神室の婆 参
「ところで、昨日見た火はどんな火だったか」
早伎津は視線を婆へと向けた。
社の中のきつい匂いにもやっと慣れてきた。植物を焚き込めているようだったが、それが何かはわからなかった。
「遠くだったからよく見えなかったけど、小さくて丸くて海の上にたくさん浮かんでた」
「それは、沖の至るところにか?」
「ううん、一所よ。まるで海の下に何かがあって、それに集まっているみたいだったの」
昨日の光景を脳裏に浮かべながら喋った。
「そうか。ふむ…」
「その火が欲しくてたまらなかったわ。だから沖まで行こうって思ったのだけど、途中で柾木に止められて…。もう一度見たら、消えて無くなってしまった」
その時の切なさがこみ上げてきて、早伎津の胸は痛んだ。
「お前が見たのは、海神の巫」
「巫って、巫女様のこと?」
「うむ。海神の御子である、豊玉姫命が化身されたお姿じゃ」
「豊玉姫命…」
柾木がその名を呟く。
「お前たちは、この水生の郷がどのように興ったか知っているか?」
二人は頭を振った。
「そうか。もうこの話を知っている者も僅かになった」
「婆様、教えて」
「そう急くでない、早伎津や。お前のこの先にも関わることだからね」
この先?
水生の郷の話が、どうしてあたしの行く末に関係あるの?
婆は立膝をついた姿勢で座っている。中央に設えた簡素な祭壇には水鏡がおいてあり、婆はちょうど、それに背を向けるかたちになっていた。
「この郷は、御毛沼命がお創りになられた」
「それはどなたなの?」
早伎津が問う。
「御毛沼命は海神の御孫であり、そして御曾孫でもある」
「どういうことだ?」
「御毛沼命の母は、海神のもう一人の御娘、玉依姫命。そして父は豊玉姫命の御子、鵜草葺不合命」
つまりは、甥と叔母が夫婦の契りを結んだことになる。
「じゃあこの郷は…」
「そう、我らは海神の末裔。でもこれは、他の郷の者には決して口にしてはいけないよ」
炎が小さくなってきた。
婆は傍にあった油差しから、油を注いだ。
仄暗い社の壁に、ちろちろと揺れる燭台の炎が三人の影を踊らせる。
「どれ、もう月も姿を隠してしまった。お前たち、明日の晩にまたおいで。続きを話してやろう」
二人は素直に社を出た。
興奮で目が冴えていたが、あまり遅くまで起きていると明日の仕事に差し支えるからだ。
特に柾木は力仕事をしなければいけない。
月が沈んで真っ暗な帰り道を、二人は黙々と歩く。
早伎津は婆に言われた言葉を思い出した。
お前のこの先にも関わるからことだからね…
海風が潮の匂いを運んでくる。
沖を見ないように注意した。また柾木に迷惑をかけてしまうかもしれないから。
なんにせよ、今はわからないことだらけ
考えたって無駄なんだから、早く寝てしまおう
早伎津は柾木とのことも頭の隅に追いやった。




