閉めきられた部屋
美影透子は家政婦をしている。
今回の雇い主は有名な画家だそうだ。
畑違いすぎてわからないが、どんな人だろうか。
その家の老年の執事さんにその人がいるという別宅に案内される。
大きな母屋から庭を通って。
素敵な庭だ。
柳の緑と、池には蓮のつぼみがちらほらと見えるがまだ小さく固そうだ。
執事さんが言うにはモネの庭をイメージして作られたそう。
見えてきた。
別宅、と言うよりまさにアトリエと呼ぶに相応しい
白いペンキが塗られた壁。
庭に面している方はガラスの戸で、
開け放てば気持ちが良いだろう。
けれど今そのガラスは全て閉じられていて、
カーテンもされている。
「失礼します、坊ちゃま」
透子も失礼しますと続く。
部屋の中は暗い。
明かりもつけられていないのだ。
執事さんがつける、ぱっと明るくなった部屋、そこに
一人の男性が背を向けて立っていた。
オーガニックな自然な白のコットンシャツをラフに着こなしている若い男性。
袖から覗く腕を見れば、画家というよりは何かスポーツでもしていそうな。
暗がりで何をしていたのか、と思っていると
慌てて執事さんが彼の持っていた物を取り上げた。
「いけません!お怪我はございませんか」
それはパレットナイフ。
そして透子は見た。
彼の周囲。
力任せにそれで切り裂いたのだろうキャンバスの群れ。
すでに何か描かれている物も、何も描かれていない真っ白な物も等しく
切り裂かれている。
「爺の他にも誰かいるのか?」
思っていたよりは少し高めの、爽やかな声で問われる。
「はい。今日から身の回りのお世話をさせていただきます。
美影透子です。美影とお呼び下さい」
「なら、これが最初の仕事だ。ここにある全てのキャンバスを処分しておいてくれ」
声の感じで優しい人かと思ったら、そうではなかった。
高圧的に命じる声。有無を言わせず、従えと。
言いながら彼はこちらを向く。
顔には両目を覆う様に包帯が巻かれ、
目元はわからない。しかしすらっとした鼻梁、結ばれた口。
精悍な顔だ。
そう、彼こそこれから一ヶ月の期限付きで仕える主人。
橘総司、その人だ。
彼は先日、目を自傷したそうだ。
自分で潰そうとして、
その場にいた使用人数人でなんとか止めたと、
だから全治一ヶ月の軽症ですんでいる。
けれどその場にいた人によると
本気で潰そうとしていたそうだ。
それらは後に聞いた事なのだけれど。
なぜそんな事をしたのか、それは
父親との不和。
橘家は代々画家の家系。
祖父は水墨画、父親は日本画、
そして彼は洋画とジャンルは違う。
けれど皆、芸術家。
彼はその日、父親に言われたそうだ。
国が主催する展覧会、それに出品し
高い評価を受けた作品に対して
まったく駄目だ、と。
ただ上手いだけで何も無い作品だと。
それから口論になり、
売り言葉に買い言葉、
筆を折る。
その証として目を。
そして透子が雇われた。
目の見えない彼の身の回りの世話、というより
片時も離れず、監視するようにというのが
仕事の内容だった。
今の彼は何をするかわからない。
自傷行為が行われない様にする見張りだ。
透子は裂かれたキャンバスをまとめていた。
綺麗な絵なのにもったいない、と気軽に
袋に詰めたり紐で縛ったりしているが、
完成品なら小さくても数十万はくだらない。
大体片付いて見回した部屋。
油絵の具の匂いなのだろうか、
独特の香りが漂って
カーテンや床にも鮮やかな色彩が踊っている。
ふとカーテンに隠れていたキャンバスを見つけた。
隅にあったから
傷つけられるのを免れたようだ。
「すごい・・・」
それはこの屋敷の庭の風景だった。
柳が風に揺れて、蓮が咲いている。
夏の風景。これからの季節。
透子が見ることもなく去る季節。
ここにいるのは一ヶ月なのだ。
蓮がこの絵の様に咲き誇る場面は見られない。
それを残念と感じてはいたが、
この絵でその残念は薄くなったと感じた。
彼の目を通して見た庭。
画家である彼の目には世界はこんな風に見えているのか。
彼に興味がわく。
この庭のどの場所から描いたものなのだろう。
木陰で描いたのかそれとも暑い日差しの中で?
彼はどんな風に描くのだろう。
何を想って。
何を込めて。
全てを処分するように、とそう指示されていたけれど
透子はこの一枚をとっておくことにした。
知られれば叱られるだろう。
けれど、こんな素敵な絵は捨てられない。
そう思って、自分の部屋として用意された場所に
置いておくことにした。
一ヶ月、そばに。そう純粋に思った。
それから数日、彼は寝室から出てこなかった。
顔を合わせたのは当日だけ。
寝室にはカメラがあり、
そちらの映像は執事さんが見てくれている。
自傷しないように、刃物の類は全て無いはずだが
先日のパレットナイフの件もある。
けれどそうなると透子は暇だった。
監視が主な仕事なのに、それがまったく無く
仕方が無いので部屋を掃除して
これ以上ないほど完璧に終わってしまった。
後は・・・と、
カーテンを洗ってしまおう、と閃いた。
閉め切られたカーテン。
負傷した目に光は禁物かと思って、
いつ寝室から出てきてもいいように閉めていたのだ。
けれど一向に出てこないので、その間に洗ってしまおう。
ガラス戸も開け放って、空気も入れ替えて。
きっと気持ちが良い。
そんな事を思って、そして実際そうしていたら
思わぬ事がおこるものだ。
ガラス戸から出たところに洗濯物が干せるロープがあった。
そこに洗ったカーテンを干していく。
テラス、と言っていいのだろうか。
干し終わって部屋に戻ろうとしたら、
部屋に彼がいた。
「すみません。眩しいですよね。てっきり今日も出てこられないものと・・」
「いや、いい」
「え・・」
彼の答える声は、初日に聞いたものより明らかに柔らかいものだった。
開け放した戸から入る風が彼の髪を撫でる。
「気持ちが良いな。いつぶりだろう・・・」
彼はそう言って戸口まで歩き、ガラス戸にもたれる様に座る。
それから数日、彼はそうしている事が多くなった。