風
風が心地良いと感じたのはいつぶりだろうか。
もう何年も部屋に閉じこもっていた気がする。
戸口に座り、光を浴びる。
目は見えなくても今日は良く晴れているのだとわかる。
ここ数日ずっと暗い部屋にいた。
そしてこれからの事を考えていた。
父に筆を折ると宣言した時、
父は止めることも無く。
今まで自分は祖父を、父を越えようとしていた。
父に認められたい、ただそれだけで絵の道を選んだ。
父に認められたいなんて、我ながら幼い理由。
しかしそれを失ってみて自分には
悲しいほどに絵しかなかったのだと気がついた。
これからの未来が何も見えない。
自分にはもう何も無い。
何も無い、父に言われた言葉だ。
図星だった。
自分の絵には何も無かった。
意図も感情も想いも何も含まれてはいない。
しかしそれでも審査員や評論家はその絵を良いと評価する。
だから描き続けた。
けれどあれはただ橘という名の評価だったのだ。
自分の絵など誰も見てはいなかった。
だから筆を折る事に未練は無い。
そして、何も無い男が一人残った。
暗い部屋。何も見えず、聴覚だけが敏感になる。
人の足音。
先日新しい家政婦が来ていたな。
あの日以来、この暗い部屋に食事を運んでくるだけの人物だ。
散らかった部屋を片付けて、掃除、食事の準備、
床の段差につまづく、あぁそこは危ないんだ、
ガラス戸を開ける、んっと伸びをする声。
そして、よしっと気合を入れて。何をするんだ?
彼女の行動がはっきりイメージ出来る。
このアトリエには今まで自分一人だった。
こんなに近くに他人の気配があることは無かった。
自分は他人を避けてきたが、案外
他人がそばにいる事が嫌いというわけではなかったのだなと気がついた。
少し彼女に興味がわいた。
それからこうして彼女の音をBGMに
戸口でぼーっとするようになった。
彼女は不思議だ。
存在感が薄い。
人は姿を見なくても大体どういう人物なのかわかるものだろう。
声、足音、行動でたてる音。
彼女が何をしているのかはわかる。けれど
彼女自身の形がわからない。
とらえどころが無い。
雲や風の様に形を変えていく。
遠くにいるかと思えば近くから声をかけられ、
「橘様、昼食の用意が出来ました」
「苗字で呼ばれるのは好きじゃない」
「そうですか?では・・・総司さん」
「それでいい」
立ち上がり、テーブルまで歩く。
彼女は手助けしようとした様だが、自分のアトリエだ。
テーブルにつくと、献立と食器の場所を教えられる。
食べている最中も、
小鉢を取ろうとしてとどかなかった場合などは
すかさず横から手元に置いてくれる。
「君は食べないのか?」
「私は後でいただきます」
「一緒に食べれば良い」
「・・・そうですか?・・では」
そう言って手早く用意して、座る。
向かいに座るのかと思いきや、
いただきますと言う声は隣から聞こえた。
食べている最中もこちらの手助けが出来る様にか。
食卓、自分の横に人がいるなど・・・
母がまだ健在だった頃、そこまで遡らなければ記憶に無い。
父達との食事は時々とるが、隣り合って食べるなど無いことだ。
「あ、お豆腐はさっきの一口で終わりなんです」
「そうか・・」
「お豆腐、好きなんですか?」
「ああ。湯豆腐が特に。今は湯豆腐の時期ではないけれどね」
「そうなんですか。では次からはお豆腐のメニュー増やしますね」
彼は食後も戸口に座っている。
目が見えないのは暇だろう。
本も読めないし、と
自分の尺度で考えてしまう透子。
そしてだんだんと日が傾いて。
「総司さん」
声をかける。
返事は無い。
その代わりに微かな寝息。
自分の部屋へ行って、自分の使っているひざ掛けを持ってきた。
冷えてはいけないからと彼にそれをかけ、
立ち去ろうとした時に袖を引っ張られた。
腕を掴めると思っていたが、袖だった。
やはり彼女の存在感で自分の感覚がおかしくなっている。
まるで子供が母の袖をひいた様になってしまった。
というよりまさにそうだ。
浅い夢の中で、幼い自分に母が彼女と同じ様にしてくれていた。
そして幼い自分は行かないでと袖を掴んだのだ。
「すみません。起こしてしまいましたか」
「少し話しをしないか」
彼女が隣に座る気配。
「話し・・聞きたい事があるんですけど。
総司さんは人物は描かないのですか?」
気になっていた事だ。
キャンバスをまとめていた時に思った。
それはほとんどが風景画だった。
静物もあったが、風景。
人物はどこにもいなかった。
橘総司は風景の画家だ、とそう言われてきた。
習作、デッサンは描いている。
しかし作品としての人物画は一点も無い。
初めて賞をもらったのは母親の顔だった、と総司は思い出した。
小学校の頃。
しかし賞をもらった事よりも、母に褒められたのが嬉しかった。
そうか父に認められようと思うより先に、これがあったのだ。
更に幼い、絵を描く理由。
――素敵な絵ね、ありがとう総司。
しかしその後すぐに母は亡くなった。
それから描いていない。
描きたいと思える人がいなくなった。
「なら、君がモデルになってくれるか?」
そう言う。
すると彼女は
「私は駄目です。美しくないのでモデルなんて」
「モデルに美醜は関係無い」
「私は、駄目なんです」
彼女は頑なに。
「それに総司さんの目が治る日、包帯がとれたら私はもうここにはいませんし」
彼女がここにいるのは一ヶ月の間だけ。
顔を見る事もなくいなくなる。
「そう、だな。それに自分も筆を折ったんだ」
「え!どうしてですか?!あんなに素敵なのに!」
「あんなものなんの価値も無い」
「価値?私は素敵だと思いました!私は素人ですけれど
そばに置いて、ずっと見ていたいと――」
「素人の君がそうでも、他は違うんだ」
彼女の言葉を素直に喜べず、冷たく突き放す様に言ってしまう。
彼女もまた、母と同じ様にすぐにいなくなってしまう人なのだ。
夜、彼が寝室へ行った。
そして透子も自分の部屋へ戻る。
座り、目の前には彼の描いた絵がある。
毎日こうして見ている。
彼を怒らせただろうか。
自分の気持ちを素直に伝えただけなのだけれど。
そしてその前、彼にモデルをしないかと言われた。
少し嬉しかった。この絵の様に私も描かれるなんて。しかしそれは
冗談だ。筆を折ったと言うのだから。
だから自分も冗談で返せばよかったのに、あんなに頑なになってしまった。
私は美しくない。
鏡を見る。
自分のコンプレックス。
左の頬。
影の色。
痣があるのだ。
こめかみから顎まで
手のひらに墨でもつけて撫でた様に。
産まれた時から。
凹凸は無く、他の肌と同じ様に滑らかだが
化粧では隠せないほどに大きい。
これのせいで接客業などは出来なかった。
この家政婦という仕事も、
理解のある人のところでないと続かない。
彼の、総司さんの目が見えなくてよかった。
そして見られずに去っていける。
彼と話しをして、一緒に食事をして
自分が彼に惹かれているのがわかる。
同じ歳の男性となど話す機会など
今まで無かったのだ。
彼との一ヶ月。半月を切る。
「剃刀を貸してくれないか」
「何に使うんですか?」
彼に刃物を渡す事は禁止されている。
もう彼からは自傷しようとする様な雰囲気は感じられないけれど、決まり事なのだ。
「髭を剃る以外何に使う?」
少し可笑しそうに彼は言う。
薄い方だろうがたしかに無精髭が生えている。
彼はきっちりとした性格の様だし、気持ちが悪いかもしれない。
そう思っていたら
「透子さん」
名を呼ばれた。
今まで苗字でも名前でも呼ばれていなかったからドキリとする。
「女性の君と生活しているのだから、身だしなみには気をつけないといけないかと
今更気付いてね」
使用人ではなく女性扱いをしてくれるのか。
嬉しいと思うけれど、どうしたものか。
悩んでいるのが伝わったのだろう、代案が出された。
「それとも君がしてくれるか?」
「動かないでください」
そう言って透子は遠慮がちに彼の顎に指をあてる。
そして剃刀の刃を頬に。
顔が近い。息があたるほどに。
彼の目が見えなくてよかった。
彼にこんなに間近で見られては緊張してしまうだろうから。
でもそうなら、彼の目が見えているなら
今、私はここにはいない。
そして出会ってすらいなかった。
彼と私では住む世界が違うのだ。
たとえ道ですれ違おうとも、仲良くなるなんて事はありえなかっただろう。
そしてそれはこれからでも同じ事だ。
私がこの屋敷から去って、彼の目が治って
そして道ですれ違っても、彼が私に声をかけるなんて事はない。
彼は私の顔を知らないのだから。
それに私も、もしそんな事があっても声はかけられないだろう。
彼の目が見えなくてよかった。
彼といろいろな話しをした。
美術の話。旅の話。
彼は海外への留学経験もあり、
私の知らない事ばかり。
私がどれだけ狭い世界で生きてきたのか痛感させられる。
いつか彼と知らない場所に旅に行けたらなんて
叶わない事を願ってしまう。
彼と過ごす一ヶ月の終わりが見えてきた。
明日、彼女はこの屋敷を去る。
そして自分は病院に行き、包帯を外す。
別々の道を歩き出す、前日。
「透子さん、君を描きたい」
言葉を告げた。
彼女と過ごした日々でまた絵を描きたいと思った。
筆を折ると父に言ってから一ヶ月しかたっていない。
自分でも短絡的だと笑える。
それでも自分にはこれしか無いのだ。
他の道などはじめから無かった。
それに今ならば、人物画も描けそうだと思う。
「見えないのにどうやって」
彼女は優しく拒絶する。
最後なのだ。
彼女も自分と雰囲気を悪くして去るのは嫌だと思っているのだろう。
だからその優しさにつけこむ様に、
「触れさせてくれ」
「え?」
「顔に。見なくても、触れれば形はわかる」
彼女はしばし考えて、
「いいですよ」
と応えてくれた。
正面に彼女は座っている。
自分の左手がとられて、彼女の右頬に導かれる。
柔らかく、少し熱い。
自分からも右手を動かし、彼女の左頬に触れた。
一瞬彼女がびくっと震えたが、拒絶はされなかった。
頬と一緒に髪を撫で、
髪は肩より少し上で切られているのだとわかる。
前髪、その下に隠れた額。眉。
鼻筋をつたって、
瞼と睫毛。
整った顔をしていると思う。
目も大きい。
それなのに彼女は自分を美しくないと言う。
頬の丸みから、かわいい感じなのかもしれない。
そして、少し薄めの唇。
「あ・・」
彼女の息が指にかかる。
「あの、総司さん・・少し近い、です」
「あぁ、すまない。夢中になっていた」
謝りはするが、触れるのはやめない。
今までふわふわと形が無かった
彼女のイメージに形が与えられていく。
不思議な存在感や、優しさ、声、足音、
それら形の無いものが人の形になっていく。
見えなくても、見える。
そうして気付いた。
自分は彼女が好きなのだと。
彼の指が一瞬止まった。
けれどまた再開される。
唇の位置を確かめる様に触られて
そして頬を両手で包まれ、
唇と唇が触れ合う。
「透子さん」
「総・・。いけません!こんな・・・」
彼の雰囲気にのまれそうになるが、
思いとどまる。
彼は雇い主。
住む世界も違う。
二人は違いすぎている。
彼を避けようとするが、
彼の手は、もう一度、と言う様に左頬を撫でる。
だから、これで最後だと思って
彼の手に、自分の手を重ねて
唇を重ねる。
朝、透子は自分が使っていた部屋を片付けた。
片付けたと言っても元から物は少ない部屋だった。
そして、一枚の絵だけが取り残されている。
この絵は置いて行く。
これで見納め。
彼はすでに病院に行った。
彼が帰ってくるまでに自分はここを立ち去っている。
次の職場に向かう。
彼の事は忘れない。
急いで帰って来たが、彼女はすでにいなかった。
二人で過ごしたアトリエの中は綺麗に片付いていて
彼女などはじめからいなかったかの様で。
何か彼女がここにいたという証拠が無いか部屋を歩き回る。
そして見つけた。
彼女が使っていたであろう部屋、
その壁に一枚の絵。
自分が昔に描いたこの庭。
絵はすべて破り捨てたと思っていたが、
残っていたのか。
その一枚を手に取る。
彼女はこの絵をとっておいて、見ていたのか。
何を思って・・・。
庭に風が吹いている。
そうだ。
彼女は風だ。
閉じて荒んでいた自分の心に吹いた
爽やかな風。
形は無く、けれどたしかにいた。
そして花を咲かせて、去っていった。
彼女を描かなければ。
季節はめぐり、またあの季節がやってきた。
透子は歩いていた。
あれからいろいろな勤め先を転々としたが、
趣味が一つ増えていた。
行く先々、近くの美術館をめぐる。
絵などわからないと言っていた自分だったが
彼と出会って変わった。
彼の出ている美術雑誌や画集も買ってみた。
今日はあれから初の個展があるということなので見に来たのだ。
絵を見るだけで、彼に声をかけようとは思わない。
会場にもいないだろうし。
着いたギャラリーは混んでいた。
肩がぶつかり、すみませんと謝る。
そして一番人だかりの出来ていた場所、
その絵は、人物画だった。
人物は描かないと言っていた彼が。それにこの人は
私・・・?
髪の色も目の色も違う。けれどこれは、私だ。
私が笑っている。
後ろには干したカーテンがあり、
風に揺れる柳の緑と、蓮の花の白。
見る事の無かった真夏の風景の中に私がいる。
そしてその絵は彼の感情に溢れていた。
そしてそれは自分の感情でもある。
会いたい。好きだ。そばにいてくれ。そばにいたい。
そんな感情に溢れている。
彼はここにいるのだろうか。
会わないと決めていたのに探してしまう。
けれどふいに隣の女性客の声が聞こえた。
さっきぶつかった人がもう一人の連れと話している。
「ねぇ、そこにいる人。この絵のモデルに似ていない?」
「本当。・・・でも、あの頬」
髪を撫でるふりをして頬の痣を隠す。
帰ろう。
会わない方がいい。
彼女を探していた。
会場内、初日から。
彼女は来ないのか、それともやはり見つけられないのか。
ふと女性客の話し声が聞こえた。
「――似ていない?」
声がした方を見る。
そして、出口。扉を出ようとしている後姿。
有名な評論家が何か声をかけてきたが
「すみませんっ」
断り、彼女の後を追う。
彼女だという確証は無い。けれど。
「透子さん!」
道で呼び止める。
その人も立ち止まり、けれどこちらには向かない。
「透子さんなのだろう?」
もう一度、名を呼んだ。
すると振り返る。
左の頬を髪で隠す様な仕草をしながら。
けれど突然の風で髪が乱れて、
あっと声を発する。
頬に痣があったのか。
それで彼女はあんなに。
けれどそんなものはすでに関係無い。
「総司さん・・・」
彼女の聞きなれた声。
大きな瞳。思っていた以上に綺麗な色の髪。
あの二人で過ごした日々がそこに、いた。
「あぁ、やっぱり。思っていた通り、綺麗な人だ」