時代遅れのBGMが流れる店で、
時代遅れのBGMが流れる店で、私とあいつは再会した。
正確には、その店の前にある路地で、爽やかなスポーツマン風の男に吹っ飛ばされたあいつの後ろにちょうど出てきてしまった、というのが本当のところだ。一発殴ってすっきりしたのか、イケメン面をした男はあいつに嘲笑と罵声とを浴びせて、隣の美人の肩を抱いて去っていった。残されたのは、興ざめして散り散りになっていく見物人たちと、唇の端から血を流すあいつと、驚きに瞬きを繰りかす私だけ。最後には私たち二人きりになって、辺りはしんと静まり返った。ここで言うにはあまりにも陳腐なセリフで、私はあいつの無事を尋ねた。
「あの、大丈夫ですか?」
唇、切れてますよ、とハンカチでも差し出そうと思ったが、生憎と使用済みのものしかない。一日トイレに行かないわけにもいかず、予備の未使用ハンカチなど持ち合わせているほど気が利いていないのだ。
あいつは唇を拭い、自嘲気味に笑って振り返った。
「ねえ、なんで俺殴られたんだろ?」
不思議そうに言うその表情が、妙に印象的だった。思わず地声を出して「さあ?」と答えてしまう。とたん、あいつの顔が僅かにゆがんだ。
「ね、唇切れてる?」
「切れてます」改めて余所行きの声で答えた。
「どのあたり?」とあいつがしきりに傷を気にするので、私は屈んで指で傷の場所を指してやる。その指に骨ばった男の手が絡み、ついと手首を引かれてゼロ距離へと近づき、鉄の味のキスを食らわされるまで、暗がりに隠れたその緑の瞳を見るまで、私はあいつがあいつであることに気づかなかった。
「ずいぶん、大きくなったんだねえ…」
しみじみと言う私の前には、自室のフローリングの上、しょげ返ったあいつが座っていた。頬には赤いモミジがくっきりと浮かんでいる。犯人は私だ。仕方がなかった。やってしまったことにずるずると後悔し続けるのは性分ではない。
「なんで叩くのさ」と唇を突きだすあいつに、申し訳程度に謝っておく。だからといって、言いたいことを我慢するのは体に良くない。
「あのさ、再会の挨拶がキスとか、ここ日本だし、私日本人だし、常識じゃないわけだ」
「前はしてたじゃん」
「いや、誤解を呼ぶからね、そういう発言は。前は前、今は今」
「舌入れたから怒った? それとも気持ち良くなかった?」
無邪気な謝罪に頭痛がした。育てたやつ出てこい。思わず唸って思い出す。犯人は私だ。でもこんなことになるとは予想の範囲外だ。せいぜい頬にチュ、だったはず。舌って何?
「気持ちいいとか、そういうことではなくてね」
「じゃ、もう一回していい? 今度は頑張る」
「何言ってんだ。その口縫い付けるぞ」低く唸るように言えば、あいつはなぜか照れ笑いを浮かべる。
「や、優しくしてね。入れるのはさっきのが初めてで、入れられるのはまだだから」
「えげつない。……じゃなくて、卑猥な物言いはやめなさい」
ぴしゃりと注意すれば、さすがに答えたようでまたしょんぼりと項垂れた。
「ママ酷い。大きくなったら結婚するって約束したのに。弄んだんだ」
そのセリフよりも、ママ発言に衝撃を受けた私は、しばらく二の句を告げなかった。立派な成人男子に言われると、拒否感が半端ない。
「悪いけど、その姿でママとか勘弁してもらえる? 名前でいいから」
「ナナカ?」
「ナナカさん」
「ナナカって呼ぶと、恋人みたい」
「ふざけるなよ?……と言いたいところだけど、まあ名前くらい許容する。とりあえずなんでここにいるの」
「ナナカと結婚するために、家出してきた。じじいがなんか面倒くさいこと言って止めてきたから、黙らしてきた。俺もう二十歳で大人だよ」
「大人なら家出するな。セルエスさん…無事を祈る」
「じじいを名前呼びとかマジでありえない。セルエス殺す」
「なんでいきなり狂暴化? とりあえず落ち着きなさい」
冷静に宥めれば、あいつは絶対零度の微笑みを溶かし、ごろにゃんと猫のようにまとわりついてくる。ひざまくら所望と撫でてくるので、デコピンを撃ち込んだ。痛みに呻くあいつを、ざまぁみろ、と嘲笑ってやる。
「ていうか、なんで殴られてたわけ?」
「あいつの女がヤろうって誘ってきたから、不細工は消えろって言ったら逆恨み?」
「ひどすぎる」
「ひどいよねえ」
「あんただ、あんた。女性には優しくしなさいと教えたでしょう」
「俺の中で女の人はナナカだけだもーん。他は有象無象だもーん」
ひくり、と口角が引きつるのを感じた。誰だこんな育て方したやつ。私か。後悔しても仕方がないので、小さくため息をつくだけに留めておく。それをどう思ったのかは知らないが、図体ばかり成長したあいつは、その緑の瞳に懐かしい色を湛え、私をじっと見つめてくる。
――根っこは変わっていないのだ。帰らなければならないと背を向け、別離の扉へと歩き始めた私に、小さな子供が縋りついたあのとき。きっと同情したわけではない。ふと気が引かれて、振り返った私の目に、同じ色を浮かべた子供が映った。とても懐かしい、遠い昔の思い出のはずが、まるで数秒前のことのように鮮明によみがえってくる。
「……ねえ、怒ってる?」
ふと尋ねると、あいつは間抜けな表情を作ろうとして失敗した。代わりに暗い笑みを浮かべて、瞳には恨めしそうな色を湛えている。図体ばかり成長したかつてのいとし子は、へらりと笑みを浮かべようとして失敗した。そして今度は、じりじりとこちらに近づいてその額を肩に押し付けてくる。
「捨てられたのとは違うって、じじいは言ったけどさ」
「捨てたわけじゃない。でも、根っこはきっと、あんたにとっては変わんなかっただろうね」
「捨てられたと思ったんだ。元の世界に帰るナナカを笑って送り出すって、そういうことでしょ」
「笑えなんて言ってない。強くあれと言ったんだ」
「それは絶望の言葉だよ、ナナカ。強くあるために、俺に何が必要か、ナナカわかんないの?」
「自立する心かな」
「ナナカ、嫌いだ」
「嫌いで結構。もう帰りなさい」
くぐもった声が止まり、肩に触れた額から相容れない体温が流れてくるのをぼんやりと感じていた。子供体温はすでに消え去り、生ぬるく、まるで知らない体温が私のすぐそばにある。
「ごめん」
あいつは絞り出すように言って、額を押し付けてくる。ごめんの意味を、私はちゃんと教えなかったのだろかと、ふと過去に思いを馳せた。
「ごめん、勝手に来て」
「それは謝ることなのか」
「ナナカが怒ってる。だからごめん」
「よくできました、とでも言うと思ったか」
「会いたかったんだ。二十歳になったから、もういいでしょ? セルエスにもホントは、言ってきた」
なんとか許してもらったよ、と大きな子供は泣き言のように打ち明ける。
「悪い子だ」
私をちゃんと忘れるように育てなかった私も、きっと悪い“ママ”だった。
「そんな悪い子が、実は好き?……じゃなくて、好きって言ってもらわないと俺めげそう」
「悪い子だ」
いとし子が顔を上げ、潤んだ瞳で恨めしげに見つめてくる。あとで心配性の執事殿に手紙を書かせよう。手紙の一枚や二枚、別離の扉も気にしないはずだ。――こんな大きなものを野放しにしたのだから。
私はその場に立ち上がり、あいつはフローリングに転がった。いてっ、とわざとらしく痛がるあいつに、私は冷たい視線を投げかける。唇を歪ませ、目を眇めた。
「悪いけど、布団は一組しかないの」
部屋の主は私だと主張するために、腰に手を当ててそう告げた。一瞬ぽかんと間抜けな表情になったあいつは、カカカと頬を赤らませ、その視線をうろうろと床に彷徨わせる。
「お、お、お、おれ、ソファでいいよ」
「あたりまえだ」
何を想像してたんだ、と冷たく言えば、恥ずかしそうに俯き、床にノの字を書きはじめる。純情なのか、なんなのか。不安定な子供だ。
「―――客用布団も生憎とないの。だから明日、買いにいけばいい。それまでソファで我慢なさい」
最大の譲歩を口にすれば、あいつは勢い顔を上げ、また間抜け面をこちらに向けた。
「悪い子には私が必要なようだから、良い子になるまでここにいればいい」
「……じゃあずっと悪い子でいる」
ほんのりと赤くなった顔を恥ずかしそうに背け、唇を突出し、拗ねたようにあいつは言った。