あのときの私
お待ちの方がおられましたら、申し訳ございません。
お読みくださり、ありがとうございます。
スープをすくう役目を負ったはずの匙が、先程から空気ばかりをすくっていた。
もちろん、そんなもので腹が満たされるはずもないが、当の本人はそれにも気づかないようでぼうっと空気をすくい続けている。
匙を皿にぶつけて音でも立ててしまえば気づくのかもしれないが、育ちの良さは無意識でも発揮されるようだった。
――声をかけたものか、そっとしておいた方が良いものか。
リサは自分のスープに匙を入れながら、どうしたものかと考える。
元々オズウェルは口数が多い方ではない。
思慮深く聡明で、声を荒げて怒ることもないし、穏やかに冷静に道を見つけ出していくタイプだ。
腹が立ったら声を荒げ、悩んだら話を聞いてほしいと思う自分とは正反対なのだ。
――仕事の、悩みだろうか。
リサにはよくわからないが、宮廷魔法剣士という役目のこともあって、彼がこうして物思いに沈むことは珍しいことではない。
家で寛ぐときくらい、仕事のことは忘れたいだろうと、こちらから聞くことはなかったが、さすがに黙って見守るのが辛くなってきた。
「オズウェル、食べないの?」
自分の皿を綺麗にしてからリサが問えば、ぴくりとオズウェルの肩が強ばった。
芋と牛の乳で作ったスープはすっかり冷めてしまっているだろう。
ああ、とか、いや、とか言いながら、オズウェルは匙をスープに浸してぐるぐるとかき混ぜる。
乳白色のそれをじっと見つめていた彼は、やがて意を決したように、匙を置いた。
「……リサ」
返事の代わりにじっとオズウェルの顔へ視線を定めれば、青い瞳が翳っていくのが見てとれた。
ここまで来れば、この先は聞かずともわかった。
半年以上、一緒にいたのだ。
今は半身と呼べるほどに想い合っているのだ。
「やっぱり、やめないか」
「いやよ」
主語はなかったが、やはり想像した通りだった。オズウェルの意図するところをリサは正確に読み取り、即座に切り捨てた。
「でも……」
「もう何度も話したでしょ? 今更怖じ気づくなんて、許さない」
やめないか、と言われたときにリサの目の前に翻ったのは怒りだ。
血が滾り、顔は熱いのに、手足が驚くほどに冷たかった。
リサとオズウェルは共犯だ。
互いが互いを諦めないために、傷つく可能性よりも共にいられる可能性に賭けた。
それが例え、世界という大きなものを敵にまわしてしまうことだとしても。
今更、賭けからはおりられない。
「オズウェル、あなたは私がいない世界で幸せになれる? 私じゃない人を抱いて、幸せだと笑えるの?」
言いながらリサは、そういう日が来るかもしれないこともよくわかっていた。
時間は人を変える。
身を裂くほど辛い別れも、きっといつかは色褪せる。
ましてや、リサが日本に帰ってしまえば、きっと夢でも見たのかと思うほど、この世界は色々な意味で遠かった。
それでも、あえて選びながら、リサはより苛烈なことばを重ねた。
オズウェルの胸に爪を立てるように、なるべく傷つくように。
強く、強く。
「私は、そんなあなたを想像するのも嫌よ。私のいる世界で、私だけを見つめて、幸せだと笑うあなたを想像したい。――あなたは、私が他の世界で他の男と幸せになるのを想像したいの? 他の男に抱かれて、その人に笑いかけて……そんな私が見たいの?」
「……リサ」
苦痛に歪んだ青い瞳が、しっかりとリサだけを映す。
青空の色、穏やかな海の色。
そのどれとも違う、リサだけの青。
これを誰かに渡すことなど、想像したくもない。
「あなたの目測では……一番消えそうなのは、こちらに来てからの私の記憶、でしょ? 大変だと思うけど、きっとまたあなたのこと好きになるわ」
「そんなことは、わからないだろう。君は跳ねっ返りだから」
ようやく少し微笑んだオズウェルに、リサは頬を膨らませた。
「跳ねっ返りって何よ。意志がはっきりしてるって言ってよ! ……でも、まあ。それはそのときの私にしかわからないことよね」
リサは言いながらくるりと瞳を上向けた。
もうすでに見慣れた天井は、かつての安アパートの天井とは似ても似つかない。
それを愛しいと思う気持ちごと失くしてしまうかもしれないという可能性は、リサに何ともいえない焦りを感じさせた。
もう家族には二度と会えない。
もう友達とファミレスで長話をしたり、ボーナスを手にバーゲンに出かけたり、嫌な上司の愚痴を言うこともない。
戻りたい気持ちがないと言えば、嘘になる。
ただ、欲しいものがどちらかしか叶えられないのなら、迷わないというだけだ。
「今の私には……あなたが、大事。あなたの生きるこの世界に残りたい」
「……今の、リサにはね」
オズウェルが頬にかかるリサの髪を掬い上げた。
ゆるゆると何度も梳いていく。
――こうしてオズウェルを愛しいと思う気持ちを忘れてしまって。
そのとき、リサはどういう選択をするのだろう。
そのときのリサに、オズウェルはどんな瞳を向けるのだろう。
「とりあえず、最初から本当のことは言って欲しいかな。あとから、記憶が半年分なくなってました、って気づいたら、きっとあなたのこと信じられなくなるし」
――もちろん、すべてを言われたら困ると思うけど。
ごく小さな声で呟いたリサは、左手の手首へ視線を落とした。
肘の下から手の甲へ向かって絡み合う、美しい蔦模様を指先でなぞる。
「俺は、今の君へも、そのときの君へも、変わらない愛を送るよ」
「……では、私は、そのときの私へ、なるべく素直でいられるよう祈りを送るわ」
互いに組み合わせ両手を握り、額をそっとぶつける。
ゆっくりと互いの唇を探し当て、何度も触れ合わせる。
今感じるこの愛しい気持ち。
共に歩んできた大切な時間。
それらを今喪ったとしても、これからも共にいられる可能性を選ぶと決めたのだから。
ぐっと込み上げた熱いものを、オズウェルには気づかれないよう、リサはゆっくりと飲み下した。