傘泥棒の幸福
―――彼が傘立ての前に立った時、私には彼が傘泥棒であることが分かった。
彼は、傘を盗む人特有の、雨と鉄の錆びたような匂いを濃く漂わせていたからだ。
彼の纏う重たそうな真っ黒の学ランは、私も通った公立高校の制服だった。
木曜日、閉館前の小さな図書館。いるのは、暗い目をしたサラリーマンと老夫婦が二人。
それとつまらなさそうな顔をしてカウンターで本を読んでいる50代ほどの男。
図書館内の明かりを反射して、雨が時折きらりと光りながら落ちていく。
彼が、傘を盗みたくなるのも無理はないかもしれない。
そう思うほどに静かで人も少なく、絶好の傘泥棒日和。
私は興味のない手芸の雑誌を読む振りをして、これから行われる彼の犯行を見守ることにした。
彼が行動に及ぶのは一瞬だった。
さっ、と目標めがけて伸ばされる腕。
誰も、彼が傘を盗んだなんて気づかないだろう。
そう思うほどに彼の動きは自然で、手慣れていた。
きっと、私だけだ。
彼の犯行を知っているのは。
そう確信するとなぜかドキドキした。
彼の物となった傘は、濡れた肌を蛍光灯に照らされ、てらてらと艶を帯びている。
さっきまでは他人のものだったというのに、紺無地の傘は彼の手に吸いつくようになじんでいた。
そして、それを見ていると今までにないほどの飢えと渇きがやってきた。
(嗚呼)
盗みたい。
背中を駆け抜けるようなあの一瞬ををもう一度。
もう一度だけでいいから感じたい。
35歳、4500円の安物自転車に乗ってスーパーでレジ打ちのパートへ通う、ごくごくジ平凡な主婦。
自分は傘を盗みたくなるほどに日々に物足りなさを感じているのだろうか。
子供も夫もいるのに。
好きな柄の傘が買えないほど、あの頃のように貧乏なわけではないのに。
腹を空かせた子供のように口の中に唾がたまって、喉がごくりと音をたてた。
昔、私も彼のように傘を盗んだ事があった。
友達の持っている当時流行っていたキャラクターの傘。
それを羨ましく見つめる私の傘は透明なビニール傘。
貧乏だった私の家ではキャラクターのプリントされた傘ですら買えなかった。
羨ましさと、妬ましさ。
その二つの感情が交差して、絡み合って、私はついに手を伸ばしてしまったのだ。
誰もいない昇降口で、その傘に手を伸ばし、掴む。
今でも忘れられない。
あの快感。
背中を、突き刺すような激しく素早い、喜び。
気づけば、閉館五分前になった図書館には蛍の光が流れている。
(私も、傘を盗んで帰ろう)
彼のように上手くできるかは分からないけれど。
私は闇と雨の中に溶けて消える彼の重たい黒を纏った背中を見送った。
そして、傘立ての前に立つ。
床には彼の盗んだ傘の垂らした雫が小さな水たまりを作っていた。
目標めがけて伸ばした腕は思いのほか勢いよく傘の持ち手を掴んだ。
しゅるり。
傘が断末魔をあげて、私の物になる。
そして、一拍遅れて快感が背中を駆けずり回る。
行き場のない喜びと快感をごまかすように、私は雨の止んだ町をベージュピンクの戦利品を差して帰った。
レジ打ちのアルバイトをしていると、ふわり、と雨と鉄の錆びた香りがした。
試食用に焼かれている肉の匂いにも勝るような濃い傘泥棒の匂い。
彼だ。
………いた。
レジ近くの精肉コーナー。
傘泥棒をしたなんて嘘のように、母親にでも頼まれたのか、平然とした顔で肉を選んでいる。
あの時暗いうえに後ろ姿で見えなかった顔は、なかなか端正な顔をしていた。
胸が脈打つ。
彼が、私のレジに並んだのだ。
まだ夕食の準備には早い時間で混んでいなかったので、彼の順番はすぐにやってきた。
「レジ袋はご利用でしょうか?」
私はうつむきがちで口早に、マニュアル本のように言葉を発する。
早く会計を済ましてほしいような、自分が同業者であると気づいてほしいような、もどかしい気持ちが胸を通り過ぎた。
「…いえ」
「お釣りは254円になります、ありがとうございました」
「あの」
「はい?」
「見てましたよね、あの時」
「……ぁ…」
あの時、といえば彼が傘を盗んだ時しかない。
彼は、気づいていたのだ。
気まずくて無言で目をそらす。
それと同時に、じっとりと手に汗が湧いてくる。
「…俺も見てましたよ」
「………え?」
言葉を発しようとした時には、彼はもうあの時と同じ、重たい黒を纏った背中を向けていた。
追いかけたい衝動に駆られたけれど、彼を追いかけてどんな言葉をかければいいのか分からず、私は立ちつくしたままだった。
すでにあの匂いは消えて、辺りには肉の焼ける香ばしい匂いだけが漂っていた。
この話はあらすじでも書いたように、「作家でごはん」というサイトに掲載させていただいた物です。
厳しい意見も褒めの意見もたくさん頂いて、私の中で思い出深い作品となりました。
自分、まだまだやなぁ、頑張らなあかんなぁって思わされた作品です。
加筆・修正を加えたことで少しでも成長できてたらいいな。