神室の婆 七
豊玉姫は夫に本来の自分の姿を見られたことを恥じた。
すまぬ、豊玉姫よ…
そう言う夫の瞳に、悔悛の色が浮かんでいるだろうことは容易に想像できた。
だが何よりも、彼が異形の姿に恐怖し怯えたのではないかと思うと、怖くて火遠理の顔をまともに見ることができなかった。
「豊玉姫は出産の儀を無事終えた。御子はとても健やかでな、産屋の屋根に鵜の羽が葺き終わらぬうちに生まれたことから、鵜草葺不合命と名づけられた」
婆は次に続ける言葉を探すかのように間をおいた。
「間も無く豊玉姫は、海神の宮へと帰っていった。まだ生まれたばかりの御子を置いて」
「それでは、御子様はどうしたの?」
「海神の宮から、妹姫である玉依姫命を世話係にとお渡しになった。それからお二人は地上の都と海神の宮に別れて御住まいになり、今までの時を過ごしてきたというわけだな。豊玉姫は海神の宮に御住まいになっても、夫の姿を求めてあのようなお姿に化身されておられるのだよ」
婆が話し終えると、それぞれが自分の考えに耽り社にはしばしの沈黙が訪れた。
「早伎津や、お前には海神の一族の血が濃く受け継がれておる。あの火は誰にも見れるものではない」
「何かの御徴ということか?豊玉姫が早伎津に何かを為せとおっしゃっているとか」
「それもあるかもしれぬ。だが早伎津よ、あの火に導かれて海に入ってしまったら、もうここには戻って来れぬということをよく覚えておくがよい」
「はい」
早伎津は畏まって頷いた。
「いたずらに人を悲しませるようなまねはするのではないよ」
婆はくるりと後ろを向いて、祭壇の水鏡を覗き込んだ。
ゆらゆらと前後に体を揺らしながらぶつぶつと何かを呟く。
声はこもっていて二人には聞き取れないが、どうやら話はもう終わりのようだった。
海岸を歩きながら、二人はそれぞれ婆の話を思い返していた。
「早伎津、お前が海に入っている時に火が見えたらどうする?」
早伎津は驚いたように柾木を見る。
漁を生きる術とする彼らには当然のことながら、女といえども海にでなければならない。
「でもそれは昼間のことでしょう?夜になったら気をつければいいんじゃない?」
「お前は、火を見たとき何かに呼ばれたような感じがしたんだろ?」
頷く早伎津を確かめて、柾木は続ける。
「それなら、昼間だからといって大丈夫とは言い切れない。もし、それが海に潜っているときだったら…」
自分にはどうすることもできない、と柾木は言っているのだった。
風が湿っぽい。
さくさくと砂浜を踏みしめながら、早伎津はやがて来る雨を孕んだ夜空を見上げた。




