第3章 火をつける人
サナが暗闇で震えていたその頃、街の反対側にある古びたワンルームマンションでは、一人の男がニヤリと口角を上げていた。
男の名前は神。
昼間は、名前を覚えられることすらない地味な事務職として働き、誰からも相手にされないような退屈な日々を送っている。上司には理不尽に叱られ、同僚からは存在を無視される。そんな何者でもない自分に、彼は猛烈な苛立ちを抱えていた。
しかし、夜になりパソコンの前に座れば、彼は正義の審判を下す英雄へと変貌する。
神のSNSアカウントには、数万人のフォロワーがいた。彼が夜な夜な行っているのは、ネットで見つけた不謹慎や不適切な投稿を吊るし上げ、それを大勢で糾弾するきっかけを作ることだ。
神の獲物を探す鋭い目に、炎上しかけているサナのイラストが止まった。
「ほう……。これはまた、燃えやすそうな材料だ」
神は冷めきったエナジードリンクを一口すすり、パチパチと軽快な音を立ててキーボードを叩き始めた。
彼にとって、サナの絵が本当にパクリなのか、本当に誰かを不快にさせるものなのかはどうでもよかった。大事なのは、これが「今、みんなが叩きたがっている絶好の獲物」であるということだけだ。
神はサナのイラストを引用し、世間が喜びそうな正義の言葉を並べて書き込んだ。
『今の時代に、こんな無神経な表現を平気な顔で垂れ流すイラストレーターがいることに驚きを隠せません。これは単なる個人の問題ではなく、社会全体のモラルに関わる重大な事案です。
皆さん、これを見てどう思いますか? 私は許せません。 #拡散希望 #不買運動 #社会の敵』
送信ボタンを押す。
その瞬間、神の心臓はドクドクと心地よい高鳴りを始めた。
これが、彼にとっての火をつけるという神聖な儀式だった。
神の投稿をきっかけに、彼のフォロワーという名の顔の見えない兵隊たちが一斉に動き出した。彼らは神の言葉を旗印に、自分の正義を証明しようとサナの元へ駆けつけていく。
『神さんが言うなら間違いないですね。徹底的にやるべきです』
『やっぱりこのイラスト、生理的に受け付けないと思ってました!』
『みんなで運営に通報しましょう! こんな奴を野放しにしちゃいけない!』
神の画面の中で、数字が爆発的な勢いで跳ね上がっていく。引用の数は数百、数千と膨らみ、サナのアカウントには、神の言葉をなぞっただけの、さらに鋭利で容赦のない攻撃コメントが雨あられと降り注いだ。
神はそれを見ながら、深い悦びに浸っていた。
自分の指先一つで、見知らぬ誰かの生活が壊れ、世界が崩壊していく。その全能感がたまらなかった。
彼は自分を悪いことをした奴を成敗するヒーローだと思い込んでいた。それがただの人を壊す快感に依存した、歪んだ支配欲であることに、彼は全く気づいていない。
――一方、サナは。
ベッドの下で鳴り続けるスマートフォンの振動を、ただぼんやりと見つめていた。
一度だけ、震える指で弁明の言葉を打ち込もうとした。「パクリではありません」「そんな恐ろしい意図はありません」。けれど、送信ボタンを押す直前で、指が氷のように冷たくなって止まった。
(……無駄だ。何を言っても、彼らには私の声なんて聞こえていない)
サナは悟っていた。
今、自分のアカウントに群がっている人たちは、真実なんてこれっぽっちも求めていないのだ。彼らが欲しがっているのは、納得のいく説明でも謝罪でもなく、ただ「自分が正義の側に立って、無防備な誰かを一方的に殴る」という、最高に刺激的なエンターテインメントなのだ。
画面を閉じても、通知の明滅は止まらない。
サナは、自分が底の見えない深い沼に沈んでいくような感覚に陥っていた。どれだけもがいても、上を見上げても、水面は激しい業火に包まれていて、もうあちら側へは戻れない。自分の存在そのものが、文字の波に飲み込まれて消えていく。
「もう……いいよ。全部、消えちゃえばいい……」
サナは力なく全ての通知をオフにし、スマートフォンの電源を落とした。
部屋は一瞬にして静寂に包まれる。けれど、耳の奥ではまだ、あの『ピッ』という電子音が幻聴のように、鼓動に合わせて鳴り響いていた。
その頃、神は意気揚々と新しい投稿の構成を考えていた。
「また一つ、世の中のゴミを掃除してやった」
そんな優越感に浸りながら、自分の投稿に寄せられた称賛のコメントを一つひとつ拾い上げていく。
けれど。
その称賛の山の中に、ふと、奇妙な書き込みが混じった。
『ところで神さん。数年前、これと似たような発言をして炎上した人を叩いてませんでした? 確かその時、神さん自身も不適切な画像を投稿してた気がするんですけど……。探せば出てくるかな?』
神はわずかに眉をひそめた。
「なんだ、この変なコメントは。ただの妬みか」
鼻で笑って、そのコメントを無視する。いつものことだ。自分が誰かを叩く立場である以上、たまにはこういう変な絡まれ方もする。自分は安全な場所にいる。自分は正義なのだから、負けるはずがない。
しかし、彼の背後で、ふっと部屋の空気が冷たく揺れた。
サナの部屋を支配していたのと同じような、不気味で湿り気を帯びたざわつきが、今度は神の背後に、音もなく忍び寄っていた。
神はまだ気づかない。
自分がつけた火がどれほど高く燃え上がり、次にどの方角へ、誰を焼き尽くすために燃え広がるのかを。
彼はただ、手に入れたばかりの偽物の勝利の余韻に浸り、青白いモニターの光に顔を照らされていた。
部屋の空気は、少しずつ、けれど確実に、逃げ場のない熱を帯び始めていた。




