花一日
「……鴛青!」
呆れたような声が自分を呼ぶ。
穏やかな午後の日差しの中で転寝をしていたが、まっすぐに自分の許に向かってくる足音に邪魔される。逃げようにもすでに呉陽の射程範囲内であることはわかっていたため、渋々身体を起こす。
「鴛青! おぬしまた仕事中に居眠りこいていたな!!」
どすどすと足音を立て過ぎて、砂埃を舞わせながら呉陽が登場した。宋鴻の許に行ってきたばかりなのか、普段からきちんとしている装いがさらに極められていた。それに比べて、鴛青は一応着ているという程度に着崩れている。
「呉陽殿……そんなに、かっかすると身体によくないですよ」
「一体誰のせいだと思っておる! ほら、早く立て! 陛下がお呼びだ」
片腕を無理やり引っ張り、やる気のなさそうな鴛青を立たせてやる。
「陛下が私になんの用ですか?」
「なんの用ではない! おぬしは陛下の近衛だろうが。用がなくても陛下のお傍にいろ!」
「陛下は私がいなくとも、ご自分で御身を守れますよ」
「屁理屈はいいから、さっさと行け!」
まだ屁理屈を垂れそうな鴛青を追い立てながらも、呉陽は不意に感じた懐かしさに目を細めた。
『阿呆か、呉陽殿。何を言うておる』
『涙脆いな、呉陽殿は……だが、ありがとう……』
去っていった白妙が日差しの先に消えてゆく。ゆらゆらと記憶だけを引き出させて。
あの頃も、だらけてばかりで腰の重いあれを追い立てるのはいつも呉陽だった。何度つまらぬことで言い争ったり、嫌味の応酬をしたりしただろうか――今はもう、取り戻せぬ過去だ。
喪ったからこそ知った、胸を掻き毟られるような孤独感。この頃、呉陽は過ぎ去った日々を酷く懐かしく思う。
「……呉陽殿も、思い出すのですか」
その様を見ていた鴛青がこちらを振り返って、やるせないような表情を浮かべていた。
自分よりも何よりも、鴛青こそが紫苑を思い出さぬはずがない。
出会ったばかりの頃の鴛青は、かけがえのないものが喪われた者の末路を表しているかのようだった。人生の悦びも希望も失くし、ただ生にだけしがみついていた。それは、紫苑が守った命に他ならぬというだけで、それすらもなければ鴛青はとうに命を絶っていたに違いない。
二羽の鴛――まるでそれを体現したような二人に、そしてそれを喪った鴛青が、生きていてくれることを今はただ感謝したい。
多くの命が喪われた。これ以上誰かが喪われるのは、もう嫌だった。
「あの頃も、あれが仕事をしようとせんのを毎日叱りつけて……懐かしい、あの日々が」
戻ることができるのなら戻りたい。戻って、こんな馬鹿げた決断をした紫苑を叱って殴って、泣いて土下座してでも止めるべきだったとさえ思う。――今、ならば。
だが、何度戻ったとしても紫苑は同じ決断をするのだろうとも思う。紫苑は確かに愛する者たちの未来を、己の望みのままに守り通したのだから。
呉陽から視線を外し、静かに空を仰ぐ。
そっと吐き出された息は、もう白くはない。かの人が愛した花の季節が、もうまもなくやってくることを鴛青は知っていた。
「……桜が、咲きましたね。もうすぐ――」
――もうすぐ、紫苑がこの世から去って一年が経つ。
短かったような、それでいて長かったようなそんな日々を、鴛青は目まぐるしく過ぎ去ってゆく世の中と共に生きてきた。紫苑が遺していったたくさんの愛すべき者たちと過ごしてきたそれは、思ったよりも鴛青の孤独を埋めてくれた。
新たに見出した主――宋鴻は、確かに紫苑が忠誠を尽くすに値する次代に相応しき王であった。宋鴻が新たに打ち出した改革は、混乱した世をみるみるうちに立て直し、そんな宋鴻を誰もが王と認め、到来した新しき世を寿いだ。
その傍らで鴛青は近衛将軍という異例の大出世を受け、紫苑と同じように宋鴻に生涯の忠誠を誓うことに、もはやなんの躊躇いもなかった。以前の自分は暗殺を生業として、金払いのいい雇い主だけにその時限りの安い忠誠を誓うのが常であったが、今ではただ宋鴻の傍らだけに立っている。不思議な感覚でもあるが、誰かに忠誠を誓い、守ることの意味を知れたからこそ、鴛青はこうやって新たな生き方を得られたのだろう。
それに時を同じくして、太尉に就任した呉陽が共にいたというのも大きい。当初、敬意を尽くそうとした鴛青に対し、古くからの友のような感覚で接してくれた呉陽は何よりも嬉しかった。呉陽もまた鴛青に誰かの面影を探しているのだとわかっていても、お互いに縋り支え合いながら、鴛青は宋鴻が目指す世の礎にならんと、今日この日までひたすらに駆けてきた。
風が過ぎ去り、遠くで木の葉がさらさらと音を立てる。鴛青の長く伸ばした髪が音を愉しむように、風と共に揺蕩う。
――時は、無情だ。立ち止まることを赦してはくれない。
喪われたものがどんなにかけがえのないものであったとしても、時は変わらずに流れ過ぎ去ってゆく。想いだけを過去に置き去りにして。
真実、紫苑はたくさんのものを遺していってくれていた。そのすべてを挙げれば限りないが、人の縁はその最たるものだ。宋鴻、紅玉、呉陽、策――その他大勢の人々が、まるで当然だといわんばかりに鴛青に迷いなく手を伸ばしてくれた。だからこそ、抜け殻同然となっていた自分がここまで這い上がり、生を生きるための理由をも見つけることができたのだろうと思う。
だが、ふと立ち止まったとき、恐ろしいほどの孤独感が鴛青を襲うのだ。紺青に塗りたくられた何もない空っぽな心の中で、涙を流すことすらも忘れた自分が、少しずつ少しずつ壊れてゆくような。足元に積み上がってゆくその欠片がついには喉元まで押し寄せ、酷い息苦しさを覚えたまま飛び起きる夜が幾度となく訪れては去ってゆく。
自分は身に余るものを得ている。
本来ならば投獄されても文句は言えぬ自分が、宋鴻の許で仕えることを許され、確固たる地位すらも与えられた。それが、どれだけ幸いなことかわかっている――わかっていた。それにも拘らず、絶望的な闇に似た何かが鴛青を蝕んでゆくのは、身に余る幸いを得てもなお埋められぬ感情。
――それは寂寞。己の片翼と決めた人が、永劫に失われてしまったことへの喪失感。
紅玉も呉陽も、そんな鴛青を痛いほどわかっていた。だからこそ、その寂しさで本当に壊れてしまう前に、紫苑以外の誰かを早く探せと何度も自分に言ったが、そんな気は微塵も起きなかった。
他の誰かなどで、この孤独を埋めることはできない。自分に愛を与えてくれた紫苑ただ一人しか、絶望的な愛に終止符を打つことはできぬのだ。
「鴛青……おぬし……」
「呉陽殿。呉陽殿の仰りたいことは重々承知しています。しかし、私は紫苑以外の女を迎える気はないのです。紫苑以上に手のかかる女はおりませぬゆえ、退屈過ぎて」
空を仰ぐのをやめて、力なく笑う。乱れた髪を一本の紐で器用に結んでゆく。
「……それは、そうだな。それにしても悪趣味な男よ、おぬしは」
やれやれと肩を竦めてみせた呉陽に、口を尖らせて反論する。紫苑よりいい女がいるものかと、鴛青は本気でそう思っているが、呉陽は一度もそれに賛成してくれたためしがない。
「呉陽殿、どういう意ですか! もう、まったく……」
刹那、運命的な何かが鴛青の前で閃く。
桜の花びらが鴛青を呼ぶように――はらはら、はらはらと舞う。一切の音を失くした静寂の中で、唯一鮮明に発色するそれは、白。唐突に蘇るのは、天に還っていった紫苑の亡骸。去っていったかの人が愛した桜の香り。
確証は何もない。だが、心の奥底に刻まれた紫苑との日々が鴛青の心を逸らせる。あり得るはずもない奇跡を心の底から欲してしまう。
「……ゆ、かり……?」
声に出せば、不安が確信に変わった。全身が興奮に総毛立つ。
紫苑ならば、何をしても不思議ではないと言った、かつての自分の言葉が蘇る。まさか、誠に――
「鴛青!!」
無意識に駆け出そうとした足が止まる。呉陽の鋭い声が、胸に刺さって痛くて仕方がない。
「……紫苑は死んだのだ。もう、一年も経つ……おぬしもわかっておろう」
「しかし、私は……!」
「何度、あの桜の許にいこうとも紫苑は決して戻らん! もう諦めろ!」
「容易に……容易に諦められるものなれば、私は始めから……紫苑を欲しはしませぬ!!」
鴛青は呉陽が止める声も聞かずに、その場から走り出した。
あの日から一日も欠かさず通い続けていたあの場所を無心に目指す。紫苑がもし還ってくるとしたら、あの場所以上に相応しき場所はないだろうと、ただそれだけを思って。
*
息を切らして辿り着いたそこには、桜があの頃と何一つ変わることなく立っていた。馬の手綱を崩れかけた塀に括りつけて、そっと足を踏み出す。じゃりっと瓦礫を踏みしめる音が胸に切ない。
廃墟と化した邸は、一年の間ずっとそのままであった。気味が悪いからと民が取り壊すことを嘆願しても、鴛青は決して聞き入れなかった。
鴛青にとってここは、愛おしい思い出のすべてが詰まった場所だった。今でもつい昨日のことのように思い出せる――紫苑と共に過ごした短くも幸せに満ちた日々。それは何よりも鴛青にとっての支えで、失うということはすべてを喪うと同じことだった。
紫苑はたくさんのものを遺していったが、二人が愛し合った証は記憶以外何も遺してはくれなかった。それが紫苑の愛し方――一番近くで紫苑に触れた鴛青だからこそ、その選択をした紫苑の心情がわかる。だが、たとえさらなる傷を招こうとも、最後の縁を手放すことは結局できなかった。痛みさえも、紫苑を愛する一つのすべだと思い込んで。
一度だけ辺りを見渡して、再び桜を見上げる。白き花をつけた古木が、傷ついた者たちを癒すように彼方なる天空へと腕を広げていた。
その先は、紫苑がいる世界に繋がっているのだろうかと当てもなく問う。わずかばかりの希望を込めたそれにも、答えてくれる人はもちろんない。ただ桜が諸行無常の世を憐れむように散るばかりだった。
――桜は何も変わらない。
怒涛のように変わりゆくこの世界で、唯一変わらぬもの。だが、鴛青は変わったものばかりだった。失ったものと得たものを見比べて、悔いてばかりいた。
泣き笑いのような表情を浮かべて、その場に膝をつく。
紫苑が還ってくるわけがない。紫苑に一切の容赦がないように、それはまたこの世の理にも。それでも明日は明後日こそはと、幾度でもここへ駆けてきてしまうのは、捨てられぬ希望にいつまでもしがみついているからだ。そんなことは始めから起こり得るはずがないというのに。その事実を思い知るたびに、鴛青はさらなる孤独を知る。
何度、こうして希望と絶望を味わえばいいのだろう。あと何度桜を見上げたら、紫苑との日々を過ぎし日の思い出に変えられるのだろうか。
「――鴛、青……」
泡沫に弾けて消えるのは、声。
生暖かい空気と共に流れてくる懐かしい香り。膝に乗せていた拳が知らずに震え始める。さくっと土を踏む音に、反射的に顔を上げたときには、息をするのも忘れていた。陽に透ける柔らかな衣が淡い光を湛えて、今が現か幻かを曖昧にする。
その人の影が動く――動いている。鴛青の身体がさらに震えた。そんなはずはない、そんなことは、あり得ない。
「……私は……幻でも見ている、のか……? 貴女に会いたい想いが、幻を見せて、いるのか……?」
震える声は、言葉を紡ぐのに慣れていない。
今、目に映しているものと、思考が上手く噛み合わずにぼろぼろと零れてゆく。あまりにも唐突に訪れたその幸いに恐れすら感じる。だが、その人は少し疲れたような表情を浮べ、微笑んだ。あの頃と何一つ変わらぬそれに、鴛青は息を呑む。
「……阿呆か。そなたに幻を見せるためだけに、このようなことするわけなか……」
気づけば足が飛び出していた。一刻も早くこの腕に囚えねばという本能だけが、鴛青を突き動かす。
あまりの勢いに倒れかけた紫苑の身体を腕一杯に包み込む。途端に鼻腔をくすぐる優しい香りと温かな体温に、感情が一気に込み上げる。
「ゆか、り――紫!!」
悲痛な絶叫が辺りにこだまする。
あの日喪われた熱。崩れていった亡骸。それが今目の前に、己の腕の中にある。先ほどまでは絶望に彩られていた世界が、一気に百も千も色を取り戻す。
紫苑がいた頃は当たり前過ぎて、ついぞ気づかなかった。紫苑がいるだけで、世界はこんなにも色鮮やかであったことを。そして、自分がなんの躊躇いもなく、本心を表に出せていたことを。
抱きしめた腕に力を籠める。そうでもしなければまた喪われてしまいそうな熱を、今度こそは決して放さぬ一心で。知らずに震えていた肩に、そっと紫苑の手が触れた。
「私は、そなたを苦しめただけであったな……私が願うたばかりに……」
紫苑の声も鴛青と同じように震えていた。何を言わんとしているのかを悟って、宥めるように紫苑の小さな後頭部に手を添えて髪を梳く。
「よい……もう、よいのだ。それだけ貴女の愛を知れた……それに記憶が失われていたら、今日この日をこうして迎えることもできなんだ」
苦しかった日々も、悲しみに暮れた日々も、今日この日のためだったならば、今はもうどうでもいい。
腕に籠めていた力を少しだけ緩めて、紫苑の顔を覗き込む。日に透けてしまいそうな白い陶器のような頬に、愛おしげに指を走らせる。烟る睫毛に縁取られた黒曜石の瞳が、涙に潤んで輝きを放つ。
どうしようもなく溢れ出た愛しさに唇を奪う。始めは恐る恐る触れながら、徐々に我を忘れて甘いそれを貪る。袖が苦しげに引かれるまで、鴛青はただずっとそうしていた。名残惜しげに唇を放すと、紫苑は少し怒ったような表情をしていた。
「苦しいではないか! 早う放せ!!」
腕の中でどうにか逃げ出そうと暴れている紫苑をもう一度抱きしめる。
感動の再会に浸っているというのに、紫苑はこんな時でもつれない。それでもそんな紫苑に、以前と何一つ変わっておらぬことを実感できて、さらに愛おしさが増してゆく。
「鴛青! いつまでこうしているつもりだ!!」
「いいではないか、夢にまで見た貴女を、再びこの腕に抱けているのだ。少しくらい余韻に浸らせてく……うっ!! 紫! 夫ともあろう私に向かって、鳩尾に鉄拳を食らわすとは、ちっとも変わっておらぬな!!」
咄嗟に受身は取ったが、一撃の半分は入った。つれない女子なのは知っていたがここまでとは予想外だ。
「誰が、夫だ!! 私は、そなたのような間抜けを夫になどした覚えはないわ!!」
「なんだと! 貴女は忘れたのか、あの夜私と貴女は熱い愛を交わしたではないか! 覚えておらぬとは言わせぬぞ!」
「……ふん。お、覚えておらぬな。……そなた私がおぬ間に、さらに阿呆になったのではあるまいな!」
ぷいっと顔を背けられたが、その顔が赤い。
ごくたまに見せる紫苑の愛情を垣間見るたびに、鴛青は酷く幸せな気持ちになる。こんな表情を見ることができるのは、自分だけだと知っているゆえにどうしようもない支配欲が満たされる。支配されるのをよしとしない紫苑だからこそ。
「……らぬ」
「何か、言ったか?」
紫苑がぼそぼそと何事かを小声で呟いた。
聞き取れずにもう一度聞き直すと、紫苑はすでに赤い顔をさらに赤くさせた。
「も、もう、いい!! 鴛青など、知らぬ!!」
恥ずかしさに負けたのか、紫苑が鴛青を置き去りにして走り出そうとした。それをわけもなく捕まえて、もう一度腕の中に引き寄せる。
「……なんと言ったのだ?」
耳元で囁きながら、指先を首筋に這わせる。吸い寄せられるように白い肌に口づけようとしたとき、紫苑の手が抱きしめていた鴛青の手に触れた。
「……私は、まだ……そなたから……そなたの妻になって欲しいと……言われては、おらぬ……」
耳まで真っ赤にさせた紫苑は信じられぬほどに可愛らしかったが、鴛青は拍子抜けした。
今さら、この国の習慣を知らぬ紫苑でもあるまいにと。
「……? 言わずとも、身体を合わせた夜から、私たちは夫婦になったではないか」
その途端、どすっと肘鉄が入った。へなへなと崩れ落ちる鴛青を、紫苑は無情にも突き飛ばす。そのまま鴛青を置き去りにして紫苑はすたすたと歩き始めた。
「紫、どこに……」
笑いながら引き留めようと伸ばした手が静止する。遠ざかる紫苑の背にいいようのない孤独が忍び寄って、気づけば駆け出して紫苑の腕を掴んでいた。振り返った紫苑の黒髪が風に舞う。
「……私は、またそなたを苦しめるのだな」
呟かれた言葉は髪が元に戻る前で、紫苑の表情を知ることはできなかった。それでも、噛みしめられた唇に哀を視る。
「紫……」
「話の前に、あの日々に戻るとしよう」
話を遮るように紫苑が言葉を発した。目も開けられぬような強風が起こり、がらがらと何かが巻き上げられる音が遠くで鳴っている。何が起きているのか確かめようとしても、それを阻むような砂嵐が無情にも皮膚を打つ。だが、それもじきにやんで、恐る恐る目を開けたときにはその様は一転していた。
急激にあの頃に引き戻されたような錯覚を覚えて、息を呑む。
緋色の欄干が白い壁に映え、萌葱色の屋根裏の彫刻は実に緻密で、それでいて各所に施された金の装飾を際立たせている。開け放たれた格子戸は欄干と同じ色で統一され、少しずつ格子の種類が違うが、全体から見て上手くまとまるように造られており、色和紙が所々に張られた障子から差し込む光の芸術も相まって、邸の主の趣味のよさを存分に覗わせていた。
広大な庭には樹木が生い茂り、先ほどまでは桜だけが侘しく咲いていたが、その桜を損なうことなく咲き乱れる花々や池、母屋、橋の配置は実に見事としかいいようにない。
そこには、朽ちた塀や柱の残骸などどこにもなかった。つい先刻まで廃墟と化していた邸は、あの頃に逆戻りしたかのようにすべてが元通りの美しさを取り戻していた。
「まさか……こんな一瞬で……」
鴛青は自分の目で見ているものが信じられなかった。ぽかんと開いた大口をしまおうにも中々この衝撃は薄れてくれない。
「侮るな。私はこう見えて最強の陰陽師だった者よ。ただし、師匠には敵わぬがな」
疲れた様子も見せずに微笑んだ紫苑の背後で、何かを暗示するように桜が散る。はらはらと儚げに散りゆくその様に、鴛青は唐突に知った。
この奇跡に、永遠がないことを。
*
その日、寂れた路地を過ぎる一台の軒があった。
この一年の間の業績が認められ、位が一つ上がり、先日頂いたばかりのまだ見慣れぬ佩玉を指先でなぞる。手にひんやりと馴染むそれを、少し疲れた瞳が追う。
策にとって今日までの日々は、ただすべきことをして、ただ過ぎ去っていったようなものだった。すべきことがあるということは――楽だ。他に何も考えずに済む。ゆえに、山積していた仕事が今日でとりあえずの区切りを迎えてしまったことに、策は言い知れぬ恐怖を感じていた。
風のように策の前に現れ、そして唐突に去っていった人。
いつも自分を馬鹿にするように鼻で嗤い、簡単にあしらい、自分の甘ったれた考えを次々にぶち壊していった。始めは策にとって、かの人は苦手な人であり、憎むべき人であり、嫌悪した人であった。生涯、かの人の心を理解することはない、理解する必要もないだろう、なぜならば『鬼』だから――と、端から見切りをつけていたのはいつのことだったか。かの人を知るにつれて、なぜかの人があれほどに自分を嘲笑ったのかわかるようになっていた。
以前の自分は、神童の称号を欲しいままにし、なおかつ包拯に重用されるのをいいことに、自らの浅い才に溺れ、大事なことを見逃してばかりいた。そんな自分をかの人は嗤い、そして気づかせた。己の未熟さと、そして自分がこの世に生まれ落ちてから死ぬまでに成し遂げるべき宿命を。それを己の意志で背負うと決めたとき、かの人は策にとって尊敬する人になり、初めて己の心を揺り動かした人となった。
だが、自分はいつだって大切なことに気づくのが遅い。策がすべてを解したときには、かの人はすでに亡く、託された願いに応えることしか自分には残されていなかった。
軋む音と共に軒が急停止する。わずかに揺れた衝撃に、佩玉が手から零れ落ちる。軒の外から従者たちのどよめきが聞こえ、何が起こったのかと眉を顰めた。
「どうしたのだ?」
「申し訳ありません! 少し、驚いてしまって……」
「驚く? 何かあったのか?」
「いえ……その、見ていただければ、よくおわかりになるかと……」
歯切れの悪い御者の言葉に不審に思いながらも、策は軒についている小窓から顔を出した。その途端、息を呑む。
「まさか……そんな、はずは……」
眼前に飛び込んできたのは廃墟であったはずの紫苑の邸ではない。まるで、つい先ほど竣工したばかりの如くそびえ立つ様であった。
信じられぬ思いで、上の空のまま軒から転げ落ちるように降りる。現であることを確かめるために頬を引っ張ってみるが、痛みを覚えて確かな現であることを思い知る。まさかという想いが策の脳裏を掠めて、気づぬうちに策は門を潜っていた。
廃墟になった後の邸は、この一年の間何度も目にしていた。
紫苑の面影を探してここに訪れるたび、目に映すことすらつらくなるような崩れかけた塀や、残骸と化した家屋の材を足早に通り過ぎていた。それでも鴛青と同じく、邸を壊そうとはどうしても思えなかった。それがどんなにつらくとも、壊してしまえば紫苑がここに生きていたことすら幻になってしまうような気がしたからだった。
だが今、己の瞳が映したのはそれではなかった。うっすらと漂う霧に包まれながら、紫苑の衣と同じ白い漆喰で装ったどこか異国情緒を感じさせる邸が策を出迎えていた。荘厳で神聖な空気を感じさせるこの場に、うっかり足を踏み入れてしまったことさえ躊躇するような、主と同じこの世のものではない美しさを湛えている。
その躊躇した感情とは裏腹に、策の足は前に向いていた。何かを探すように辺りを見渡し、歩を早めたり緩めたりする。何かを知らねばと逸る鼓動に突き動かされて、本能のままに動く。
「――誰かと思えば……そなたか、策」
唐突に響いた声に、衝動的に振り返る。そして、後悔した。覚悟を決めることもなく、その姿をすぐに瞳に映してしまったことを。
鮮やかに飛び込んでくるのは幻影なのか。それとも自分の願望が呼んだ虚像か。春の木漏れ日に似た穏やかな微笑が、再び自分に向けられることなどもう二度とあり得ぬはずではなかったのか。
「紫苑、殿……?」
もう一度、その名を。人々が捨て去ったその美しい名を呼べる日が、再び巡ってきたというのだろうか。
柔らかい光を湛えてはためく衣は現実ではないように思える。だが影が、それを追い、繊手の気だるげな動きを追う――まるで、幻影ではないことを叫ぶように。
「何、幽霊を見たかのような阿呆面を下げておるのだ。私は幽霊ではないぞ」
呆れたかのような笑い声は随分と久しい。思わず涙が零れてしまうほどに。
「なぜ、紫苑殿は……」
「たまには奇跡だとて起こるということよ。神の気まぐれでな」
「気まぐれなど失礼なことを! 貴女は神のおかげで戻れたのではなかったのか!」
紫苑の隣に立つ鴛青が、ぷりぷりと怒っている。それを紫苑が耳を塞いで聞かぬようにしている様が、なんとも信じ難かった。
策が目にしてきた紫苑は、誰もが恐れるような『鬼』を演じることを徹底し、常に自分を外に出さぬようにしていた。だからこそ、鴛青の前で限りなく素に近い紫苑自身を見せているのが――涙も引っ込むほどに――どこか妬ましかった。ずかずかと歩いていって、あえて二人の間に入り込む。
「紫苑殿、身体はよいのですか?」
反論の声を上げようとした鴛青を視線で遮る。
鴛青と紫苑の二人が、お互いに想い合っているのは知っていたが、鴛青だけの紫苑ではないのだ。策もまた、紫苑に再び見える日をどれだけ夢見てきたか。
「嗚呼、大事ない。私はすこぶる元気だ」
「よかった……」
最期に紫苑に会ったとき、紫苑の顔色は青褪め、いつ死んでもおかしくないほどに衰弱していた。だが、今の紫苑は精気が漲り、なぜ再び戻ってくることができたのかはわからぬが、それが気にならぬほど元気そうに見えた。
安堵している策の肩が強引に引かれる。焦った顔をした鴛青が自分を睨みつけ、耳元でこしょこしょと囁く。
「言っておくが、紫苑は私の妻だからな。断じて、紫苑に懸想することなど許さぬぞ」
「聞こえておるぞ、鴛青。私はそなたの妻になった覚えはないと言ったはずよ」
「紫苑殿もそう仰っていますので」
「違う! 何か誤解があるだけで、私と紫苑は正真正銘夫婦だ! その証拠に、私は紫苑のお尻にある……」
「な、何を言おうとしておる?! 馬鹿鴛青が!!」
鴛青の頭に容赦なく鉄槌を下す紫苑に、さすがの策も笑った。たとえ愛する人にでさえ、紫苑は手加減するつもりはないらしい。
「立ち話も無粋ゆえ、上がるか?」
打ちひしがれている鴛青を放置し、紫苑は母屋を指し示した。その招待に策は決して表には出さぬよう小躍りしたが、瞬時に復活した鴛青が鬼のような形相で紫苑に詰め寄る。
「紫苑! 何を考えておるのだ! 妻ともあろう者が他の、あまつさえ貴女に少なからずも好意を抱いているだろう若い男を邸に上げるなど、私は断じて許さぬ!」
「そなたに許してもらわずとも結構。ここは私の邸でそなたはただの通りすがりに過ぎぬゆえ。のう、策?」
「では、好意に甘えて」
「お前も甘えるな! 私と紫苑の甘い時間を邪魔するなど……」
「紫苑殿が、仰っているので」
にやりと笑いながら、策は涼しい顔で紫苑の後についていった。
つい先ほどまで、妬ましいと思っていた感情が嘘のように消えていた。ここまで紫苑が自然に接し、心を明け渡している様を見れば、どんなに疎い者でもわかる。自分にも誰にも、この二人の絆を壊すことは不可能だ。だが、もう少しだけ意地悪するのぐらいは許されるだろう。
「して、そなた昇進したのか?」
未だにぶつぶつと文句を垂れている鴛青そっちのけで、紫苑は片手で円を描き、その場に茶器と菓子を出現させた。紫苑が手ずから用意してくれるのかと淡い期待を抱いたが、そんなはずはなかった。
そもそも紫苑に、普通の女のように家事をやっている姿がどうにもこうにも思い浮かばぬのは事実だが。
「ええ、この春から侍御史に」
「侍御史とな? 包拯殿も思い切ったことをしたものよ」
「それはどういう意ですか、紫苑殿……」
「策のようなケツの青い小僧に侍御史が務まるわけなかろうとな」
「…………ほんっとうに、紫苑殿は変わりませんね。その失礼なところが特に」
「私は事実を申しているだけに過ぎぬがな」
「ゆえに、なおさら性質が悪いのです」
ようわかっておるなと笑い声を上げる紫苑に、策はむくれながらも一緒に笑っていた。
あの頃を思えば、紫苑と共にこんな時間を過ごすなど夢のまた夢であった。殺伐とした時代はすでに遠い。今は、もう二度と得られぬと思っていた幸いを愛おしむように噛みしめていた。
「私だとて、出世したのだぞ!」
忘れ去られていることに我慢がならなくなったのか、鴛青が会話に飛び込んできた。
「そもそも私はお前よりも位が上だ!」
「されど、私は不正さえあれば、即刻その位から引き摺り落とすことも可能ですよ? 職務怠慢気味の近衛将軍?」
「うっ……それはだな……」
心当たりがあるのか始めの威勢はどこへやら、鴛青は苦笑いをしてそそっと一歩下がった。それを見ながら、紫苑がさらに笑う。
「そなたが近衛将軍とは! 真面目に仕事ができるとも思えぬのに、よくもまあ我が……」
笑い声が途切れる。言いかけたものが言葉になるのを拒否したかのように、紫苑は脇息にもたれながら瞳を伏せた。その表情に浮かぶ切なさに思わず策は言葉を発していた。
「会いにゆかれたら、どうですか。……陛下に」
紫苑は瞳を伏せたまま、やるせなく笑った。
「輝かしき我が君の御代に、私のような者はいらぬ……お会いするつもりは始めからない」
「なぜ……なぜですか?! 紫苑殿は陛下のために、命を落とされたというのに……!」
「策」
鴛青の声が遮る。はっと振り向けば、普段ふざけたような表情しか見せぬ鴛青が、いつになく真剣な眼差しで自分を留めていた。
「それ以上は、お前が口を挟むべきことではない。お前だけではなく、紫苑以外の人間すべてが。……決められるのは、紫苑だけだ」
「ですが、それではあまりにも……紫苑殿が哀れにはございませんか!」
誰よりも宋鴻を想い、誰よりも宋鴻に尽くし、誰よりもこの世界のために命を捧げた紫苑が、この世界にいらぬなどそんな馬鹿なことがあって堪るか。それでは、紫苑は一体なんのために死んだというのだ。
今にも鴛青に突っかかっていきそうな自分を宥めるように、紫苑の手が優しく背を叩く。
「……そなたは、誠よき青年になったな。されど、女心が未だにわからぬときておる。それでは、いつまで経っても鴛青に勝つことはできぬぞ」
「……鴛青殿も、女心が解せるとは思えませんが」
「まあ、否定はできぬな」
「紫苑! そこは否定すべきところだろう!」
心底呆れたような溜息をついて、紫苑がもぞもぞと体勢を変えた。はだけた掻取の裾を掴んで、前に引き寄せる。
「何を言うておる? 先達て、女心がわからぬのを露呈したばかりではないか」
「なんのことだ?! 身に覚えがないぞ!」
「まったく……策の言うとおりのようだな。褒めて損した」
「なんだその溜息は! そして、どこも褒めておらぬではないか!」
一瞬見せた翳りなど、吹き飛ばすように二人は言い合っていた。それこそが鴛青なりの気遣いなのだと気づくと、策は力なく瞳を閉じた。
確かに自分が口を出すべきことではないのだろう。宋鴻と紫苑の間に起こったすべてのことを、今の策はまだ知り得ているわけではないのだから。
「……申し訳ありません」
項垂れた自分に紫苑の手が伸び、手繰り寄せるようにその腕の中に包まれる。瞬時に香る心を落ち着かせる優しい香はまるで麻薬のようで、今何が起きているのかを理解しようとする策の思考を阻む。
「し、しお、ん……殿……?」
「よい。そなたは正直なだけだ」
背をさすられる手にどぎまぎして、心臓がはち切れんばかりに早鐘を打つ。今のこの状況は非常に嬉しい事態だが、少々複雑な想いにもなった。一体、紫苑の中で自分は何歳に思われているのだろうか。確実に数歳しか違わぬはずなのだが。
「未だに甘っちょろい小僧であるし、まだまだ頼りないが……この一年はそなたにとって、無駄ではなかったようだ。されど、そなたの生は未だ始まりに過ぎぬ。すべきことはこれから先嫌になるほど待っておるだろうが、そなたは歩み続けよ。……私に大見得切ったまでのことを為せるその日まで」
その言葉の意味を思い出して、はっと目を見開く。一気にあの日の情景が蘇る。
『だからこそ、私はあなたとは違う道であなたが望んだ以上の世界を目指します』
『いつの日か、きっと……いや、必ず私はあなたを超えてみせます。あなたが創った今よりももっと、素晴らしい世界を創り上げて……それをあなたへの餞にします』
嗚呼――まったく紫苑には敵わない。仕事に区切りがついたとかなんとか言って、悄然となっていた自分が馬鹿らしい。
自分がやるべきことはまだ何も終わっていない。立ち止まる時間すらもないほどに、それは遠く道の果てで自分を待ち構えているものだ。今、自分が立っている場所は、それこそ紫苑の言うように始まりに過ぎない。
「し、紫苑?! 何をやっているのだ!! そんな小僧などすぐ離さぬか!」
躍起になって紫苑の腕を剥がそうとしている鴛青に内心舌打ちをしながらも、策は紫苑の手を取り、その甲に触れるだけの口づけをした。
「紫苑殿、私は必ずやあの日の言葉を現実のものとしてみせます。ですから、その時こそはどうか私を一人の男として見てください」
得意げに笑ってみせた策に、紫苑はまたも小馬鹿にしたように目を細めた。だが、緩んだ口元で紫苑の心を知る。それは鴛青も気づいたのか、取り繕ったような笑みにどこまでも余裕がない。
「な、な何を言っている?! 紫苑は私の妻だといっただろう! お前みたいな小僧を見るわけが……」
「鴛青よりいい男になったな……はあ、私はどうも選ぶ男を間違うてしまったようだ」
「紫苑?! 貴女まで何を言っているのだ! お願いだ、私を捨てないでくれ!」
策を全力で引っぺがしてから、おいおいと紫苑に泣き縋る鴛青を見て、二人でぷっと吹き出した。
あまりにも穏やかで暢気な今という時間に、心から感謝するような紫苑の微笑みに、策はもう一度微笑んだ。