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花四日

「可愛いなあ……ほれ、某を見て笑ったぞ!」

「気のせいですって! 呉陽殿ではなく、私に笑ったのです」

「違うよなあ……鴛青みたいな阿呆に笑いかけちゃ駄目だぞう」

「何を言っているのですか! ほら、私が父上ですよう」

 鴛青と呉陽がとんでもなくだらけた顔で、子のご機嫌を取っている。産まれたばかりで見えているわけなかろうと思うが、面白いのでそのままにしている。

「鴛青はともかく、呉陽まであのような阿呆な面構えになるとは思わなんだ。あれは自分の子が産まれたら、もっと阿呆になろうな」

「……姫。またも後宮を脱走してきたのですか」

 なんの躊躇いもなく、私の傍らに座り込んだ紅玉に溜息をつく。ここに座るのが一国の王妃だとは、誰も思わぬに違いない。

「策に手引きさせたゆえ、あれも同罪じゃ」

 紅玉は得意げにふふんと鼻を鳴らした。策がうろたえながら、必死に引き留めようとしているのが目に浮かぶ。

「どうも妾には、あそこは窮屈で好かぬ。なぜ出かけるのにわざわざお付の侍女を何十人も連れて歩かねばならぬ。経費の無駄じゃ」

 あの頃とは比べものにもならぬ上等な衣を身にまとってはいても、紅玉は何も変わらない。王妃でありながら簡単にここへ来てしまうように、その揺らがぬ意志が私にとっては何よりも嬉しい。

「確かに姫には似合いませぬな……どうせ常に脱走紛いのことをして、侍女を困らせているのでしょう?」

「人聞きの悪い……妾もたまには一人で出歩きたい時があるのじゃ。そちとて、閉じ込められるのは御免であろ?」

「そうですね。それだけは、私も同意見です」

 二人でぷっと笑い出す。籠の鳥がこれほど性に合わぬ二人もおるまい。

 開け放った格子戸から、穏やかな春の風が舞い込む。庭に咲き乱れる花々や美しい千歳緑を揺らす木々のゆるやかな香りが、それと共にじゃれ合う。地上の楽園のようなその光景に、一時言葉もなく委ねていた。

 気づけば、この世界に戻ってきて、すでに四日が経とうとしていた。あまりにも多くの出来事が速足で駆けていって、たった四日しか経っておらぬはずだが、何年も過ぎたかのような錯覚を覚える。今まで私が得ようとしてこなかった穏やかな幸いというものを、残さず補間するようなそんな日々に震えるほどの充足感を感じる。

「そちは今……幸せか」

 隣にいた紅玉の手がそっと己に重なる。温かな熱が私を満たしてゆく。

「幸せです……大切な人たちに囲まれ、新たな命も授こうて……逆に、これほどまでの幸いに……怖く、なるほどに」

 ざあっと音を立てて流れていった風は、鳥肌が立つほど冷たかった。健気に咲いていた花びらすらも散らして、風はどこへゆくのか。遠く戻れぬ先へ、私を連れてゆこうというのか。

――怖く、なる。

 得たからこそ、喪うことが。幸いの価値を知ったからこそ、独りになることが。

 だが、この幸いに終わりがくることは、決して逃れられぬ運命(さだめ)

「幸せは――恐ろしい」

 ぽつりと落ちた言葉が、紫苑の本心だと知るのは容易い。危うげに揺れる髪が哀を呼ぶ。一気に冷めた熱が狂おしく、押し寄せてきた現実に溺れそうになる。

 なぜそんなことを言うのか。なぜ、明日を生きることを諦めるのか。

 鴛青と呉陽の腕に抱かれる我が子を見つめる紫苑の表情は、つい先ほど幸せだと言った人間と同じ表情だとは思えない。

「子を授こうたばかりの母親が、言うべきことではありませぬな」

 乾いた微笑みを浮かべた紫苑に、紅玉は気の利いた言葉の一つ思い浮かばなかった。以前ならば、遠慮なく背を叩いて元気づけたのだろうが、今は到底できそうにない。大切な人が死んでしまうということの意味を、知ってしまったからなのかもしれない。

 そんな自分を誤魔化すようにして、無理やり微笑みを作る。

「そうじゃ……母だからこそしっかりせねば。旦那はあのようにして、頼りにならぬゆえ」

 取り繕うような言葉に、紫苑は何も言わずただ微笑んだ。少し呆れたように口を尖らせ、腕を組んでみせたが、紫苑を取り巻く痛々しさは一向に消えなかった。むしろ、話を逸らしたがゆえの罪悪感というべきなのか。

「……皆、旦那旦那と……別に、私は鴛青をそうとは……思っておりませぬが……」

 面白くなさそうに呟いた紫苑に目を見張る。さっと子を振り返って青褪めた。

「今さら何を言うておるのじゃ?! ま、まさかあの赤ん坊は鴛青の子ではないのか?」

「いえ……そういうことでは……」

「ではなんじゃ? 鴛青の何が気に入らぬのじゃ?」

 それを問うと、なぜか紫苑は顔を赤らめた。もじもじと言い難そうにして、しばらくすると観念したのかぼそぼそと呟いた。

「姫は……夫婦になるとき、その……」

 蚊の鳴くような声だったが、紅玉の耳にはしかと届いた。瞬間的に怒りが沸点に達して、すくっと立ち上がる。

「あんの甲斐性なしが!!」

「ひ、姫……?」

 紅玉は猛然と突進してゆくと、子と戯れていた鴛青の首根っこを問答無用で掴み、ずるずると奥に引き摺っていった。乱暴に扉を閉め、鬼の形相で鴛青に詰め寄る。

「王妃様……?! 何をなされるので……」

「この戯けがっ!! 愛しき者に妻になってくれとも言わぬとは……そちはどこまで甲斐性なしなのじゃ!」

「えっ……ええーーっ?! な、なぜそんなこと王妃様に……私だとて、もちろん言い……」

「もちろん、なんだ?!」

 くわっと目を見開く般若の如き紅玉に、若干気圧されながらもはてと考え込む。

 走馬灯のように駆け巡ってゆく記憶を辿って、ただ一夜身体を交わしたあの夜を思い出す。あの夜、得られるとも思っていなかった紫苑を初めてこの腕に抱き、至高の幸せを噛みしめながらも、襲いくる絶望から目を逸らしていた。混乱して否定して、最後まで抗い続けた紫苑に、自分は――

 咄嗟に、はっと口元を押さえた。今さらになって、ようやく女心がわからぬと紫苑が不貞腐れていたわけを理解する。

「その顔は、ようやっと気づいたようじゃな!」

 血の気が引いていくのをなんとか抑えながら、苦し紛れの言い訳を言ってみる。だが、そんなものはなんの慰めにもならぬことをよく知っていた。

「さ、さ、されど……あの時は、色々事情が……」

「そちの事情など知るか!!」


 *


 奥の部屋から聞こえてくる紅玉の怒声にむしろ清々しながら、私はやっと戻ってきた我が子をあやしていた。

「王妃様の剣幕が凄まじいが……何かあったのか?」

「気にするな。大したことではない」

 嘘つけと呉陽は渋面な面持ちになったが私は気にしない。

 すやすやと眠る我が子の顔をとっくりと眺める。それだけでも、おそらく一日見飽きぬであろうから、赤子は不思議だ。

「どうせ、鴛青が何かやらかしたに違いないが……」

「それよりも呪符の件はどうなった?」

 鴛青のことなどさっさと忘れて、ふわふわとした産毛しか生えておらぬ子の髪を撫でながらついでのように問う。

「嗚呼、すっかり忘れていたな。そういえば参考になるかと思い、持ってきておった」

「だろうな。そなたが邸に来てからというもの、私のものではない気を感じていた」

 誰が持ってきたかわからぬが、音の出る太鼓のような玩具を振って子のご機嫌を取ってみるが、親心をよそに熟睡したのかまったく反応がない。

「気? なんだそれは」

 私の隣にどかりと胡坐をかいた呉陽が、興味津々に訊ねてくる。それだけ言っただけではわからぬのは当然かと、ふむと顎に指を当てた。

「そなたら常人にはわからぬだろうが、私のような者たちには判るのよ。獣が自分の臭い付けをしたりするだろう? それと同じで呪術を操る者たちの痕跡である気は、必ず残るものなのだ」

「そのようなものがあるのか……ならば、おぬしもか?」

「そうだが……まあ、私のようによほど力のある者なれば、その気をあえて消すことも、逆に常人にもわかるよう発現させることも可能よ。それよりも早う出せ」

「そう、急かすな……」

 呉陽が何やらごそごそと袷を探っている間に、鴛青が作った揺り籠に寝かせてやる。武術馬鹿は伊達ではないらしく、意外にも頑丈に作りこまれたそれは、認めるのは癪だが気に入っている。

「あったあった!」

 呪符をやっと探り当てたらしいが、見るも無残にしわくちゃにされている。怪訝な顔つきでそれを受け取ろうとした瞬間、私は思わず指を引っ込めた。

「これは……誠に、本物なのか?」

 触れた瞬間に感じた、ぴりっとしたその気。間違えるはずはない。むしろ違和感を覚えながらも放置していたのは、呉陽が持ってきたそれが見知っているものだと無意識に感じていたゆえとも言える。

「本物も何も近頃は流布し過ぎて、収集がつかぬ状態だ。策に借りたものゆえ、本物であるはずだが……しかし、何かわかったのか」

「いや、されど……」

 珍しく歯切れの悪い私に、呉陽は首を傾げた。

 もう、私は確信している。だが、それを認めたくないだけだ。

 微かだが、この気の持ち主を私は知っている。いや、知らぬはずはないし、間違えるはずもない。共に駆け、共に戦い、唯一すべてを見届けた者。だが、私がこの世界に還ってきてのちは、一度も姿を現さぬ者。

「なにゆえ、このようなことを……」

 動揺する私に呉陽もさすがに異変を感じ取ったらしい。眉間に皺を寄せて、私が何かを言い出すのを待っている。

「呉陽殿、これを配うておるのは女だと言うたな? それはどのような女か」

「策からの聞きかじりでしかないが……黒髪のすらりとした女で、年の頃は二、三十代。顔は常に暗黒色の頭巾で隠されておるらしく、正確に見た者はおらん」

「顔がわからぬのか……なれば、もっと何か情報ないか。女のことでも呪符のことでもなんでもよい」

「なんでもといってもだな……」

 呉陽が腕を組んで唸ったが、呪符の切れ端を見て何かを思い出したのか、あっと声を漏らした。

「役に立つかはわからんが、その呪符には名があってな」

「名? 呪符の名称ということか」

「まあ、そういうこったな。今までは気にも留めなんだが、おぬしならば由来がわかるかもしれん。それは――『狗賓の札』、という」

 刹那、大地が揺れた。寒さにぶるっと身体を捩じらせたような、唐突に短い揺れ。

 はっと我が子を振り返るが、揺り籠は微動だにしていない。気のせいであることを願うが、咄嗟に身構えた呉陽を見て、その願いが叶わぬのを知る。

「……呉陽殿、今の気づいたか」

「揺れた、だけか? だが、静か過ぎる……鳥や虫たちの音がまったくせん」

 さすがは呉陽だ、並外れたその勘のよさは常人が察知できぬはずのものすら感じ取れるらしい。

「どうやら……相手も動き始めたようだ。呉陽殿、頼むぞ」

「何をって……はっ?! 紫苑、どうした!」

 唐突にぐらりと傾いだ私の身体を呉陽が抱きとめるが、叩いてもなんの反応も示さぬ上に、まるで魂が抜けたかのように微塵も動かない。

「紫苑! どうした……って、うわっ!」

「一々騒ぐな、離魂しただけよ。始めに、身体を頼むぞと申したではないか」

 白く透けた身体がぼんやりと浮いているのを見て、呉陽はあんぐりと口を開けた。あまりの間抜け面を笑い飛ばしてやりたいのは山々だが、今はとにかく時が惜しい。

「少し様子を探ってくるゆえ、それを守っておれ」

「ちょっと待て紫苑! 守れってどうやれば……紫苑!」

 背後で呉陽が叫ぶのも無視して、私はふわりと外に飛び出した。

 久方ぶりにやるが感覚は鈍ってはいない。いつもの癖で袷に手を差し込むが、そこにあったはずのものはとうになかった。苦笑して、手を戻す。

 気まぐれな羅人に似て、蝙蝠はもう二度と戻ることはないだろう。少し寂しくも思う。常に傍らにあって、私と共に血を浴びてきた、いわば相棒みたいなもの。もう、そんな血生臭い道行は勘弁とすたこらさっさと去っていったつれない相棒に笑いかける。何私一人でも充分よ。

 力が暴発せぬよう細心の注意を払いながら、神経を研ぎ澄まし言葉を唱える。すると私の耳に軽やかな鈴の音のような音が共鳴し始め、その音を辿り一つの不協和音を見つけ出すと、早速その方角に向かって一瞬で天翔けた。

 辿り着いたそこには、この国で最大を誇る古来の森が鎮座していた。季節を通して千歳緑を絶やさず、最奥になるにつれて濃い霧に包まれた人跡未踏の地。太古より、この森には神が住まうとされ、その神域に無断で立ち入れば、正気を失い二度と人界に戻れぬとされてきた。

(ふん、神でもなんでもないがな)

 人が創り上げた神話に興味はない。必要なのは、ただの事実。

 小賢しくも結界が張ってある。常人は無論、大抵の術者なれば騙しおおせる程度ものであり、そこから染み出る妖気を隠しているとでもいうべきか。

(されど、私の前では無意味よ)

 どれだけ巧妙であろうと、結界は生身の人に対して張るものだ。魂でしかない今の私にそれらはなんの効力も持たない。気にすることもなく私はその森に飛び込んだ。

(くっ……なんだ、これは)

 何かが私を弾こうとしている。突如浮かび上がった梵字のような難解な文字が幾重にも重なり、何人たりとも人間の侵入を拒絶していた。根気でそれを突破しようとしたが、自分目がけて飛んできた何かに意識が削がれ、私の魂は強制的に実体に引き戻されてしまった。


 *


「紫苑……」

 ぐったりとした紫苑の抜け殻を抱いたまま呉陽が途方に暮れていると、先ほどまでぴくりとも動かなかった瞼がわずかに震えた。次いで気だるげに瞳を覗かせる。

「紫苑! よかった、無事……」

「うるさい……耳元で騒ぐな……嗚呼、この私を弾くとは……なんと生意気な……」

 目覚めた途端にぶつぶつと文句を垂れ始めた紫苑に、呆れを通り越して笑いが込み上げてくる。

「まったく心配ばかりかけさせおって……して、首尾はどうだ」

「首尾も何も、弾かれた……何度思い返しても腹が立つ」

「弾かれた?」

 紫苑の身体を助け起こしてやると、紫苑は戻ってきたことを確かめるかのように首を回したり、拳を何度か握ったり開いたりしている。

「離魂した姿なれば、結界は無論通れぬところなどない。……誰か離魂姿でやってくることを――いや、私が、還ってくることを想定していたということか。随分、用意周到なことよ」

「なんだと? おぬしが還ってくるなど、誰にもわからんはずだろう? そもそも、一度この世から去った人間がもう一度戻ってくるなど、普通は考え……」

「……普通ではないのだ、あやつらは」

 誰がと問う間もなく、紫苑はすくっと立ち上がった。隅にあった適当な上掛けを羽織って、そのまま部屋を出ていこうとするのを慌てて止める。

「待て、おぬしどこに行くつもりだ!」

「呪符を配うておる者がどこにいるのかはわかった。私を呼びつけるとは無礼も甚だしいが……あれの命には代えられぬ」

「あれとは……もう犯人がわかったのか? 一体誰だ」

 紫苑はわずかに言葉に詰まった。揺れた感情を隠すようにすぐさま瞳を逸らしたがもう遅い。

「いや……私は信じぬ。ゆえに……確かめねば。どちらにせよ、私ですら入れぬ結界が張ってある森だ、あながち見当違いでもあるまい」

 紫苑の表情はどこか頑なで、緊張しているようにも見えた。紫苑にそれほどの顔をさせる相手は、一体どこのどいつだと思うが、呉陽の制止を無視して立ち去ろうとする紫苑を慌ててもう一度引き留める。

「これ以上は某や策たちに任せろ! おぬしは昨日子を出産したばかりなのだぞ、外に出られる身体ではない!」

「それでも……ゆかねば。これは、おそらく常人が敵う問題には非ず。私の力が必要なのだ」

 紫苑が強情で一度口にしたことを決して曲げぬ女だということも知っている。

 今回の事件が、自分たちの手に負える類のものではないこともわかっている。紫苑の助けがなければ、紫苑の力がなければ、紫苑が命をかけて守ろうとした宋鴻の治世やこの世界の平和が消えてなくなることも――充分、解している。

「だが駄目だ」

 呉陽は紫苑の言葉に断じて従おうとしなかった。自分でも珍しいと思う。いつもは、なんやかんやといって紫苑の望みを結局は叶えるが、今は真っ向から否定している。なんの冗談でもなく。

「ここでこのままおぬしをいかせれば、あの時の二の舞だ。……某はどう鴛青に顔向けすればいい? おぬしもわかっておるはずだ……鴛青も某も、後悔を背負い続けて生きてゆくのはもうたくさんだ」

 随分、酷いことを言っている。半分はただの八つ当たりに過ぎぬのに。

 自分はただ紫苑を喪いたくないだけなのだ。鴛青も何も関係なく、自分が紫苑と共に生きてゆきたかった。かつてそう望んだように、老いてよぼよぼになって身体がどうにもならなくなるまで、宋鴻の傍でずっと。

 なぜ運命(さだめ)はこれほどまでに残酷なのか。紫苑に与えられた小さな奇跡すら、戦いに引き寄せてしまうのか。

 紫苑は感銘を受けたような表情も見せず、こちらを見ていた。真摯だがどこか冷たさを持つ瞳で。

「……無理にでも、ゆくと申したら」

 嗚呼、そう言うと思っていた。紫苑は自分などでは止められない。だが、それを諦めるということは再びの後悔を自分は背負うということだった。

「ならば、無理にでも止めるまで」

 どちらから先に動いたのかはわからない。

 紫苑が一歩踏み出した右足に足払いをかけて体勢を崩す。すぐさま受身を取った紫苑がなんの躊躇もなく自分の脇腹に蹴りをいれ、それを防ぐと共に細い足首を掴んだ。宙吊りになりかけた紫苑が逆立ちの姿勢になって、空いている足で呉陽の顔を蹴る。飛びずさった紫苑が体勢を整える前に、全体重で体当たりを仕掛け、よろめいた紫苑の首に腕を回してそのまま床に倒れ込んだ。紫苑がなんとか抵抗を試みる前に、回した右手を左手でがっちりと押さえ込み、紫苑の肩を固める。

 唸る紫苑が全力で呉陽の身体に拳や蹴りをいれるが、すでに肩を固められ、それを放す気のない呉陽の本気の締めで、紫苑はついに負けを悟った。

「呉陽……私の、負けだ……離せ……馬鹿」

 抵抗をやめた紫苑が呆れたようにぽんぽんと呉陽の身体を叩く。

「鴛青がおらぬとはいえ……誠に、本気でやるとは思わなんだ……まったく、か弱い女相手に体当たりなんぞするか、普通」

「どこがか弱い女だ。某に二度も蹴りをいれた挙句、一発はもろに顔に当てた癖に。謝りはせんぞ、遠慮はいらんと言ったのはおぬしだ」

「それにしてもやり過ぎだ……加減というものを知れ、馬鹿が……それよりも早うどけろ、重い」

「……どかん。どければおぬしはゆくつもりだろう」

 ひやりと冷たい何かが呉陽の心に落ちてくる。

 初めて本気で殴り合った友との感動的な戦いの後だというのに、湧き上がるのは寂寞の情。その時、呉陽は初めて知った――自分は寂しかったのだと。

「……私に残された時間は、少ない。その中での最善を遺したいのだ、愛する者たちと我が子に」

 びくっと身体を震わせた呉陽に微笑む。勘のいい呉陽のことだ、それに気づかぬはずはない。

 偉大なる神の力を以ってしても、命を完全に修正することはできない。人それぞれに与えられた命の長さは始めから決められており、たとえ神であってもそれに干渉するのはゆるされぬこと。ゆえに今回のことは、本当にあり得ぬほどの奇跡が重なって起きただけなのだ。――それも完全ではない。

 その短い時間に意味があるのかと、以前の私ならばそう吐き捨てただろう。だが、今は違う。

 どれほど短い時間だったとしても、我が子に出会い、愛すべき者たちに再び相見えることができたこの時間は、決して無意味なものではない。私の人生で、何よりも価値のある四日間だった。

ならば、私は最後にもう一度遺したいと思う。与えられた奇跡に感謝するために。

 呉陽がのっそりと身体を起こし、私の腕を引っ張って助け起こした。無言のままなのは、泣くのを必死で堪えているゆえと知っていた。

 騒ぎに気づいた鴛青と紅玉がこちらに駆けてくる音が聞こえる。鴛青を置いてゆくことに一抹の胸の痛みを抑えて、震えている呉陽の肩にそっと手を置く。

――私は甘えている。友と言ってくれた呉陽に。再びつらい決断を任せてしまうほどに。

「すまぬ、呉陽殿」

「謝るくらいならば、行くな」

「……すぐ戻る」

 最後に一目だけ我が子を振り返ると、私は忽然と姿を消した。



 重い瞼を押し上げる。転位の術を使ったにも拘らず、あの頃のような倦怠感はない。だが、出産で使った体力に関しては別らしい。都合のいい身体だと笑いながらも、凛と顔を上げる。

 今にも私を喰らうかのように、鬱蒼とした森が目の前に迫っていた。地面一面の苔は青々しく、隆起した太い根が侵入者を阻むかのようで、それでいて木々の間から差し込む陽光は、天界から注ぐ光の如く眩しく清浄な色を湛えていた。

 私がこれから足を踏み入れようとしているのは、それよりも先――濃い霧が行く手を塞ぐ、この森の最奥。地元の民ですら祭事がある時以外は滅多に近寄らぬ祭壇を横目に私は不敵に微笑んだ。二本の巨木の間に垂れ下がる紙垂を切って、閉じられていた神域を解放する。

(ふん、一応隠すだけの分別は残っていたか)

 ゆっくりと漏れ出してきたその気が病んでいる。今までに感じたことのない重みを伴って、私を外に追い出そうとしているかのようだ。だが、その程度で尻尾を巻いて帰るような私ではない。涼しい顔で、額にかかる髪を耳にかけ、足を踏み出した。

 そこは異常なほどの清浄な空気に満ち溢れていた。私の邸の自浄作用を軽く上回るそれは、この森を太古の昔より守ってきた者の存在を顕している。最奥に歩みを進めるにつれて、その気配は強くなってゆく――そう、人に非ず者の気配だ。

 まだはっきりとはせぬが、霊験灼かなものがこの先にあるのだろう。それが心身に癒しを与え、目に見えぬものに対する尊厳を思い起こさせる。だが確かなことは、その何かが私ですら太刀打ちできかねるものであるということだ。やはり、私がこの世界に戻ることができたのは偶然ではない。

 わずかも経たぬうちに、探している気はどんどん強くなっていった。森を支配する空気が何をも許さぬ清浄なものであるからこそ、それはなお一層異質さを醸し出している。入口で感じた病んだ気と相まって、焦燥の汗が額に浮かぶ。猶予はあまり残されてはおらぬのかもしれなかった。

 生い茂る大きな葉を避け、道を遮っていた巨岩を脇に転がすと、突如清らかな川が目の前に現れた。降り注ぐ陽光が川面に反射してきらきらと輝き、川底が見えるほど透き通った水の中で魚たちが水飛沫上げながら泳いでいる。急激に渇きを覚えた私は傍らにしゃがみ込んで、冷たく清らかな水を掬い上げ喉を潤した。

 しばらく休息したのち再び立ち上がるが、視線の端に何かが引っかかった。川沿いの近くで土砂崩れでもあったのか、大きな岩が崩れ、土肌が顕になっているところがあった。上掛けを掴んで、軽く大地を踏みしめる。そよ風が木の葉を揺らしたときには、一っ飛びでそこに飛んだ。ふわりと地面に着地すると、上掛けから鴛青の香が微かに香った。

 今頃、私がいなくなった理由を呉陽に問い詰めている頃だろうか。不意に、鴛青に何も言わずに来てしまったことを、どうしようもなく悔やんだ。

 鴛青が以前にも増して馬鹿丸出しなのは、必死に張っている虚勢を誰にも悟らせまいとしているからなのだろう。大切なものが喪われる痛みと再びそれを得た喜び、だが元の痛みよりも何倍にも強い二度目の別れを、どうにかして現実からしめ出そうとするかのように。

――幸せは、恐ろしい。

 それはおそらく私だけではなく、鴛青も同じ。

 溢れるほどの幸いを知れば知るほど、泥沼に嵌ってゆく。決して抜け出せぬ、愛と哀に縁取られた沼に。それでもなおお互いに手を放そうとせぬゆえに、さらなる深みに足を取られる。

 どうしようもない。私たちのこの恋情は。

(……早う帰らねば)

 鴛青に触れたい。ただ無性に。

 変わらぬ愛に包まれて、今だけでも幸福な夢を見られるように。すぐ傍に迫っている終わりの日から、一時だけでも逃げるために。

 崩れた土砂からそっと塊を拾う。あまり水分を含まぬのか、乾燥したそれは力を籠めれば呆気なく壊れた。さらさらと風に流れていった土と同じように、本当はあれも脆いことを知っていた。

 土砂を一気に吹き飛ばし、顕になった土壁に触れる。普通ならば、確実にただの壁だと答えるであろうが私は違う。

(やはり、そうか)

 陣を張るのは、あれが得意とした術だ。だが、こんなすぐに見つかってしまう場所を選ぶとは、少々らしくない。

 言葉を呟きながら、垂直に指で線を引く。すると轟音を上げながら壁が半分に割れ、外見からは想像もつかぬほど巨大な空間が開けた。ひんやりとした冷気が頬を掠めたが私は無言で足を踏み入れ、闇に身を投じる。光なき空間で掌に火を呼ぶと、唐突にそれは目の前に現れた。

 あの頃と同じ黒い装束は所々が擦り切れ、泥に汚れている。片方の靴はなく、黒く美しい堂々たる翼は輝きを失い、寝床の代わりなのか藁が敷き詰められたその上に力なく覆いかぶさっている。

「誰、だ……」

 くぐもった声が翼の下から響き、もそりと動く。乱れた髪の隙間から光った瞳が驚きに開かれる。

 私はただその名を呼んだ。わかってはいたが、信じたくなかったその事実を受け入れるために。

「――鴉」

 遠くで嘲笑うかのような囁き声が響いたのは、おそらく気のせいではない。

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