花三日
「ええーっと、これはあっちで」
「これは、ここにしまって……」
「痛っ! む、難しいな……」
先ほどから、というか昨日邸に戻ってからというもの、ばたばたと何事かをやらかしている。
「……鴛青」
「紫は何もするな! 寝ていろ!」
ぴしゃりと言い返されるが、見るも無残に破壊されてゆく邸の惨状が否応にも目につけば、おちおち暢気に寝てもいられない。そもそも、やらかしている音が盛大過ぎて寝付けもしない。
ちろりと外に視線をやれば、色合いが特に気に入っていた緋色の欄干がものの見事に真っ二つに割れている。なぜそういった事態が引き起こされるのか、どう頭を捻ろうとも皆目見当もつかぬし、見当がついたらついたで馬鹿の仲間入りするようで癪に障るゆえ、それ以上深く考えるのはやめにした。あとで、まとめて修理しよう。
「やれやれ、鴛青が武術しかできん武術馬鹿なのは知っておったが、ここまでとはな」
大惨事が起きている現場を目にして、あからさまにどん引いている。
呉陽の暑苦しい面構えに似合わず、何事もそつなくこなすほうであるため、鴛青の壊滅的な不器用さは理解に苦しむ部類に入るらしい。
「見舞いを持ってきてやったぞ。鴛青の作る物体など食えたものではないだろうからな」
「もしやそなたも経験済みか?」
「いや、近衛軍の宿舎で鴛青が勝手に作った餃子を食べた数人の生贄が昏倒し、その後侍医殿にこってり絞られた鴛青ならば見たことがある」
「…………哀れな」
もちろん哀れなのは鴛青ではなく、生贄となった武人たちのほうである。常日頃から身体を鍛え、丈夫さだけが売りのような近衛軍所属の武人たちすらも昏倒させるとは、よほどの不味さに違いない。それか毒。
呉陽が差し出した唐草模様の包みは、まだ仄かに温かさを残していた。触った感触の柔らかさにまさかと思って、結び目を逸り気味に解けば、片手に乗る大きさの小振りな饅頭が入っていた。
「さすがは、香蘭。わかっておるな」
いそいそと饅頭に手を伸ばし、半分に割って豪快にかぶりつく。普段ならば、体面を気にして楚々として食べもするが、呉陽の前で今さら何を取り繕っても仕方ない。それよりも腹が減っていたし、肉汁が溢れ出すそれに、さらに食欲が刺激されて止まらなかった。両手に饅頭を抱えてかぶりつきながらも、その優しくて懐かしい味に、あの頃香蘭がよく作ってくれたことを思い出す。
「香蘭も来たがっていたのだが、何分香蘭も身重の身ゆえ、某が止めたのだ。その代わりに、今朝早くから起きてせっせとそれをこさえていた。滋養にいいものも入っているから、全部食べて欲しいと言っていたぞ」
「嗚呼、もちろんだ。妊娠すると食欲が増すというのは誠だったからな」
もぐもぐと美味しそうに頬張る私を見て、呉陽は楽しげに頬杖をついた。
今さらになって気恥ずかしくもなったが、食べるのを止めればあからさまに意識したかのようでなんだか癪だ。気休め程度に身体を少しだけ外に向けようと思ったら、腹がわずかに張ったような気がした。だが、動くのをやめたらなんともなくなったため、私は再び饅頭にかじりついた。
「紫ーやっとできたぞ! 今日の餃子はかなりの自信作で……」
三個目の饅頭に手を伸ばす頃には、すっかり鴛青のことなど忘れていた。私と呉陽はお互いに顔を見合わせて、神妙な面持ちになった。先ほど聞いた昏倒話が一瞬頭をよぎる。
「呉陽殿も来ていたのですか! ちょうどよかった、これを一緒に食べましょう」
そんな不穏な空気にも拘らず、鴛青は何も気にした様子もなく大皿を両手に抱えて持ってきた。ささやかなる抵抗で先ほどまではすぐ傍にあった卓を、一瞬で呉陽が壁際にすっ飛ばしたのだが、鴛青は暢気にそれを軽々と持ち上げると、私の前に置いて大皿をその上に乗せた。
「何を話していたのだ?」
「まあ……色々だ」
その料理が毒を盛られたかのような激不味い物体とは中々に言い出しづらい。
「なんだそれは。嗚呼……ほら、時間がかかってしまったができたぞ!」
自信に満ちた鴛青が卓の上に置いたそれを、手を広げて自慢するが、私と呉陽は言葉を失っていた。得意げな顔をした鴛青は、この際一旦脇に置いたとしても、その物体を思わず凝視せずにはいられない。
私の空耳でなければ、先ほど餃子という単語が飛んできたかのような気がしたが、断じて餃子ではない謎の物体が鎮座している。皮らしき白いものだけはかろうじて認識できるが、まったく以ってその皮もどきに収まり切っておらぬ、おそらく具材と思しきものが四方に飛び出して、それこそ剣山のようだった。そして、一応食べ物の癖して何よりも焦げと臭いが一番酷い。
これを食べろというのか――と私が絶句していると、鴛青が唐草模様の包みから零れた饅頭を見つけて怒り始めた。
「あっ! せっかく私が作っていたのに、他のものを食べていたのか! もう、なんてことをしてって、痛っ! 何をするのですか、呉陽殿!」
「ちょっと待て鴛青!! おぬしは紫苑を殺すつもりか!!」
顔を引きつらせ、袖で鼻を覆いながらも鴛青をしこたましばく。
普段の呉陽ならば笑いの種にでもするところだが、身重の私や呉陽自身にまで害が及ぶようならば笑っていられなくなるのも当然だ。こんなものを食べさせられたら、即刻昇天するに決まっている。
「ご、呉陽殿? 毒など入っていませんって」
「毒が入っていただけのほうがまだマシだ! 紫苑に食べさせるよりも前にまず自分が食って、現実を見ろ!」
「味見はしましたけど……充分美味しかったですが?」
はてと首を傾げた鴛青に、呉陽は大口を開けて固まった。
こいつ、究極の味オンチだ――という魂の叫びが、だだ漏れているかのような呆然っぷりである。残念ながら、危機は自らにも迫っているためそれを笑えはしないが。
満面の笑みを浮かべ、どうだ褒めてくれといわんばかりに顔を煌かせた鴛青をそつなく突っ返せたら、いや今までの私ならば問答無用で皿ごと鴛青の顔に押しつけてやったのだろうが、いかにせん――それが今はできない。惚れた弱みなど死んでも認める気はないが、溜息をつきながらも一応箸を取って、残骸の中でも最もマシそうな餃子もどきを掴もうとしているのは、おそらくはその認めたくないやつのだろう。
「紫苑……悪いことは言わん……やめるのだ。近衛軍の猛者共をそれ一つで昏倒させたほどの代物だぞ……」
そう言われると、元々ない食べる気がさらに失せる。もはや、やけくそでえいっと口の中に放り込む。
「紫苑! 遠慮はいらん、吐き出せ!」
「呉陽殿もなぜそんなことを……美味しいだろう?」
神妙な面持ちでそれを噛むが、一瞬はたと固まる。だが、何度噛んだところで結果は同じだった。それは、信じられぬ見た目と予想の斜め上をいっていた。
「…………美味しい」
「そのようなわけがあるまい!!」
電光石火で反論した呉陽が、ひったくるようにして箸を掴むと威勢よく餃子もどきに突き刺した。だが、その威勢は刺したときのなんともいえぬ不快感に気圧されたのか、口に運ぶときは恐る恐る慎重にっといった具合に変わった。
まもなく呉陽も私と同じような微妙な顔になった。確かに妙な味はするのだが、昏倒するほどには不味くない。してやられたような気分で、もう一個口に運ぶ。
「……考えられんが、なぜか美味い」
「なぜかは余計です。自信作だと申したではありませぬか」
ほくほくと嬉しそうな顔をした鴛青を呆れながら見つめる。
「見た目は最悪だがな。皮が破れまくって、ほとんど皮の役割を果たしておらぬではないか」
「細かいことは気にするな! 味は同じだ」
なんだその大雑把な考えかつ、楽観的な答えは――と思いながらも、再び手を伸ばす。変に中毒性のある味なのだ。だが、再び腹に張りを覚える。先ほどより少し強めのそれだったが、気にせず餃子もどきを取った。腹の子が暴れているのかと思うが、少ししたら張りも和らいでいった。
体勢を変えて、少し脇息にもたれると、昨日中断された話があったことを思い出す。
「そういえば呉陽殿、昨日の話だが……詳しく話してくれ」
何気なしに言ったつもりだったが、呉陽の瞳が若干呆れている。
「鴛青の前でそれをするか……まったく」
「もういいですよ、紫苑は一度言い出したらもう誰の言うことも聞きませぬゆえ」
少しむっとしたが、鴛青のなんともいえぬ哀しそうな顔に何も言えなくなった。こういう時、普通の女ならばなんと声をかけるのだろうかと思うが、私はまったく以って普通の女ではなく、気の利いた言葉は一言も思い浮かばない。最終的に呉陽が折れて、渋々ながらも概要を話し始めたのを、私はひっそりと安堵していた。
――私がこの世界を去り、宋鴻が即位して二月後、都で流行り始めたものがあった。病気平癒、商売繁盛、家内安全に恋愛成就もなんでもござれの万能の神札、そんなものを無料で配れば人気に火がつくのは当然のこと、今では地方部にまで進出しているという。
だが、私にいわせてもらえば、万能の神札などそんな胡散臭いものが存在するはずはない。神札はもちろんあるが、それぞれの願い別に籠める術式は異なるため、一緒くたにできるほど都合のよいものではないのだ。
むしろ、神札はそこに籠められる願いが小さなものであるからこそ、受け取るときの代金だけで対価が払えるのであり、籠められた願いが増えれば増えるほど払わねばならぬ対価も雪だるま式に増えるということになる。それこそ己の生と引き換えにせねばならぬほどの。
だが、神札をもらった者たちは最低限の対価である金すら払っていない。なれば、彼らは何を以ってその願いの対価を払うというのか。
――ただより高いものはない。
皮肉といえばそうだが、彼らは確かに対価を払っていた。いや、払わされていたと言ったほうが正しい。
彼らは神札を手にした後、数週間程度はなんの影響もなく過ごすが、一月を過ぎた頃異変を感じ始める。徐々に気力と思考力が落ちてゆき、仕事もまともに手がつかない。最後は生ける屍の如く動くことも食べることもしなくなるのだという。
それを聞けば神札を得ようとする人も減ると思われるが、神札を配る人物は一箇所である程度配り終えると、異変が生じる前に姿を消し、また違う場所で再開する。それを繰り返すことにより、被害者は途切れることなく増え続け、都の役人はおろか御史台ですら手をこまねいているらしい。
「それだけ聞くと、とりあえずその万能の神札とやら……神札でもなんでもない、むしろ――呪符だな」
「呪符?」
呉陽が文句を垂れながらも、また一つ餃子に手を伸ばした。意外に気に入ったらしい。
「簡単に言えば、神札は神の神託を基に神官が作るが、呪符は人の意志で術者や呪いを生業とする者が作る。人が作るという点では同じだが……神託を曲げることは謀反の次に重い重罪であるのに対して、人の意志は善にも悪にも容易く転ぶ」
「では、今回のものに籠められていたのは……」
「嗚呼、間違いなく悪意だ。いや……ただの悪意ならば可愛いものだが、今回はさらに性質が悪い。生気を盗むとは大層な輩だぞ、そなたらがいいように遊ばれておるのも無理はない」
鴛青が淹れてくれた茶を、何気なしに手を取って飲んだが即後悔した。なんだこの尋常ではない苦さは。
「鴛青……この茶の不味さはなんだ……一体、何杯茶葉を入れたのだ……」
「何杯って……」
ひいふうみと指折り数えた指が六を過ぎた頃には、見るのもやめていた。そんな鴛青の手を呉陽が真面目な顔して叩き落とす。
「そのようなことは後でやれ! 生気を盗むとはどういう意だ?」
「嗚呼、それは……って、それくらいならば朔方でもわかるだろう。というより、朔方は何をしておる? ここまで事態が悪化する前に、なんぞ手を打たなかったのか?」
口直しに香蘭の饅頭を一欠けら口に放り込む。嗚呼、なんとも安心できる味だ。
「実は……朔方殿は……」
気まずそうに言葉を濁らせた呉陽に何かの影を感じ取る。
本来ならば、これは朔方でも対処できる案件のはずだった。朔方だけではなく、陰陽省の術者の力を合わせれば、呪符をばらまいている犯人の特定など朝飯前だろう。木っ端役人どもが不確定な情報だけで駆けずり回るよりよっぽど確かだ。
だが、それがなされておらぬということの意味は――重々しく口を開いた呉陽は、衝撃的な事実を告げた。
「この一件の始めで……体調を崩され臥せっておられるのだ。未だ回復の目処も立っておらん」
目を見開く。
あの年まで力を使い続ければ、身体に不調が出るのも当然のこと。むしろ、思い当たらなかった自分のほうが情けない。逸る気持ちと共に身体が前のめりになって、手を膝の上につく。
「重い病なのか?」
「それが……わからんのだ」
途方に暮れたように呉陽が溜息をついた。
「わからぬとはどういう意だ?」
「医官たちの見立てでは、どこにも異常はないと言っておるのだ……だが、実際朔方殿は起き上がることすらもままならん有様だ。しかもさらに悪いことに……体調を崩しておるのは、何も朔方殿だけではない」
「なんだと?」
難しい顔つきになった鴛青が呉陽の言葉を継ぐ。
「上位術者、並びに中位術者の一部も朔方殿ほどではないにしろ体調が思わしくない。こちらもまた原因不明で、朔方殿と似たような症状が出ている。始めは伝染病も疑われたのが、彼らと普通に接している下位術者や陰陽省付き女官たちにはなんら症状は出ておらぬため……呪術、によるものではないかとも噂が飛び交っている」
「謎の病……いや、病なのかどうかも、もはやわからんが……それゆえに今の陰陽省は今回の一件に関われる状況ではない」
再びついた呉陽の溜息は凄まじく重々しいものだった。それだけでこの一年の間にどれだけ重苦が差し迫っていたのかがわかる。
もし、体調を崩したのが朔方だけであれば、誰もが高齢によるものだと考えるだろう。だが、他の術者までも術を使える状態ではないほどの体調不良に見舞われれば、話はそう単純ではなくなる。それも事件の調査を担えるような力を持った術者だけが都合よく病にかかるなど、そんな偶然、いや――偶然などありはせぬのだ。
「……実に鮮やかな手腕、と褒めてやりたいところだが、最後の詰めが甘い」
くつくつと嗤い出した私に呉陽は眉を顰めた。
「どういうことだ?」
「狙いは至極単純なことだ。犯人は自分を特定する可能性の高い朔方やその他力の強い術者を、病を装い早々に潰したのよ。されど、高齢の朔方だけならまだしも他の若い術者たちも同時にくたばらせるとなると、それこど戦でも起きねば無理だ。……そこで考えられるすべは――病か、呪」
鴛青の不味いことこの上ない茶を取って、左手の上に置く。右手で円を描くようにそれの上で動かすと、深緑の粉のようなものが液体から立ち上がった。やがて粉が一通り出終えると、翻した右手の上で丸薬のように固まっていた。
「これは毒でも病の素でもないが……ある程度の薬草学の知識さえあれば、こうやって液体の中に混ぜ込むことも取り出すことも可能だ。もちろん、飲む本人に気づかせずにな」
ずいっと杯を呉陽に押しつける。凄まじく嫌な顔をしていたが、諦めたのか渋々口に運ぶ。
「……普通に美味い。全然、苦くないぞ?」
先ほど私が盛大に顔をしかめたように、自分もそうなるのだと思っていた呉陽は拍子抜けしたかのように再び茶を啜った。それでもなぜか苦味はこない。
「鴛青が入れ過ぎた茶葉は、このように塊にして取り出したゆえ。されど、これを再び戻しても……」
「うわっ、何をする……て、あれ……?」
呉陽が飲んでいる最中に杯に塊を戻すと、慌てた呉陽が咽そうになったが、再び当惑顔になった。苦味の塊を入れたのに、味がまったく変わらない。
「これが……その気づかせんという、からくりか……」
「そうだ。これならば、毒でも病の素でも容易く持ち込める上、足もつきにくい。確実に仕留められるゆえ、私ならばこの手を選ぶがな」
箸を取ろうとしたが、再び腹が張って、今度は軽い痛みが走る。箸に伸ばそうとしていた手を腹に当てて、優しくさすってみるがあまり変化がない。
「しかし、紫苑のその言い方だと、犯人はその手を選んだわけではないのか」
鴛青が再び茶を淹れようとしたのを遮って、呉陽が自ら茶器を奪った。手馴れた手つきで適量の茶葉を匙に取る。
「嗚呼……詰めが甘いのはそこよ。呪によって人を死に至らしめるには、相応の力を必要とするのだ。それも対象が一人ではなく、多数となればなおさらな。先ほどやってみせたように、毒を作って混ぜただけのほうがよほど容易い。しかも結界が幾重にも張られ、怪しげなものを察知する祭器の類がそこかしこにある陰陽省を呪で狙うとは……少々、分が悪過ぎる」
「確かにそれはそうだな……実際、死者は未だ出ておらん。呪がある程度防がれておるということか」
「まあ、力を使えなくする、という点では目的は達成しておるがな。されど……どうもやり方が生温い。毒はすぐに殺せる上に、病であれば対象以外にも今後対象になり得る術者もまとめて始末し、この機に陰陽省全体の弱体化も図れるというに……なにゆえあえて最も効果が出にくい手を選ぶのか」
話を続けながら何度か体勢を変えたりしているが、一向に痛みが引かない。段々と痛みの強さが増してきて、呉陽が差し出した杯を受け取るだけで息が切れそうになる。
「すべての悪人がおぬしのようなとんでもない冷酷非情な人間ではないからな。だが、そうは申しても確かに辻褄は合わん。まさか自分で仕掛けておいて、温情のつもりでもあるまい」
「呉陽殿、それこそ辻褄が合わぬではありませぬか。ここまで大それたことをやっておいて、今さらその程度の温情になんの意があるというのです?」
「まあ、とにかくだ……一度、朔方を見舞えば済む。私が…………痛たた……」
今までの痛みとは比べ物にならぬ激痛が走る。手が震えて、杯が手から転がり落ちた。
「どうしたしお……」
腹を抱えてうずくまった私に手を差し伸べようとした呉陽がはたと停止する。卓の上に置かれている残骸と苦しんでいる私を交互に見比べて、みるみるうちに顔色を失くす。
「もしや……餃子かっ!! そうだな!!」
真っ青な顔になった呉陽が飲んでいた杯を放り投げて、元凶である鴛青の胸元を般若の如き形相で掴んだ。
「おのれ鴛青!! おぬしのせいで……どうしてくれる!」
ぎゃあぎゃあとあることないこと叫び始めた呉陽をよそに、私は痛みに耐えながらようやく気づいたその痛みの正体に少しばかり緊張していた。
「ち、がう……鴛青、ではな……い」
荒い息を繰り返し、徐々に張ってきたお腹を擦る。それを見た鴛青の顔色が、呉陽よりも酷い真白な紙のようになった。
「まさか……陣痛か?」
「じ、陣痛だと?!」
鴛青を掴んでいた手がぱっと放れ、その場に落っことされた。だがその痛みにもめげず、鴛青は次の瞬間には跳ね起きて、頭を抱えうろうろと往ったり来たりを開始した。
「ど、ど、どうすれば……!! 産婆は、まだ呼んでおらぬ……そうだ、産婆を呼ぶ……呼んで、それから……紫!!」
泣きそうな顔、というか超絶情けない顔で飛びついてきた鴛青に痛みを通り越して、呆れ返った。
こういう時に男は物の役にも立たぬ、と言っていた紅玉の言葉がむざむざと思い出される。
「……落ち着け。陣痛が始まったというても、すぐに産まれはせぬ……ゆえにとにかく、そなたは落ち着け……そなたのやるべきことは、私を褥に移し……産婆を慌てず騒がず、連れてくることだけだ」
「わかった!! 産婆だな! すぐ呼んでくる!!」
いやいや全然話を聞いていない。普段ならば、しこたましばいてやるところだが、今はそれもできぬのが憎い。
「いや……その前に、私を……」
褥に移してくれと言いかけたのを、鴛青が口づけで塞ぐ。言葉を失った私を一度強く抱きしめて、鴛青は爽やかに笑った。
「愛している、紫。……私がいるゆえ、貴女はなんの心配もいらぬ。――私に任せろ」
そして案の定、私をその場に置き去りにしたまま部屋を飛び出していった鴛青の背を、私は不覚にも頬を染めて見送っていた。自分に任せろと言った時の鴛青がなんの確信もない癖にやたらと自信ありげで、それがなぜかどうしようもなく格好よく見えてしまったのだ。
「……鴛青がおぬしにべた惚れなのかと思っていたが、お互いにべた惚れなんじゃないか」
はっと正気に返ると、呉陽がやたらにやにやと笑っていた。屈辱と羞恥で瞬時に頭に血が上る。
「違う!! 誤解だ! 私は……」
「わかったから、わかったから。ほれ、褥はどこだ?」
呉陽にひょいっと抱きかかえられ、再び襲ってきた鈍い痛みに私はそのまま黙り込むことしかできなかった。
*
「ほら、いきんで!!」
何度目かもわからぬいきめの声に、私は朦朧とした意識を総動員させていきんだ。
「紫苑!! 頑張れ! いつもの威勢はどこへいったのじゃ!」
手を握ってくれている紅玉の怒声が耳元で響く。
なぜ王妃ともあろう者がこうも易々と後宮を抜け出せるのかなど、問う暇もなかった。
「痛っっっい!!」
外で紫苑の悲痛な叫び声を聞いていた呉陽他、役に立たぬ男鴛青と到着したばかりの策は、耳を塞ぎたい思いだった。
あの後、鴛青は満面の笑みで通りを歩いていたただの婆を連れてきた。あまりの馬鹿さ加減に言葉も失った呉陽だが、もちろんその程度の馬鹿なら想定していた。だが、現実に起こって欲しかったわけではないが。
紅玉からこの時のためにと、若君の出産時に世話になった産婆に話を通していたのがよかった。紫苑の顔を知る者は未だ多くいる中での出産だ、普通の産婆など頼れない。もし、その産婆が紫苑に何かしらの恨みを持つ者であったならば、最悪の事態もあり得る。
その点、蕗という産婆はなんの心配もなかった。六十を超えた高齢だがかくしゃくとして、数え切れぬほどの赤ん坊を取り上げたことのある経験豊富な産婆であった。紅玉曰く口が悪いのが唯一の問題だと言っていたが、紅玉自ら蕗に紫苑の子を内密に出産させることを打診したぐらいゆえ、相当口が堅いのだろう。若君の時も、蕗は一切他言しなかった。
その蕗を呼びにゆくと同時に、策と後宮にいる紅玉にも遣いを出した。だが、呉陽の名を使ったとしても、赤ん坊が産まれるまでに紅玉が間に合うかは賭けでしかなかったが、賭けは紅玉が余裕で勝った。遣いを出してほんの数刻で、紅玉が門を蹴破って突入してくる音がしてきたときは、冗談ではなく本気で仰天した。何事かと問い質す前に、紅玉は紫苑と蕗がいる部屋に飛び込んでいってしまったため、それを遮る勇気はもちろんなかった。
少し遅れて到着した策はなんだかげっそりとしていた。珍しく馬を駆ったらしく、その馬もげっそりしている。どうやら策を共犯に引き摺り込んで、紅玉はまたも後宮を抜け出し、こちらに向かってくる最中であったらしい。始めは軒に乗っていたが、遣いが携えてきた文を見て、軒では埒が明かぬとさっさと乗り捨て、策の必死の制止も虚しく馬で走り去り――件のとおりになったと、策はやけくそになりながら説明した。
「王妃様はまったく……」
額に手を当てて唸る。
常に問題行動を起こしてくれるわけだが、それの後始末をすることになる自分や策のことも少しは考えて欲しい。
「紫は……大丈夫だろうか……」
紅玉の暴走をどうやって女官長に説明しようかとただでさえ頭が痛いのに、部屋の外に追い出された鴛青はうろうろと落ち着きがなく、危なっかしくておちおち考え事もままならない。
先刻の再来かと見紛うほど、顔色を真っ白にさせ頭を抱えたと思えば、ぶちぶちと何やら呟いて、傍から見ればどうやっても呪文を唱えているようにしか見えない。普段は人前で呼ばぬ紫苑の愛称を、呼んでいることにすら気づかぬほど動揺しているようで、やっと座ったかと思えば壊れた欄干にあえて座り、そのまま庭に頭から落下した。
「……鴛青、まずはおぬしが落ち着け。紫苑よりもおぬしのほうが傷だらけでどうする……」
手を貸してやりながらも、呆れ果てて溜息をつく。
あまりの鴛青の使えなさに、逆に冷静になれた呉陽だったが、果たして自分の子の出産時には、今日のように冷静でいられるのかは謎だった。いや、鴛青よりはマシであることを切に願うが。
「心配で堪らぬのです! 出産はただでさえ、危険であると聞きます! 紫の身に、万が一にでも何かが起きたら……私は、また……」
頭を抱え、項垂れた鴛青を包むのは、底知れぬ哀と冷え切った紺青の跡。
普段ならば、大丈夫だ心配するな、あの紫苑がくたばるはずがないと笑い飛ばしていただろう。今も本当はそうしようとしていた。だが、できなかった。
――私は、また紫苑を喪う。
きっと、鴛青はそう言おうとしていたのだろう。だが、言葉にしてしまえば、それが現実になってしまうような気がしてかろうじて呑み込んだ、ただそれだけだ。鴛青の癒えぬ傷がなくなったわけではない。
いつもと同じように振舞ってみせていたのは、それのせいだったのか。馬鹿だなとも思うが、責めるのは酷というものだ。
鴛青は誰にでも打ち解ける裏のない人間だと皆は思っているだろうが、その実違う。本当は、どこまでも不器用な紫苑と同じ、己の誠の感情をあまり人に見せない。夜に浴びるほどの酒を呑んで泣き崩れても、次の日には平然と仕事に出てくる。だが、その夜にはまた酒を呑んで、喪った最愛の妻を想って泣く。自分がそれに気づかなければ、鴛青は今でもそうやって暮らしていただろうし、むしろもっとぼろぼろになっていたかもしれない。
それほどの激情が鴛青の中で渦巻いて、癒されぬ傷をさらに深く抉っていた。喪うことの壮絶な痛みを、鴛青は身を以って知ってしまったからこそ、畏れている――再び、傷を得ることを。
「……そうとわかっていてもなお、紫苑殿を選んだのは鴛青殿でしょう」
意外な声が落ちてきて顔を上げる。腕を組んだ策が氷のような眼差しで、呆然とした鴛青を見据えていた。
「その選択の代償は、自らが清算しなくてはなりません。いいですか、あなたはすべての覚悟を以って、紫苑殿を選んだのではなかったのですか? どれほどの痛みを背負ってもなお、諦めきれない想いがあったからこそ、今奇跡を起こせたのではないのですか?」
「私は……」
戸惑い瞳を揺らした鴛青を、策は容赦なく追い詰めた。
まるで取り調べのようだとも思うが、呉陽は黙ったままでいた。呉陽では、紫苑と鴛青の両方に深入りし過ぎてしまって、ここまで強く叱咤してやることができない。
「まったく、情けないことこの上ないですね! ですが、それならそうと私は構いません。これ以上、駄々を捏ねるつもりなら、私に紫苑殿を譲っていただきますからね」
ふんと鼻で嗤った策は、鴛青から見放してそっぽを向いた。
急展開な話の流れに、真剣に頷いていた呉陽はずりっとずっこけた。鴛青のことを思いやって怒っているのかと思っていたが、理由は嫉妬か。
「なんだおぬし、紫苑のことをそのように思っておったのか?」
「う、うるさいですね! 勝手に詮索しないでください」
にやにやと笑いながら、策の横腹を小突く。新たなからかい材料ができたなとほくそ笑むが、今の現実を考えればそれも酷なことだった。
「そんなことよりもですね! これから人の子の父になろうとするも……」
「うっっ!! 鴛青の、へたれ野郎っっっ!!」
一斉に部屋の扉を凝視する。中から聞こえてきた罵声が、切羽詰っている割にはあまりにも的確過ぎて、皆きょとんと呆けるしかない。
「こんのっ、役立たずがっっ!! 痛いーーーっっっ!!」
「あっ、すみません……」
思わず素直に謝ってしまった鴛青が情けなくて、笑いを堪えることはもはや不可能だった。笑いながら、鴛青の背を威勢よく叩く。
「何も心配するな! 元気そのものじゃないか! あれだけ叫ぶ力がまだ残っているなら、紫苑は大丈夫だ」
「そうですね……紫苑殿ならば、心配するだけ無駄かと」
策も耐えられぬというように肩を震わせて笑っていた。
顔を真っ赤にさせて立ち上がった鴛青に、もう先ほどまでの影はない。すべての痛みが消えたわけではないが、ただ一時でも心を晴らせてやれればいい。それが今、自分と策がここにいる理由だった。
「な、何を笑っているのですか! 呉陽殿も策も! もう、紫、紫……頑張れ!! 頑張れ、紫!!」
笑い続ける二人を恨めしげに睨んでから、鴛青は扉の前にすっ飛んでいった。
*
「あんたの旦那、中々の色男じゃないか。あんたも別嬪さんだし、こりゃ女でも男でもかなりの美形は間違いなしだね」
「阿呆丸出し……なだけだ」
「そんな男でも、惚れたのはあんたさね。あんたみたいな口の悪い女を引き取ってくれたんだから、旦那に感謝しとくんだね」
「……くそ婆っ! ……無駄口叩いている……暇があったら、仕事しろ! 痛くて、死ぬ!!」
「それだけ騒げれば、死にゃあしないね。あと少しだ、女なら踏ん張りな!」
「さっきもあと少し……って言ったじゃないか!! こんのっ……大嘘吐きがっっ!!」
怒鳴らずにはいられぬ痛みで、どうにかなりそうだ。最初の頃とは比べものにならぬ痛みの波が引いては押し寄せて、今ではもうその間隔すら麻痺してよくわからない。
天井から垂れ下がっている布に、命綱といわんばかりに強く掴まる。引き千切れたとて構うものか。
こんな痛みを味わうくらいならば、力でどうにかしてやろうかと目論んだが、なんの徒か陣痛が本格的になってからというもの力の一切が使えなくなった。言葉にしてもしなくても、幾度となく挑戦したが、うんともすんとも言わない。出産は生命の神秘だからとか、そんな高尚なことを抜かしている余裕はない、理由がわかったらぼこぼこにしてやる。
「頭が出た! それ、一気にいきめ!」
蕗の野太い声が容赦なく飛んでくる。だが、いきめと言われても、そんな体力はもうないと叫びたかった。その時――
「紫!! あとちょっとだ! 頑張れ!! 愛している!」
痛みに朦朧として、すべてがぼやけているこの世界で、唯一鮮明に発色するもの。
思わず涙が零れる。
愛している、愛している。――愛している。
この世界に戻ったとき、始めに目にしたのが泣き崩れる鴛青の姿だった。
私の我侭で苦しめた、そんなことはすぐに解した。私が願ったような幸いも鴛青が得ておらぬことも。すべての元凶は私だ。私の存在こそが鴛青を不幸にする。わかってはいたが、受け入れたくなかったそんな現実を目の当たりにして、私はしばらくの間声も立てずに立ち尽くしていた。
それでもついにその名を呼んでしまったのは、希望からだ。もし許されるのなら、もう一度その隣に寄り添いたいという、そんな小さな希望。私を見た瞬間、迷わずに私を抱きしめてくれた鴛青に、私は酷く幸いを覚え、希望が叶った喜びを噛みしめた。
頼りなくて役立たずで、それでも私をひたすらに愛してくれる。その愛があればこそ、私は今ここにいて、新しき命を繋ぐことができる。不意に襲ってきた愛おしさに、世界が涙で霞む。欠片しかない力を掻き集めて、最後にすべてを籠める。
そして、産声が世界に響いた。
「紫苑でかした! ようやった! 女の子じゃ!」
感激したような紅玉の声が、虚ろなままの私に向けられる。すべての力を使い果たして、私は何が起こったのかもわからず、ただ呆然と宙を見上げていた。
「よう耐えたな。これで、あんたも立派な母親だよ」
蕗が目に入りそうだった汗を拭いて、誇らしげに私の顔を覗き込む。
「母、親……」
その言葉はくすぐったくて、だがどこか計り知れぬ愛しさを併せ持っていた。
先の生であれほどの罪を犯した私が、本当に母親になれるというのだろうか。その子は、本当に私を母として選んでくれたのか。
「紫苑……ほれ……落とすでないぞ」
蕗によって手際よく洗われ、真新しい産着に包まれた子を紅玉はそっと私の腕の中に乗せる。赤くしわくちゃな顔が、ずっしりとかかるその命の重みが、全身で叫んでいる。――生きたい、と。
嗚呼、涙が止まらない。若君を見た時にも感じた命の偉大さが、さらに大きな波となって私を襲う。
何も、言葉にならなかった。言葉にすれば、何もかもが陳腐なものになるような気がして、私はその代わりに小さなその頬に口づけをした。心からの感謝と溢れんばかりの愛情を籠めて。
「紫……」
はっと顔を上げれば、開いた戸口に鴛青が呆然と立ち尽くしていた。いつの間にかすべての処理を終えていたらしい蕗が、その隣でにやりと笑っている。
「ほれ、大仕事を終えた妻の許に行かんかい」
背中を豪快に叩かれ、前のめりになりながらも鴛青は一直線に私の許に駆けてきた。今までにないほど顔を喜びに綻ばせて。
「紫! よくやった! よくやった……貴女は私の自慢の妻だ」
鴛青は、私と子を一緒に抱きしめた。袂から香る鴛青の香に酷く安心して、涙がさらに加速する。
「鴛、青……鴛青……!」
「これまで生きていて、これほどの幸せは他にない。ありがとう……紫、私たちの子を産んでくれて、ありがとう……」
鴛青の腕が解かれて、唇にそっと柔らかさが広がる。あんなにもつらかった痛みが、それ一つで帳消しにできるようなそんな情熱が伝わってくる。どこまでも嬉しそうなその笑顔に、私もつられて笑い出していた。
「可愛いなあ……紫によく似ている」
「目元はそなただ。きっとそなたの美しい瑪瑙を持っているに違いない」
鴛青が感慨深かそうに子の顔にとっくりと見入っている。すると唐突に瞳を輝かせて、私に微笑んだ。
「私にも抱かせてくれ」
ゆっくりと微笑み返した私は、そっと鴛青の腕に乗せる。
最初はどこか恐々とした表情で子を抱いていたが、鴛青を求めるように小さな手が伸ばされた。目を丸くさせながら顔を近づけるとその手は頬に触れて、鴛青は衝撃を受けたかのように身体を震わせた。
「私の……私の、子だ……」
ぽつり、ぽつりと鴛青の瞳から涙が散ってゆく。泣き笑いの表情を浮かべる鴛青に、私も涙が零れていた。
愛おしくて、仕方がなかった。目の前の逞しくて涙脆いこの人が。全身で愛を叫んで、そこにいるだけで私に幸いを与えてくれるこの人が。そして、私たちの間にやってきてくれたこの小さな命が。
「感謝、いたします……神よ」
再び、私に時を与えてくれたことを。これほどまでの幸いを得る、赦しを与えてくれたことを。
私は愛おしい者たちに囲まれて、もう一度微笑んだ。
*
そんな二人を遠くから見守っていた策は静かに微笑んだ。そして、一人その場を後にする。
「策、もうよいのか?」
「はい、仕事を一つ思い出したので……侍御史になった私は忙しいですから」
それに気づいた呉陽がわずかに引き留めたが、策はそのまま退出した。
あれほど幸せそうな表情をした紫苑を見られただけで自分はもう充分だった。まだ未練はあるが、それでも紫苑の幸せを願う気持ちのほうが、それの何倍も強い。
「誰か、いい人探さないとな……」
そんな言葉を呟きながらも、鮮やかに蘇るのは紫苑の微笑み。
わずかに苦笑して、策はある場所に向かった。
*
「紫苑殿は、無事女児を出産されました。母子共に異常なく、お健やかにございました」
報告を終えると、宋鴻の肩の力がわずかに抜けたような気がした。執政室にある椅子から立ち上がり、そっと窓の外に視線を向ける。
「……そう、か」
その一言を搾り出すのに、宋鴻は拳を握りしめてさえいた。表情を知られるのを避けるように向けた背が、どことなく痛々しい。
策に宋鴻の内心を推し量ることはできない。それを知るために必要なことを、自分はまだ知らぬゆえに。だからこそ、策に今できることは未来を創ることだけだった。
「もう、下がってよいぞ」
「はっ。……最後に、一つだけよろしいですか」
振り返った宋鴻の衣が、空気を孕んで怪しげに翻る。
「……呪符のことで」
策は手に持っていた調書を宋鴻に差し出した。




