橘夫人の肖像画
「隣にずっといるのも退屈だろう。
その辺を散歩でもしてきたらどうだ?
ただし、目の届く範囲でね」
目の届く範囲なんて子供ではないのだからと笑って
でも言葉に従う事にした。
今回の旅行には本など一人で暇を潰せる物はを持ってきていない。
彼に禁止されてしまったのだ。
これは婚前旅行。
この旅から戻れば私は彼の妻になる。
恋人同士最後の二人水入らず。
彼女は一人で、湖に近づいて行く。
その後姿を見ていた。
湖のある避暑地。
泊まっている旅館も老舗で
彼女の好きな文豪も訪れた土地だと言ったら
見た事もないほど目を輝かせていた。
今彼女は水辺を歩いている。
時々立ち止まり、魚でもいるのだろうか?
水面をじっと見ている。
ふいに吹いた風に帽子が飛ばされ、慌てて追う彼女。
地元の人と何か話して、散歩していた犬にじゃれつかれて。
そうやってずんずん遠くに行ってしまうが
時々こちらが見えるか振り返る。
そうして手を振るからこちらも振り返す。
それが何度か繰り返されて。
あまり遠くには行かないでくれ。
母は早くに亡くなり、
父親とも不仲で一人で生きてきたと思っていた自分だったが、
彼女と出会って、自分が寂しがりなのだと知った。
泣き虫なのだと知った。
独占欲が強くて、我侭で、彼女の全てが欲しくて。
自分の悪い所ばかり弱い所ばかり気付かされていく。
自分は自分が思っているほど完璧な人間ではなかった。
気付きたくなかったよ。
けれど君と出会わない人生なんて想像もしたくない。
君のいない世界で、君と出会えるなら何度だって自分を傷つけよう。
そうすればまた君がここに来てくれるだろうから。
遠くに行かないでくれという思いが伝わったのか
彼女が引き返してくる。
けれど焦らす様に他所を見たり立ち止まったり。
帰ってきた彼女は、ふぅと側らの岩に腰掛けて
持ってきていた水筒の麦茶を飲んだ。
それだけで世界は完璧だった。
「はかどりましたか?」
彼は画帳と鉛筆で次の作品の構想を練っていたはずだ。
この湖の風景を描くのだろう、そう思って
邪魔にならない様にそばを離れていた。
見るか?と言われたので画帳を手に取り、頁をめくる。
「どうして、私ばかりじゃないですか」
驚いた声を出してしまった。
だってどの頁も私の姿ばかりなのだから。
水辺、申し訳程度の波が足元に。
帽子が飛ばされた時の表情、
犬にじゃれつかれてしりもちをついた姿勢。
「私ならいつも一緒にいるのだから
いつでも描けるじゃないですか」
すでに自分達は同じ家に住み、
最近では彼が言えばいつでもモデルを引き受けている。
「家ではこんな表情しないだろう?
ここでしか描けないものだ。
君は家では家事をしているか本を読んでいるか――」
今回、別荘でなく旅館を選んだのも
家事を禁止する為だったのだろう。
自分だけの事を考えていてくれと言われている様な気がする。
もうすでに私はあなたのものなのに。
「明日から制作にとりかかろう。
君はそこに座っていてくれればいい」
「私を描くんですか!?」
「いけないか?」
「いえ、いいですけど・・」
彼との再会のきっかけとなった絵は
いわば彼の中の私のイメージだった。
厳密には私ではない。
けれど今回は実際の私を描くのか。
どんな風になるのか楽しみではある。
「これは代表作になるよ。
橘夫人の肖像として百年残る作品だ」
「すごい自信ですね。百年なんて」
彼が言うのだ。そうなるのだろう。
けれど百年なんていう途方も無い数字より
夫人という言葉に頬が熱くなる。
そうか、この旅から戻れば私は彼の妻なのか。
二十一世紀の巨匠、橘総司の没後百年の回顧展が開かれる事になった。
そのプロジェクトチームに参加したある美大生は
彼の妻である美影透子夫人の遠縁の家にやってきていた。
橘総司は人物画の画家と言われている。
そのほとんどが夫人の肖像画だ。
子供や家族の絵もある。けれど圧倒的に夫人の絵が多い。
その夫人には謎が多い。
感情を表に出さない、何かを秘めた様な表情。
めったに人前にも出なかったようで
どのような人物だったのかはっきりしていない。
そして彼の絵にも謎があった。
夫人はいつも同じ方向を向いているのだ。
左頬をこちらに向けた作品が無い。
巨匠なのだから逆の向きが苦手であった、なんて事はないだろうし。
研究家の間でも意見がわかれている。
そしてもう一つ。
彼の代表作である、夫人が湖畔で佇む絵は
もう一枚存在しているのではないか、という噂があるのだ。
その噂を追って知人の人脈も使い、美大生はここにたどり着いた。
そして絵が保管されている蔵へ案内される。
個人宅で美術品の保管など少し不安だ。
そんな思いもあったが思いの外ちゃんとした空調設備があり、
これは期待出来そうだ。
膨大なデッサン。キャンバスも、大小様々。
そして見つけた。
本当にあった。
あの湖畔の絵だ。
しかし美術館や美術書で見慣れた物とは違う。
鏡に映した様に逆だ。
そこで美大生は気付いた。
夫人の頬、絵の具の劣化か?黒くなっている。
やはり保管が不十分・・いや、元からか?
木の影?違う。
夫人の左頬には痣があったのだ。
だから左頬を見せる構図は世に出されなかったのか。
描かなければいいではないかという気もするが、
画家は写実的な作風の人物だ。
描かないという選択肢は無かったのだろう。
けれど作品としては出さない。
いや、本当にそうなのか?
美大生は疑問する。
画家は夫人の痣を汚点として見ていたのか?
違う。
この絵は構図が逆なだけではない。
モデルである夫人の表情も僅かに違う。
よく知られている方の彼女は
ほぼ無表情で遠くを見ている。
けれどこの絵は、
視線はこちら、画家に向けられ
何か言おうとしている様に薄く唇が開かれている。
そして何より、笑んでいるのだ。
画家に心を許しているとわかる気の抜けた表情。
そして画家も彼女を大切だと感じているのだとわかる筆致。
他の作品も見てみる。
彼女の日常を写したデッサン。
料理を作っている、縫い物をしている、本を読んでいる彼女。
笑っている、泣いている、怒っている表情。
子供と遊ぶ、ぼーっとしている、何気ない場面。
モデルとしてポーズをとっている物も、
時にはヌードもあった。
そして次第に彼女は美しく歳を重ねていく。
画家も高齢。線は無駄が省かれ、洗練されていく。
若い頃の激しさは無くなり、弱いがしかし優しい線。
皺の刻まれた指、けれど微笑みは絶やさず。
各地の日本国内海外にある全ての作品には描かれていない
表情がここにはあった。
あの何を思っているのかわからない
ミステリアスな表情が良いのだと言う人がいる。
しかしあれは彼女の本質ではなかったのだ。
この感情豊かな表情こそが本来の彼女。
そしてこの数々の絵から感じられる感情。
愛してる、ずっとそばに、綺麗だ、好きだ、愛しい・・・。
それらは彼女の感情であり、また
画家の感情だ。
絵にこれだけの感情をのせる事が出来るのか!
巨匠の画力?いや、感情の強さ。
キャンバスに全てぶつける様に描かれている。
回顧展に飾る作品を何点か借りてくるように言われたが、
ここの作品は他の目にふれさせられるものではない。
そう断言出来る。
画家は夫人の痣を見せたくなかったのではない。
夫人のこの気持ちを他人に見せたくなかったのだ。
夫人の隠された左頬はいわば彼女の心。
その心を独り占めにしたいと思う画家。
こんな絵を見てしまったら、自分達観客は
彼女に恋してしまうだろう。
そしてまた画家も彼女に恋をしている。
百年残る恋だ。
この作品は見つけられなかったという事にしようと美大生は思った。
人の恋路を邪魔するほど野暮ではない。