鴛青……幸せよ)

 その声に光が一層の輝きを放った。柄に手を伸ばして、すらりと抜き放つ。

「……道は分かりました。行きましょう」

 鴛青は凛と面を上げ、紫苑がいるであろうその奥を見据えた。


 *


「随分、手間取っているのではないか?」

 馬鹿にしたように笑いながら、鷹は木の上で見物客と決め込んでいる。

「そなたの厄介な暗示のお陰でな! 鴉の意識を何処に隠した!」

 鷹に直接攻撃しようとしても、寸前で鴉に防がれる。鴉が此処まで私に立ち向かえるとは思っていなかったが、おそらく鷹に操られていることとこの土地柄が影響しているに違いない。それに鴉を正気に戻らせる為に、先程から攻撃の合間に鴉の意識を探っているが、どうにもこうにも掴めない。奥に踏み込もうとすればする程、侵入を阻むかのように壁が立ち塞がるのだ。

「本人に聞いてみればよかろう。何度も言うが我は何もしておらぬ。鴉自身が今の状況を望んでおるのだ」

「鴉はそのようなことを望む女子ではない!」

 鷹との押し問答に舌打ちをして、再びの鴉の攻撃を飛んでかわす。だが、着地しようとした木の枝が思った以上に細かった。体勢を立て直す間もなく、私は枝ごと落下しかけた。普段ならば慌てることもなく、別の枝に飛び移ればよいだけの話だった。だが、その時に限ってお腹に痛みが走る。そのあまりの痛みに私はお腹を抱えたまま地に落下していった。その時――

「紫!!」

 闇を劈くような声にはっと我に返る。相当の衝撃を覚悟していたがそれは訪れなかった。懐かしい香りと腕の強さに気づいた時には抱きしめられていた。

「鴛、青……?」

「よかった、間に合ったな! 紫苑の気配を強く感じた途端、天から降ってくる故、心底仰天したぞ」

 そっと地面に降ろされ、痛い程強く抱きしめられる。その強さに私は不覚にも泣きそうになってしまった。だが、その余韻に浸る間もなく、引き剥がされぺちっと頬を張られた。別に痛くもなんともないそれだが、私は鴛青のその行動にしばらく言葉を失っていた。

「紫! 私を置いて出てゆくことはないだろう! せめて、私に一言言ってからとか、共にゆくとか……他にいくらでも手段はあっただろう!」

「な、な、鴛青の癖に生意気な! 私だとて今回ばかりはすぐに帰るつもりだったのだ! だが、状況が……」

「私が聞きたいのはそのようなことではない! 紫はいつでも一人で決断し、一人で行動してしまう。それが紫の性格であることも重々承知しているが、それならば私は一体なんの為に在るのだ? 私たちは夫婦なのだ! 共に力を合わせずにしてどうするのか!」

――夫婦。その言葉に私は呆然としていた。

 鴛青が今までにない程怒っていた。だが、それは此処に来たことではなく、一人で来てしまったことへの怒り。鴛青はいつでも優しい。いつでも私のやることを認めてくれる。だからこそ、怒っている。そんな鴛青を置き去りにして、一人を選んだ自分を。

 私に怒りをぶつけながらも、私を助ける為に飛んできて、そして今も私を庇うようにその背後に立たせている鴛青に、言いようのない愛しさを覚える。

「愛する妻を守るのは、私の役目だというのに……少しくらい、私にも貴女にいいところを見せる機会を作ってくれてもよかろう」

 片方の手を握る鴛青の手が熱い。それどころか心まで燃えるように熱かった。そっと額を鴛青の逞しい背に預ける。

「……すまぬ、鴛青……ありがとう」

何故、此処まで愛おしいのか。

その答えはどうやったって理屈で分かるはずはないのだろう。咲ではなく、鴛青を生涯の伴侶に選んだ理由も、それと同じなのだから。

「お取り込み中悪いが、それは後でやってくれ」

「そうですよ。今はそれどころではないかと」

 はっと我に返って、額を鴛青から離すと呉陽と策がにやにやと笑っていた。一気に顔を赤くした私に呉陽がさらに盛大に笑う。

「な、な、何故そなたまで此処にいるのだ?!」

「何故って、決まっておるだろう。おぬしの助けになりに来たのだ」

 鴛青の隣に立ち、ゆっくりと降りてきた鴉を見上げる。

「紫苑は下がっているのだ。後は私たちに任せろ。策、お前に紫苑を任せたぞ」

「無事に戻ってこなければ、私が紫苑殿をいただきますからね」

「そうは決してならぬから、存分に悔しがっていろ」

「いやいや、そなたら何を言うておるのだ?! これは、私以外にどうにか出来るものではない! 下がっているのはそなたらの方だ」

 あれよあれよという間に勝手に後ろに下がらされた紫苑が叫ぶ。それを、紅玉を制するので慣れたらしい策が苦笑いしながら制する。

「おぬしはもう充分過ぎる程、この世界の為に尽くした。故に……此度は、某らの番よ」

 抜き放った刀身が木々の合間から差し込む光に反射して、白く透明な輝きを放つ。呉陽はそれを構え、目の前の黒い霧を纏った鴉に向ける。

「もう貴女だけに全てを背負わせぬ。戦わせてくれ、共に」

――共に。

 その言葉に、私は抵抗していた手を降ろした。鴉に立ち塞がる鴛青と呉陽の背。そして、私を守るように立つ策の背。それはあの時にはなかった光景だった。鴉だけを伴って一人で全てを終わらせようとしたあの時とは、全く違う。何故か涙が溢れそうになる。私は独りではないことを思い知らされたようで。ぐしぐしと涙を拭いて、油断している策に膝かっくんをお見舞いしてやる。

「おわっ、何するのですか!」

「私を守るのではなかったのか。油断し過ぎだ、馬鹿たれめ」

「もう少し可愛げを持った方がいいですよ……」

 策をぎろりと睨みつけて、前の二人に声を張る。

「其処の二人! 私の力に頼らずに勝算はあるのか! ないだろう!」

 すぐに否定されて、がくりとなりかけたが、それも事実なので鴛青は呉陽と顔を合わせて、豪快に笑った。

「実はな……まあ、どうやって戦えばよいのだ?」

 呆れてものも言えぬとはこのことなのか。先程少しばかり格好いいと思ってしまった私の感動を返せ。

「……仕方がない、鴉の力を封じる。術が完了するまで、そなたらは鴉の気を引け」

「どうやって?!」

「知るか! そなたらは剣の遣い手だろう! どうにかして薙ぎ払うとか、それも駄目なら蝿のように逃げ回っていろ!」

「なんて、無茶苦茶な……」

 顔を引きつらせながら、策は二人に同情するしかなかった。武術が使えなくてよかったと心底安堵したのは永遠に秘密だ。

「術式を始めれば、鴉は相当抵抗し、私を狙う。先程のそなたらの言葉が誠ならば、私に一切の危害がなきよう守れ。そうでなければ、術式は完成せぬ。……だが、鴉に致命傷だけは与えてくれぬな。事の顛末を知るのに、死体では叶わぬ」

 それだけを言うと、紫苑は一気に言葉を唱え始めた。その途端に、鴉は叫び声を上げ、悶え苦しみ始める。

「なんだか、後ろの奴の注文が多いが……」

「やるしかありませんね。されど、鴉を殺さぬことだけはどうか守ってください。私も鴉を殺したくはない。それに……」

 瞳だけを頭上に向ける。何かは分からぬが押し潰されそうな強い何かを感じる。

「嗚呼、策が言っていた操られているかもしれぬというのは、本当なのかもしれぬな」

 呉陽が頷いた瞬間に鴉がこちらを向き、攻撃を発する。咄嗟に避けるが足元の土が抉られ、もうもうと土埃が立った。それに呆気に取られる間もなく、鴉は一瞬で鴛青の傍に飛び、近接攻撃を仕掛けた。

「鴉! 己を取り戻せ!」

 剣で応酬しながら叫ぶが、鴉の虚ろな目は何も変わらない。とんでもない力で鴛青を押し負かそうとし、その羽が鴛青に向けて総毛立つ。ぐっと歯を噛みしめた時、鴉の背後に舞っていた土埃が割れた。目にも止まらぬ速さで飛び出してきた呉陽がその背に向けて剣を繰り出す。間一髪で避けた鴉は、二人に向けて再び攻撃を放つ。

 策は、目の前で繰り広げられている戦いに呆然と魅入っていた。天狗という人外の力を持つ鴉相手に、鴛青と呉陽は二人がかりでも互角に渡り合っている。これなら紫苑が力を使わずともいけるのではないかと淡い期待を抱く。

「そう容易にいく訳がなかろう。鴉は私に仕えていた者よ。その真価は私が一番分かっておる。おそらくは、二人の敵う相手ではない」

 だが、その期待を紫苑が呆気なく打ち砕く。策の見たこともない難解な文字を操りながら、紫苑は視線だけを二人に向ける。

「えっ?! 何故それをお二人に言わぬのですか!」

「言ったところで止まらぬのなら、言うだけ無駄というもの。故に、急がねば……鷹が手を出す前に」

 鷹とはなんなのかと聞こうとした時、急に紫苑に袖を引かれ、体勢を崩しかけた。抗議する間もなく、紫苑は早口で言葉を唱え、結界を出現させた途端、目の前で光が炸裂した。あまりの衝撃に咄嗟に腕で顔を庇ったが、紫苑はそれに立ち向かうように顔を上げていた。その横顔の凛々しさに、今が非常事態であることも忘れて、一瞬策は見惚れてしまった。

「鷹め!! やはり邪魔しに来おったか!」

 怒気を孕んだ紫苑の声に我に返った策は、紫苑の視線の先にいるその人物に息を呑んだ。

 策ですら分かった。――それは、人間ではない。しかも、全てを屈服させてしまうような圧倒的な何かは紫苑の比ではない。こんなものに紫苑は対しようとしているのか。

「我のことをすっかり忘れている故にな。おや、……それはその方の愛人か? 随分若く、女の背後に庇われるような弱々しい男を囲ったのだな」

 かっとなって言い返そうとするが、紫苑の視線がそれを遮る。

「あれの言うことを間に受けるな。人を怒らせ、愉しむような腐れ外道よ」

「誠に失礼な人の子よの。……ほれ、早くせねばあちらも手遅れになろうぞ」

 愉しげに指を指した方をちらと見る。先程までは互角に渡り合っているように見えていたが、空を飛ぶ鴉にただの人でしかない二人は確実に不利だった。消耗戦に持ち込まれているのか、二人とも肩で息をして、剣を地面に突き立てている。

 二人を援護したくとも、鷹に対しているせいで術式が止まり、鴉の力を抑えられないでいる。だが、私がそちらに意識を向かわせれば、鷹は必ずやこちらに攻撃を向けるだろう。

「……策、そなた武術は出来るか」

 強く拳を握りしめる。あと一人、力が足りなかった。鷹の攻撃をかわせる誰かが。

「護身術程度なら……」

「全く、役立たずも甚だしいな! 男たる者武術の一つも出来ぬでどうする!」

「そんなこと言われても、私は文官です!」

「ならば、小僧は下がっているのじゃな」

 その声にはっと振り返る。

 雪のような長い髭、皺が刻まれた顔は歴戦の猛者の風格を湛え、歳に似合わぬ肉体は若々しく、未だに現役の武人に引けを取らない。

「翁……何故……」

 この場所に現れるはずもない人物の登場に私は言葉を失った。そんな私を見定めるかのように、翁はその白い髭を梳く。

「主の出陣に馳せ参じぬ臣が何処におるというのじゃ」

 その言葉の意を理解し切れずに、思考が止まる。翁の主は一人しかいない。だが、その御方が此処に来るはずがない。来るはずが……

 翁の背後で土を踏む音が鳴る。抑え切れぬ動悸は最高潮に達し、人影が誰なのかをはっきりと瞳に映した時には、私は息をするのも忘れていた。凛としたその立ち姿は無条件に私の心を抉り、そして崩れ落ちるように膝をつく。

「……我が、君……」

 あの頃と微塵も変わらぬ、いや……少し痩せられたか。それでも、宋鴻が纏う空気も、私に膝をつかせた圧倒的な威厳も、何一つ変わらない。むしろ、王として君臨する宋鴻は、あの頃よりもさらに輝かしい光を湛えていた。

 不意に感じる寂寞の想いは、一体なんなのか。宋鴻が自分の届かぬ果てまで、行ってしまったような気がした。そのようなことを思うことすら、私にとっては禁忌に他ならぬというのに。

「紫苑」

 宋鴻が私の名を呼んだだけで、身体が震えた。気配で宋鴻がこちらに歩いてくるのが分かる。それでも、私は膝をついたまま顔も上げられなかった。今さら、宋鴻にどの面下げて会えばいいのか、分からなかったのだ。

 宋鴻の沓が自分の目の前で止まる。震える私の肩にそっと手が置かれ、反射的に顔を上げれば、宋鴻はあの頃と同じように優しく微笑んでいた。

「久方ぶりに、そなたに『我が君』と、呼ばれたな……随分と、懐かしい」

 宋鴻の手が差し出されて、不覚にも縋りそうになってしまうが、振り切る為に唇を噛む。

「……私は裏切り者です。情けなど必要ありませぬ」

 再び視線を逸らし、俯く。

「どうぞ、お帰りください。これは私の問題故、御手を煩わせる必要はございませぬ」

「……全く、強情なのはあの頃とちっとも変わらぬな」

 えっと思う間もなく、宋鴻に両肩を掴まれ、強制的に立たされた。懐かしい宋鴻の香りが鼻腔をくすぐり、不覚にも涙を流しそうになる。呆けている私を苦笑した宋鴻が胸に抱く。

「よく、戻ってきた」

 その声に胸が張り裂けそうになる。唇を噛みしめて、涙が零れそうになるのを必死で食い止める。私は涙を流す資格すらないと、言い聞かせるように。

「故に、此度は私が守る。……この世界を」

 目を見開く。何かを発しようとするのに、上手く言葉にならない。宋鴻の腕が離れ、それまで静観していた鷹に向き直る。

「名のある山の主とお見受けする。私はこの国の主、宋鴻と申す」

 毅然と対する宋鴻に、鷹もふざけるような表情を消し、枝から飛び降り宋鴻の前に立った。

「我はこの森に太古の昔より在る天狗、鷹。その方の名は聞き及んでいたが、……人の子にしては稀な相を持ちよる」

 鷹は目を細め、宋鴻の全身を検分するかのように眺めた。

 昔から、忘れた頃にこのような相を持った人の子が地上に現れる。一部の者たちはその者を『神に愛された者』と呼ぶが、長き時を生きた鷹もその『神に愛された者』が二人揃うのは見たことがない。宋鴻を見て、ちらりとその後ろの紫苑を見る。紫苑が山に入った瞬間から、その奇異なる存在に惹かれ、姿を現すつもりのなかった鷹を動かした。そうして、会ってみれば手に取るように分かった。この者は一度死に、そして再び死へと向かっていることを。

 『神に愛された者』は、大きな宿業を持ち、それ故に短命であると聞く。紫苑がそれを知らずとも、紫苑が既に命を散らしたからこそ、宋鴻はおそらくこれから長き時を生きるのだろう。

 鷹は小さく笑った。されど、そのような運命であることを告げても意はない。既に運命の(とき)は廻り、強き信念を瞳に宿した紫苑に、それは詮なきこと。誰かに忠を尽くそうとするその志は見ていて清々しく、鴉と重なるものを感じた。

「なれば、人の子よ。我に対するか。己が望むものを得る為に」

 鷹の羽が勢いよく開く。突如として渦巻き始めた力の奔流に誰もがよろめいた。我に返った私は、宋鴻を庇うように前に出る。

――これが、鷹の力。びりびりと肌に感じる静電気のようなものが、鈍い痛みすら放つ。先程までのがなんだったのかと思う程、何もかもが違う。少しでも気を抜けば、鷹の意識に引き摺り込まれるに違いない。何処まで通用するかは分からぬが、宋鴻が此処に現れた以上、決して退くことは出来ない。宋鴻を此処から無事に帰さねば、この国は倒れ、私の願いも同時に潰える。

 鷹に向けて手を翳す。意識を集中させようとした時、その手が降ろされた。驚いて見上げれば、宋鴻が私を制していた。

「何をなされるのです? 私が……」

「言っただろう。私が守ると」

「い、いけません!! あれの力は尋常ではないのです。私一人で防いでいられる内に、どうかお逃げになってください! 策、はようお連れするのだ」

 振り返って策の名を呼ぶが、策は厳しい顔をしたまま動こうとしない。

「策!」

「無駄だ、策は動かぬ」

 すらりと宋鴻が剣を抜く。翁もそれに倣って、宋鴻に並ぶ。

「そなたはまだ分からぬのか。そなたは、もう一人で戦う必要はないのだ。私たちがいるではないか」

「何を……」

「一人で得られぬのなら、皆で力を合わせればよい。鷹の足止めは私と翁に任せろ」

 振り返って翁も頷く。

「この老骨も其処らの若造にはまだ負けぬからの。侮ってはならぬぞ」

「そなたは早く、術を完成させるのだ。この戦いはそれに懸かっている」

「何を……何を、おっしゃっていられるのです!! 我が……我が君は!! 生きねばなりませぬ! 生きて、この国を……」

――この国を守ってゆかねばならぬのに。

 混乱した私の頬に、宋鴻はそっと触れた。

「紫苑。私は死ぬ為に此処へ来たのではない。生きる為に来たのだ。それはそなたも同じであろう?」

 はっと息を呑む。微笑みを残して、宋鴻は踵を返す。対峙するのは、人に非ざるもの。だが、気分は不思議と高揚していた。やはり、自分には戦いの日々に身を置いていたあの頃が、一番よく似合うのかもしれない。

「翁、ゆくぞ」

「御意」

 電光石火で飛び出した宋鴻と翁を私は歯を噛みしめて見送った。

 誰もが皆、自ら戦いに赴いてゆく。絶望的な状況でも一片の揺らぎも諦めも見せずに。あの頃の私も、そんな表情をして戦地に向かっていったのだろうか。策が私を労わるように、そっと腰に手を添える。其処から生まれる温かな熱に堪えていた涙がついに零れてしまった。それをぐしぐしと拭って、顔を上げる。不敵に笑いながら、中断していた術式を先程までとは考えられぬ速さで完成させてゆく。

 皆、格好つけたことばかり言いやがって。結局は、私の力がなければ太刀打ち出来ぬ癖に。だが、……皆の力がなければ、この戦いは乗り切ることが出来なかった。ほんの少しの悔しさと言いようのない想い。何かを赦されたようなそんな優しい痛みが私の身体を駆け巡り、かつてない程の力を私に与える。

「さあ……これからが本当の戦いの始まりよ」

 そして、最後の言葉が世界に堕ちる。

 鴉を中心にして、円が出現し、その中を縦横に走る光の線が鴉をがんじがらめに縛り上げる。世界を壊すような絶叫が響き、鴉が苦悶に満ちた表情を浮かべたまま、動きを止める。私はその隙を見逃さず、一飛びで陣に入り、縛られたままの鴉の身体を地面に突き飛ばし、馬乗りになった。

「紫、何をする気だ?!」

「さて、全てを見せてもらうぞ。私の手を此処まで煩わせた罰は、大層重い故覚悟しろ」

 抵抗する鴉に、私は有無を言わせず自らの手を鴉の胸にめり込ませた。

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