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海神  作者: 樋渡 幸
6/10

神室の婆 参

「ところで、昨日見た火はどんな火だったか」

早伎津は視線を婆へと向けた。

社の中のきつい匂いにもやっと慣れてきた。植物を焚き込めているようだったが、それが何かはわからなかった。

「遠くだったからよく見えなかったけど、小さくて丸くて海の上にたくさん浮かんでた」

「それは、沖の至るところにか?」

「ううん、一所よ。まるで海の下に何かがあって、それに集まっているみたいだったの」

昨日の光景を脳裏に浮かべながら喋った。

「そうか。ふむ…」

「その火が欲しくてたまらなかったわ。だから沖まで行こうって思ったのだけど、途中で柾木に止められて…。もう一度見たら、消えて無くなってしまった」

その時の切なさがこみ上げてきて、早伎津の胸は痛んだ。


「お前が見たのは、海神のかんなぎ

「巫って、巫女様のこと?」

「うむ。海神の御子である、豊玉姫命とよたまびめのみことが化身されたお姿じゃ」

「豊玉姫命…」

柾木がその名を呟く。

「お前たちは、この水生の郷がどのように興ったか知っているか?」

二人はかぶりを振った。

「そうか。もうこの話を知っている者も僅かになった」

「婆様、教えて」

「そう急くでない、早伎津や。お前のこの先にも関わることだからね」

この先?

水生の郷の話が、どうしてあたしの行く末に関係あるの?

婆は立膝をついた姿勢で座っている。中央にしつらえた簡素な祭壇には水鏡がおいてあり、婆はちょうど、それに背を向けるかたちになっていた。

「この郷は、御毛沼命みけぬのみことがお創りになられた」

「それはどなたなの?」

早伎津が問う。

「御毛沼命は海神の御孫であり、そして御曾孫でもある」

「どういうことだ?」

「御毛沼命の母は、海神のもう一人の御娘、玉依姫命たまよりびめのみこと。そして父は豊玉姫命の御子、鵜草葺不合命うがやふきあえずのみこと

つまりは、甥と叔母が夫婦の契りを結んだことになる。

「じゃあこの郷は…」

「そう、我らは海神の末裔すえ。でもこれは、他の郷の者には決して口にしてはいけないよ」


炎が小さくなってきた。

婆は傍にあった油差しから、油を注いだ。

仄暗い社の壁に、ちろちろと揺れる燭台の炎が三人の影を踊らせる。

「どれ、もう月も姿を隠してしまった。お前たち、明日の晩にまたおいで。続きを話してやろう」

二人は素直に社を出た。

興奮で目が冴えていたが、あまり遅くまで起きていると明日の仕事に差し支えるからだ。

特に柾木は力仕事をしなければいけない。

月が沈んで真っ暗な帰り道を、二人は黙々と歩く。

早伎津は婆に言われた言葉を思い出した。

お前のこの先にも関わるからことだからね…

海風が潮の匂いを運んでくる。

沖を見ないように注意した。また柾木に迷惑をかけてしまうかもしれないから。

なんにせよ、今はわからないことだらけ

考えたって無駄なんだから、早く寝てしまおう

早伎津は柾木とのことも頭の隅に追いやった。

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