第二話
第二十二代の王、アドルファスⅡ世によって治められるイザルディーン。
王政があり、剣が振るわれ、皆が持つ魔力で動く『魔道具』を使う国。
初めてその話を聞いたときには、この人の頭はイカれてるんじゃないだろうか、という冷めた疑問が浮かんだ。
梨咲にそう説明した男は、オズウェルと名乗った。
見た目だけならどこぞの映画俳優でもやれそうな、銀髪碧眼の精悍な美青年。
「信じられないだろうけど……俺たちは恋人同士だった」
オズウェルの瞳は熱っぽく揺らぎ、それが嘘を言うときのものには見えなかった。
だが。
「全然さっぱり、そんな覚えがないです」
梨咲の記憶は、自宅のアパートで薄っぺらい布団にくるまったところで終わっている。
大学を卒業してから一人暮らしを始め、三年。
社会人としてようやく様になってきた、どこにでもいる普通のOL。
今まで彼氏がいなかったわけではないが、昨年別れてからは男っ気もなかった。ましてや、こんなもろに外国人顔の美形には、お目にかかったこともない。
「そうだろうな。……全部、俺のせいだから」
青い瞳を悲しげに伏せて、オズウェルが笑った。
ほの暗い、自嘲するような笑みだった。
◇◆◇◆
オズウェルのことばを信じるのなら、リサはいわゆる異世界トリップというものをしたらしい。
漫画や小説でよくある、ある日突然、異世界に落とされるというものだ。
「この国では、そこまで珍しいことではないんだ。年に数人は異世界からやってくる人がいる」
年に数人と聞くと、随分多い気がする。急に安っぽく聞こえてしまうのは気のせいではあるまい。
「だが、例外なく、皆元の世界に戻るんだ」
「帰る方法があるってことですか?」
元の世界に、と聞き、リサの瞳がきらめく。
オズウェルから突拍子もない話を聞いて、大きな動揺は見せなかったリサだが、あくまでもそれは実感が持てなかっただけだ。
「帰る方法……というか、強制的に返されるという方が正しいかもしれない。こちらの世界は異物を認めない。異世界から落とされた異物を排除して、元あった状態に戻ろうとするんだ」
「異物……ですか」
来たいと思って来たわけでもないのに、異物とはずいぶんな言い草だ。
一瞬、梨咲の内に何とも言えない不快な気持ちが浮かんだが、それでも帰ることができるというのなら、まあいいだろう。
「じゃあ、私もすぐに帰れるんですね?」
「……いや。もう君はこちらの世界の異物ではない」
オズウェルのことばに梨咲は首を傾げる。
しばらく躊躇ったオズウェルは、ごめん、と呟いた。
伏せられた長いまつ毛の向こうには、今にも滴がしたたりそうなほど、うるんだ瞳があった。
「俺が君を手離せなかったから、君は記憶だけをこの世界から切り離されてしまったんだ」
「は? 切り離されて?」
すっとオズウェルの右手がのび、リサの髪に触れた。
「……君の記憶では、君の髪はこんなに長かった? 煮詰めた砂糖のような色をしていなかった?」
何を、と視線を落としたリサは、目に入るものが信じられず固まった。
忘れるはずもない、つい二日前に行きつけの美容院でカットとカラーをしたばかりだ。
肩に当たるとはねるから、切りすぎないで。秋冬の流行りのカラーで、少し落ち着いた色味がいいな――。
そんなことを馴染みの美容師と話しながら切った髪は、ちょうど鎖骨のあたりの長さだった。
ところがオズウェルの手の中にあるリサの髪は、どう考えても胸を覆い隠すほどの長さがある。しかも毛先はすっかり色が抜けて赤茶けてしまっている。
「……なんで、染めたばっかりなのに。わけわかんない……」
「この伸びた髪を君が知らないということが……。証になるだろうか」
茫然とリサが見返した顔には、希う色が揺れていた。
◇◆◇◆
異世界からやってきた女と、偶然出会った宮廷魔法剣士の男。
異なった世界で寄る辺のない心を支える男に、女はすぐに惹かれた。
王政にも、魔法にもなじみのない女の、屈託のない姿に男も惹かれた。
そうやって恋に落ちた二人が、ともにいられる道はなかった。
だが、幸か不幸か、男には稀代の魔法剣士と言われるだけの、才があった。
その気になれば国を一昼夜で滅ぼせるほど。世界の理に対抗できるほど。
男は、世界が女をはじこうとする力に、まともにぶつかりあったのだ。
そうすることによって、男が世界から消える恐れがあった。
うまくいったとしても、女が身体のどこかを失う恐れもあった。
それでも、二人は幾度も話し合い、ともにいられる可能性に賭けた。
――結果、女はこの世界に残ることができた。
唯一、はじかれたのは女の記憶。
男と過ごした時間、育んだ恋、つみあげた思い出。
男のことも、育んだ気持ちも、すべて忘れた。
女は……どうするのだろう。
何度も、何度も、説明されたその話は、どうしても他人事にしか聞こえなかった。
その当時の自分が、誰かの命や自分の身体を賭けてまで恋をしていたということも信じられなかった。
胸がときめくような恋をしたこともある。一生をともにしたいと思う人もいなかったわけではない。
だが、その人たちのために命や身体を賭けられたか、それほど好きだったか? と聞かれれば、リサは黙るしかない。
本当に、自分がそのような選択をしたのだろうか。
献身的に自分を支えようとしてくれるオズウェルのことは、嫌いなわけではない。
だが、言ってしまえば奇妙さが強すぎるのだ。
自分が知らない自分を相手が知っている――。感覚としては、親戚から聞かされる、物心つくまえの自分の記憶のような――どこか他人事で、居心地の悪い、そんな感情がリサをいっぱいまで膨らませていた。
物語の王道でいけば、オズウェルの愛でリサが記憶を取り戻して、めでたしめでたし?
もしくは、取り戻さなくても、ふたたび二人が恋に落ちて、めでたしめでたし?
そのどちらもが、自分の身の上に起こるとは、どうしてもリサは思えなかった。
実際は、リサ自身が選びとったのかも知れないが、今のリサにとっては、自分の預かり知らぬところで勝手に記憶を操作された、という感覚しかない。
それで愛しているだの、ずっとそばにいるだの、オズウェルだけを責めるのはお門違いだなどと言われて、浮かぶのが恋情なわけがない。
「リサ、身体が冷えてしまう」
ことばとともに、軽く暖かいケープが肩に掛けられる。
リサがかつて選んだというそれは、彼女の好む薄紫色だったが、そんな些細なことさえ奇妙で、苦しい。
「鼻の頭が赤くなっているよ」
リサを見つめる青い瞳が、きっと優しく微笑んでいることは、見なくてもわかる。
その目で見つめられるたび、リサが叫び出したくなることを、オズウェルが知らないことも、わかっている。
「……私が、こちらに来たのは雪の日だったんですよね」
無駄だと知りながら、リサは雪が降ると家の中にいられない。
イザルディーンは雪の多い国らしい。
一冬に何度も降り、吹雪のような日も両手で足りないほどあるという。
あちらにいた頃なら、パウダースノーだと小躍りしたような雪を蹴散らして、闇に溶けてしまえば、もしかしたらあのアパートへ帰れるのではないか。
雪の中、こんこんと眠ってしまえば、目が覚めたら見慣れたシミのある天井が見えるのではないか。
馬鹿なことをしていると、嘲笑うリサがいる。
それでも、お前はじっとしていていいのかと、尻を蹴り続けるリサがいる。
「……そうだよ」
オズウェルの消え入りそうな声が、真上から聞こえた。
注意深くリサに触れないようにしながら、オズウェルの腕が輪を描き、リサを閉じ込めた。
触れていないのに、なぜかぎゅうっと胸が痛んだ。
「リサ、リサ。どうか許さないで。君を監視するように閉じ込めることを。君の記憶を戻してあげられないことを。でもどうか……」
生きていて。
すすり泣きのような風の音に消えて行ったそれを、リサは聞こえないふりをすることで精一杯だった。