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花二日

「誠に行くのか?」

「何を今さら。というより、私が渋るならわかるが、なにゆえそなたが渋るのだ」

「いやっ……結局、昨日……仕事を途中で放り出して……」

「自業自得だな。呉陽殿に存分に叱られろ」

「なんて薄情な……!」

 邸を出てから同じような問答が延々と続いている。

 仕事の鬼である呉陽を前にして、それを放り出すなどそんな恐ろしい真似をよくやったなとも思うが、私も常習犯だったため人のことは言えない。

「なれば、ついてこねばよかろう」

「……紫の傍を離れるくらいならば、呉陽殿に叱られたほうがいい」

 ぶつぶつと文句を垂れながらも、私を抱く腕を離すことはない。おかげで鴛青に後ろからすっぽりと包まれたままで、高鳴る鼓動を抑えることが難しい。

 しばらくすると、軋む音を立てて軒が止まった。従者がせかせかと動き回る気配を感じ取り、重い腰を上げようとする。

「どうやら着いたようだな」

 その途端、鴛青が吐き出した盛大な溜息に思わず私も笑い出していた。

 この世界に再び戻ってきてからというもの、何気ないことで笑うことが増えたように思える。以前のような人を蔑むような笑いでは決してなく、当たり前の日常がこんなにも幸いであったことを身に刻みつけるかのような。おそらく鴛青もそれに気づいていて、お互いにそれを知っていても、今の私が鴛青にしてやれるのは一つしかなかった。

 鴛青が私の代わりに呉陽の邸の使用人に取り次ぐ。その者が邸の奥に走ってゆく背を見届けながら、鴛青は私の肩を抱いた。

「……つらくはないか」

 鴛青は、本当に私をどこまで見抜くのか。

 力なく笑いながらも、肩に置かれた手に自らのを重ねる。そこに生まれる熱に縋って、振り払うことはしなかった。

「私は随分、呉陽殿を……怒らせただろうから、どれだけ鬱憤が溜まっているだろうかと……それだけよ」

 呉陽に押しつけてしまったことを思えば、それは当然のことだ。本来ならば、こうして会いにくることさえも許されぬのかもしれなかったが、どうしてももう一度会いたかった。

 私を友といってくれた唯一の友に。

「ならば私と一緒だな。夫婦共々怒られよう」

 労るようにさする手がどこまでも優しい。うっかり頷いてしまいそうになるその言葉に、虚勢を張ることを忘れさせてしまうほどだが、結局忘れぬのは私の意地に違いない。

「……何度も言うが、私はそなたの妻ではない」

「またそんな憎まれ口を……たまには可愛げが……」

「紫苑!!」

 渡り廊下の先から走ってくる人に思わず胸が熱くなった。その人は鬼のような形相をしながらも、驚いてはおらぬようだった。なぜかそれが呉陽らしく思えて、私は不謹慎にも笑っていた。

「久しいな……呉陽殿」

「紫苑!! おぬしは……!!」

 暢気に声をかけた私に、呉陽は思わず手を振り上げた。だが、それ以上はできずに、逆に私の身体を強く抱きしめた。


 *


 昨日飛び出していってからというもの、結局帰ってこなかった鴛青を憂い、呉陽は一人で物思いに沈んでいた。自室の飾り窓から見える、特別派手さはないが味わいのある自慢の庭も、今はなんの慰めにもならない。

 鴛青の心情を鑑みれば、無闇に紫苑を忘れろとは言えなかった。

 紫苑は忘れられたくなくて、その記憶を消さずに鴛青に遺した。何一つ、己を省みることをしなかった紫苑が鴛青にだけ見せた、たった一つの我侭。それを残酷だと言い切るのは、紫苑の不器用な愛情すべてを否定するのと同じことだった。

 そしてこの一年、気丈に振舞う鴛青の最も近くにいた自分だからこそ、痛いほど知り抜いていた――鴛青もまたそれを支えに生きていることを。それすらもなくなってしまえば、鴛青はきっと生きる意味を失くしてしまうことを。それでも、鴛青がこれ以上過去に縛られ生きてゆくことは、鴛青にとっても紫苑にとっても幸いではないこともまたわかっていた。

 だがそれ以上に、時間に余裕ができると何度でも桜の許に行って、そのたびに変わらぬ現実に悄然となる鴛青を見るのは呉陽にとってもつらかった。

 あの時代を宋鴻と共に駆け、命を賭し、強烈な光を残していった紫苑――呉陽も忘れられるはずがなかった。

 戦場で自分の背中を預けられるのは、あの時もこれからも死ぬその時まで紫苑しかいない。どんな非情な行いをしようとも必ずや宋鴻のためを考えてのことなのだと、呉陽すらも屈服させた紫苑の信念だけは無条件で信じられる。

――それほどの友、それほどまでの信頼を託した唯一の友を、喪った哀しみは一朝一夕で癒えるものではないのだ。

 だからこそ、呉陽はずっと悔いていた。あの時、紫苑を止めなかった自分を。


「おぬしは……! なぜいつもいつも某を怒らせるのだ! 某は……おぬしを……」

 溢れ出した感情は留まることを知らない。力の抜けた身体が、紫苑の身体にしがみついたままずるずると崩れ落ちる。

 酷く安堵している自分が、酷く汚いもののように思えた。

 悔恨と懺悔――それらはすぐにもたらされた。

 人々が紫苑を鬼と呼び、宋鴻を神と呼ぶたびに、降り積もってゆく自責の念。自分は紫苑の願いを叶えた。それにも拘らず、このやりきれなさと寂寞の想いは一体なんなのか。桜を見上げる鴛青から、思わず目を背けてしまった自分は、一体なんなのか。

 誰もが、命が喪われるということの本当の意味をわかっていなかったと思う。呉陽だけではなく、紫苑に係わってきた者すべてが。そして、紫苑すらも。

「おぬしのせいで、某がどれだけ悔いたと……!! おぬしを死なせた某が……のうのうと生き続けることが……どれだけ苦しかったか!! 友にそのような苦しみを与える奴など、断じて友ではないぞ!! 絶、縁だ……!」

 言葉と裏腹に強く自分を抱きしめ、涙を流し続ける呉陽に私は胸を引き裂かれるような想いだった。

 私は何もわかっていなかった。何も、考えられていなかった。私が死ねばすべてが解決すると思い込んでいたのは、恥ずかしい驕りでしかなかったのだ。幸せに生きて欲しいと託した願いは、むしろ悔恨の痛みへと変わり、人知れず苦しませるほどに追い込んでしまっていた。

「すまぬ……呉陽殿……許せ」

「誰が、誰が……許すものか!! 絶交だ! 出ていけ!」

 呉陽の泣き崩れたその姿は、己の行いの浅はかさを目の前に突きつけられたようで、あまりの痛みに身体が震えた。出ていけと叫びながらも、決して放しはせぬ呉陽にしがみつかれればなお。

「許してくれ……頼む」

 無意識に、初めて誰かに赦しを乞う言葉を漏らしていた。そんな自分に驚くが嫌悪はない。ただこれほどにも理性を失い怒鳴ってくれる呉陽に、自らも膝を折って抱きしめ返すことに迷いはなかった。

「呉陽殿には、心から感謝しておる……このような私を友だと言うてくれたのは、後にも先にも呉陽殿だけだった……それが、私にとってどれほど幸いであったか……どれほど、満たされていたか」

 御史台から帰るとき、呉陽が言ってくれた言葉。


『……おぬしは、某の――生涯の友であるのだから』


 性的対象として見られることが大半であった私が、初めて得た友。

 軍略を考えさせたら右に出る者はないのに、他のことには至極不器用で激情しやすく、だが涙脆くて情に厚い、そんな呉陽と宋鴻よりも多くの時間を共に過ごした。それにも拘らず、友となれたのはほんのわずかな時間だけであった。

「呉陽殿には……過酷な役目を任せてしまった」

 呉陽を連れて御史台へ向かったのは、呉陽にすべてを知ってもらいたかったのもあるが、それ以上に宋鴻を最後の決断へ導くためでもあった。私を切らねばならぬことに躊躇うだろう宋鴻を諭し、私の願いを叶えてくれる人は、呉陽しかおらぬと思った。

 かつては反目し合い、お互いに宋鴻を尊んでいたからこそ、譲れぬ信念がそうさせていた。だが、見たくもないくらい顔を合わせる回数が増えれば、嫌でも次第にお互いのことが見えてくる。譲れぬと思っていた信念が、大して変わらぬのだということも。だからこそ、呉陽にしか託せなかった。自分と同じものを守り、自分と同じようにそれに命を懸けられる――それがなんの疑いもなく信じられる呉陽しか。

 だが、そのために私がしたことは残酷としかいいようがない。

「ゆえに、気が済むまで殴ってくれても構わぬ。女だからといって遠慮はなしぞ」

 呉陽の身体を離し、覚悟を決めて瞳を閉じる。何度殴られたとて文句は言わぬまい。それだけのことを私はした。

 風を切る音がして歯を噛みしめたが、それは寸前で止まった。恐る恐る瞳を開けると、ぺちっと軽い痛みだけが与えられる。

「……呉陽殿、遠慮はいらぬと」

「遠慮ではない。……おぬしの夫の前で、おぬしを殴り倒せるほど某は無粋ではない。ゆえにこの続きは鴛青がおらぬところでだ」

 顔をくしゃくしゃにさせて微笑む。呉陽らしいその答えに酷く安心して、強張っていた身体が一気に緩む。それを鴛青が後ろから優しく包み込むように支えた。

「ほどほどに願いますよ、呉陽殿。紫苑はこう見えてもか弱い女なのですから」

 至極真面目な顔つきで言う鴛青に、呉陽は呆れたように溜息をつく。

「か弱いなどと思っておるのはおぬしだけだ。紫苑は以前、術も使わずに数人の男共を意識不明にさせたこともあるのだぞ!」

「なっ?! 呉陽殿! それは言わぬ約束だろう!」

 八つ当たりも甚だしい、あれほど口止めしていたことをあっさり暴露するとは。だが、呉陽はなんの悪びれもなく、ふふんと鼻を鳴らした。

「夫の前で取り繕うとしても無駄だ。某は一部始終をこの目ではっきり見ておるのだからな」

「あれは……その、香蘭を寄って集って手籠めにしようとしていた野郎に腹が立って、思わず手が出ただけではないか……そもそも、そなたが何もせぬからだろうが!」

「某よりも先に飛んでいって瞬殺したのはおぬしだろう? しかも大して仕事もない癖に、勝手に香蘭を雇い入れて」

「し、仕方なかろう! あのまま香蘭を置き去りにすることもできぬし、かといって私は女の身ゆえ、妻にすることもできぬのだから!」

 先ほどまでの感動的な再会はいずこやら、鴛青そっちのけでまたいつものように二人の口論が始まった。それが別に珍しくもない光景なのは、宋鴻から聞いた話で知ってはいたが、渦中から飛んできた名に聞き覚えがあり過ぎた。そのまま聞き流すにはあまりにも重大な事実のような気がして、恐る恐る口論に介入してみる。

「なんだ! 香蘭は私の世話をしてくれていた心優しい、愛し子のことだ。どうせ鴛青は知らぬ」

「いやっ……あの、それって、香るに花の蘭って書く……」

「そうだが……そなた知っておるのか?」

 鴛青が曰くありげな視線をうろうろさせたのち呉陽を見る。その視線の意味に気づいた呉陽は、盛大に視線を逸らした。

「な、なんでもないゆえ……ほら、ここでは、その……なんだ」

 勢いよく立ち上がったが裾を踏んでおり、そのまま後ろにひっくり返った。あれほど武術に長け、普段は厳しい顔つきの呉陽が受身も取らずにスッ転び、顔は火が吹けるほど真っ赤である。普段ならば遠慮なく笑い転げるところだが、今はそれどころではない。明らかに態度のおかしい呉陽を問い詰めようとしたそのとき――

「大きな音がしましたが……」

 どこからか可憐な声が響く。それを聞いた呉陽が飛び上がって、翻る御簾を戻そうと走り寄ったが、時はすでに遅かった。

「旦那様? お怪我でも……」

 小柄な女性が顔を出す。結い上げられた髪に控えめな簪が揺れ、優しい色合いの衣が彼女によく似合っている。だが、それらは未婚の女性のものではない。

「し、おん……様……? まさか……?!」

 彼女は大きな瞳をすぐに潤ませて、持っていた茶器を取り落とした。茶器の割れる盛大な音がその場に響いたが、誰一人としてそれに反応を示す者はなかった。

 私の身体がわなわなと震え出す。きっと呉陽を睨みつけると、呉陽は再び飛び上がった。

「そなたっっ!! 香蘭を嫁に取るなど私は聞いておらぬぞっ!!」

 一瞬にして怒りが沸点に達した紫苑を横目で見ながら、鴛青は溜息をついた。

「やはり……」

「呉陽殿……いや、このくそ呉陽が!! そなたっ、十以上も年下の香蘭を騙くらかして、妻にするなど鬼畜の所業ぞ!! 香蘭にはもっと……もっと穏やかで、このような鬼みたいな顔をした男ではなく、もっと……」

 呉陽の胸倉を掴み、がくがくと揺すりながら怒りを喚き散らす紫苑を宥めようと思ったら、ふっと身体が倒れかけた。慌ててその身体を掬うと、あまりの怒りのせいか紫苑は気を失っていた。

「…………呉陽殿」

「何も言うな鴛青……紫苑に万が一にでも知れたら、こうなることは始めからわかっていた」

 やれやれと頭を掻きながらも、呉陽は仕方がないというように笑っていた。その傍らに香蘭が泣きながら走り寄る。

「旦那様……誠に、誠に……紫苑様なのですか……?」

「そうだ。なぜかは某にもわからんが……それにしてもよかったな……紫苑はおぬしのことが大切で大切で、怒りのあまり卒倒するほど心配で堪らぬようだ」

「紫苑、様……」

 鴛青の腕に抱かれた紫苑に香蘭は泣きついた。

 紫苑の名誉のために命令を破り、策に話してしまったことをずっと悩んできた香蘭にとって、紫苑が誰の目にもわかるほど香蘭を想い、怒りを爆発させたのは許されたのと同じだったに違いない。紫苑のことゆえ、香蘭を恨むなどあり得るはずもなかったが、子どものように泣きじゃくる様を見れば、香蘭が思い詰めてきたほどはよくわかる。

 声を上げて泣き続ける香蘭の肩を、そっと抱いてやる呉陽の瞳は慈愛に満ちていた。その瞳に鴛青も呉陽の想いを知る。いつかの二人の婚礼の儀を思い出し、柔らかく微笑む。

 随分若い妻を娶ったのだとからかわれながらも、始終にやけ切っていたあの顔を見れば、呉陽の香蘭への想いが泡沫ではないのは明白であった。そして、酒豪の呉陽が珍しくも祝い酒に酔い、『できることなら、紫苑に許しを乞うてからこの日を迎えたかった』と、ぽろりと漏らした本音を聞けばなお。

「さて、どうすれば紫苑に許してもらえるだろうか」

 肩を竦めてみせながらも、呉陽が嬉しさを滲ませているのがわかる。本当はずっとそうしたいと願って、だが叶うはずもなかったことが今度こそ叶うのだから。

「うーん……おそらく城一つ潰すほうが容易かもしれませぬな」

「……おぬしの意見に同意だ」

 呉陽はがっくりと肩を落とした。


 *


「王妃様、策殿がお見えになっておりますが……」

 暇潰しの刺繍もだいぶ飽きていた紅玉の手が止まる。

 後宮という場所は制約が多くて敵わぬと女官長に連日嘆いているが、紅玉が来てからというものこれでも随分緩いですと言われたばかりだ。仕方なく始めた刺繍も至極つまらない。

「先日も来たばかりではないか。此度は何用じゃ?」

「それが王妃様にしか話せぬとの一点張りで……なんでも、あの人が戻ってきたと」

「あの人?」

 考え込もうとした思考がぼやけて、何かの影がよぎる。手が震え、刺繍をしていた布が手から滑り落ちた。

「王妃様、いかがなさいました? お身体でも……」

「早う……策を連れてくるのじゃ――早う!」

 尋常ではない紅玉の剣幕に、女官長はわずかに目を見開いたが、無言で策が待つ三の間へと身を翻した。その間、紅玉の心はいつになく逸っていた。どくどくと早鐘を打つ胸を押さえて、必死に冷静を保とうとするが、どうにも上手くゆかない。

「王妃様……」

 反射的に顔を上げて、声の主を仰ぎ見る。丁寧な仕草で礼を取る策にじれったさが込み上げるが、なんとか留めて策が顔を上げるのを待つ。妙に長く感じるそれがついに終わって、策の顔がこちらを向いたとき、紅玉は一瞬にして悟った。

 悪いものがすっかり落ちたかのような晴れやかなそれは、この一年ついぞ見たためしのなかった策の満面の笑みであった。

「紫苑なのか……誠に、紫苑が……?」

 無意識のうちに椅子から立ち上がっていた。膝にかけていた綾布が滑り落ちる。

「御意。……紫苑殿が昨日、お戻りになられました」

 策は拾い上げた綾布を丁寧に畳むと小卓に置いた。

「なぜ、じゃ……? 紫苑は死んだはずじゃ……」

「詳しいことは何もわかりません。されど、紫苑殿ほどの術者ならば、常人には考えつかないような方法を知っていたとしてもなんら不思議ではありません」

「そちは会ったのか……?」

 策は、今にも泣きそうなほど顔をくしゃくしゃにさせて深く頷いた。

「……御意。あの時よりも、お元気そうでした」

 そうかと呟いて、放心したかのように紅玉は椅子に崩れ落ちた。

 こんなにも深い安堵を覚えたことはない。何が起こったのか本当のことはわからずとも、紫苑が戻ってきた――ただそれだけで、今はいい。紫苑を喪ってしまった哀しみから一時でも解放されるのなら。

 紫苑にとって自分は母であり、姉であり――無条件で支え合える家族のような存在であったと思う。身寄りのない紫苑にとって、常にそうであれるように自分も宋鴻も他人を寄せつけまいとしていた紫苑に心を砕いてきた。紫苑の抱える孤独を、それの所以を知ることができずとも、傍にいることで少しでも埋めてやりたいと思っていた。

 ゆえに過信していたのかもしれない。紫苑を本当に喪うまで、その真意を図ってやれなかったのは、過信への対価だったのだろう。

 そんな自分が情けなくて、後悔ばかりが過ぎ去ってゆく。こうして国の母となる立場に就いていることさえも、本当は自分に相応しくないと思っていた。紫苑一人の心さえ守ってやれぬで、何が国母かと。

「ですが……紫苑殿は、陛下にお会いしないと言っておりました。陛下の御代にご自分が相応しくないとまで」

 躊躇いがちに発した策のその言葉に、紅玉は強く拳を握った。

 あの日からずっと、宋鴻は寝る間も惜しんで政に取り組んでいた。紅玉が仕事をやめさせようとしても、やるべきことがある、寝ている暇はないと頑なに執政室から出ようとしなかった。それはまるで何かに取り憑かれたかのようで、凄まじい執念だけが宋鴻を突き動かしていた。

 去年の夏、さすがにその疲労が祟って、宋鴻は数日間体調を崩して寝込んでしまった。それ以来、紅玉が有無を言わせず、夜は必ず自分の部屋で休むようにと決めさせたものの、それでも宋鴻が部屋に戻ってくるのはいつも夜遅くで、紅玉が目覚めたときにはもう寝台にその姿はない。

「ゆえに、おそらくは王妃様にも……」

 体調を崩した夜、うなされたように呟いた宋鴻の言葉が今も耳にこびりついて離れない。


『紫苑、なぜ……なぜ……死んだ、のだ……私は、一人で……どうすれば……』


 酷い衝撃と寂しさを感じて、声も上げずに泣いたのを思い出す。

 宋鴻には、自分も呉陽も鴛青もいる。そして、たくさんの若い官吏たちがいる。皆が宋鴻を信頼し、荒廃してしまった国土を立て直そうと、日夜力を尽くしてくれているのを紅玉は知っていた。

 だが、宋鴻は一人だった。紫苑を永遠に喪ったあの日から――ずっと。

「……策よ。紫苑は今どこにいるのじゃ」

「今日は呉陽殿の邸に向かわれると……王妃様、決して訊ねたくはないのですがあえて訊ねます。……もしや、またよからぬことを考えてはおりますまいな?」

「また、とはなんじゃ。人聞きの悪い」

 立ち上がった紅玉を慌てて止めようとする策をにやりと笑う。

「なんだ、この話を(わらわ)にしたからには協力するつもりなのじゃろ? その良き心栄えで、妾を呉陽の邸に連れてゆけ」

「い、いや……! それはちょっと……」

「今さら、やらぬと抜かしても遅い。早う連れてゆかぬか」

 紅玉は頭に乗っている無駄に大きな装飾品と簪を取り去ると、頬を引きつらせている策に不敵に笑ってみせた。

「何お忍びでよく出歩いておる。女官長にはいつものことだと申しつけておくゆえ、なんら問題はない」

「いや、問題あり過ぎですから!」

 だが策は、今さら抗議したところで無駄だということは、この一年で嫌になるほど知っていた。それに、こうなることを承知で紅玉に話したのもまた事実だった。包拯のお咎めなら、あとでまとめて聞けばいい。

 自分に口出す権利はない。それでも何かをしたかった。唯一、慕った(ひと)のために。


 *


「まさか……このような、ことになっておろうとは……呉陽殿がここまで外道だったとは……なんてことだ……」

 香蘭が用意してくれた脇息にもたれ、これまた香蘭が用意した菓子を口に運ぶ。

 あの頃と同じように、私が何を言わずとも欲しいものを察し、私の好物まで用意してくれる細やかな心配りに懐かしくも愛おしい気持ちが蘇ってきた。だが、それと共にさらに溜息をつく。なぜ、呉陽なんぞと……

「……今、心の中で呉陽なんぞと、思っただろう」

「そうに決まっておる。呉陽殿ような偏屈な男など、香蘭が可哀相だ」

「誰が偏屈だと……先ほどまでは、おぬしだとて某と友で幸いだと言っていたではないか! それがなんだ、くそ呉陽とは!」

 本心を言っただけだと凄まじく馬鹿にした表情を浮かべ、ふんと鼻で笑ってそっぽを向く。

 呉陽などどうでもいいが、問題は香蘭のほうだ。何がとち狂って呉陽なんぞを選んでしまったのか。

「香蘭……誠にこのような男でよいのか? 呉陽は若く見えるが実は爺であるし、一々細かいし、何よりも女を愛せるとは思えぬ」

「某を無視するな!」

 毎度の如くぎゃあぎゃあと喚き合う二人のやり取りを、苦笑しながら聞いていた香蘭は、心配そうな私に大きく頷いた。

「私は紫苑様が男であればと何度思ったか知れません。妾でもなんでもいい、紫苑様のお傍で生涯お仕えしたいと……されど紫苑様は女性で、これほどまでに美しい殿方もいらして……」

 鴛青をちらと見て、柔らかく微笑んだ。その微笑みがどこまでも柔らかく、少女の頃とは違う母親のような情愛を含んでいた。

「紫苑様が喪われてから、私は泣き暮らしておりました。頼る当てもない私は紫苑様を追って、死ぬつもりでした。されど、旦那様が私に再び命を与えてくださったのです――一度目は紫苑様に。二度目は旦那様に。そんな命をこれ以上粗末にすることもできず、私は旦那様の許で仕えることを決めました。……そして、旦那様の許で過ごすうちに、旦那様がどれほど紫苑様を大切にし、友であると言っていたあのお言葉が嘘ではないことも知りました」

「香蘭……」

「ゆえに私が自ら望んで、旦那様の妻となりました。むしろ身分も何もない、ただの町娘でしかなかった私を妻にしてくださった旦那様に、私は心から感謝しているのです。ですから、どうか旦那様をそれ以上責めないでくださいませ」

 香蘭の微笑みに、その言葉が嘘偽りではないことは容易に知れた。それにゆったりとした衣に隠れてはいるが、下腹部の膨らみがその幸いを確固たるものにしていることも。

「……呉陽殿」

 じろりと呉陽を睨みつける。ぎくしゃくと口角を持ち上げる様がなんとも不釣り合いで笑いを誘うが、今はそれを笑っている暇はない。

「な、なんだ?」

「香蘭を泣かせるのは無論、飽きたからといって他の女に走るようなことがあれば、私はそなたに呪をかけ、想像を絶する苦しみでのたうち回らせてから殺す。もしくは鴛青がそなたの首を叩っ斬る」

 さっと首を切る仕草をしてみせた私はどこまでも真剣だ。たとえ呉陽だとて、生半可な気持ちの男に香蘭をくれてやるつもりはさらさらない。

 冗談など吐ける空気では勿論なく、なぜ私が……と言いかけようとした鴛青の背を叩いて、すぐさま同意させる。

「そっそうだな……! 紫苑の言うとおりだ」

 完全に尻に敷かれている……と思いながらも、鴛青に叩っ斬られるより、紫苑に呪われるほうがよほど恐ろしいとも思ったのは、決して口にすまい。

「この世の誰よりも幸せにせねば、容赦せぬ」

 あの頃の紫苑は口や態度に出さずとも、香蘭を心底可愛がっていた。身寄りのない紫苑にとって妹とも変わらぬ香蘭を妻に迎えたときから、呉陽の心は決まっていた。

 姿勢を正し、わずかに頭を垂れてから、紫苑の瞳を真正面から見据える。

「……嗚呼、わかっている。香蘭は某が必ずや幸せにする」

 その言葉が真実であるのを見定めるかのように、紫苑の瞳が自分を貫く。

 以前はその瞳を見るのを恐ろしいとも思ったが、今はそうは思わない。殺気すらまとうその鋭さは、紫苑にとって価値あるものの前でしか見せぬことに気づいたからだろうか。

「ならば、よい。……その言葉、決して違えるでないぞ」

 ついぞ揺らぎを見せなかった呉陽にようやく折れたのか、紫苑の鋭さが丸みを帯びた。ずっと息を詰めていたことに気づいて、ほっと息をつく。

「男に二言はない」

 紫苑は不満げにふんと鼻を鳴らした。許しはしたが、未だになぜ呉陽なんだという心の声が漏れている。それでも許してくれたのは、少しは信用されていると自惚れてもいいのだろうか。

「香蘭、こちらに」

 唐突に香蘭の腕を引っ張り、自らの前に有無を言わせずに座らせる。そして、紫苑は少し躊躇いがちに両の手を香蘭の腹の上に置いた。

「……紫苑様?」

 香蘭がきょとんとした顔で首を傾げるが、紫苑は何も答えようとせず、何かに集中しようとしているかのようだった。その場にいた者たちが固唾を呑んで見守る中、紫苑の瞼がゆっくりと閉じられる。

「……静羅人より継ぐ古の陰陽師、紫苑の名において――願う」

 紫苑の手から淡く透明な光が生まれる。香蘭の全身を包み込むようにそれが徐々に広がってゆき、お腹の子の鼓動に合わせてとくんとくんと波打つ。

「この子の生に絶えなき幸いを……世を遍く照らす光となり、人々の希望とならんことを」

 一層の輝きの後、黄金に彩られた光が紫苑の手から離れ、香蘭の腹に吸い込まれていった。ゆっくりと瞼を開けた紫苑が小さく、『清めよ』と呟くと、何かが自分たちの横を通り過ぎていったかのように、身体が圧に押され仰け反る。先ほど見た黄金の光に似たそれが邸中を駆け巡り、満開の花を咲かせ、蜉蝣のような小さな何かがはためく。驚いて目をしばたかせたが、次の瞬間にはもう花も蜉蝣もなく、その代わりにかつてないほどに澄み切った空気が邸中に満ち溢れていた。

――まるで、この目で天上の世界を垣間見たかのような恍惚感。

「これで、少しは息をするのも楽になろう」

 疲れた様子も見せず、紫苑は得意げに笑う。その横顔に、呉陽は思わず涙ぐんでいた。

 それは、あの時の横顔と似ていた。紫苑が初めて見せた誠の心。生涯忘れられぬそれを再び目にするとは――不意に呉陽もまた悟る。

 紫苑の身に訪れた奇跡に、限りがあることを。

「紫苑様……」

「私にできるのはこれだけだ……身体を守り、健やかにあれ」

「ありがとう、ございます……ありがとう……ございます」

 ぼろぼろと涙を零す香蘭は、呉陽が呼んだ侍女に連れられて奥に下がった。最後の最後まで、ありがとうと呟き続けた香蘭を紫苑は幸せそうに見つめていた。

「……某からも、礼を言う」

 先ほどまでのいがみ合いも忘れて、素直にそう呟く。満足そうな表情を浮かべていた紫苑が苦笑しながら、ゆったりと脇息に体重を預ける。

「私は……破壊の陰陽師であるゆえ、人の祝福は……どうにも難しい。あれだけで勘弁してくれ」

 勘弁など、充分過ぎるほどの祝福であった。

 人を殺めることを生業としていたも同義の紫苑が、初めて生きることを願ってくれた。それも紫苑の了承も得ず、一緒になってしまった自分と香蘭との子に。

 いつの日か、我が子に教えたい。自分の顔を知らずとも、無条件に愛し、希望を願ってくれた人がいたことを。

「それで、香蘭を下がらせたのだ。何か話があるのだろう」

 脇息にもたれていた身体を起こし、紫苑は眼差しを変えた。一瞬にして、ただの紫苑から陰陽師紫苑に様変わりした紫苑に苦笑しながらも、その懐かしい瞳と対峙する空気がなぜか愛おしかった。失くしていたものをようやくこの手に取り戻せたかのような、そんな充足感。

「おぬしの話から先に聞こう。今日ここへ来た本来の目的を果たさねば」

「……相変わらず、聡いな。どこかの鈍感男とは大違いだ」

 やれやれと肩を竦めて、じろりと鴛青を見る。

「ふん、鈍感男で悪かったな」

「鴛青は、馬鹿で有名だからな。そういう男を選んだおぬしの男の趣味も大概だということだな」

「失敬な!」

「ゆえに、似合いの夫婦だ……おぬしたちは。趣味が悪い同士の」

「言っておくが、私はこのような男を選んだ覚えはないし、断じて夫でもない!」

 心外だといわんばかりの引きつった顔に、おやっと思う。

「そうなのか? 鴛青は、おぬしを妻だと吹聴して回っていたが」

 絶対零度の瞳がじろりと鴛青を睨めつける。鴛青は完全に目を逸らして、取り繕うように口笛を吹く。

「まあ、いいではないか。……それよりも、おぬしには知りたいことがあるのだろう」

 はっと目を見開いて、言葉を詰まらせる。所在なさげな視線がうろうろと迷って、最終的に項垂れるように伏せられた。言葉を紡ぐのを躊躇うかのように、細い指先が脇息の布を掻く。ついに観念して、ぼそぼそと言葉を発し始めたのは、随分経ってからだった。

「……あの御方は、お健やかに……お過ごし、か……?」

 視線を下に下げたまま、消え入る声で呟く。

 常に強気で生意気な態度ばかり取る紫苑はそこにはいない。訊ねることを躊躇しながらも、ただそれだけが知りたくて、ここへ来たのだとよくわかる。あの頃と変わらず、紫苑の中で宋鴻は絶対の存在なのだろう。

 たとえ、一度死を迎えた後であったとしても。

「……去年の夏に一度、体調を崩されたが……それ以降は、何事もなく過ごされている」

 はっと顔を上げたが、すぐに紫苑は切なげに笑った。

「そうか……そう、か……なら、いい……」

 満足そうに頷きながら、紫苑は微笑み続けた。それが、どこか泣き笑いのような表情にも見えたが、呉陽はそれ以上踏み込むつもりはなかった。

「陛下は日々、改革に努められている。……この一年で、すべては様変わりした。何もかも、陛下が王になられたおかげだ。この国は、良き方向に向かっている」

 だからこそ、呉陽はただありのままに告げるだけだった。それを望んで、紫苑もここへ来たはずであったから。

「嗚呼、そうだな……私も、この世界に来たからこそわかる……あれほどこの世界を蝕んでいた闇がすっかり鳴りを潜め、世界は安らぎに満ちておる――だが」

 この世界に戻った瞬間に気づいた、微かに世界に混じる闇。未だ完全ではない、いや隠れているだけなのか。得体の知れぬ何かが、ひっそりと息づいている。

 私の死と共に、そういったものはすべて消し去ったはずだが、消し切れなかったものが残っていたということなのか。もしそれが誠であれば、己の未熟さを呪うしかない。

「……おぬしも気づいたか」

「微かな闇を感じる。それも私がいた頃のものとは違うものだ。……これはいつからだ?」

「おぬしがこの世界を去って、しばらくしてからのことだ。都で謎の文字が書かれた礼符のようなものが流布し始めた。御史台が主体となって捜査しているが、未だこれといった犯人像はわかっておらん」

「呉陽殿! それは、紫苑に話すべきことではないでしょう! 紫苑は……」

 焦ったように鴛青が呉陽を留める。その焦り具合からして、鴛青もこの一件を知っていたのだと察しはついたが、昨日の鴛章は微塵もその気配を見せなかった――いや、見せたくなかったのだろう。知ってしまえば私が何を言うか、わかり過ぎていたゆえに。

 それでも言ってしまう私は、相当残酷なのだと自覚していた。

「よい……この世界に戻うてきたからには、平和なだけでは済まぬと知っていた。すべての事象には意がある。……なれば、これもまた必然」

「しかし……紫苑は……!」

「――鴛青、すまぬ。だが、やらせてくれ」

 鴛青の手を取って、黒曜石の瞳で射抜く。そんなことを初めて口にした私に鴛青が戸惑っているのがわかる。私の願いを叶えてやりたいという優しさと、私を閉じ込めておきたいという激しさの狭間で揺れ動いているのが。

「だが、私はもうこれ以上……紫苑を戦いの中に手放したくは……」

「紫苑!!」

 甲高い声が響いて振り向いた途端、物凄い張り手が飛んだ。まったくの容赦ないそれにちかちかと星が飛び、追い討ちをかけるようにがくがくと身体を揺さぶられる。なんの拷問かと叫びたくなるが、私はその暴力的な行動の主を知っていた。

 身体の痛みよりも心の痛みで、身体が引き裂かれるほどに。

「戻ってきたとゆうに、真っ先に妾に会いにこぬとはいい度胸じゃ!! そちのような恩知らずなど、絞め殺しても飽き足らぬわ!!」

 言葉のとおりに首に手を回されて、私は本気で意識が遠のいた。この力の入れようは決して冗談などではない。たらりと冷や汗が額に垂れる。

「王妃様!! 何をなさっているのです?! その手をお放しください!」

 無抵抗のまま紅玉に首を絞められる私の代わりに、助け舟を出そうとした鴛青が逆にじろりと睨まれる。ひくっと思わず後退ろうとすると、逆に紅玉はその怒りを鴛青にも向けた。

「そちも同罪じゃ!! 夫婦共々絞め殺してくれるわ!!」

「お、おっやめください! どうかお静まりを!!」

 てんやわんやの現場を見下ろしながら、紅玉をこの場に連れてきた張本人である策は、盛大に溜息をついた。

「――王妃様。そんなことをなされるなら、引き摺ってでも後宮に強制退去させますよ」

 だが、そんなことを言われて素直に聞くようなお淑やかな王妃であれば、誰も苦労はしない。般若の如き形相で策を睨みつけた紅玉は、まるで咆哮する狼のように叫んだ。

「洒落臭い!! 策のような青二才の言うことを聞く妾ではないわ!!」

――確かに、とその場にいた誰もが、現在首を絞められて気を失いかけている私でさえそう思った。だが現実は、そんな暢気なことを考えている余裕などなかった。

「姫……ど、うか……おゆ、るしを……でなけ、れば……私……」

 もうすぐで死ぬ、本当に死ぬ。これは冗談ではなく、本気で危ない。

「許さぬ!! 断じて……許すものか!! 今度、妾の前から消えれば二度と許さぬと……」

 ふっと紅玉の力が抜けて、一気に入ってきた酸素に盛大に咳き込む。そんな私を紅玉は問答無用で抱きしめた。

「ひ、め……?」

「紫苑、紫苑!! よくぞ戻ってきた……! そちを喪って、妾はどれほど悔やんだか……!」

 髪を振り乱して、王妃という立場さえも見ぬふりをして、紅玉は駆けてきてくれた。こんなどうしようもない自分の、ために。

――生を、望んでよかった。

 今でも、私の行ったことに後悔はない。だが、容易に死という結末を選んでしまったのは悔いるべきことだった。私が戻ってきたことをこんなにも無条件で喜び、真剣に私を叱り、それでもなお赦してくれる愛すべき者たちを、私は哀しませ、後悔させてしまった。

「申し訳……ありませぬ……姫のお言葉を守らず、申し訳、ありませぬ……」

 止めどなく流れる涙が熱い。

 かつて策は言った。私は必要とされているのだと。一笑に付したその言葉が、確かに偽りではなかったことを今さらになって思い知る。

 紅玉に呆れたような顔をしながらも、呉陽たちと笑い合っている策を見て、再び涙が零れる。策の癖に変な気を回しやがってとも思うが、感謝している自分もいた。きっと私だけでは、最後まで宋鴻はおろか紅玉にも会いにゆくことはなかっただろう。

「ありがたき幸せに、ございます……私は、この世の誰よりも……果報者に、ございます……」

 最後に再び拳骨が降ってきたが、それをもう痛いとは思わなかった。紅玉の溢れんばかりの愛情に、私は満たされていたから。

「断じて許さぬが……許さぬが、今日だけは許してやる。そちが携えてきた幸いに免じて」

「姫……」

 一転、晴れやかな顔になって、紅玉が誇らしげに私の肩を叩く。

「それにしてもただ一夜にも拘らず、子を授かるとは……大した夫よの。紫苑は良き男を捕まえたな。それでこそ妾の紫苑じゃ!」

 紅玉が言い放った言葉に、その場にいた全員が硬直した。最初に我に返った策が、引きつった表情で一笑に付す。

「な、何を仰られているのですか……王妃様、どう見ても紫苑殿は、普通と変わらないではありませんか……私がのちほど眼鏡を見繕って参りますので……」

「眼鏡が必要なのは、そちのほうじゃこの戯けが! 紫苑のこの腹を見て普通と言い切るそちは目だけではなく、頭もおかしいのではないのか!」

 烈火の如くまた怒り出した紅玉を目にしても、男三人は紅玉が何を言っているのか理解に苦しんだ。再会に気が動転して、幻を見ているに違いない。

 その中で私は一人、がっくりと肩を落としていた。確かに簡単な目くらまし程度の術しかかけてはいなかったが、こうも容易く紅玉に見破られるとは。本当に紅玉だけには、嘘も術も何もかもが通じない。

「……姫。この者たちが悪いのではありませぬ。姫が特殊過ぎるのです……仕方ないですね」

 片手で腹の上に円を描く。すると、たちまち幻影を見せていた膜に光の罅が入ってゆき、それは殻が割れるように粉々に砕け散った。あとに残ったのは、先ほどの香蘭よりもだいぶ膨らんだ、むしろいつ産まれてもおかしくない臨月の大きな腹だった。

 誤魔化すことがなくなって安心したのか、少し苦しくなって姿勢を崩そうとすると、即座に脇息が差し出された。顔を上げれば、驚いたようなそれでいて嬉しそうな表情の呉陽がいた。

「別に体調が悪いわけでもあるまいし、妙に脇息にもたれていると思っておったが……お腹が苦しかったのだな。ならば、最初からそう言えばよいのに」

 些細な変化に気づいていたことに、単純に驚く。おそらく鴛青は気づいておらぬというのに。

「それ見たことか! そちたち全員妾が狂ったと思っていたであろ!」

 またも怒り出した紅玉を宥めて溜息をつく。そうそう私の術が見破られては堪ったものではない。

「仕方ありませぬよ……術をかけ、あえて見えぬようにしていましたゆえ。姫がおかしいのです」

「おかしいとは失敬じゃな! ほれ、そこの失礼極まりない小僧! これで、妾が正しいとわかったか」

 まだ放心したままであったらしい策が、ふらふらとその場にしゃがみ込む。

 昨日、軽い失恋のようなものを味わったばかりにも拘らず、次は子ができるとは――神は、だいぶひねくれているらしい。紫苑に似て。

「紫苑殿、おめでとう……ございます」

 それでも心は不思議と晴れやかだった。無理しているとかではなく、ただ心から祝福できる。

 腹を守るように伸びる紫苑の手が、あの頃とは正反対の穏やかなその瞳が、紫苑の美しさをさらに輝かせていた。男の自分にはよくわからぬが――それが、母親になるということなのだろう。

「おめでとう、紫苑」

「紫苑、ようやったな」

 呉陽は涙すら浮かべていた。口々に贈られる祝福に包まれ、紫苑の少し照れ臭そうな笑顔がことさらにきらめく。

「ところで、張本人の夫は何しておる。言葉の一つでもかけてやらぬか、気の利かぬ男よのう」

 それまで忘れ去られていた鴛青の背を紅玉が豪快に叩く。魂の抜けたような表情をしていた鴛青は、その衝撃にも残念ながら正気には戻らなかった。紫苑とその大きな腹を何度か見比べたのち。

「……へ?」

 それだけを発すると、鴛青は真後ろにひっくり返って、そのまま気を失った。呆気に取られた呉陽が節くれ立った手で、鴛青の頬をぺちぺちと叩いてやるがどうにも戻らない。

 想像の斜め上をいく行動をするのはいつものことだったが、妻が妊娠したと聞いて気絶するか、普通。

「まったく、頼りにならぬ男よの」

 紅玉が呆れ気味にいえば、誰もが賛成するように頷く。もれなく爆笑つきで。

 唯一、紫苑だけが額に手をついて渋い顔をしていたが、夫に目の前で気絶されたら誰でもそうなるしかない。だが、そんな鴛青などどうでもいいと思ったのか、艶やかな髪を惜しげもなく後ろに梳きやって自分を見る。少し曖昧な感情が浮かぶそれに、呉陽は先ほどの渋い顔の理由を知った。

「呉陽殿、今から少しだけ付き合うてくれ」



 *


 都の外れ、人気がほとんどないその森の中腹に、ひっそりと佇むものがあった。真新しい墓石には名が刻まれていない。ここに眠るかの人と同じように、影でしか存在できないもの。

 踏みしめた草が柔らかい。林立する木々の間をすり抜けてゆく風も肌に馴染んで心地よく、涼やかな鳥の声は壮絶な生を生きたかの人のわずかな慰めになるだろう。呉陽が静かに眠れる墓所を選んだというのは、あながち嘘ではない。

 手向ける花も、墓石の前にしゃがみ込んで手を合わせる情も持ち合わせてはいない。ただ立ち尽くして、見下ろす――涙すらも流さずに、私にできることはそれだけだった。人はそれを非情だというのだろうが、中途半端な情などを欲しがる男ではないのだ、かの人は。

 ゆえに、忌々しい。死んでからのちも、いいや死んでからこそが。

「手ぐらい合わせてやったらどうだ、相変わらず冷たい女だな」

 遅れてやってきた呉陽が手に桶を持って、細い山道を登ってきた。なぜか気恥ずかしい想いがして、動揺するつもりなどないのに無駄に心が逸る。

「うるさいぞ、呉陽殿」

「このようなところまで登らせておきながら、態度のでかい奴だな、まったく」

「呉陽殿だろう、面倒臭い場所に作ったのは」

 呉陽は惚けた顔をして、どさっと足元に桶を置きながら、凝り固まった身体を伸ばすように、天に向かって大きく伸びをした。歳に似合わぬ強靭な肉体は幾許の疲れも感じさせぬが、目元に少し増えた皺が過ぎた年月を物語っている。

「名を売り過ぎた奴に言ってくれ。これでも苦労したのだぞ、死んだ後まで騒がれたくはなかろうと、密かに弔ってやるためにな」

 呉陽は話しながら、桶に入れてあった布巾を絞って、乾いた墓石を手馴れたように拭いていった。

 名も刻めぬ上、墓の主すらも大々的に明かせぬため、ここを管理する者は当然の如くない。それでも荒れた様子のない状態を見れば、呉陽や他の誰かがこうして世話をしてくれていたのは明らかだった。生前、危険人物として敵対視されていたのが嘘だったかのように、この場所を取り巻く空気が澄んでいる。

「……あの男も、死してようやく……平穏を手に入れたか」

 仙女に恋焦がれ、そうして身を破滅させた男――高蓮。

 仙女など名ばかりで、想いを寄せるに値せぬどうしようもない女だというのに、高蓮は最期まで私を好いてくれた。それをありがたいと思えるほど自惚れてはおらぬが、少し複雑な想いにはなる。

――なぜ、私だったのか。

 叶わぬ夢を捨てられぬことほど苦しいものはない。その苦しさは時に甘美なる痛みも与えようが、疼き続ける痛みですべてが麻痺する頃には、すでに後戻りできぬ深遠に足を取られてしまっている。それを垣間見た私だからこそ、高蓮がそれらを甘んじて得るだけの価値が私にあったとは到底思えない。

 結局、私は高蓮の命を救ってやれなかった。

「私などに出会わねば……もっと安らかな生を送れたろうに」

 無意識に高蓮が最期に触れた頬をなぞる。

 もう、高蓮がつけた血の痕はない。かの人がすべてを懸けて私を愛そうとした証は何も。

「それでも、あの死に顔を見れば……高蓮がどれだけ幸せだったのかがわかる。安らかな生よりもおぬしに想いを寄せることのほうが、高蓮にとっては必要だったのかもしれん」

 だが、確かに高蓮は勝ったのだと思う。こうして高蓮を思い出すたびに、私は高蓮と共に散った血潮を思い出すのだから。目に見えるものとしては残らずとも、心に、想いに、高蓮の染みは永遠に残り続ける。

「ゆえに……愚かというものよ」

 そんなものを遺してどうする、死んだら仕舞ではないかと思う。だが、いつものように鼻で嗤って見下せぬのは、私も同じゆえになのかもしれなかった。

 流れてゆく風に任せて、一時眼下の都を見やるが、ざわつく心は一向に静まる様子がない。沈みかけた夕日があの頃と装いを変え、血の色よりも濃く燃え上がる焔を思わせるのは、一体誰の心ゆえなのか。

――嗚呼、誠に忌々しい。

 高蓮の愛し方は、私と似ていたと思う。

 自らの心に蓋をして、大切な人を守るために他のすべてを投げ出してしまうところが。だからこそ、自分自身を見ているかのようで、私は高蓮が嫌いだった。

 鴛青をたとえるならば――太陽。周りにいる者たちを温かな心で包んでくれる、そんな光。そして、高蓮をたとえるならば――月。誰にも気づかせぬ想いを抱きながらも、誰よりも情熱的に守ってくれる、そんな影。

「……月、の……か」

 なんか言ったかと呉陽が振り返るのを無視して、もう一度墓石の前に立つ。人差し指を伸ばしかけて、一度躊躇する。だが、そんな自分を嗤い、今度は迷うことなくひんやりとするそれに触れた。

「何をしておるのだ?」

 覗き込んだ呉陽がはっと息を呑んで、次いで切なく微笑んだ。浮かび上がった文字に、満足げに頷く。

「『月之桜人』か、おぬしも案外洒落ているな」

「うるさい」

 ししっと呉陽を払う仕草をしてみるが、本人に効いている様子はまったくない。

「鴛青はつまらんだろうが、これで肩の荷が下りたような気がするよ。名無しの権兵衛では、ちと不憫過ぎるからな」

「別に……気が向いただけだ」

 素気なく言い返してみるが、呉陽は打って変わって神妙な表情になっていた。何を聞こうとしているのかに気づいて、煩わしさからかその前に自分から答える。

「私が選ぶのは、鴛青だけだ……高蓮もそれを知っていた」

 少しばつが悪そうに呉陽は視線を逸らすが、ぼそりと呟いた言葉が私の胸を突く。

「ならば、なぜ……鴛青を置いてきた?」

 はっと息を呑むのは、今度は私の番だった。

 意識してそうしたわけではない。だが、どこかに鴛青に知られたくないという心情があったのは確かだ。これまでの私ならば、そんな感情を抱く自分を一笑に付したのだろうが、なぜか今は違う。

 高蓮は、すべてを鴛青に奪われることをよしとはしなかった。

 たとえ定められた道筋だとしても、どうにかしてそこに傷痕を残そうと高蓮は最後の最後まで足掻いた。果てには、自らの命すらも擲って。それが顔色を決して変えぬ男の身の内で燃えていた、唐紅の焔の名残。見事にその焔に焼かれた心は、それこそ私が死ぬまで燻り続けるのだろう。

 そんな高蓮を執念深い男だと笑えば、『そのくらいでなければあなたの心を揺り動かすことはできませんよ』と、高蓮は笑い返すのだろうか。

「呉陽殿……それでも私はやはり、高蓮を選んでやることはできぬよ」

 運命(さだめ)だけではなく、私にとって高蓮は呉陽とは違う類いの友のようなものだった。敵でありながらも、その力量をお互いに認め合えるほどの。だからこそ、高蓮はともかく私はそこに恋情を持ち込もうとは思わない。たとえ、それで身を滅ぼした男の成れの果てを前にしても。

「――月は美しなれど、かの焔に勝るものはなし」

 情けすらも与えてやらぬ残酷な女に惚れた男の餞には、遠く昇る月に燃え尽きていった焔を思い出すだけでいい。たとえ、それが数えるほどしかない日々の限られた夢であったとしても、高蓮にとっては愉悦の戯れに違いない。

「いつの日か訪れん、月の桜人を待ち」

 落ちてゆく夕日に葬送を詠う。眩しい煌きを世界に残して去ってゆく太陽を追い立てて、闇の主が嫌味ったらしく姿を現す。透明なその光に高蓮の幻が見えたような気がして、締めの句を詠わせぬつもりかと、私はわざとらしく声を立てて笑った。

「残んの桜を情けに、友誼の盃を交わそう――」

 流れていった風が懐かしい声を紡ぐ。冷たい上に呆れたような、それでいて憎たらしいその声を。

 誠に冷たい人ですね、私の仙女は――と、笑う声を。

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