神室の婆 壱
家に帰ると早伎津はすぐに眠りについた。
明け方まだ暗いうちに夢から覚めて起き上がる。
顔が涙で濡れていた。
なんでこんなに悲しいの?
夢を思い出そうとしたがはっきりしない。
でも、とても切なかった。
海鳴りも聞こえていたように感じたが、それが夢のものなのか現実のものなのかわからなかった。
早伎津は少しの間、その悲しさに身を任せる。
そして朝餉の支度をするために床から出た。
早伎津はその夜も、家族が寝付いた後に家を抜け出した。
莚をくぐり抜け、仄かな月明かりの中を海岸へと向かう。
浜辺にはすでに柾木がいた。
「早伎津。昨日のこと、覚えてるか?」
早伎津の姿を認めた柾木が近づいて話しかけてきた。
「うん。迷惑かけてごめんなさい」
早伎津は恥ずかしさに顔を赤らめる。
柾木は何とも思ってないのかな…
早伎津は昨日の昼間のことを考えた。
「いいんだ。婆には俺が昼間話しといたから。今夜行っても大丈夫だって」
「…ありがとう。昨日は何であんなに遅くに浜辺にいたの?」
早伎津は朝から気になっていたことをそれとなく聞いてみた。
「いや、いろいろ考えてたら眠れなくて」
柾木は少し照れたように口元をかいた。
「そっか。…じゃあ婆様の御社に行こう」
柾木もあたしのこと考えてくれてたのかな。
内心そんなことを考えていたら、さらに恥ずかしくなってしまった。
夜の海岸は暗くてお互いの顔なんてよく見えなかった。それでも先に歩き出して、上気した顔を見られないようにした。
神室の婆は水生の郷で一番の年寄りだ。
郷の巫女だった。
大事な漁がある時は婆が海神のために祝詞を挙げる。
海神を祝福し、漁をする男達に災いをもたらさないでくれるように祈るのだ。
その他にも、郷の者は何か相談事があると婆に持ちかけた。
夫婦の仲のことだったり、その年の漁についてだったり。
内容は様々だが、婆は郷の誰からも尊敬され、精神的な支柱となっていた。
婆が住む社は集落から離れた場所にあった。
浜辺を突っ切って郷を抜け、そこから続くなだらかな山に登る。少し歩くと視界が開けて目の前に高床の建物が現れる。
一本の丸太に刻まれたわずかな段差が、入り口へと繋がる階段の役割を担っていた。
そこからは水生の郷が見渡せる。もちろん遠くへ広がる海も。
社の前に着いた二人はまず海を向いて一礼し、次に社に一礼をする。
柾木が丸太に足をかけようとしたその時、社から声がした。
「柾木、足の泥は落としておくれ」
しわがれくぐもっているのに、なぜかはっきりと耳に届く。
柾木は早伎津と顔を見合わせる。
近くに生えていた葉で足の裏の泥をこすり落としてから階段を昇った。
入り口は閉ざされていたが、外からでもちらちらと揺れる炎を確認できた。
柾木が先に莚をくぐる。
それに続いて早伎津が中へ入った。




