第4章 反転
サナを燃やすことに成功し、万能感に浸っていた神にとって、その夜は人生で最高の夜になるはずだった。
「ふふ、やっぱり俺が動けば流れが変わるな」
神は、サナのアカウントが沈黙したのを確認し、勝利の美酒としてコンビニで買った安物ではない、少し高めのビールを開けた。画面の中では、彼を称える言葉がまだ躍っている。「神さんのおかげでスッキリしました」「悪は成敗されるべきですね」。
だが、その称賛のパレードの中に、先ほど見かけた不気味なコメントが再び、今度は別の複数のアカウントから投げ込まれた。
『神さん、これって神さんの裏垢ですよね? 5年前の。』
心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
神はビールの缶を机に置き、食い入るように画面を見つめた。そこには、一つのスクリーンショットが貼り付けられていた。
それは、神がまだ神として活動を始める前、本名に近いハンドルネームで適当につぶやいていた古いアカウントの投稿だった。
『正直、こういうニュースとか見飽きたわ。同情してるフリするのも疲れるし、ぶっちゃけ関係ないしね。』
神は、一瞬息をすることさえ忘れた。
背中に氷を押し当てられたような、嫌な汗がじわりと噴き出す。
「……いつの、話だよ。こんなの……」
それは、神が若く、ただ世の中を斜めに見ていた頃の、ほんの些細な書き込みに過ぎなかった。当時は誰も注目していなかったし、ただの独り言のつもりだった。だが、今の彼には、数万人のフォロワーと、それ以上の敵がいる。
『え、神さん、被害者をバカにしてたの?』
『さっきまで道徳とか語ってたのに、自分はこれかよ』
『幻滅しました。正義の味方ごっこ、楽しかったですか?』
空気が、一気に変わった。
先ほどまでサナを叩くために神の背後に並んでいた兵隊たちが、一斉に音もなく消えていく。いや、消えたのではない。彼らは一瞬で回れ右をして、銃口を神の方へと向け直したのだ。
「待て、これは……誤解だ。若気の至りというか、そんなつもりじゃ……」
神は震える指で弁明を打ち込み始めた。
『あの投稿は、前後の文脈を無視して切り取られています。当時は私自身も精神的に追い詰められていて、本心ではありませんでした。誤解を招く表現をしたことは謝罪しますが……』
打ち込みながら、神は戦慄した。
自分が今書いている言葉。
「誤解です」「そんなつもりじゃなかった」「文脈を無視されている」。
それは、ほんの数時間前まで自分が嘲笑い、踏みにじってきた、炎上した人々が必ず口にする言い訳そのものだった。
「違う、俺はあいつらとは違うんだ!」
神は叫び、送信ボタンを押した。
だが、その投稿はさらなる燃料となって炎を巨大化させただけだった。
『うわ、言い訳が見苦しい』
『文脈とか、サナさんの時には無視して叩いてたよね?(笑)』
『ブーメラン突き刺さってて草』
神のスマホが、狂ったように震え始めた。
『ピッ』『ピッピッピッピッ』
通知の音はもはやメロディをなさず、ただのノイズとなって耳を劈く。
さらに追い打ちをかけるように、誰かが神の過去の写真を特定し始めた。
『神って、〇〇商事の事務の佐藤じゃね? この机のキズ、前に上げてた写真と同じだわ』
『こいつの住所、たぶん○○区の……』
「やめろ……。やめてくれ!」
神は画面に向かって、懇願するように叫んだ。
さっきまで自分を包んでいた万能感は、跡形もなく消え去っていた。代わりに彼を支配したのは、逃げ場のない、剥き出しの恐怖だった。
つい数時間前まで、自分は安全な場所から石を投げていると思っていた。自分は投げる側で、決して投げられる側にはならないと信じ込んでいた。だが、ネットという構造の中では、誰がどちら側に立つかなど、一瞬の風向きで変わってしまうのだ。
そこに明確な意志はない。ただ、誰かを叩きたいという怒りのエネルギーが、新しい標的を見つけて群がっているだけだった。
神のフォロワーたちは、今や一人も味方をしてくれない。それどころか、最も熱心に自分を称えていた者たちこそが、今、最も熱心に神の過去を掘り返し、人格を否定する言葉を投げつけてくる。
画面をスクロールするたび、自分の名前が汚泥にまみれていくのがわかる。
『神最低』
『神やばい』
『神って前からこうだよね』
神という名前が、まるで呪文のように画面を埋め尽くしていく。
それはかつて、自分がサナに仕掛けた攻撃と全く同じ構図だった。自分が作り上げた炎上という名の怪物が、今度は生みの親である自分を喰らおうと、牙を剥いて迫ってきている。
神の部屋は、いつの間にか異様な熱気に包まれていた。
エアコンは効いているはずなのに、顔が火照って、呼吸が苦しい。モニターの光はますます強く、青白く輝き、神の瞳孔を焼き切らんばかりに主張している。
画面の中の文字が、また蠢き始めた。
サナが見た、あの口だ。
今、その巨大な口は、神の方を向いて大きく開かれている。
神は必死にアカウントの削除ボタンを探した。
だが、指が震えてうまく操作できない。焦れば焦るほど、画面の文字が歪んで見え、削除の文字が見つからない。
『逃げるなよ、正義の味方さん』
『消しても無駄だぞ、魚拓取ってあるからな』
画面の向こうにいる、何万もの顔のない誰かの笑い声が聞こえた気がした。
神は椅子から転げ落ち、床を這い回った。
「誰か……助けて……」
その呟きは、誰にも届かない。
自分が今まで無視してきた、数多の被害者たちの声と同じように。
神の部屋で、再び『ピッ』という電子音が鳴った。
それは、死刑宣告を告げるカウントダウンのように、正確に、そして冷酷に響き続けていた。




