スケッチ
落葉
僕達はよくこの道を歩いたものだった。この道は、当時僕らが一緒に住んでいたマンションに通じる並木道だった。道の両側には、等間隔にイチョウの木が立っていた。歩道は白いコンクリートで丁寧に舗装されていた。誰の目にも、よく整備されていて、美しく映る並木道だった。
だが、今思い返してみると、僕にとっては、なぜか儚い印象を抱いてしまうような、物悲しい並木道だったように思われる。
それはきっと僕らが一緒に過ごした期間が、秋の初めから晩秋にかけてのことだったからだと思う。僕ら…、僕と彼女は、その年の春に出会い、夏の間中に恋をして、そして、彼女からの提案で二人でウィークリーマンションを借りて、残暑の引く頃同棲を始めた。
僕らは買い物に行くにしろ、食事に行くにしろ、必ず二人並んでこの並木道を通りぬけたものだった。そして、手をつないだり、腕を組んだりしながら、僕らは色々なことを話しあい、笑いあった。
しかし、今の僕が彼女を思い出すときに最初に思い出すことは、二人並び歩きながら話し合った内容のことではない。不思議と、晩秋のある昼下がりに見た、この並木道の情景が真っ先に思い出されてしまうのだ。
それは確か、彼女が行きたいと前々から言っていた駅の側にある小さなレストランに、一緒に昼食に行ったときのことだったように思う。その時には僕と彼女が同棲を始めて、既に二ヶ月が経っていた。そして、いつの頃からだったろうか、二人並んで並木道を歩いていても、手をつないで歩くようなことは、もうお互いに求めなくなっていた。季節は秋を深め、冬を臨む時期に差し掛かっていた。
その日も僕と彼女は連れ添ってイチョウの並木道を歩いていた。すでに完全に緑を失ったイチョウの葉が、静かに降ってきていた。歩道が冬の柔らかな太陽の光に照らされて、ぼんやりと光るように、その白さを浮かび上がらせていた。僕の前にはそうした緩やかに光る道が細く、長く、延びていた。僕の心はその時、幻想の中にいた。僕はただ一人歩いていた。パラパラと黄色い三角形の破片が降る中で、輝く一筋の光の上を、僕は一人で歩いていた。そうした鮮烈な印象に囚われていた僕は、当然、その並木道を通っている間中無言だった。彼女も、何も言わなかった。僕らは一言も言葉を交わすことなく並木道を通り抜け、目的地へと向かっていった。
それから僕らは目的のレストランがあるビルまで歩いて行き、エレベータに乗った。エレベータの中は明かりはあるものの、薄暗く、大人三人が辛うじて乗れる位に狭く、かび臭かった。彼女が先にエレベータに乗り、僕が後から乗ったので、自然と僕は彼女に背を向けたまま、重なりあうような形になった。
そして、彼女はふいに、僕の肩の方に手を伸ばした。僕は何だろうと思ったが、体をねじって後ろを振り返り、彼女の指先にある黄色いイチョウの葉を見て了承した。
先程通りぬけてきた並木道で、知らぬ間に僕の肩に付いていた落葉を、彼女が気付いて取ってくれたという形だった。
「サンキュ。」
僕は体をねじったまま、彼女に礼を言った。
彼女は少し曖昧な笑みを浮かべたが、すぐに俯き言った。
「これは、記念にもらっておくね。」
「何の記念?」
僕が聞くと、彼女はそのまま少し考え、顔を上げてから、やはり曖昧に微笑んだまま、
「私達の、今日の、記念。」
と答えた。
僕は彼女から視線をはずし、前に向き直った。僕達の会話は途切れた。
僕らを乗せたエレベータが低く微かな機械音をさせながら、ビルを昇っていった。
涙
ある程度年を重ねた大の男が、人知れずとはいえ、公衆の面前で涙を流す姿を、僕は本当に久しぶりに見た気がする。彼はそこで、音も立てずに泣いていた。
僕はこれから彼のことについて、少しの間、語ろうと思う。
僕が彼を見たのは、年の暮れも、もうそこまで迫った師走のことだ。確か、日曜日だったと思う。
その日、僕は夕暮れになって初めて家の外に出た。とは言っても、それまで家で特別な用事があったわけではない。ただ単に一日中ずっとアパートの自室に篭っているのが窮屈に思えただけだった。気温が下がり、寒くて気乗りはしないが、とにかく外の空気に触れに行こうと、そう思ったに過ぎない。
部屋を出ると、予想通り、十二月の夕暮れは寒かった。まだ午後の五時前だというのに、太陽は隠れ、空気は少し湿っぽくなっていた。空も路地も濃紺色を帯びていた。僕は住宅街の小道を通り抜け、駅の方まで歩いていった。葉を落とした木のシルエットが、空を背景に一際濃く切り取られていた。時折歩きすぎる電柱には、薄汚れた小さな街灯が冷たそうな光を放って、ぼんやりと灯っていた。
駅前まで行くと、さすがに賑やかだった。クリスマスが間近に迫っていることもあって、ネオンの輝きが目に痛いほどだった。そうした人工の輝きを横手に歩きながら、僕は華やかな十二月の景色を、素直に美しいものだと思った。しかし、また同時に、僕は脆く儚いものに触れたときに感じるはずの悲しみを、なぜなのか、その時感じないではいられなかった。
夜が始まっていた。あてのない僕の散歩は続いた。
一時間以上もそんなふうに歩いていたのだろうと思う。(携帯電話の時計は、家を出た時から一時間以上も進んでいた。)歩くのにもさすがに疲れてしまい、途中に見つけたファーストフード店で少し休憩を取ることにした。僕は、ホットコーヒーを注文し、それを持って二階の客席に上り、窓際のカウンター席に腰を下ろした。
その時には既に、彼がいた。見た感じでは、三十五歳前後の普通の人だった。
彼は、僕の二つ隣の席に座って頬杖をつき、ただぼんやりと外を眺めていた。僕は何か面白いものでもあるのかと思って、窓の外を見下ろしてみた。だが、特に変わったところは見受けられなかった。僕の場所からは、大通りに交わる細い道が延びているのが見えた。また、その道を通るまばらな人々が、寒そうにしながらすれ違っていく様子も見えた。それだけの眺めだったように思う。強いて変わった所を挙げるならば、ビラ配りのアルバイトの人が、その日はサンタクロースの格好だったということくらいしかない。そういう眺めは、おそらく、彼の場所からもなんら変わりなかったに違いない。
僕は、そうした彼をいぶかしみながらも構わずに、鞄の中から読みかけの文庫本を取り出し、本の続きを読み始めた。しかし、読書に集中することは難しかった。店内は若者が多く、そして、彼らはあまりにも騒がしかった。彼らが一際大きな歓声を上げるたびに、僕の読書への集中は途切れた。そして、その度にその奇声の先に目を向けることとなり、また同時に、隣にいる彼も視界に捕らえることとなった。彼は少しも動かなかった。まるで時を止められた者ででもあるかのように、最初に見た頬杖の姿勢から微動だにしていないように僕には思えた。僕はただ不思議だった。
そうした状態が二十分、三十分と続いた。僕は全く姿勢を変えようとしない彼に対し、懐疑の念というよりは驚嘆の念を強く抱き始めていた。だが、その時のことだ。本当に微かだが、カウンターが小刻みに震えていることに僕は気づいた。僕はどうしたのだろうと思い、本から顔を上げ、同じ一続きのカウンターに座する彼を盗み見た。その時、僕の視界に飛び込んできたのは、彼の目尻からにじみ出る、透明な、一粒の涙だった。その雫は、彼の頬骨の盛り上がりをゆっくりと伝い、そして、その盛り上がりを越えると、急速に落下した。僕は突然の彼の涙に内心驚きはしたが、その狼狽を押し隠し、彼に気取られないよう自然に彼の視線の先を追った。
外界にはサンタクロース姿のビラ配りと、一組の家族が何やら話していた。二人の子供達がはしゃいだ様子で、サンタ姿の人にまとわりつき、その赤い服を引っ張っていた。両親らしき男女がサンタに頭を軽く下げ謝っていた。そして、サンタは、困った顔をしながらも笑って許しているようだった。声は聞こえずとも、そうした一連の平和なやり取りは、彼らの表情から容易に想像できた。
それは僕から見ても、微笑ましく、幸せそうな光景だった。確かに、幸せそうな光景だった。僕は、そんな光景を見ながら、彼の涙の理由が、ほんの少しだけ、分かる気がした。
それから直ぐに彼は涙を乱暴にぬぐって、何事もなかったように、また頬杖をついて、固まった。
僕は本を閉じ、彼を置き去りに、自らの穴倉へと帰った。
微笑
来年の六月に、姉が結婚することになった。
仕事帰り、あれは、二十二時過ぎだったろうか。北千住の駅から自宅までの道を歩いていると、実家(石川県にある)にいる姉から電話がかかってきたのだ。電話に出るなり、姉は言った。
「一応、離れて暮らしているとはいえ、私達は兄弟なんだし、報告する義務が私にはあると思うのよね。だから、伝えておく。突然ですが、ワタクシ、このたび、結婚することになりました。わー、パチパチパチ。」
「ふーん…。で、相手はどんな人?俺の知っている人?」
「何よ、少しは驚きなさいよ。ホントに、無感動ねぇ、義貴は。…まぁ、いいわ。相手はね、義貴の知らない人。彼、あなたより年下よ。」
僕は今年で二十七歳になり、姉は、僕より三つ上だから、今年で三十歳ということになる。その三十歳近い姉が、僕よりも若い人と結婚する。僕は、そのことに単純に驚いた。なぜなら、「私はもうおばあちゃんだから、結婚するなら、絶対、年上の人がいいなぁ。なんか、大事にしてくれそうだもん。」と、姉が一昨年あたりから度々言っていたからだ。
「三十路直前だからって、どうせ見境なく若い男誘惑しまくったんだろ。数打ちゃ当たるってか。あきれるねぇ。」
姉が僕より年下の男と結婚することへの驚きも手伝い、僕は少々棘のある口調で言った。しかし、結婚という祝いの報告をしてきた者に対しての言葉としては、いささか辛辣過ぎたと思い、直ぐに話題を転じようと言葉を続けた。
「まぁ、でも、あれだけ年上がいいって豪語していたんだから、何かしら、結婚に踏み切った理由が姉貴にもあんだろ。で、何が決定打だったんだ?」
「うーん…、そうねぇ…、やっぱり…、ほら、愛情、とか?」
姉は悪戯気味に答えた。僕は、姉の口からでた「愛情」なるものが、いかにも陳腐でならず、苦り切ってはき捨てるように言った。
「何が『愛情』だっての。くだらねぇ。マジに、くだらねぇ。」
「アハハ。まぁまぁ、そう怒んないで。冗談よ、冗談。まったく、義貴は変わらないわねぇ。」
と、姉はのんびり言う。姉は知っててわざとやっているのだ。僕は世俗の陳腐さに汚されきった言葉や概念を用いられることを腹立たしく感じてしまう。僕にはそういうところが昔からあった。姉はそれを了解した上で僕をからかって遊んでいるのだ。人の好みは、完全に個人の自由によるものだが、人生の伴侶に姉という女性を選んだ男の好みというものが、僕には理解できそうもない。なぜ、わざわざ姉なのか。
僕は一瞬、間を置いてから言った。
「姉貴もさ、もうすぐ人妻になるんだから、少しは貞淑さとかさ、そういったものを身に着けてみる気はないの?」
「まぁ、おいおい、ね。でも、私には貞淑さみたいなものなんか必要ないのよ。私は結婚してもファイターだもん。男の群れに交じって、額に汗して働くんだもん。そんな上品ぶった、形だけの貞淑さなんて、身につけるだけ無駄よ。意味無いもん。」
「え?姉貴、結婚しても仕事続けんの?俺はまた、てっきり家庭に収まって、おとなしくしているものだと思ったんだけど。」
「うん…。まぁ…、最初はそうしようかとも思ったんだけど…。義貴だって知っているでしょ?今、家がそんな悠長なこと言ってられるような状況じゃないってこと?」
「確かに…。まぁ、そうだな。そうすべきなんだろうな。」
確かに姉の言うとおり、僕の実家は今、以前よりは平静を取り戻したとはいえ、未だに混乱の渦中にあると言っていいだろう。
今から、ちょうど二年くらい前になるのだろうか。
乾いた空気に包まれだした十二月の初冬の頃、父が自殺した。
あの時も、姉から僕に連絡があった。十二月の六日、午前八時半ごろのことだったように記憶している。それは丁度、僕が会社に向かっているときのことだ。歩きながら今日やるべきことをあれこれ考えていたときに、姉から電話がかかってきたのだ。僕は、こんな朝早くに姉から電話があるなんて珍しいこともあるものだ、程度にしか思わずに電話をとった。電話に出るなり、姉は、震えた声で話しかけてきた。
「もしもし、義貴?落ち着いて、聞いてね。あのね、お父さんがね、自殺したの。」
僕は、何の反応もできなかった。あまりに予期しない事実を突きつけられると、人間というものは停止するのだと、僕はこのとき身をもって思い知らされた。
僕からの返答が無いからだろう、姉は、何やら僕を案じる言葉を続けていたようだが、その言葉も次第に途切れ途切れになっていった。泣きたいのをこらえているらしかった。
しかし、僕はあまりにも冷徹すぎた。次の瞬間、僕の思考は父の死が現実に、どう影響するのかに既に向けられていた。悲しみはなかった。
「で、俺は、今からそっちに帰ればいいのか?そうなると、会社に忌引き願いを出さなければならないんだ。色々と手続きがあってね…。しかし、それにしたって、面倒なことになったもんだな、まったく。」
僕のこの言葉がいけなかった。いや、今にして思えばいいことだったのかもしれない。姉は、悲しみのはけ口を見つけ、それを僕にぶつけることができたのだから。
「面倒って何よ!お父さんが死んだってのに、家が大変なのに、何が面倒なことなのよ!ええ!?言ってみなさいよ!」
姉はよほど大きな声で叫んだらしく、携帯電話から聞こえる姉の声は、ひどい音割れを起こしていた。あまりのうるささに、僕は耳から電話を離した。それでも構わずに、姉は電話の向こうで何か大声で騒ぎ立てているようだった。僕は激情を激情のままぶつけてくる姉の態度にうんざりし、何も言わずに電話を切った。僕の性質として、それがどんな相手であっても生の怒りを向けられると、極端に面倒になってしまう傾向があった。そしてそれは、父の自殺が関連していても、変えられないものであるようだった。
それから姉の幾度ものコールを無視し、僕は会社に連絡し、直ぐに実家に帰った。帰ってみると、父の魂の抜け殻は、既に喪に服す準備ができていたようだった。父の首には太くギザギザした赤黒い染みが、ぐるりと一周巻きついていた。母から聞いた話では、父は近くの林に生えている、大きな松の枝から微動だにせず垂れていたという話だった。
父の直筆の遺書も残されていて、父が自ら命を絶ったということは、まず間違いないようだった。僕は母から四つ折に畳まれたその遺書を渡され、広げて読んでみた。遺書は、教養も芸術性も感じられない幼さの残る汚い字で書かれていた。父に死を選ばせた原因は明らかだった。僕は今ここで、その一言を引用しようと思う。
「会社をリストラされて、借金を返す宛てもない。途方にくれた。これから先、どうしていいのか、もうわからなくなった。もう疲れた。」
遺書にはその他に、自分の弱さへの恥、僕達家族を後に残していくことへの謝罪、後始末の依頼などが簡単に書かれていた。予想通り、父が死んだとの知らせを聞いたときと同様、僕の心が動かされることはなかった。むしろ、この程度の文章しか残せない父という人物に対する無関心さが増したくらいだった。
僕は遺書を二回しっかり読んでしまうと、遺書を元通りに畳んで、母に返した。
「つまらんものを読んだ。」
僕は言った。母は、僕の冷然とした言動に呆然としていた。
その後、僕は父の葬儀に義務的に参加し、東京に帰った。その別れ際、実家の玄関で姉がささやくように力なく言った。
「義貴、ごめんね。あのとき…、電話したとき、取り乱しちゃって。」
「気にすんな。『面倒だ』なんて言ってしまった俺も悪い。それより、あんまり無理すんなよな。疲れているように見えるぜ。ちゃんと、飯食って、寝ろよ。」
実際、僕の目には、姉が普段より、幾分青ざめた表情をしているように映った。
「うん。ありがと。お姉ちゃん、頑張るね。」
姉はそう言って微笑んだが、その微笑には力が無く、今にも崩れそうで、無理をしているのは明らかだった。
「ああ。よろしく頼む。」
あの時、あの姉の弱った様子を目の前にして、僕にできることは、そう言うことだけだった。僕は東京に戻った。
父の自殺によって、母はすっかり弱くなってしまったようで、それからしばらくの間、微熱を出して寝たり起きたりする生活をしたという話だった。姉はそんな母の看病をしつつ働き、僕は僕で父の死の後始末の代金と借金の返済のため、生活を切り詰め、日々の苦しみを飲み干していった。そうした生活が、かれこれ、もう二年以上続いている。
僕は歩きながらも、電話の向こうの姉に向かって先ほどと同じ質問をした。
「それで、結局、何が決めてになって、結婚することにしたんだよ?」
「彼ね、年の割りにオトナなの。というより、年寄りくさいぐらい。だから、彼が私と結婚したいって言ってきたときに、私、借金のこととか、今の私の家の状況とか、全部話して、それでもいいかって、聞いたの。きっとあなたもお母さんの面倒見なくちゃいけない状況になるけど、それでもいいのかって。彼はね、それでもいいって。結婚するってことは、家族になることなんだから、君の母親の面倒もよろこんで引き受けるよって、そういってくれたの。しかも、間髪いれずに。年柄にも無く、私、すごくうれしくて。それが、決定打かな。」
「なるほど。それは、確かに、できたやつみたいだな。」
「少なくとも義貴よりは、ね。」
「チッ、うるせぇぞ。」
僕は、思わず悪態をついてしまったことを紛らすために、そのまま言葉を続けた。
「まぁ、なんにせよ、あのバカが勝手に首吊りやがったせいで、お互い、とんだとばっちりをくらっちまったよな。どこでどう死のうが、そりゃあ、自分の勝手だが、せめて、後に尾を引かないような方法で死んで欲しいもんだぜ。俺達後に残る人間のことも考えて死んで欲しいよ、まったく。ま、あいつの脳味噌じゃ、オーバースペックな注文なんだろうけどな。」
「まーた、そうやってお父さんの悪口言う。もう、いい加減許してやったらどうなの?二年も前に死んだ人のことを悪く言うのって、いいことじゃないよ、義貴。これは、世間的な外聞の問題というよりは、道徳的な善悪の問題で言っているのよ。言ってること、わかるでしょ?」
「…まあね。それは分からなくもない。分からなくもないけれど、でも、奴だけは許せん。絶対に許せん。」
姉はしばらく無言だった。その間、あたりには、僕の皮靴が立てる、コツン、コツンという高音だけが夜道に小さく響いていた。姉が口を開いた。
「義貴…、あなた、不幸な子供だったのね。かわいそうに…。」
「かわいそう?俺が?どうして?」
それは、本当に、僕にとっては以外な言葉だった。
「たとえ身勝手だったり、情けなかったりしても、自分の実の父親を『奴』とかって呼んだり、『許せない』なんて言ったりするのは、悲しいことなのよ。義貴は気づいてないかもしれないけれどね。でもね、その気づくことができていないってことに対して、私は義貴をかわいそうだっていうのよ。」
僕は姉の言ったことを考えてみた。
確かに、姉の言うとおり、大人になってまで、自分の両親を敵視するような感情を持つことそれ自体、一般的ではないように思える。だから、実の両親に対して、敵意に似た感情を抱き続けるには、それ相応の理由があるはずだ。姉は、その理由が僕の幼少期の父親との関係にあると考えた。一緒に育ってきた姉だから、そう思ったのだろう。実際、姉の考えは的を得ていた。幼い頃から僕と父との関係は、良好であるとは言いがたかった。それどころか、憎む、という言葉を使わねばならない程だった。
また一方で、自覚することすらできない程に、自然になってしまったものというのは、幼い頃から日常的な物事であったということを意味する。つまり、僕の場合、子供の頃からあまりにも長く父を敵視してきたために、その異常さに気付けないほど、常態化してしまっているということだ。
姉は、父を敵視し続けなければならなかった僕の幼少期に対して『悲しい』といい、父への敵視が常態化してしまっている現在の僕を『かわいそう』だと言ったのだろう。少なくとも僕にはそう思われた。
だが、僕は自分が、姉のいう「悲しい」幼年期を送ったとは思いたくなかった。自分が恵まれない子供だったと認めてしまうのは、僕にとっては恥知らずなことのように思われたからだった。
僕はそんなことを黙って考えながら、歩き続けた。やがて、姉が言葉を続けた。
「私の言っていること、わかった?」
「…多分ね。」
「かわいそうな義貴!」
「うるさい。それ以上、言うな。」
「うーん…、でも、なんか、いい響きじゃない?『かわいそうな義貴』って。すっごいみじめな感じだもんね。ね?そう思わない?『かわいそうな義貴』?」
姉は楽しそうに言った。僕をからかっているのは明白だった。
「うるせぇぞ。」
「あはは。ごめん、ごめん。」
そうこうしている間に、僕はもう直ぐ家の前というところまで歩いてきていた。
「ところで、だ。姉貴。俺、そろそろ家に着くんだけど?」
「あ、そう。じゃ、結婚報告も済んだことだし、もう切るね。」
「ああ。」
「あっと。そうそう、そうだ、忘れてた。もう一つ、言うことがあったんだ。今度、私と彼で、そっち行くから。彼がね、一回義貴に会っておきたいんだって。」
「うーん、そうだな…、いや、いい。来るなよ。いちいち会ったりするの、面倒くさいから。」
「義貴ならきっとそう言うだろうと思って、私も彼にそう言ったんだけどね、彼、どうしても一度挨拶しておきたいってきかないの。彼、けっこう頭が固くて、かわいいのよね。だからさ、ね、一日中、朝から晩までとは言わないから、ちょっと一緒にご飯食べるのくらい、付き合ってよ。いいでしょ?それくらい。」
「面倒くさいなぁ。まぁ…、仕方ないか。わかった、会ってやるよ。でもだな、その代わり、奢れよ。」
「分かってるって。じゃ、日程とか時間とか、決まったら、また連絡するね。」
「ん。よろしく頼む。」
「じゃあね、仕事、ちゃんと頑張んなさいよ。」
「分かってるって。…姉貴。」
「うん?何?まだ何かあるの?」
「結婚だけどさ、おめでとう。」
「ふふ…。うん。ありがと。じゃね。」
そうして、すぐに電話は切れた。
鉄格子
僕が十八歳の頃のことだ。当時の僕は、十八歳を迎える年齢にあるものならば、ほとんどの者がそうであるように、高校三年生だった。そして、これもそれ程珍しくはないと思うのだが、付き合っている女の子がいた。彼女は同じ高校の同じ学年ではあったが、違うクラスの子だった。名前は芹沢秋穂といった。当時の僕は彼女のことをアキと呼んでいたから、この話の中でも彼女のことをアキと呼ぶことを許していただきたい。
アキは、小さい女の子だった。もちろん、背丈は平均よりもだいぶ低かった。しかし、アキが見るものに小さい女の子だと感じさせるのは、その身長の低さだけではなかったように、僕は思っている。おそらく、彼女の身体を構成する一つ一つのパーツが、彼女をよりいっそう小さく見せていたのだろう。アキは骨が細く、痩せていて、華奢な女の子だった。手も足も小さかった。
僕は今だに想い出せる。教室の掃除か何かで、アキが水を汲みに来ていたときだった。僕はアキの手が水道の蛇口の上に置かれているのを見た。その時、どうしたことか、僕には その蛇口が何か異様に固く、ギラギラした鋭利なものに映った。蛇口が悪意を持ってアキを傷付けようとしているような錯覚さえ感じていた。僕はアキ以外の人間からは、そういった印象を受けたことがない。そうしてみると、やはりアキの身体的な小ささ、弱々しさは際立っていたんじゃないかと、今改めて思われる。
しかし、そうした外見とは裏腹に、アキは快活な女の子だった。
アキはラグビー部のマネージャーをしていた。僕は高校生の時には、ハンドボール部に入っていて、ラグビー部とは同じグラウンドで練習していたから、部活中の彼女の振る舞いを、僕はよく知っている。アキは、毎日ドロドロになった男の中でも、全然平気な風だった。男子特有の度の過ぎた悪ふざけの交じった会話のやりとりにも、特に苦痛を感じてはいないようだった。むしろ、自ら求め、楽しんでいる様子でさえあった。僕とアキが付き合う前にも、彼女とラグビー部員のやりとりはそうだったし、僕らが付き合いだした後でも、彼女の男子部員に対する接し方に変わりは無かったように思う。もちろん、アキとラグビー部の男子が楽しそうにしている場面を目にすれば、僕も嫉妬や不安を抱いたりもする。だが僕は、そのことに対して、アキに不平を漏らしたことは一度もない。彼女が楽しそうにしている所を見るのは、やはり、僕にとっても嬉しいことだったからだ。ハンドボールの練習の合間合間に、僕はそんなアキのはしゃいだ様子を、遠くからぼんやりと眺めていることが多かった。
だが、そんなアキが、一日だけ、痛ましいほどに悲しそうにしていた日がある。いや、今にして思えば、その半月ほど前辺りから、どこか沈みがちであったようにも思える。いつもは陽気に振舞うのが常の彼女なだけに、あの期間、それも特にあの日の、儚ささえ感じるアキの姿が、僕には異様に思われたからなのだろう。僕はその日のアキの眼差しや声の振るえを、十年たった今でも鮮明に覚えている。
あの日は、二月に入ったばかりの時期の寒い日だった。
大きな寒波が押し寄せてきていた。前々日からひどく冷え込み、その日も朝から細雪を降らせていた。(僕らが通っていた高校は、新潟市の内陸の方にあった。)その頃、僕達は授業が無いにも関わらず、一緒に登校していた。名ばかりにも、進学校を謳う僕らの高校では、高校三年の十二月で授業は無くなる。そして、年が明けた一月からは、個々人で目指す大学なり、専門学校なりに向けた勉強をする期間になる。だから、高校三年生は、この期間中は学校に行かなくてもよい。
だが、もちろん、授業がなくても、高校の教室に行って自習できる権利も僕達にはあった。好きなときに学校に行き、好きな時間に帰宅できた。
僕とアキは年が明けてからは、お互いの共有できる時間を作るため、勉強時間の確保のため、毎日、下級生の登校しきった十時頃に駅で待ち合わせて、そして一緒に登校していた。十時頃には、通学路も閑散としていて、人目がなく、男女が二人並んで歩いていても変に注目を浴びることもない。
だから、あの日も、僕らはいつものように十時頃に駅で会い、おはようの挨拶を交わし、雪の降る通学路を傘をさして、ゆっくりと歩いて登校した。途中、僕らの間に会話はほとんど無かったように思う。毎日顔を合わせていれば、自然とそうもなるものだ。僕達の間に沈黙が続いても、僕は気にならなかった。
その日の午後二時ごろ、アキが僕の勉強している教室に顔を出した。アキは、休憩がてらに屋上に行かないか、と僕を誘った。僕は、休憩はいいが屋上は寒いよ、と言った。アキは、しかし、どうしても屋上に行きたい、と主張した。僕は、アキが常々、「寒いの嫌い」、と言っていたのを知っていたから、不思議に思ったが、特に推察もせず、アキの言うことに承諾した。
「それじゃ、五分後に屋上ね。」
アキはそう言って、教室の扉を閉め、去っていった。僕は勉強を中断して、すぐに屋上に向かった。途中、自動販売機で自分のためのホットコーヒーと、アキのためのコーンポタージュを買った。
屋上に出てみると、アキは既に来ていた。アキの首には淡い緑色のマフラーが巻かれていた。僕の教室から去った後に、自分の教室まで取りに行ったのだろう。
アキは僕の方を向いて「遅いよ。」といった。いつものアキらしくなく、消えてしまいそうなか細い声だった。
「ごめん。寒かった?」
僕は言った。アキは答えなかった。その代わりに僕から目をそらして遠くの方に目を向けながら、アキは小さく言った。
「雪、止んだね。」
僕は「うん。」と返事しながら、雪で滑ないように足元に気をつけてアキの方に近づいていった。そして、アキの傍まで行くと、ポケットの中からコーンポタージュを取り出し、アキに渡した。
「ありがと。」
アキは俯きがちに弱弱しく微笑し、コーンポタージュを受け取とった。だが直ぐには蓋をあけようとはせず、缶を両手で包みこみ、手を温めていた。それから、手すりに寄りかかり遠くの方を眺め始めた。僕もアキの隣で、アキと同じ姿勢で地平線を眺めた。僕らは、そのまま沈黙した。
屋上は静かだった。足元の体育館からは、体育の授業を受けている下級生達の喚声や、教師の吹き鳴らす笛の甲高い音が微かに届いた。校門の前を横切る道路からは、雪道を恐れてゆっくり走り去る車の微かな走行音が、鈍く聞こえていた。
「何、見てる?」
アキが消え入りそうな声で、僕に聞いてきた。
「別に。アキは?何見てる?」
「私も、別に。でも、なんだか、暗いね。」
「確かに。まだ午後の二時だってのに、なんか暗いね。きっと、雲が厚いからだな。」
僕は空を見上げて言った。空は規則的に波を打つ黒い雲でふさがっていた。見渡す限り、おそらく、地平線の、そのまた向こうまでも雪雲は広がっているのだろうと思われた。陽光はどこにも見えなかった。
以前、僕が屋上に上がったときには、それが十月のよく晴れた心地よい風の吹く日だったからなのか、いい眺めだと思ったものだ。しかし、このときにはまるで違って見えた。陽の遮断された薄暗い世界は、汚く、陰鬱なものとして感じられた。美しいはずの雪化粧も、家々に重く圧し掛かっているばかりで、息苦しさを増すだけの存在に思われた。
「なんか、あまりきれいじゃないな。」
僕は自分の感じたことを、素直に口にした。
「…でも、…私達の住んでる世界よ?」
アキは、少し間をおいてから答えた。声が震えているような気がした。
「まぁね。」
僕は、もしかしたらアキは寒いのかもしれないと思いつつも、アキの言葉に同意した。
そして、また会話は途切れた。
少しして、僕はアキの肩や手が小刻みに震えているのが分かった。昼間であり、風も無いとはいえ、火の気のない真冬の屋外は、やはり寒すぎた。
「戻ろう。やっぱり屋上は寒すぎるよ。これから受験も始まるってのに、今風邪をひくのはよくない。休憩は、終わり。さぁ、戻って、もう一勉強だ。」
僕は、そう言って、屋上の出入り口の方に歩き出そうとした。
「待って。」
アキの口調は控えめだが、鋭かった。そして控えめであるにも関わらず鋭く響くことが、逆に僕にはその言葉の裏側にある切実さを想像させた。僕は否応なしにアキの方に振り返った。
「ねぇ、私達、高校卒業しても、これまでのように仲良くやっていけるよね?」
アキは真っ直ぐに僕の目を見て、言った。僕にはアキが今にも泣き出しそうにしているのが見て取れた。だが、なぜ、アキがそんなことを僕に対して聞いてくるのか、僕には全く分からなかった。
「当たり前だろ。」
僕はアキの悲痛ともいえる表情に狼狽しながらも、それを押し隠し、精一杯明るく言った。アキは、一瞬間、自分の求める答えを探すかのように、僕の瞳を覗き込んでいたが、直ぐに視線を落とした。僕はアキの言葉を待ったが、結局アキは何も言わなかった。
そうした状態が、一分近く続いた。その間、俯くアキに、僕も何と声をかけてよいのか分からず、ただその場に立っていた。僕からは背の低いアキの小さな頭と、真っ直ぐに鋤かれた茶色い髪が見えていた。それから、僕はアキの握っている鉄格子に、何気なく目を向けた。
鉄格子は、白いペンキで塗られ、茶色い細かな鉄錆びに虫食い状態に侵食されていた。白の塗装に錆びの汚らしい斑点が浮いたそれは、僕にはひどく醜いものに映った。だが、アキはその鉄の柵を固く握り締めていた。血が溜まって、指先が赤く染まるほど、強く握り締めていた。なぜだろう、僕は、その手を見ている内に、恐ろしさに似た感情を微かに覚えていた。そして、この印象は現在でもまだ僕の中に残っている。
アキは、しばらくした後に小さくつぶやいた。
「置いて、いかないでね。」
「当たり前だろ。信用なさい。」
アキが何を求めているのか、僕には理解できなかったが、アキを安心させるために、そう言った。それから僕はアキの頭に手を乗せた。
「うん。」
アキは顔を上げて一つ頷いた。微笑を浮かべていたが、泣きそうにも見えた。
「全く、バカな子だね。さ、早く戻ろう。風邪でもひいて、試験を欠席することにでもなったら、今までの苦労も、全部、おじゃんだ。」
「うん。」
そうして、僕が屋上の出入り口の方に向かって歩き出そうとすると、またもやアキが呼び止めた。今度は何事かと僕は思って、アキの方に向き直った。
アキは自分のマフラーを解き始め、半分ほど解いたところで、
「はい。寒いでしょ?」
といって、僕に今解いた方のマフラーを差し出してきた。僕に同じ一本のマフラーを巻けということらしかった。
「寒くない、寒くない。ほらほら、行くぞ。」
僕はそう言って、アキに差し出されたマフラーを掴み、苦しいよというアキの不平を無視して、マフラーを引っ張りながら、出口に向かった。そうして僕らは屋上を後にした。
その三ヵ月後、僕らは別れた。僕は東京の大学に進学が決まり、アキは地元の大学に進んだ。別れを切り出したのは僕からだった。アキには遠距離恋愛がつらいからだと言ったが、本当の理由はそうではなかった。目の前に開けた学生生活という新しい舞台に、アキの存在が邪魔になったからだった。東京という大都会で、初めて経験する一人暮らしに、僕は世界が無限に広がったような開放感を感じていた。新潟の田舎で生まれ育った僕にとって、それは、何もかもが新しく、何もかもが新鮮だった。だが、その中で、アキだけが古いものに映った。僕の自由を奪う足かせのような存在に感じられた。だから、僕はアキを切り捨てた。
別れ話を切出すとき、罵倒されたり、泣かれたりするのではないかと覚悟していたが、予想外にもそんなことにはならず、すんなりと話はまとまった。電話の最後に聞いたアキの「バイバイ。」の声は妙に明るく、陽気なものだった。きっと、こうなることを予感していたのだろう。
あれから早くも十年近くが経つ。今年帰郷したときに会った高校時代の友人から聞いた話では、アキは既に結婚し、二児の母になっているという。
アキが幸せになってくれていたらと、切に願う。
最後まで読んでくだされば、それだけで光栄です。